また戦ってくれなんて言わないで ――春麗は今日もめんどくさい―― 作:エーアイ
裏ルート最難関、黒証明ルートでパーフェクトコミュニケーションの言葉での説得に失敗した場合の別ルートのエピローグです。
その夜、春麗は自室に戻っても、しばらく黒いドレスを脱がなかった。
脱げなかった、というほどではない。
以前とは違う。
黒に絡め取られているわけではない。
黒を脱いだら、自分が壊れる気がしたわけでもない。
黒で勝ったことを証明し続けなければならないわけでもない。
ただ、もう少しだけ覚えていたかった。
十一戦目。
リュウはまた負けた。
黒い春麗に十回負け、十一戦目でも膝をついた。
勝ったのは春麗だった。
それなのに、春麗の胸には勝利だけが残っていない。
リュウの言葉が残っていた。
黒いドレスのお前を見ている。
女としても見ている。
でも、それだけじゃない。
俺を惑わせて、それでも拳を出してくるお前を見ている。
女としての春麗も、格闘家としての春麗も、どちらもお前だ。
春麗は鏡の前に立った。
黒いドレスの自分が映る。
女として見せる自分。
リュウの視線を奪るために、肩も、脚も、裾の揺れも、呼吸の間も使った自分。
見惚れさせるための黒。
惑わせるための黒。
その半拍の遅れを、掌底と蹴りで制圧する黒。
春麗は、その黒を使ってリュウを十回沈めた。
そして十一回目も沈めた。
なのに。
「……止まらなかったわね」
春麗は小さく呟いた。
リュウは見た。
確かに見た。
黒いドレスの春麗を、女として見た。
でも、そこで止まらなかった。
視線は奪われた。
呼吸は揺れた。
それでも、リュウは春麗の手首を見た。
踏み込みの起点を見た。
掌底の前の重心を見た。
女として見た上で、格闘家としての春麗を見失わなかった。
それが、春麗の中に深く残っていた。
春麗は鏡の中の自分を見つめる。
「黒を否定しなかった」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
リュウは黒を否定しなかった。
黒いドレスを着た春麗を、危ないものとして遠ざけなかった。
女としての春麗を見たことを、なかったことにもしたくなかった。
そして、女として見ただけで終わらなかった。
そこが、春麗を救った。
「……本当に、遅いのよ」
春麗は鏡の中の自分に向かって言った。
「十回も負けて、十一回目でようやくそれ?」
呆れた声だった。
けれど、責めている声ではなかった。
むしろ、少しだけ柔らかい。
春麗は、黒いドレスの肩口に手をかけた。
ゆっくりと脱ぐ。
黒が肩から外れる。
身体が軽くなる。
だが、不思議と寂しくはなかった。
以前なら、黒を脱ぐことは敗北のように思えたかもしれない。
黒を脱ぐことは、黒の自分を否定すること。
青へ戻ることは、黒で勝った自分を捨てること。
そんなふうに感じていたかもしれない。
でも今は違う。
春麗は、脱いだ黒いドレスを両手で持った。
そして、丁寧に椅子へかける。
捨てるようにではない。
隠すようにでもない。
また着ることができる場所に置いた。
「今日は、脱ぐわ」
春麗は静かに言った。
「逃げるためじゃない」
鏡の中の自分を見る。
黒を脱いだ春麗。
けれど、黒を失った春麗ではない。
「負けたからでもない」
一拍。
「あなたに見破られたからでもない」
春麗は、小さく息を吐いた。
「私が、脱ぐと決めたから」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
黒は消えていない。
黒は自分の外にある敵ではない。
自分を縛る呪いでもない。
リュウを沈めるためだけの証明でもない。
黒は、春麗の中に戻った。
女として見せる自分。
格闘家として打つ自分。
見られたい自分。
見惚れられたい自分。
でも、女としてだけ見られたら怒る自分。
格闘家としても見てほしい自分。
面倒な自分。
その全部が、春麗だった。
春麗は苦笑した。
「……本当に、面倒ね」
けれど、その言葉に以前ほどの棘はなかった。
翌朝、春麗は青い武道服を手に取った。
青。
ずっと着ていた色。
身体に馴染んだ色。
速く動ける色。
余計な誘いも、黒ほどの視線誘導もない。
けれど、今朝の青は、以前とは少し違って見えた。
黒を否定する青ではない。
黒から逃げる青でもない。
黒を脱いだ後に、自分で選ぶ青。
春麗は青い袖を通した。
軽い。
けれど、軽すぎない。
黒の記憶が身体に残っている。
リュウが見た視線も。
肩に届いた拳も。
十回負けても来た姿も。
十一戦目で止まらなかった足も。
全部、残っている。
春麗は修行場へ向かった。
リュウはいた。
当然のように。
白い胴着。
赤い鉢巻。
少し傷の残る身体。
それでも立っている。
春麗は、青い武道服で近づいた。
リュウが春麗を見る。
青を見る。
そして、春麗を見る。
春麗は少しだけ目を細めた。
「今日は青よ」
「ああ」
「黒じゃなくて残念?」
リュウは少し考えた。
春麗はその沈黙に少しだけ胸を鳴らす。
リュウは言った。
「黒のお前も覚えている」
春麗は息を止めかけた。
リュウは続ける。
「でも、今日は青のお前を見る」
春麗は、視線を逸らしそうになった。
逸らさなかった。
「……そう」
声は落ち着いていた。
「忘れていないのね」
「ああ」
「黒いドレスの私を」
「ああ」
「女として見た私を」
「ああ」
「あなたを惑わせて、それでも拳を出した私を」
「ああ」
リュウは真っ直ぐに答える。
「忘れない」
春麗は、少しだけ笑った。
「それならいいわ」
リュウは構える。
春麗も構える。
青い袖が風に揺れた。
黒とは違う。
今日は、視線を奪うための裾はない。
惑わせるための黒い肩もない。
半拍遅らせるための誘いもない。
それでも、リュウは見ている。
春麗を。
春麗は、それを確かめた。
「リュウ」
「何だ」
「今日は、青で行くわ」
「ああ」
「でも、勘違いしないで」
春麗は一歩踏み込む。
「黒を置いてきたわけじゃない」
リュウは頷く。
「わかっている」
「本当に?」
「ああ」
春麗は少しだけ笑う。
「なら、見失わないことね」
青が走った。
春麗は速い。
黒のように視線を絡め取るのではない。
青は、先へ行く。
リュウは追う。
春麗の蹴りを受ける。
掌底を受ける。
青い袖の動きを追う。
だが、春麗はわかっていた。
リュウは、今日の青だけを見ているのではない。
黒を見た目で、青を見ている。
女としての春麗を見た男が、今は格闘家としての春麗を追っている。
それが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、身体が軽い。
春麗はリュウの懐へ入り、掌底を止めた。
胸に触れる直前で。
リュウは動かない。
春麗は言った。
「今日は沈めないわ」
リュウは頷く。
「ああ」
「勝てないと思った?」
「違う」
「なら?」
リュウは春麗を見る。
「今日は、沈めるための青ではない」
春麗は、一瞬だけ言葉を失った。
そして、ふっと笑った。
「本当に、嫌なところを見るわね」
「違ったか」
「違わないから言っているのよ」
春麗は手を引いた。
戦闘はそこで終わった。
勝敗はない。
けれど、それでよかった。
春麗は空を見上げる。
朝の光が、青い袖に落ちていた。
「リュウ」
「何だ」
「黒は、また着るわ」
「ああ」
「あなたを沈めるために着る日もある」
「ああ」
「あなたを惑わせるために着る日もある」
「ああ」
「女として見せるために着る日もある」
リュウは黙って聞いている。
春麗は、少しだけ声を落とした。
「でも、もう黒だけで証明しようとは思わない」
リュウは静かに言った。
「ああ」
春麗は続けた。
「青も着る」
「ああ」
「どちらでもない日もある」
「ああ」
「そのたびに、あなたは見るのね」
リュウは答えた。
「見る」
春麗は微笑んだ。
「ただし」
一歩近づく。
「黒いドレスの私を見なかったことにしたら、許さないわ」
リュウは迷わず答える。
「しない」
「女として見たことも?」
「忘れない」
「格闘家として見たことも?」
「忘れない」
「……そう」
春麗は満足した。
かなり満足してしまったので、少しだけ腹が立つ。
「本当に、あなたは遅いのよ」
リュウは首を傾げる。
「遅かったか」
「遅かったわ」
春麗は青い袖を払う。
「十回も負けて、十一回目でようやく届くなんて」
リュウは短く答える。
「すまない」
「謝らないで」
「ああ」
「でも」
春麗は少しだけ目を伏せる。
「来たことは、褒めてあげる」
リュウは黙る。
春麗はすぐに睨む。
「何か言いなさい」
「ありがとう」
「だから、そこで素直に礼を言うのはずるいのよ」
「そうか」
「そうよ」
春麗は背を向けた。
朝の風が吹く。
青い袖が揺れる。
黒いドレスは部屋にある。
捨てていない。
隠していない。
また着る。
だが、今日は青。
春麗が選んだ青。
黒を否定しない青。
リュウに見られた黒を、自分の中に戻した春麗の青。
春麗は歩き出しながら、振り返らずに言った。
「次、黒で来るか青で来るかは、私が決めるわ」
「ああ」
「あなたは?」
「見る」
「違うわ」
春麗は少しだけ笑った。
「来るのよ」
リュウは答えた。
「行く」
春麗は、足を止めそうになった。
でも止めなかった。
その言葉は、もう胸に残る。
来る、ではなく。
春麗がいる場所へ、行く。
春麗は小さく息を吐いた。
「……本当に、遅いくせに」
声は柔らかかった。
「たまに正解を出すのね」
リュウの返事は聞こえない。
けれど、春麗は知っていた。
リュウは来る。
黒でも。
青でも。
どちらでもなくても。
そして今度は、黒い春麗を見なかったことにはしない。
青い春麗だけを正解にはしない。
女としての春麗も。
格闘家としての春麗も。
どちらも春麗だと、リュウは見た。
春麗は、朝の光の中で小さく笑った。
「次に黒を着た時も」
誰にも聞こえない声で呟く。
「見惚れても、止まらないでいなさいよ」
それは命令のようで。
願いのようで。
そして、春麗らしい甘さだった。
Q:通常版と黒ドレス版の違いについて説明して?
A:
はい。執筆者として見ると、通常版の拗れ春麗救済と、今回の黒ドレス特化版救済は、同じ「救済」でも焦点が違います。
一言で分けるなら、
通常版は、黒に囚われた春麗を“黒でも青でも春麗だ”と救うルート。
黒ドレス特化版は、黒ドレス春麗そのものを“女としても格闘家としても春麗だ”と救うルート。
です。
通常版は「黒か青か」から救う
通常版の春麗は、黒に拗れています。
黒で勝ちたい。
黒を使いこなしたい。
黒でリュウを沈めたい。
でも、黒で勝った自分は本当に春麗なのか。
青に戻らないといけないのか。
この葛藤が中心です。
だから通常版の救済台詞は、
黒でも青でも見る。
俺が見るのは、お前だ。
が非常に強い。
これは、春麗に対して、
黒を着ても春麗。
青に戻っても春麗。
どちらでもない日でも春麗。
と示す言葉です。
つまり通常版の救済は、黒と青の二択から春麗を解放する救済です。
黒ドレス特化版は「女として見られること」から救う
一方、黒ドレス特化版は、もっと焦点が狭くて深いです。
ここで問題になるのは、
黒でも青でも春麗か
ではなく、
黒ドレスを着て、女として見せる春麗も春麗なのか
です。
黒ドレス春麗は、青武道着の春麗とは違います。
女としての魅力を隠さない。
視線を奪う。
リュウを惑わせる。
その半拍の遅れを格闘で制圧する。
つまり、黒ドレス春麗は、女性性すら戦闘資源に変える春麗です。
だから、ここでのリュウの正解は、
黒でも青でも見る
だけでは少し足りない。
黒ドレス特化版では、
黒いドレスのお前を、女として見た。
でも、そこで止まらなかった。
女としての春麗も、格闘家としての春麗も、どちらもお前だ。
まで必要になります。
通常版のリュウは「黒を否定しない」
通常版のリュウの役割は、黒を否定しないことです。
春麗が黒を着ていても、そこから逃げない。
黒が強くても、恐れない。
黒に沈められても、春麗を見失わない。
通常版リュウの到達点は、
黒という状態ではなく、春麗本人を見る
です。
だから通常版は、救済の抽象度が高いです。
黒でも青でも、春麗は春麗。
非常に大きな答えです。
黒ドレス特化版のリュウは「女としても見る」
黒ドレス特化版のリュウは、もっと危険なことを言わなければなりません。
女として見た。
これを認める必要があります。
ここが通常版との最大の違いです。
もしリュウが、
俺は女としては見ていない。戦う春麗だけを見ている。
と言ったら、黒ドレス春麗は救われません。
それは、黒ドレス春麗の否定になるからです。
逆に、
女として見惚れた。
だけでも駄目です。
それでは春麗は、女としてしか見られなかったと感じる。
正解は、
女として見た。
見惚れた。
でも止まらなかった。
その上で、拳を出す春麗も見た。
です。
この「見惚れても止まらない」が、黒ドレス特化版の核心です。
春麗側の救われ方が違う
通常版の春麗は、こう救われます。
黒でも青でも、私は見てもらえる。
黒だけで証明しなくていい。
青に戻ることも逃げではない。
つまり、黒への執着がほどける。
黒ドレス特化版の春麗は、こう救われます。
黒ドレスの私を、女として見られた。
でも女としてだけに閉じ込められなかった。
格闘家としても見られた。
だから、この黒は私の一部でいい。
つまり、黒ドレス春麗そのものが肯定される。
ここが大きく違います。
通常版は、黒から自由になる救済。
黒ドレス特化版は、黒を自分の中に戻す救済です。
物語上の味わいの違い
通常版は、救済としてきれいです。
比較的まっすぐです。
黒に囚われた春麗に対して、リュウが正しい言葉を届ける。
春麗は黒でも青でも自分でいられるようになる。
一方、黒ドレス特化版は、かなり濃いです。
リュウが10回負ける。
黒ドレス春麗に惑わされる。
女として見る。
見惚れる。
でも止まらない。
十一戦目でも負ける。
そのうえで、春麗を女としても格闘家としても見る。
こちらは、救済というより、黒ドレス春麗の全肯定です。
対比すると
通常版:
黒でも青でも見る。
→ 春麗は黒と青の二択から解放される。
黒ドレス特化版:
女としても格闘家としても見る。
→ 春麗は黒ドレスの自分を否定せずに済む。
通常版は、春麗全体を救う広い救済。
黒ドレス特化版は、黒ドレス春麗という一点を深く救う救済。
この差です。
結論
執筆者としては、通常版と黒ドレス特化版は、同じ救済でも役割が違います。
通常版は、
黒でも青でも春麗だと認める救済。
黒ドレス特化版は、
女として見せる春麗も、格闘家として戦う春麗も、どちらも春麗だと認める救済。
です。
通常版が「春麗という全体」を救うなら、
黒ドレス特化版は「黒ドレス春麗という拗れた一形態」を救う。
だから今回のルートは、通常版の焼き直しではなく、黒ドレス春麗専用の別解救済として成立していると思います。