雨は明け方が近付いても止まなかった。
廃屋の裏手にはとうの昔に人の手が入らなくなった空き地が広がっていた。伸び放題の雑草は雨露を吸って重たく垂れ下がり、踏み締める度に湿った土が靴裏へ粘り付いた。
柏は黙々と鍬を振るっていた。
濡れた土が鈍い音を立てる。
雨粒が肩を叩き、袖口は泥で汚れ切っている。白い髪も水気を含んで重たく頬へ張り付き、指先は冷え切って感覚が薄い。それでも柏は無言のまま、一定の調子で鍬を動かし続けた。
死体を放置すれば後々面倒な事になる。
痕跡が残るのは勿論のこと。腐臭が漂い、獣や野犬を呼び寄せる可能性もある。
だから埋める。
ただ、それだけだった。
掘り終えた穴へ男の亡骸を下ろした。泥に濡れた顔は青白く既に生気を失っている。まだ若かった。恐らく二十代半ばにも届いていない。もし生まれる場所か、生きる道筋が少し違っていたなら、もっと別の人生もあったのかもしれない。
だが、そんなことを考え始めればきりがない。
柏は静かに目を伏せ、そのまま淡々と土を被せ始めた。湿った土が亡骸を覆い隠していく。雨粒が墓標も無い地面を静かに叩いていた。
やがて埋め終えると、柏は小さく息を吐く。額へ張り付いた濡れた髪を鬱陶しそうに払い、近くへ落ちていた細い木片を拾い上げた。
簡素な墓標代わりだった。
それを土へ突き立てる。
「……さて」
柏は腰へ手を当てる。
「埋葬までしておきましたから、そこまで酷い扱いではないでしょう?」
返事は当然無い。柏は少し考えるように首を傾げ、それから困ったように笑った。
「花でも供えられれば、それっぽかったんでしょうけど。生憎、この辺り湿気臭い草しか無いんですよね」
雨は静かに降り続いている。柏は墓の前へしゃがみ込み、膝へ頬杖を付いた。
「なので、出来れば化けて来ないでください。夜道で恨み言を聞く趣味は無いので」
穏やかな口調だった。
まるで古い知人へ軽口でも叩いているみたいな声音だった。けれど、その灰色の瞳には微かな疲労が滲んでいる。
人を殺すことには慣れている。
そう自分へ言い聞かせていても、何も感じなくなった訳ではなかった。死体を埋める度、殺した相手の顔を忘れる度、自分の中の何かが少しずつ擦り減っていく感覚がある。
柏はしばらく無言のまま雨を眺めていた。
遠くで波の音が鳴っている。
夜明け前特有の薄暗い空気が、湿った土と血の臭いを曖昧に混ぜ合わせていた。
やがて柏は静かに立ち上がった。
そのまま廃屋へ戻り、軋む床へ腰を下ろす。
濡れた木材の臭いが鼻につく。血と焦げた臭いは、雨のおかげでかなり薄れていた。
柏は懐から紙片を取り出し、男の記憶から引き剥がした情報を一つずつ書き留め始めた。
旧倉庫。
北側航路。
武器の搬入経路。
繋がっている商会の名。
そして――奉行側と思しき人間。
紙へ走らせていた筆先が、不意に止まる。
「……これは、思ったより大事になりますね」
柏は小さく息を吐く。零れた声音は静かだった。その灰色の瞳は僅かに冷えている。
やはり読み通り、ただの密輸ではない。流れているのは刀剣や弓矢だけではなく、火薬の取引記録まで混ざっている。しかも異常な量の。とても個人や宝盗団程度で扱える規模ではない。
柏は紙片へ視線を落としたまま、静かに目を細める。
戦争。
その言葉が脳裏を掠めた。
稲妻は今、一見すれば平穏な国だ。鎖国令は既に解除され、各地の混乱も落ち着きつつある。将軍の威光は未だ絶対であり、表向き大きな争いは存在しない。
だからこそ、平穏な土地で大量の武器が動く時、大抵ろくなことにはならない。
柏は静かに壁へ背を預けた。
鈍い頭痛が、じわじわと内側から広がっていく。深く潜り過ぎた反動だった。
他人の記憶へ触れる度、自分の頭の中へ異物が残る感覚がある。
怒り、恐怖。
欲望。
断末魔みたいな感情の欠片が、泥汚れのように意識へ張り付いて離れない。
柏はゆっくり目を閉じる。
雨音が遠い。
その暗闇の中で、不意に宗助の顔が浮かんだ。
『お前、最近何考えてるか分かんねぇ』
あの呆れた声を思い出し、柏は小さく苦笑する。
「……分からない方が、きっと良いんですよ」
独り言のような声だった。誰へ向けた言葉でもない、むしろ自分自身へ言い聞かせているようですらあった。
柏は壁から身体を起こす。
濡れた着物が僅かに肌へ張り付き、冷えた空気が袖口から入り込んだ。
綾人へ報告する必要がある。
だが、その前に確かめなければならないことがあった。
男の記憶の中で何度も繰り返し浮かんでいた場所、鳴神島北部――小さな洞窟。
柏の灰色の瞳が静かに細められる。
「……本丸は、そこですか」
ぽつりと零れた声音は、雨音の中へ静かに溶けた。
彼らが根城としていた洞窟は、鳴神島北部の崖下へ黒々と口を開けていた。
長い年月を掛け、荒波に削られ続けた天然の洞窟群。満潮時には通路の半分近くが海へ沈み、潮の流れも複雑極まりない。剥き出しの岩礁は船底を容易く裂き、夜になれば反響する波音が辺り一帯を満たすせいで、人の声と風の唸り声の区別すら曖昧になる。
漁師たちですら好んで近寄りたがらない場所だった。だからこそ隠し事には都合が良かったのかもしれない。
柏は崖上の木陰から、静かに海を見下ろしていた。
夜明け前の空はまだ暗い。
藍色へ沈みかけた空と海の境界は曖昧で、遠くの雷雲だけが鈍く紫光を滲ませている。湿った潮風が頬を撫で、白い髪を静かに揺らした。
柏は細く目を細める。
――居る。
洞窟付近に灯りが見えた。
一つや二つではない。岩陰や洞窟の入口付近、波止場代わりに削られた岩場。その各所へ小さな火が点在している。
「……随分と景気が良いことで」
柏は小さく呟いた。
男の記憶は正しかった。あそこが拠点で間違いないだろう。
しかし問題はその規模だった。
想像していたより遥かに人数が多い。
見張りだけでも十は下らない。ここからでは見えないが、洞窟内部には更に人の気配がある。運搬役や荷の管理役まで含めれば、相当な数になるだろう。
見張りの配置、灯りの位置。
船の停泊数。
人の動線。
灰色の瞳は冷静に状況を切り分けていた一方で、頭の奥では別の思考が渦巻いている。柏は小さく息を吐く。
「……本当に、面倒ですね」
その時だった。
洞窟側から笑い声が響いた。酒盛りでもしているのか、男たちの気配が緩んでいる。
柏は視線を向ける。
運び込まれている木箱。
火薬の密閉されているであろう木箱。
刀や薙刀といった武器、銃。
そして――
「……あれは」
柏の灰色の瞳が、静かに細められる。
運び込まれていた木箱の一つ。その側面へ刻まれた紋章に見覚えがあった。
神里家を陥れようとしていた例の商会。以前、綾人から渡された資料の中で何度も目にした印だった。
やはり繋がっている。柏は無言のまま視線を滑らせる。
だが、問題はそこでは終わらなかった。
洞窟の奥。薄暗い岩陰から、一人の男が姿を現した瞬間だった。
柏の呼吸が、ほんの僅かに止まる。
見覚えがあった。以前、綾人へ提出された内部資料の中で見た顔。
勘定奉行側の役人。
しかも末端ではない。資金管理にも関わる、それなりに名の通った人間だった。
男は周囲へ短く指示を飛ばしながら、慣れた様子で荷の確認をしている。
「……冗談でしょう」
これはもう、単なる密輸では済まされない。下手をすれば、奉行所そのものを巻き込む火種になりかねなかった。
柏は静かに意識を研ぎ澄ませた。
直接視線を合わせる必要は無い。距離こそあるが、相手が完全に油断している今なら、表層の思考程度は拾える筈だ。
腰元へ提げた神の目が淡く紫光を瞬かせる。耳奥へ響いていた波音がゆっくり遠のいていった。
意識が深く沈んでいく。
海底へ身体ごと引き摺り込まれるみたいな感覚だった。やがて、男の思考の断片が濁流のように脳裏へ流れ込んでくる。
『次の搬入は三日後だ』
『火薬は奥へ運べ』
『目撃者を残すな』
『失敗は許されない』
断片的な声が次々に浮かび上がる。その合間へ、妙に取り留めの無い思考まで混ざっていた。
『潮の臭いが不快だ』
『帰ったら酒を飲むか』
『雨ばかりで服が湿る』
『神里家へ罪を被せる準備も――』
そこで柏の眉が、ほんの僅かに動いた。
なるほど、と内心で呟く。つまり連中は、最初から社奉行を潰すつもりで動いていた。
単なる横流しでも、裏金作りでもない。神里家そのものを失脚させ、その混乱へ乗じて別の勢力が利益を掠め取ろうとしていたのだ。
柏はゆっくりと目を開いた。
途端、鈍い頭痛が脳裏を走る。視界の端が微かに滲み、喉奥へ鉄臭い感覚が込み上げた。
深追いは危険だ。これ以上潜れば、流石に気付かれる可能性もある。
柏は静かに崖陰へ身を引き、湿った岩肌へ背を預けながらゆっくり呼吸を整えた。
潮風が肺へ刺さるように冷たい。遠くでは相変わらず波が岩礁を砕く音を響かせている。
「……さて」
柏は小さく笑った。困ったような、呆れたような笑みだった。
「綾人様、これは流石に“少々厄介”では済みませんよ」
報告を優先するべきか。それとも今この場で、更に内部へ潜り込み、決定的な証拠まで掴むべきか。
柏は崖陰へ身を潜めたまま、数秒だけ思考を巡らせた。
本来、情報屋の仕事は戦うことではない。必要な情報を拾い上げ、持ち帰り、しかるべき相手へ渡す。それが役目だ。
危険へ踏み込み過ぎれば死ぬ。だからこそ、深入りし過ぎない冷静さが必要になる。柏も、それは理解していた。だから一度戻ろうと腰を上げた時だった。
洞窟の奥から運び出された“それ”を見た瞬間、彼女の思考は不意に止まる。
人だった。
縄で両手を縛られた人間。口元には布が巻かれ、まともに歩く力すら残っていないのか、半ば荷物みたいに地面に引き摺られている。
男たちは乱暴だった。足が縺れようが、岩肌へ身体を打ち付けようが気にも留めない。ただ積荷でも運ぶみたいな雑さで人間を扱っている。
柏の灰色の瞳が静かに細められた。
「……あぁ」
小さな吐息が零れる。その声音から、先程まで残っていた柔らかな色が完全に消えていた。
「そういうことをしますか」
柏は崖上の岩陰へ身を伏せたまま、微動だにせず洞窟の奥を見下ろしていた。
縄で拘束された人間は三人。
男が二人と、女が一人。
両手を後ろで縛られている。口元には布を噛まされており、衣服は泥と血で汚れている。女の肩口には裂傷が見え、男の片方は片目を酷く腫らしていた。
運んでいる連中は、人間を扱っているという意識すら薄い。荷物でも積み替えるみたいな手付きだった。
柏は静かに目を細める。
人身売買。
あるいは、口封じのための処理だろうか。
どちらにせよ、碌でもない。胸の奥が、ゆっくり冷えていく感覚があった。
怒り――と呼ぶには些か静かで、決して激情と呼べるものでもない。頭へ血が昇るような熱ではなく、もっと深く、もっと冷たい何か。スイッチが切り替わる様な、不思議な感覚が静かに肺の奥へ沈んでいった。
洞窟の入口付近では、役人らしき男が苛立った様子で怒声を飛ばしていた。
「急げ。夜明け前には船を出すぞ」
「ですが、こいつら暴れて――」
「だったら腕でも折ってやればいい」
吐き捨てるような声音だった。その言葉に、周囲の男たちが下卑た笑いを漏らす。
縛られた人間たちは怯えたように肩を震わせ、女が小さく呻き声を漏らした。
柏は無言のまま、その光景を見下ろしていた。
彼女は冷静に自覚していた。今、自分は少し感情的になっている。
情報屋としては失格に近い。
冷静さを欠けば判断を誤る。感情で動けば死ぬ。
それが裏側の鉄則だ。
だから本来なら、一度ここを離れ、依頼人である綾人へ報告し、人員を動かすべきだった。それが正しい合理的判断というものだ。
頭では理解している。
しかし、今ここで見逃せばあの人間たちはどうなる。
海へ沈められるのか、どこかへ売られるのか。あるいは、もっと目を背けたくなるような結末が待っているかもしれない。
どちらにせよ、碌でもない未来しか見えなかった。
柏は静かに目を伏せる。
胸の奥で、鈍く何かが軋む。
ああ、と内心で小さく思った。
自分は結局、こういうところが甘いのだろう。
見捨てた方が合理的だと理解しても尚、目の前へ突き付けられるとどうにも割り切れない。裏社会の人間としては半端も良いところだった。
「……本当に、嫌になりますね」
ぽつりと零れた声は、波音へ紛れて消えた。
崖上から、柏の姿が音もなく消える。白い影が夜気へ溶けるように落下する。濡れた岩肌を蹴り、紫電が一瞬だけパチンッと暗闇を裂いた。
着地と同時に、見張りの男が異変へ気付いた。
「誰――」
最後まで言葉は続かなかった。
柏の掌から放たれた紫光が閃き、男の身体を横薙ぎに吹き飛ばした。そのまま岩壁へ叩き付けられる。鈍い衝突音が洞窟へ反響し、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。
「敵襲だ!」
「いったいどこから来た!?」
怒号が飛び交う。
洞窟内の灯りが激しく揺れ、男たちが慌ただしく武器を抜き放った。
だが柏は答えない。濡れた岩場を低く滑り込み、そのまま次の男の懐へ潜り込む。
短刀が振り下ろされるより、柏の掌が男の顎を鋭く打ち抜く方が早かった。次いで遅れて破裂音の様な紫電が火花を散らす。
骨が軋む音と共に男の意識が一瞬揺らいだ、その瞬間だった。
腰元の神の目が淡く紫光を漏らす。柏の灰色の瞳が静かに細められ、僅かに生まれた隙から縫う様に意識へと触れる。
ほんの刹那。人間の奥底へ沈んでいる“恐怖”だけを、指先で掻き回すかの様に引き摺り上げる。
男の瞳孔が大きく開いた。
「――ぁ、ぁ……ッ!」
悲鳴を上げながら男が後退る。
呼吸を乱し、何かに怯えるように視線を泳がせ、そのまま仲間を巻き込むように転倒した。木箱が崩れ、怒号と混乱が一気に広がっていく。
柏はその隙を逃さず、即座に拘束されていた三人の元へ駆け寄った。
「落ち着いてください」
穏やかな声音で言って聞かせる。女が怯えたように肩を震わせる。突然現れた白髪の人影へ、恐怖と困惑の入り混じった目を向けていた。
柏は小太刀を抜き、縄を手早く切り落としていく。湿った縄が地面へ崩れ落ちた。
「安心を――とまでは言いませんが」
柏は柔らかく笑った。
その灰色の瞳だけは、妙に穏やかだった。
「少なくとも、今すぐ海へ沈められる予定は無くなりました」
背後で怒声が飛ぶ。
「捕まえろ!」
「逃がすな!」
怒鳴り声と足音が一斉に洞窟へ反響する。柏は小さく溜息を吐き、切り落とした縄を足元へ放った。
「崖上へ道があります。走れますか?」
拘束されていた男の一人が、掠れた声を漏らす。
「お、お前は……」
「質問は後でお願いします。私もそれなりに忙しいので」
柔らかな声音だった。
まるで市場で世間話でもしているかのような気安さだったが、その灰色の瞳だけは酷く冷えている。男はまだ動けずに居る女に肩を貸し、自らの足を半ば引き摺りながら走っていた。
それを見届けながら立ち上がった、その瞬間だった。
洞窟の奥側から、鋭い破裂音が響いた。
銃声。
柏は反射的に身体を捻った。
頬先を灼けるような熱が掠め、直後、背後の岩肌が砕け散る。乾いた破片が飛び散り、火薬の臭いが鼻腔を刺した。
柏の灰色の瞳が静かに細められる。
「……へぇ」
低く漏れた声には、僅かな驚きが混ざっていた。
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