神里屋敷の夜は静かだった。
庭園へ降る雨は細く、池へ落ちる雫が淡い波紋を広げている。鹿威しの音だけが一定の間隔で響き、湿った夜気には仄かに香が混ざっていた。
柏は廊下を歩きながら、小さく息を吐く。
社奉行。
稲妻を支える三奉行の一角。裏稼業の情報屋がこうして本家へ出入りしている事実は、冷静に考えれば大層な話だった。
だが柏を呼びつけた本人、神里綾人という男は実に妙な人間だった。
「失礼します」
障子を開ける。
室内には綾人が一人、書類へ目を通していた。薄明かりの中でもその所作には一切の無駄が無い。優雅で柔らかい。それでいて、どこか底知れない印象を与える。
綾人は顔を上げた。
「お待ちしていました、柏」
「わざわざこんな時間にお呼び立てとは。社奉行も随分お暇なんですね」
「ええ。暇でなければ、こうしてあなたと話す時間も取れなかったでしょう」
さらりと返される。
柏は苦笑しながら卓へ向かった。
白い髪が肩を滑る。黒い着物の裾は雨で少し濡れていた。腰元では神の目が淡く光を宿している。
綾人はその姿を一瞥し、茶を差し出した。
「まずはご苦労様でした。例の件、予想以上に綺麗な形で収まりましたよ」
「綺麗、ですか」
柏は湯呑みを受け取り、曖昧に笑う。
「何人か命を落としたと聞きましたが」
「ただの噂でしょう」
綾人の声音は穏やかだった。だがその言葉の裏にある冷徹さを柏は知っている。
神里綾人は甘い人間ではない。
結果のためなら泥も被る。必要なら敵を切り捨てる。けれどその結果は最終的に稲妻の安定へ繋がっている。だからこそ問題にはならない。
柏は懐から書類を取り出した。
契約書。
調査記録。
人名。
資金の流れ。
「社奉行の立場を狙っていたのはやはり例の商会で、奉行側のお役人様とも一部繋がっていました。祭具の流通遅延、宝盗団への資金供給、神里家への風評操作……すべてこの人物が関わっていました」
綾人は静かに紙へ目を落とした。
「では港の横流しも……」
「ええ。以前の依頼と地続きでした」
柏は肩を竦める。
「あの時点では確証が薄かったので、わざと泳がせてましたが。……案の定、随分大きな魚でしたね」
柏は茶を飲む。温かさが冷えた喉へ落ちていく。
今回の依頼は骨が折れた。裏金の流れを追い、脅された商人を宥め、逃げた宝盗団を捕まえ、嘘と本音を選り分ける。危うく海へ沈められかけたのも一度や二度ではない。
それでも柏は、この依頼を断る気にはならなかった。
神里家がどうなろうと、本来なら自分には関係ない。けれど綾人に借りを作ると、不思議と踏み倒す気になれなかった。それだけだ。
柏は昔から、人間を信用していない。
だが綾人は、柏へ余計な詮索をしなかった。出自も、性別も、どうやって情報を集めているのかも。きっと何か隠しているとは勘付いている。しかし無理に暴こうともしなかった。
それが柏には、少しだけありがたかった。
「……綾人様って、変わってますよね」
不意に柏が言う。
綾人は目を細めた。
「そうでしょうか」
「普通、私みたいな人間なら、もっと警戒されますよ。素性を探るなり、弱みを握るなり……その方が余程扱いやすいでしょうに」
綾人は静かに目を細めた。
「必要ありませんよ。あなたは契約を違えない。私にとってはそれだけで十分です」
静かな声だった。
柏は数秒だけ黙り込む。
湯呑みの縁へ視線を落とし、それから小さく息を吐いた。
「……買い被り過ぎですよ」
「事実を述べたまでです」
「そういう風に信用されると困るんです」
柏は困ったように笑う。
「期待に応え続けないといけなくなるので。綾人様、平然と無茶を押し付けてきそうですし」
「心外ですね。私はいつだって適正な範囲でお願いしていますよ」
「はいはい、聞き飽きましたよ。その台詞」
しばらく雨音だけが続く。やがて綾人は新しい書類を卓へと置いた。
柏の眉が僅かに動く。
「追加依頼ですか」
「ええ。続けて頼める相手があなたしか居なくて」
「社奉行ともあろう人が、随分物騒な人材不足ですね」
「優秀な人材ほど希少なんですよ」
綾人は穏やかに笑う。
溜息を吐き、柏は契約書へ目を落とした。
内容を読むにつれ、灰色の瞳が細くなる。
「……鳴神島北部の密輸ルートの調査。加えて、関係者の洗い出し」
「最近、妙な物資が流れています。放置すると厄介になりそうでして」
柏は紙を指先で軽く叩く。
「危険手当は?」
「上乗せしましょう」
「口止め料は?」
「勿論」
「死人が出た場合の責任範囲は」
「従来通り」
会話は淀みなく進んでいく。必要な確認だけを淡々と交わす様は、まるで冷えた刃物同士を静かに擦り合わせているようだった。
実際、それで正しいのだろう。
柏は情で仕事を選ばない。綾人もまた、甘さだけで人を抱え込むような男ではない。互いに必要なものを差し出し、必要なものを受け取る。ただそれだけの関係だった。
柏は最後まで書類を読み終え、小さく息を吐いた。
「……分かりました。お受けします」
柏が契約書を閉じると、綾人は静かに頷いた。
「助かります」
「ただし」
柏は柔らかく笑う。
「今回、嫌な予感がするんですよね。もしその辺の海で浮いてたら、せめて花くらいは供えてください」
「ご安心を。その時は、見栄えの良い墓も用意しておきます」
綾人は穏やかな声で返した。
柏の眉がぴくりと動く。数秒の沈黙が続き、それから露骨に嫌そうな顔をした。
「……嫌だなぁ。その言い方、妙に現実味があって」
「では、出来るだけ帰って来てください」
あまりにも自然に言われたものだから、柏は一瞬だけ言葉を失った。
やがて困ったように笑い、小さく肩を竦める。
「善処します」
雨はまだ降り続いている。
庭園へ落ちる雫が淡い波紋を広げ、鹿威しの音だけが静かな夜へ規則正しく響いていた。
* * *
神里屋敷を出た頃には、雨は霧のように細くなっていた。
濡れた石畳が淡く月光を返し、遠くの海からは潮騒が聞こえてくる。柏は笠を軽く押さえながら、静かな坂道を下っていた。懐には新しい契約書と少々やっかいな依頼。
鳴神島北部の密輸調査。ただ、それだけの文面にしては報酬が高過ぎる。
綾人は必要以上の金を積む人ではない。つまり、それだけ危険ということだ。
「……面倒そうですね、今回の依頼は」
柏は小さく呟いた。
その時だった。
「おーい、柏!」
聞き覚えのある声が飛ぶ。
柏が振り返ると、石段の下から一人の青年が駆け上がってきた。濡れた羽織を肩へ引っ掛け、息を切らしている。
「……良かった、まだ居たか」
「これはこれは。随分必死ですね、宗助さん」
宗助。
かつて柏が配達員をしていた頃の同僚だった。
当時から世話焼きな男で、体力も腕っぷしもある。柏が無茶な荷運びをして倒れかけた時など、何度も助けられていた。
宗助は柏を見るなり眉を寄せた。
「お前、また危ない仕事してるだろ」
「開口一番それですか?」
「だってお前、まともな顔してる時ほど碌でもない案件抱えてるじゃねぇか」
柏は思わず吹き出した。
「失礼ですね。私だって一応、健全な商売を心掛けていますよ」
「情報屋が健全名乗るな」
「辛辣だなぁ」
昔と変わらないやり取りだった。
柏は自然と肩の力を抜く。
宗助は、数少ない「昔の柏」を知っている人間だった。まだ荷物を抱えて港を走り回っていた頃。擦り切れた草履で、腹を空かせながら働いていた。
もっとも、彼も柏の本当の性別までは知らない。柏は昔から上手く隠していたし、宗助も深く踏み込む事はしなかった。
宗助は周囲を見回してから声を落とす。
「……少し話せるか」
柏はその空気で察した。
「構いませんよ。ですが、立ち話に向いた内容ではなさそうですね」
「分かるか」
「顔に書いてあります」
柏は近くの軒下を指した。二人は雨を避けるように移動する。宗助は腕を組み、少し迷うように口を開いた。
「最近、港の空気がおかしい」
「ほう」
「北側の船着き場に見たこともねぇ連中が増えてる。商人を名乗ってるけど、どう見ても違う」
「どうしてそう思ったんですか?」
柏が問い返すと、宗助は記憶を探るように眉を寄せた。
「まず荷の扱い方だな。商人ならもっと商品を気にする。あいつら、中身より運搬経路ばっか確認してやがった」
「ふむ……」
「あと足音だな。癖があるんだよ。歩き方っていうか……何て言えばいいかな。無駄に静かなんだ」
柏は少しだけ目を細めた。
「訓練を受けた人間ですかね……」
「やっぱそう思うか」
宗助は苦い顔をする。
「俺も昔、幕府の連中が港を使ってた時に似た感想を抱いたことがある」
柏は黙って聞いていた。
宗助は続ける。
「しかも荷の量が妙なんだ。帳簿には布と木材と書かれていたのに、いざ運ぼうと持った感じ、明らかに重いし、中からは僅かに金属が擦れる音がしたんだ」
柏は視線を落としたまま考える。
武器。あるいは、それに類するもの。綾人から受けた依頼と綺麗に繋がり始めていた。
宗助がふと柏を見る。
「……お前、何か知ってるんだろ?」
「さぁて」
柏は柔らかく笑った。
「安心してください。宗助さんへ迷惑が及ぶことにはなりませんから」
「そういう話してんじゃねぇよ」
宗助の声が低くなる。
「お前さ、最近良くないものに首を突っ込んでねぇか? 前も港裏で血だらけだったろ」
「あれは転びました」
「刀傷で?」
「世の中には鋭利な地面もあります」
「馬鹿言え」
宗助は深く溜息を吐いた。
「……昔のお前、もっと愛想良かったよな」
「気のせいです」
「いや絶対違う。もっとこう、必死だった」
その言葉に、柏は少しだけ黙る。
雨粒が笠を叩く音だけが間に落ちた。
宗助は気まずそうに頭を掻く。
「悪い。変な意味じゃなくて」
「分かってますよ」
柏は静かに笑った。
宗助は何も言わない。代わりに懐から小さな紙片を取り出した。
「これ、例の連中が使ってた印だ。倉庫にも同じのがあった」
柏は紙を受け取る。
そこには見覚えのある紋が描かれていた。
灰色の瞳が僅かに細くなる。
「……これは」
「知ってるのか?」
「ええ。知ってるというか、ようやく全部繋がりました」
柏は小さく息を吐く。
宗助は柏の顔を見て眉をひそめた。
「おい。その顔、お前また危ないこと考えてるだろ」
「失礼だなぁ。私はいつだって平和主義ですよ」
「お前の平和主義、絶対物理的な意味じゃねぇんだよ」
柏はくすくすと肩を振るわせながら笑った。
宗助は深く溜息を吐いたあと、軒下の柱へ背中を預けた。
「……で、実際どうなんだ。お前、どこまで掴んでる」
柏はすぐには答えなかった。
代わりに濡れた石畳へ視線を落とす。細い雨粒が地面を打ち、小さな波紋を幾重にも広げていた。
「宗助さん」
「ん?」
「もし私が『何も知らない方が長生きできますよ』って言ったら、ちゃんと引いてくれます?」
宗助は呆れたように眉を寄せる。
「……逆に気になるんだけど」
「でしょうね」
柏は苦笑する。
「でも今回は、本当に首を突っ込まない方が良い案件です。港の密輸程度ならまだしも、後ろに居る人間が厄介過ぎる」
「奉行絡みか」
「さて」
否定しない。それだけで十分だったのだろう。宗助は顔を顰め、乱暴に頭を掻く。
「……お前さ、ほんと昔から抱え込むよな」
「そんなつもりはありませんよ。単に、適材適所ってだけです」
「便利な言葉覚えやがって」
柏は小さく笑った。
昔、配達員だった頃もそうだった。
柏はあまり人へ頼らない。重い荷を持っていても黙って運び、熱を出しても働こうとする。宗助が無理矢理休ませなければ、そのまま倒れていたことも何度かあった。
宗助はしばらく黙っていたが、不意に口を開いた。
「……港に来てた連中、倉庫使ってるって言っただろ」
「ええ」
「場所、知りたいか」
柏の視線が上がる。
宗助は懐から古びた紙を取り出した。簡単な港周辺の見取り図だった。そこへ炭で印が付けられている。
「北側の旧倉庫。今はほとんど使われてない場所だ」
「随分具体的ですね。どこでそれを知ったんですか?」
「偶然聞いちまったんだ。あいつら酒飲みながら堂々と喋ってたからな」
柏は紙を受け取る。
指先で印をなぞりながら、小さく目を細めた。
「……ありがとうございます」
「礼はいいから、あんま無茶すんなよ」
宗助の声音は真剣だった。
柏は少しだけ瞬きをする。
宗助は続けた。
「昔はまだ、腹減ったとか寒いとか、ちゃんと言えてたんだよ。でも最近のお前、何考えてるか全然分かんねぇ」
雨音が静かに流れる。
柏は視線を逸らし、薄く笑った。
「情報屋としては褒め言葉ですね」
「茶化すな」
珍しく強い口調だった。
宗助は苛立ったように息を吐く。
「お前、傷付くことに慣れ過ぎてる。痛ぇのに平気な顔する癖だけは昔から変わってねぇよ」
柏は少し黙った。
胸の奥で、何かが僅かに軋む。
だが彼女はそれを表へ出さない。代わりに、いつもの柔らかな声音で返した。
「困りましたね。そんな風に心配されると、少し人間らしい気分になってしまいます」
「は?」
「私はもう少し薄情な人間のつもりだったんですが」
宗助は呆れたように笑う。
「何だそれ」
「そのままの意味ですよ」
柏は契約書や地図を懐へ仕舞う。その仕草を見て、宗助が眉をひそめた。
「もう行くのか?」
「ええ。情報は鮮度が命なので」
「今から旧倉庫行く気か?」
「流石に真正面から突っ込むほど短慮じゃありませんよ」
柏は笠を被り直した。白い髪がさらりと肩を滑り、そろそろ切るべきかと思案する。
「まずは周辺の人間関係を洗います。誰が出入りしてるか、誰が口を滑らせそうか。無防備な人間ほど、案外多くを喋るものなので」
宗助はじっと柏を見る。
「……聞かなかった事にしておく」
「懸命ですね」
「褒めてねぇ」
「知ってます」
柏は小さく笑った。
その直後だった。不意に、背筋へ薄く冷たい違和感が走る。まるで刃の腹を静かに首筋へ添えられたかのような感覚だった。
誰かに見られている。
柏の灰色の瞳が、静かに細められる。笑みは崩さないまま、呼吸ひとつ乱さず、ほんの僅かに視線だけを動かした。
屋根の上。
降り続く雨粒の向こう側。夜の闇へ溶け込むような黒い影が、一瞬だけ揺れた。
あまりにも短い気配だった。
雨音へ紛れ、呼吸すら殺し切った小さな気配。
宗助は気付いていない。変わらず柏へ視線を向けたまま、不思議そうに眉を寄せている。その無防備さに、柏は内心で小さく息を吐いた。
柏だけがその視線の温度を正確に捉えていた。あれは好奇でも監視でもない。獲物へ狙いを定める人間特有の、湿った殺意だった。
「……柏?」
宗助が不思議そうに声を掛ける。
柏は数秒だけ沈黙し、それからいつも通りの柔らかな笑みを浮かべた。
「宗助さん」
「何だ」
「今日はもう港へ戻らず、真っ直ぐ家へ帰ってください」
「は?」
「できれば寄り道も無しで」
宗助の顔が険しくなる。
「……お前、急に何言って」
柏は答えない。
ただ静かに笑うだけだった。その笑みを見た瞬間、宗助は舌打ちする。
「クソ、やっぱ碌でもねぇ話じゃねぇか」
「だから言ったでしょう。“知らない方が長生きする”って」
柏はそう言い残し、雨の路地へ一歩踏み出した。
次の瞬間、紫電が夜を裂く。
雷光が石畳を白く染め上げ、柏の姿が一瞬で屋根の上へ跳んだ。黒い影もまた、弾かれるように駆け出した。
追跡が始まる。
雨の鳴神島を、二つの影が疾走した。
屋根を渡る雨音は、次第に遠ざかっていた。
しつこく逃げ回る男の姿を見失ってから、柏はしばらくその場を動かなかった。路地裏へ落ちる雨粒を眺めながら、静かに呼吸を整える。濡れた前髪の隙間から覗く灰色の瞳は、夜の水面みたいに冷えていた。
難儀ですね。
柏は内心で小さく呟く。あの男は、単なる見張りではない。
追跡の技術も、隠密の動きも洗練されたものとは言い難かった。加えて、あの背格好。
「はぁ……」
柏はゆっくり瞼を閉じる。
男と視線が交差した瞬間、ほんの僅かだけ意識へ触れていた。深く潜る余裕は無かったが、それでも断片程度なら拾うことが出来た。
湿った倉庫、積み上げられた木箱。
「運び屋も殺すのか?」
「あぁ、目撃者はなるべく少ない方が良いと仰せだ」
「へいへい。ま、割りの良い仕事だ。文句はねぇさ」
そんな声。
柏の呼吸が静かに細くなる。
「……なるほど」
柏は小さく呟いた。
雨粒が笠の縁を静かに叩く。その音を聞きながら、彼女はふっと笑った。
柔らかな笑みだった。
けれど、その灰色の瞳だけは驚くほど冷えていた。
宗助は昔からそうだった。
人が良過ぎる。
困っている相手を見捨て切れず、頼まれれば無茶も引き受ける。余計な世話を焼き、危険へ首を突っ込む癖がある癖に、自分ではその危うさへまるで無頓着だった。
だからこそ、こういう裏側には向いていない。
人を人とも思わず切り捨てる連中の中では、宗助みたいな人間ほど真っ先に死ぬ。
港の片隅か、人気の無い路地裏か。それとも誰にも気付かれぬまま、冷たい海へ浮かぶのかもしれない。
そんな結末は、もはや想像するまでもなかった。
次の瞬間、紫電が夜を裂いた。
轟く雷光が石畳を白く照らし出し、その閃光と同時に柏の身体が地を蹴った。
白い髪が夜闇に靡く。濡れた屋根瓦を滑るように駆け抜けるその姿はまるで雷そのものだった。雨粒が袖を叩き、風が耳元を唸る。それでも柏の視線は一度も逸れない。
男の気配は、まだそう遠くはない。
恐らく今頃は仲間への報告へ向かっているのだろう。情報屋と接触した運び屋の存在。監視が露見したこと。そういった諸々を伝えるために。
柏は無言のまま速度を上げた。雨に濡れた瓦屋根を蹴り、視線だけで気配を追う。
やがて、暗い路地の先へ揺れる人影を捉えた。
荒い呼吸。
僅かに乱れた足取り。
息を切らしながら夜道を駆ける男の背中が、雨の向こうへ浮かび上がっていた。
男は旧倉庫群近くの廃屋へ入った。
壁は朽ち、窓硝子は割れている。潮風と湿気で腐った木材の臭いが鼻についた。
男が息を吐く。
「……クソガキが」
覆面を剥ぎ、乱暴に壁へ寄りかかる。頬には薄く汗が滲んでいた。あの短い交錯だけで、相当神経を削られていたらしい。
男は荒い息を吐きながら、懐へ手を差し入れた。
湿気た煙草でも吸わなければやっていられない。そんな苛立ち混じりの仕草だった。
だが、その指先が途中で止まる。
雨音の奥。
床板を軋ませる、微かな足音。
こちらへ近付いて来る。
男の表情が強張った。
反射的に振り返ろうとした、その瞬間だった。
紫光が閃く。
轟音。
凄まじい雷撃が廃屋の床を爆ぜさせ、男の身体を横殴りに吹き飛ばした。木片が弾け、腐りかけた柱が悲鳴みたいな軋みを上げる。
「がっ……!?」
男は咄嗟に受け身を取った。
湿った床を転がりながら、辛うじて致命傷だけは避ける。けれど衝撃までは殺し切れず、肺から息が強制的に吐き出された。
次の瞬間には、柏が男の目の前へ立っていた。
黒い着物。
灰色の袴。
雨に濡れた白髪が頬へ張り付き、夜気を含んだ袖口からは微かに紫電が散っている。
細い身体だった。人を斬り伏せるような威圧感など無い。むしろ、どこか儚げですらあった。
それなのに、廃屋の薄暗がりへ立つその姿は妙に現実味が薄かった。まるで夜の雨から滲み出て来た幽鬼の様だった。
柏は静かに微笑む。
「こんばんは」
穏やかな声音だった。
「少し、お話をしませんか」
男が反射的に短刀を抜いた。
次の瞬間には床板を蹴り砕く勢いで踏み込み、一直線に柏の喉笛へと刃が走る。躊躇の無い一撃だった。刃を向け、急所を断ち、命を奪う――そうした行為を既に何度も繰り返してきた人間の動きだった。
柏は半歩だけ身体を逸らす。
刃が頬先を掠め、濡れた白髪を数本断ち切った。遅れて袖口が裂ける。
そのまま構う事なく男の懐へと潜り込み、指先が手首へ触れた瞬間、紫電が爆ぜた。
「――ッぁ!!?」
骨の軋む音が響く。
男の握力が弾け飛び、短刀が床へ転がった。だがそれだけでは男も止まらない。潰れかけた腕を無理矢理振り抜き、頭突き同然に柏へと突っ込む。
近い。互いの呼吸が掛かる距離だった。
柏は表情ひとつ変えず、膝蹴りを男の鳩尾へ叩き込む。
鈍い音。肺の空気が潰れ、男の身体がくの字に折れ曲がる。そのまま横殴りの蹴撃が飛んだ。
男の身体は衝撃を殺しきれずに壁へと激突した。腐りかけた廃屋全体が激しく軋み、天井から埃と雨漏りが一斉に落ちる。
男は咳き込みながら壁へ手を付き、荒い呼吸を吐き出した。
それでも目だけは死んでいなかった。
獣のような殺気を滲ませながら、濡れた前髪の奥から柏を睨み付ける。まるで死ねない理由を見つけたと言わんばかりに。
「……何者だ、お前。ただの情報屋じゃねぇだろ」
男は荒い呼吸の合間に吐き捨てた。
濡れた額から血が垂れ、短刀を失った指先が微かに痙攣している。それでも視線だけは鋭かった。まだ殺意が死んでいない。
柏は静かに男を見返す。
「生憎と、ただの情報屋ですよ。ただ、少しばかりお節介なだけです」
その声音は驚くほど穏やかだった。男はあからさまに舌打ちする。
次の瞬間だった。
袖口が僅かに揺れる。
暗器。黒い刃が雨を裂き、柏の喉元へ真っ直ぐ飛んだ。しかし柏は避けなかった。
代わりに、男の目を見つめる。
灰色の瞳が静かに細められる。
その瞬間、男の動きが止まった。ほんの一瞬、呼吸すら忘れるほど短い硬直。
けれど柏にとっては、それだけで十分だった。
意識へと触れた。
深く、ゆっくりと。泥の中へ指を沈めるみたいな、不快で生暖かい感覚が脳裏を這う。柏が、情報屋として身を立てる切っ掛けとなった力。
男の瞳孔が小さく揺れた。
「――ぁ……?」
世界が沈むような奇妙な感覚に陥る。
他人の意識へ潜り込む感覚は、いつだって不快だった。他人の脳へ指を差し込むような指先が引き付けを起こす感覚。熱と泥を掻き回すような、生理的嫌悪感。
慣れた不快な感覚に身を委ねると、断片的な記憶が流れ込んできた。
港の光景が脳裏へ流れ込む。
雨に濡れた船着き場。積み上げられた木箱。偽装された積荷の奥へ隠された密輸品。薄暗い倉庫の中、木箱へ刻まれた奉行所の印。そして、その視界の端には、荷運びをしている宗助の姿があった。
断片的な記憶が濁流みたいに流れ込んで来る。
『積み終えた後はどうする。』
低い声。
『あぁ。目撃者は少ない方が良いとのお達しだ。それに、もし他に接触したなら面倒だからな。早めに片付けよう』
別の男が答える。
『最悪、まとめて処理すればいい』
その言葉を聞いた瞬間、柏の瞳から感情の色が静かに消えた。
それは激情ではなかった。頭へ血が昇るような激しさではなく、もっと静かでもっと冷たい、肺の奥へ氷水を流し込まれたかのような感覚だった。
宗助は裏側の人間ではない。
ただ少し人が良くて、余計なことへ首を突っ込んでしまっただけの男だ。何か決定的な場面に居合わせた訳でもなく、ただ関わったからというだけの理由で躊躇なく人を殺してしまえるらしい。
柏は静かに息を吐いた。
その吐息だけが妙に白く見えた気がした。氷が肺へ沈むような感覚。
男は呻きながら膝をつく。
「や、め……ろ……っ」
柏は更に深く意識へ潜り込んだ。
表層を撫でるだけでは足りない。
誰が糸を引いているのか。武器はどこから流れて来るのか。次の受け渡し場所は。関係している商人、役人、宝盗団――その繋がりを、記憶の奥底から一つ残らず引き摺り出していく。
他人の意識を探る感覚は、酷く不快だった。
濁った泥水へ腕を差し込むみたいに生暖かく、触れてはいけない臓腑を素手で掻き回しているような嫌悪感がある。
男の脳が悲鳴を上げた。
視界が定まらなくなり、鼻から血が垂れる。喉の奥から掠れた呻き声が漏れ、身体が痙攣した。
それでも柏は止めない。
灰色の瞳は静かに冷え切ったまま、苦悶する男を無感情に見下ろしていた。
やがて必要な情報を全て引き剥がし終えた時、柏は静かに息を吐いた。
鈍い頭痛が脳裏を軋ませる。
視界の端が薄く滲み、平衡感覚が微かに揺らぐ。他人の意識へ深く潜る度、自分の輪郭が少しずつ摩耗していくような感覚がある。記憶と感情の境界へ無理矢理指を差し込む行為は想像以上に精神を削った。
ほんの僅かでも踏み込み方を誤れば、他人の感情へ呑まれる危険すらある。だから柏は、この力が嫌いだった。
男は床へ崩れ落ち、掠れた呼吸を繰り返していた。
まだ生きている。
肺が潰れかけたみたいな音を鳴らしながら、それでも必死に空気を求めていた。
柏はそんな男を数秒、黙って見下ろしていた。
廃屋の隙間から吹き込む雨風が、濡れた白髪を静かに揺らす。やがて男の唇が震えた。
「……たす、け……」
消え入りそうな声だった。血と唾液が混ざり、言葉はまともな形すら保てていない。
柏は小さく瞬きをする。それから、どこか困ったように微笑んだ。
「貴方、さっき宗助さんを殺そうとしていたでしょう」
男の表情が強張る。喉がひくりと震え、濁った瞳へ恐怖が滲んだ。
柏は静かな声音のまま続ける。
「だから駄目です。そこは、きちんと公平にしておかないと」
雨音へ溶けるような穏やかな声。何処か穏やかで、優しい声音だった。
柏はゆっくりと膝を折る。そして男の額へ、そっと指先を添える。温度を感じさせない、冷たい指だった。
その瞬間、紫光が淡く灯る。
静かな光だった。まるで夜の海へ落ちた月明かりみたいに、淡く、静かに揺れる光。
柏の指から放たれた紫電が、いとも容易く男の命を刈り取った。
骨が軋み、肉の焼ける臭いが狭い廃屋へ広がる。男の身体は大きく痙攣し、喉奥から潰れた悲鳴が漏れた。
しかしそれも、すぐに止む。力を失った身体が床へ沈み込み、そのまま二度と動かなくなった。
後には焦げた臭いと、湿った雨音だけが残される。
柏はしばらく無言のまま死体を見下ろしていた。灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
やがて静かに目を伏せ、小さく息を吐く。
「……本当に」
ぽつりと零れた声は、ひどく疲れていた。
「ろくでもない仕事ですねぇ、これは」
意味深なアンケートにご協力ください
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神里綾華
-
八重神子
-
夢見月瑞希
-
九条裟羅
-
宵宮
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雷電影
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雷電将軍
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珊瑚宮心海
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久岐忍
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綺良々
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早柚