神の目を授かってから女難が止まらない。   作:ヘルタ様万歳

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ああ……また性懲りも無く……。


浮世に咲いた花

稲妻の海は美しかった。

 

夜になれば群青の水面へ紫電が細く走り、白波は砕けた月光を散らした銀片みたいに瞬く。晴れた日には水平線がどこまでも青く澄み、遠くを行く船影さえ幻みたいに揺れて見えた。

 

しかし島の端へ押し込められた貧しい長屋にとって海とは、恵みより先に理不尽を知らしめる不条理な存在だった。魚が獲れなければ飢えを運び、嵐が来れば家ごと命を攫っていく。柏が生まれた家も、そんな海辺の貧しい家の一つだった。

 

古びた板壁は潮を吸って黒ずみ、雨が降るたび天井の隙間から雫が落ちた。湿った畳には常に潮の匂いが染み付き、冬になると海風が板戸の隙間から容赦なく吹き込む。囲炉裏には薪が足りず、火はいつも弱々しかった。

 

弟妹たちは薄い布団へ身を寄せ合い、互いの体温を分け合うように眠る。父は暗いうちから漁へ出て、母は夜更けまで機織りへ向かっていた。裂けた指先から血が滲んでも、二人は決して子供たちの前で弱音を吐かなかった。

 

「柏、お前は賢い子だねえ」

 

母はよくそう言って笑った。

 

「読み書きも早いし、きっと良いところへ行けるさ」

 

柏は、その笑顔が嫌いだった。

 

貧しさを悲しむ事はあっても、誰かを恨みはしない。苦しくても笑い、不安を押し隠して子供たちを安心させようとする。その優しさが、幼い柏にはひどく痛々しかった。

 

夜中に目を覚ませば、小さな声で言葉を交わす両親の声が聞こえる。

 

「今日は四人分しかない」

 

「私は構いません。あの子たちへ食べさせてください」

 

「お前も食べなさい」

 

「平気ですよ。あなたに比べれば」

 

そう言いながら、母の腹が鳴る音を柏は知っていた。弟が熱を出した夜、父は自分の外套を売った。妹が泣けば、母は血の滲む指先を袖へ隠しながら子守歌を歌った。誰かが何かを我慢して、ようやく一日を越えられる家だった。

 

だから柏は、ある朝ひとりで家を出た。

 

まだ空が藍色をしている頃だった。窓の外では波音が低く響き、冷えた潮風が隙間から入り込んでいる。寝息を立てる弟妹たちを見て、擦り切れた父の背中を見て、痩せ細った母の手を見て、それから静かに戸を閉めた。置いていったのは紙切れ一枚だけ。

 

『行ってきます』

 

それだけを書き残して。

 

涙は出なかった。泣けば帰りたくなる気がしたからだ。

 

世界は子供に優しく出来ていない。まして何の後ろ盾もない少女なら尚更だった。柏は髪を短く切り、胸を布で押さえ、煤を擦り込んで肌を荒れたように見せた。男物の古着を拾い、低い声を覚えた。そうした方が、生きやすかったからだ。

 

「坊主、荷運びできるか?」

 

「できます」

 

「文字は読めるか?」

 

「少しだけなら」

 

柏は賢かった。空気を読み、人の機嫌を見抜き、必要なら平然と嘘も吐いた。愛想笑いを覚え、怒鳴られても頭を下げた。そうして港で荷を運び、時には帳簿の代筆まで請け負って金を稼いだ。

 

だが、どれだけ頭が回っても、身体は子供だった。重い荷を担げば肩が裂けるように痛み、眠る場所がなければ濡れた軒下で朝を待った。腹が減れば吐き気がし、熱を出しても看病してくれる者はいない。寒さで指先の感覚が消えても、歯を食い縛って働いた。

 

それでも柏は笑っていた。

 

平気なふりをした。

 

弱いと認めた瞬間、本当に潰れてしまう気がしたからだ。生きるために必要な事だと割り切り、必死に前だけを睨み付ける日々だった。

 

 

 

 

ある日、彼女は鳴神島を離れる商船へ乗り込もうとしていた。甲板掃除の仕事だった。数日分の飯が保証される。それだけで十分だった。

 

だが港へ向かう途中の山道で、男たちに囲まれた。

 

酒臭い息。濁った目。泥に汚れた着物。笑うたび覗く黄ばんだ歯。腰には刃物がぶら下がっていた。身なりから察するに、おそらくは宝盗団だろう事が分かる。

 

「おいおい、こんなガキが一人か?」

 

「荷物持ってんなァ」

 

柏は思わず後ずさる。湿った土が草履の裏で滑った。必死に視線を巡らせ逃げ道を探すも、背後には崖と海しかない。下を見れば、黒い波が岩肌へぶつかって砕けていた。

 

「金目になる様なものを置いてけ」

 

「……ありません」

 

「じゃあ身体で払うかぁ?」

 

男たちが笑う。

喉奥が凍るようだった。

 

嫌だった。

 

怖かった。

 

今まで積み上げてきたものが全部壊れる気がした。

 

「やめろ」

 

震える声で言った。

 

「近づくな」

 

男が腕を掴む。

 

「っ、いやだ……ッ!」

 

細い手首など簡単に折れそうだった。下卑た視線が肌を舐めるみたいに這う。その瞬間、柏の中で張り詰めていた糸が音もなくプツンと切れた。

 

次の瞬間、紫電が夜みたいな闇を裂き、視界を白く塗り潰していた。

 

「……なに、が」

 

轟音。

ビリビリとした空気が爆ぜた様に熱を帯びる。

 

湿った風が逆巻き、草木が一斉に伏せる様に潰される。何が起きているのか分からず呆然としていると、いつの間にか柏の掌には紫色の光が宿っていた。

 

神の目。

 

それはまるで、彼女の絶叫へ応えるように現れた。

 

「……ぁ」

 

自分でも何をしたのか分からなかった。ただ掴まれた腕を咄嗟に振り払っただけだった。それなのに、突如現れた雷は奔り、男の胸を貫いてしまった。

 

肉の焼ける臭いがした。

 

男は吹き飛び、崖の岩へ叩きつけられる。嫌な音が響いた。骨が砕ける音だった。

 

その後、男はピクリとも動かなかった。周囲が静まり返る。残された宝盗団たちは怯えた顔で後退った。

 

「ば、化け物……!」

 

逃げていく足音。

柏と焼け焦げたような死体だけが、その場へ取り残された。

 

雷光が消える。

耳鳴りがした。

 

崖へ叩きつけられた男の目は開いたままだった。焦げた皮膚から煙が上がり、血が岩肌をゆっくり流れていく。焼けた肉の臭いが潮風へ混ざって鼻へまとわりついた。

 

柏は自分が殺したのだと遅れて理解した。

 

胃が痙攣し、何かが込み上げる。

 

「……っ、ぁ……」

 

何も入っていない胃から酸だけが込み上がる。喉が焼ける。手が震える。呼吸が出来ない。指先から力が抜け、膝が崩れる。

 

今まで彼女は耐えてきた。腹が減っても、殴られても、寒くても、独りでも。理性的であろうとした。賢く振る舞った。泣かず、弱音も吐かなかった。

 

けれど、所詮子供だった。

 

まだ、たったそれだけの年齢だった。

 

「……やだ」

 

声が漏れる。

 

「やだ……やだ、やだ……」

 

視界が滲む。崩れるように膝をついた。血の臭いがする。焼けた肉の臭いが鼻へこびりつく。耳の奥で雷鳴が何度も反響する。

 

「わたし、は……」

 

呼吸が浅くなる。

 

寒い。

 

怖い。

 

帰りたい。

 

母へ会いたい。

 

父の声が聞きたい。

 

弟妹たちの熱を確かめたい。

 

けれど、自分はもう戻れない気がした。

 

人を殺した。

 

その事実が鉛の様に胸へ沈んでいく。

 

指先が震える。

 

どれだけ擦っても、血の臭いが消えない気がした。焼け焦げた臭いが肺の奥へ染み付いて喉がひり付く。

 

どうして、どうしてこんなことになった。

 

少女はただ、懸命に生きようとしただけなのに。

 

ただ家族へ迷惑を掛けたくなくて、必死に生きてきただけなのに。

 

涙が止まらなかった。

 

嗚咽が喉を潰し、浅い呼吸ばかりが乱れていく。

 

けれど柏を最も追い詰めていたのは、目の前の死体そのものではなかった。

 

人を殺した。

 

その事実は確かに恐ろしかった。胃が捩れ、指先が震え、視界が歪むほどに怖かった。なのに、その恐怖の中心にあるのが“相手の死”ではなく、“自分が壊れてしまったかもしれない”という感覚だったことに、柏は愕然とした。

 

頭の中で、言い訳ばかりが浮かぶ。

 

仕方なかった。

 

殺されそうだった。

 

抵抗しなければ自分が酷い目に遭っていた。

 

悪いのは向こうだ。

 

そんな言葉が、次々と脳裏へ浮かんでは消えていく。その度に、胸の奥が冷えていった。

 

違う。

 

そんなことを考えたい訳じゃない。

 

目の前で死んだ男を悼まなければならないはずなのに、自分は今も尚、自分のことばかり考えている。

 

怖い。

 

帰りたい。

 

助かりたい。

 

そんな感情ばかりが溢れて来る。

 

その事実が、何より恐ろしかった。

 

「っ…ぅあ、」

 

声にならない音が漏れる。

 

人ひとりの命が消えたというのに、自分の中には涙ながらに死を悔やむ優しさよりも、得体の知れない嫌悪感と自己保身ばかりが渦巻いている。

 

罪悪感より先に、“人を手に掛けてしまった”という事実そのものへの忌避感が、自分を押し潰そうとしている。

 

潮騒だけが遠く響いていた。崖下では黒い海が絶え間なく揺れ、砕けた波が岩肌へ白く散っていく。湿った風は容赦なく頬を打ち、涙で濡れた肌から熱を奪っていく。

 

柏はいっそ、崖下へと身を投げてしまいたかったのに、その場から一歩も動けなかった。足に力が入らない。喉は潰れたみたいに痛み、呼吸をする度、焼けた肉の臭いが鉛のように胸の奥へ沈み込み、じわじわと内側を冷やしていく。

 

怖かった。

 

泣き叫びたかった。

 

誰かへ助けてほしいと縋り付きたかった。

 

なのにその一方で、自分が生きていることへの醜く浅ましい安堵感に気付いてしまう。

 

それを自覚した瞬間、柏は息が出来なくなった。

 

「……ひっ、ッ…、……は、っ、」

 

喉から漏れた声は、自分でも驚くほど幼かった。世界など何も知らないただの幼い子供でしかない。

 

指先が震える。

 

涙が止まらない。

 

けれど、どれだけ泣いても、もう元には戻れない気がした。

 

今この瞬間、少女は確かに何かを失ったのだと、本能だけが理解していた。

 

優しかった母の声。

 

不器用な父の背中。

 

弟妹たちの笑い声。

 

少女の、帰る場所。

 

真っ当に生きて、普通に誰かを好きになって、当たり前に老いていくはずだったあり触れた未来。

 

そうした幸せが、今、音もなく壊れていく。

 

柏は震える手をゆっくり持ち上げる。

 

視界の中へ映った掌は、驚くほど綺麗だった。

 

血も付いていない。

 

傷ひとつない。

 

なのに、その手が確かに人を殺したのだと分かってしまう。どれだけ擦っても、もう二度と綺麗には戻れない気がした。

 

指先にはまだ熱が残っていた。

 

紫色の残光が、掌の奥で静かに脈打っている。

 

神の目。

 

雷光は淡く揺れながら、冷たい夜の中で静かに輝いていた。

 

綺麗だった。まるでこの力だけが、柏の絶望を肯定しているみたいだった。

 

何も知らなかった頃の自分にはもう戻れない。

 

家族の居たあの狭い長屋や、誰かを傷付けずに生きていけると信じていた幼い心にも。

 

柏は嗚咽を噛み殺しながら、その場へ蹲る。

 

肩が震える。

 

涙が地面へ落ちる。

 

それでも掌の紫光だけは消えなかった。

 

まるで罪の証のように、あるいは生涯剥がれ落ちない呪いのように短くパチンッという音が弾けた。

 

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