また戦ってくれ――リュウと春麗、紙一重のライバル譚――   作:エーアイ

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幕間:届いた拳と、届かなかった視線

 宿の部屋には、灯りが一つだけ点いていた。

 

 薄い明かりが壁を照らし、床に置かれた荷物の影を長く伸ばしている。

 外の通りからは、かすかな人の声と、夜風に揺れる看板の音が聞こえていた。

 

 リュウは畳の上に座り、拳を見つめていた。

 

 右拳。

 

 今日、春麗に届いた拳。

 

 勝った。

 

 その事実は確かにある。

 

 春麗は片膝をついた。

 自分は立っていた。

 最後に審判が勝者として告げたのは、自分の名だった。

 

 けれど、胸の内に浮かぶものは、勝利の高揚ではなかった。

 

 春麗は強かった。

 

 あの戦いを思い返すたび、リュウの身体にはまだ痛みが戻ってくる。

 

 肩に入った蹴り。

 脇腹を削った連撃。

 踏み込みを外され、何度も拳の先を空へ流された感覚。

 

 春麗は、こちらの拳を読んでいた。

 

 リュウならここで踏み込む。

 リュウならここで拳を置く。

 リュウならここで耐える。

 

 おそらく彼女は、そう考えていた。

 

 そして実際、その読みは何度も当たっていた。

 

 序盤、流れを握っていたのは春麗だった。

 彼女の動きは鋭く、迷いがなく、こちらの反応を一つ先で待っていた。

 

 もし、あのまま噛み合っていたら。

 

 倒れていたのは、自分だったかもしれない。

 

 リュウは拳を開き、また握った。

 

 勝った。

 

 だが、圧勝ではない。

 

 春麗が弱かったから勝てたのではない。

 春麗が油断していたから勝てたのでもない。

 

 ただ、一瞬。

 

 本当に、ほんの半拍。

 

 春麗の意識が、勝利の先へ行った。

 

 リュウには、そう見えた。

 

 彼女の掌底が来る直前。

 その踏み込みの奥に、わずかな変化があった。

 

 力が抜けたわけではない。

 遅くなったわけでもない。

 構えが崩れたわけでもない。

 

 それでも、わかった。

 

 春麗は、勝った後を見た。

 

 自分を片膝につかせ、勝者として立ち、何かを言う。

 そんな未来を、ほんの一瞬だけ見た。

 

 その半拍に、拳が届いた。

 

 リュウは静かに息を吐いた。

 

 あれは、油断ではない。

 

 春麗は油断するような相手ではない。

 むしろ最後まで自分を倒すつもりで来ていた。

 

 だが、戦いの中で一瞬だけ、心が先へ進んだ。

 

 リュウはそこを拾った。

 

 ただ、それだけだった。

 

 だから浮かれることはできない。

 

 勝利とは、そういうものなのかもしれない。

 

 拳が届く時は、相手を完全に上回った時だけではない。

 相手の心が、ほんの少し今から離れた時。

 その半拍に、自分の拳を置けた時。

 

 今日の勝利は、そういう勝利だった。

 

 リュウは目を閉じた。

 

 春麗の顔が浮かぶ。

 

 片膝をついたまま、こちらを見上げていた春麗。

 

 悔しそうだった。

 だが、折れてはいなかった。

 

 むしろ、あの目は次を見ていた。

 

 だからリュウは言った。

 

 また戦ってくれ。

 

 今度は、俺が待つ。

 

 その言葉を口にした時、春麗の目がわずかに揺れた。

 

 煽ったつもりはなかった。

 

 ただ、そう思った。

 

 次は彼女が来る。

 今日の敗北を沈め、より鋭い蹴りと、より深い読みを持って来る。

 

 自分はそれを待つ。

 

 そして、また戦う。

 

 リュウは拳を膝の上に置いた。

 

 その時、別の記憶が胸の奥から浮かび上がった。

 

 観客のいないステージ。

 

 夜。

 灯籠の光。

 静かな石畳。

 

 そして、黒いドレスの春麗。

 

 リュウは目を開けた。

 

 あの時も、春麗は強かった。

 

 いや、強いことはわかっていた。

 

 だからこそ、警戒していた。

 

 春麗を侮ってはいなかった。

 手加減などしていない。

 女性だからと拳を鈍らせた、最初の頃の自分ではなかった。

 

 むしろ、いつも以上に集中していたはずだった。

 

 春麗は危険な相手だ。

 何度も自分を倒し、自分も一度は倒した相手。

 互いに勝ち、負け、そのたびに次の戦いへ進んできた相手。

 

 その春麗が、いつもと違う姿で現れた。

 

 黒いドレス。

 

 灯籠の明かりを受けて、夜の中に輪郭だけが浮かんでいた。

 普段の戦闘服とは違う。

 同じ春麗なのに、違って見えた。

 

 その瞬間、自分の呼吸が止まった。

 

 ほんのわずかに。

 

 リュウは、そのことを否定しなかった。

 

 揺れた。

 

 確かに揺れた。

 

 春麗を格闘家として見ていなかったわけではない。

 春麗を弱いと思ったわけでもない。

 手加減しようとしたわけでもない。

 

 それでも、揺れた。

 

 春麗の姿に。

 いつもと違う空気に。

 黒いドレスの揺れに。

 そして、その姿で自分の前に立つ春麗という存在に。

 

 心を奪われた。

 

 一瞬。

 

 ただ一瞬。

 

 だが、春麗はそれを見逃さなかった。

 

 姿が変わっただけで隙を見せるなんて、修業が足りないわね。

 

 春麗の声が耳に蘇る。

 

 涼しい声だった。

 勝者の声だった。

 だが、その奥に、どこか楽しげな響きがあったことも覚えている。

 

 あの敗北は、拳の敗北だけではなかった。

 

 視線の敗北だった。

 

 春麗の蹴りに崩された。

 掌底に押された。

 投げに持ち込まれた。

 

 けれど、その始まりは技ではない。

 

 視線だった。

 

 春麗を見る目が、ほんの一瞬だけ乱れた。

 その乱れを、春麗は攻撃の起点にした。

 

 リュウは拳を見つめた。

 

 今日、自分は春麗に勝った。

 

 届いた拳。

 

 だが、黒いドレスの春麗には、届かなかった。

 

 正確には、拳そのものは届きかけた。

 反撃もした。

 立て直そうともした。

 

 だが、視線が届かなかった。

 

 春麗を見ているようで、見切れていなかった。

 

 見るな、と自分に命じた。

 意識するな、と押さえ込もうとした。

 

 その時点で、すでに春麗の間合いに入っていた。

 

 春麗は見抜いた。

 

 こちらが見ないようにしていることを。

 見てしまったことを隠そうとしていることを。

 姿に揺れた自分を、戦いの中で押し殺そうとしていることを。

 

 それが隙になった。

 

 リュウは静かに、今日の戦いと黒いドレスの戦いを並べた。

 

 今日、春麗は勝った後の言葉を意識した。

 

 おそらくそうだ。

 

 自分を倒した後、何かを言うつもりだった。

 その拳はまだ届いていない、というような言葉を。

 

 勝利の未来を、ほんの少し早く見た。

 

 その半拍を、自分は突いた。

 

 黒いドレスの時、自分は春麗の姿に意識を奪われた。

 

 春麗を相手に、次の技を見るべきところで、姿そのものに視線が引かれた。

 

 その半拍を、春麗は突いた。

 

 同じだ。

 

 リュウはそう思った。

 

 同じ構造だった。

 

 どちらも、技だけではない。

 

 拳の速さや蹴りの鋭さだけで決まった勝負ではない。

 

 心の半拍。

 

 意識が、今この瞬間からわずかに逸れた時間。

 

 春麗は、自分の視線の揺れを取った。

 自分は、春麗の未来を見た意識を取った。

 

 どちらも、相手をよく見ていなければ取れない。

 

 リュウは眉をわずかに寄せた。

 

 ならば、黒いドレスの春麗とまた戦う時、自分はどうするべきか。

 

 視線を逸らすか。

 

 違う。

 

 それでは負ける。

 

 見ないようにすれば、春麗は見ないようにしている自分を見る。

 視線を外せば、その外したことが隙になる。

 春麗は必ずそこを突く。

 

 では、感情を消すか。

 

 春麗を美しいと思ったことを、なかったことにするか。

 

 それも違う。

 

 消そうとすれば、消そうとしていること自体が意識になる。

 抑え込めば、その硬さが呼吸に出る。

 呼吸に出れば、春麗は読む。

 

 あの女は、見逃さない。

 

 リュウは小さく息を吐いた。

 

 ならば、どうする。

 

 答えは、以前自分が口にした言葉の中にあった。

 

 姿も、動きも、呼吸も、拳も。

 

 全部見る。

 

 リュウは手を開いた。

 

 見る。

 

 ただし、奪われない。

 

 春麗の姿を見る。

 

 黒いドレスの揺れも見る。

 灯籠の光に浮かぶ輪郭も見る。

 足の運びも、肩の沈みも、呼吸も、目の奥の揺れも見る。

 

 だが、それを別のものとして切り分けない。

 

 格闘家としての春麗。

 女性としての春麗。

 ライバルとしての春麗。

 勝者として煽る春麗。

 敗者として悔しがる春麗。

 黒いドレスで自分の視線を奪った春麗。

 

 それらを分けない。

 

 すべて春麗だ。

 

 リュウはそのことに気づいた。

 

 初めて戦った時、自分は春麗を見誤った。

 

 女性格闘家として見てしまった。

 格闘家としての危険を、拳の底で理解しきれていなかった。

 

 その未熟さを、春麗は叩き潰した。

 

 その後、リュウは春麗を一人の格闘家として見るようになった。

 

 強敵。

 ライバル。

 何度でも戦いたい相手。

 

 だが、黒いドレスの時、自分はまた別のものを見た。

 

 春麗の女性としての魅力。

 

 それを見たこと自体が敗因ではない。

 

 問題は、それを見た自分を隠そうとしたことだ。

 

 格闘家として見なければならない。

 女性として意識してはならない。

 そんなふうに、春麗の一部だけを切り分けようとした。

 

 だから、乱れた。

 

 次は違う。

 

 春麗を全部見る。

 

 そして、その全部を相手にして拳を出す。

 

 リュウはゆっくりと立ち上がった。

 

 部屋の中は狭い。

 

 だが、構えを取るには十分だった。

 

 リュウは足を開き、息を整える。

 

 目の前に、黒いドレスの春麗を置く。

 

 静かなステージ。

 観客はいない。

 灯籠の光。

 夜気。

 黒い布の揺れ。

 

 春麗が立っている。

 

 こちらを見ている。

 

 隙を探している。

 

 リュウは視線を逸らさなかった。

 

 春麗の姿を見る。

 

 綺麗だと思う。

 

 その感覚を、否定しない。

 

 同時に、足を見る。

 膝を見る。

 肩を見る。

 呼吸を見る。

 次の踏み込みを見る。

 

 春麗が動く。

 

 想像の中で、黒いドレスが夜に揺れる。

 

 リュウは拳を置く。

 

 春麗は外す。

 

 リュウは追わない。

 

 春麗は低く沈む。

 

 リュウは軸をずらす。

 

 そこで、春麗が笑う。

 

 以前なら、その笑みに意識を奪われたかもしれない。

 

 だが今は違う。

 

 笑みも見る。

 

 その奥にある呼吸も見る。

 

 リュウは拳を打った。

 

 空を切る。

 

 それでいい。

 

 一度で届かなくてもいい。

 

 今は、見る練習だ。

 

 見て、奪われないための。

 

 リュウは何度も動いた。

 

 狭い部屋の中で、踏み込み、止まり、拳を出し、引く。

 

 春麗の蹴りを想定する。

 黒いドレスの揺れを想定する。

 こちらの視線を誘う間を想定する。

 彼女が、自分の呼吸を読んでくる場面を想定する。

 

 見ないのではない。

 

 見る。

 

 すべて見る。

 

 そして、拳を鈍らせない。

 

 しばらく動いた後、リュウは構えを解いた。

 

 額に汗が浮かんでいた。

 

 部屋の外では、夜の音がまだ続いている。

 

 リュウは窓の外を見た。

 

 春麗はまた来る。

 

 通常の姿で来るかもしれない。

 黒いドレスで来るかもしれない。

 あるいは、こちらの想定を超える何かを用意してくるかもしれない。

 

 どの春麗であっても、同じだ。

 

 いや、同じではない。

 

 同じではないから、全部見る。

 

 リュウは拳を握った。

 

 今日、拳は届いた。

 

 だが、届かなかった視線がある。

 

 黒いドレスの春麗に奪われた、あの一瞬の視線。

 

 次は、そこから逃げない。

 

 見て、受け止めて、そのうえで前へ出る。

 

 春麗を全部見たうえで、拳を届かせる。

 

 リュウは静かに呟いた。

 

 「次は、目を逸らさない」

 

 その声は、誰に聞かせるものでもなかった。

 

 春麗に向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあった。

 

 届いた拳。

 届かなかった視線。

 

 その二つの間に、次の戦いがある。

 

 リュウはもう一度、構えた。

 

 目の前には、まだ誰もいない。

 

 だが、リュウの中には確かに春麗が立っていた。

 

 黒いドレスをまとい、勝者の笑みを浮かべ、こちらの隙を見逃さない春麗が。

 

 リュウはその姿をまっすぐに見た。

 

 そして、拳を握った。

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