神の目を授かってから女難が止まらない。   作:ヘルタ様万歳

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波間へ消える前に【弍】

 

 

洞窟の奥。

 

勘定奉行の役人と思しき男が、こちらへ短銃を向けていた。硝煙が細く立ち昇り、その顔には隠し切れない殺意が浮かんでいた。

 

刀だけなら、まだ対処出来る。

だが火器が混ざれば話は別だ。

 

ましてここは狭い洞窟内部。逃げ場は限られ、銃声は反響し、火薬の臭いが充満している。一歩踏み誤れば、その瞬間に身体へ幾つもの風穴が空くだろう。

 

役人の男が再び引き金を引く。乾いた破裂音が合図になり、柏は反射的に横へ跳んだ。

 

弾丸が頬横を掠め、直後、背後の岩肌が砕け散る。鋭い破片と火花が雨みたいに飛び散り、硝煙の臭いが一気に濃くなった。

 

周囲の男たちも一斉に武器を構え始める。

 

抜き放たれる刀、弓弦の軋む音。

火縄へ火を移す微かな音。

 

誰が前へ出るか、誰が逃げ道を塞ぐか。寄せ集めとはいえ最低限の連携は出来ている様だった。

 

柏は岩陰へ身を潜めたまま、静かに状況を整理した。

 

正面突破はおそらく不可能。

 

長引けば確実に包囲される。洞窟という狭い地形そのものがこちらにとって不利なのだ。

 

 

 

ならば、と。柏は小さく息を吐いた。

 

「……少し、強引にいきますか」

 

次の瞬間、柏はゆっくり目を閉じた。

 

意識を、無理矢理押し広げる。

 

普段なら、決して踏み込まない領域だった。

 

たった一人の意識へ潜るだけでも人の精神は確実に削られてしまう。他人の感情や記憶へ触れる度、自分の内側へ異物が沈殿していくような不快感が残るのだ。

 

それを複数同時に行えばどうなるか。下手をすれば、自我の境界すら曖昧になる可能性がある。

 

誰の恐怖で、誰の怒りなのか。どこまでが自分で、どこからが他人なのか。その線引きさえ、いずれ溶けて消える。

 

だから柏は、普段この力を極力使わない。必要最低限で止める。そうしなければ、いつか自分自身が壊れると理解しているからだ。

 

けれど今は、そんなことを言っていられる状況ではなかった。

 

腰元の神の瞳が鈍く明滅する。紫光が呼吸みたいに脈打つ度、洞窟内へ満ちていた湿った空気が僅かに軋んだ。

 

 

 

 

触れる。

 

男たちの表層意識へ同時に指先を差し込み、絡み合った感情の束を無理矢理に引き摺り上げる。

 

恐怖。

 

猜疑。

 

焦燥。

 

胸の奥底へ押し込められていた負の感情へ静かに触れ、その輪郭をなぞるように撫でていく。

 

そして、掻き回す。

 

ぐるりと。

 

濁った泥水を掻き混ぜるように、意識の底へ沈殿していた不安と怯えを無理矢理浮かび上がらせる。

 

自分の隣に居る相手が、本当に味方なのか。

 

背後へ立つ人間が、次の瞬間に刃を向けて来ない保証がどこにあるのか。

 

そんな疑念を、ほんの少しだけ増幅させる。

 

それだけで十分だった。

 

 

統率されていた男たちの動きが、目に見えて乱れ始める。

 

互いの動きへ過敏に反応し始め、僅かな接触すら敵意へ変わっていく。ほんの僅か前まで保たれていた統率が、内側から音を立てて崩れていく。

 

柏はその隙を逃さない。

 

岩陰から飛び出し、一気に距離を詰める。白い髪が夜の闇を裂き、稲光と紫電が洞窟内を走った。轟音と共に灯りが弾け、周囲が暗闇へ沈む。

 

同士討ちによる恐怖と混乱。

 

暗闇へ沈んだ洞窟の中で、波音だけが静かに響いていた。

 

火の消えた松明から煙が立ち昇り、焦げた臭いと潮の匂いが入り混じる。男たちは完全に混乱していた。視界を奪われた上に、柏が流し込んだ微細な暗示が疑心を膨らませていたからだ。

 

「どこだ!?」

 

「後ろに居る!」

 

「違う、そいつだ!」

 

怒声と共に刃が振られる。

 

柏は洞窟内の岩陰を静かに移動しながら、その様子を冷静に見ていた。

 

彼女の能力は万能ではない。人を完全に操ることなど出来ない。けれど、元から存在している感情へ触れ、少しだけ傾けることは出来る。

 

 

「……っ、いった……」

 

鈍い痛みが脳裏を走った。無理に力を広げた反動だろう。視界の端が微かに揺らぎ、耳鳴りが波みたいに広がっていく。

 

その隙を縫うように背後で気配が動いた。

 

柏は反射的に身体を捻る。振り向きざま、暗闇から鋭い刃が顔を出した。

 

甲高い金属音。

 

暗闇の中から斬り掛かってきた男の刃を、紙一重で弾き返した。火花が散り、湿った岩肌へ短い光が走る。

 

男が苛立ったように舌打ちした。

 

「見えてるのか!」

 

怒声には隠し切れない殺気が滲んでいる。

 

柏はそんな視線を真正面から受け止めながら、小さく肩を竦めた。

 

「いいえ、ただの勘です」

 

柔らかな笑みだった。

 

まるで軽口でも返しているかのような気安さだったが、その灰色の瞳だけは驚くほど冷え切っている。

 

小太刀を握る掌から紫電が散った。

 

青白い雷光が湿った洞窟の闇を鋭く裂き、刹那、男の顔を不気味な色で照らし出す。

 

その瞬間だった。男は何かを察したように、僅かに半歩退いた。

 

柏の灰色の瞳が細められる。

勘が良い。

 

先程まで斬り掛かって来ていた雑兵とは明らかに違った。重心移動に無駄が無く、剣筋にも迷いが無い。相手を斬るための間合いを身体へ叩き込まれている様な動きだった。

 

恐らく、この場の護衛役だろう。

 

柏は静かに呼吸を落とす。

 

一拍置いて、男が床を蹴った。

 

深い踏み込み。刃が一直線に鼻先を掠める。柏は半歩だけ身体を引き、そのまま流れるように次撃へ視線を移した。

 

続けざまの横薙ぎ、低い風切り音。

柏は咄嗟に身体を沈める。

 

刃が頭上を裂き、濡れた白髪を数本断ち切った。

 

だが男は止まらない。

 

「死ねッ!」

 

殺意の籠った怒声と同時に、鋭い刺突が放たれる。

 

躊躇の無い一撃だった。狙いは正確で、避け切れないと判断した瞬間、柏は咄嗟に身体を捻った。

 

刃が脇腹を浅く裂き、熱を帯びた痛みが遅れて走り、黒い着物へ血が滲んだ。それでも何とか急所だけは外している。柏は眉ひとつ動かさないまま、静かに男の目を見た。

 

 

一瞬。

 

本当に、ほんの一瞬だけだった。

 

神の目が淡く紫光を漏らす。その瞬間、柏は男の意識へ“死”の恐怖を流し込んだ。

 

刃が自分の喉を裂く幻覚。

 

腹を抉られる感覚。鼻腔へ広がる生臭い血の臭い。断末魔のような恐怖を、無理矢理脳裏へ叩き付ける。

 

男の瞳孔が大きく見開かれた。

 

「っ、ぁ……!」

 

呼吸が乱れる。身体が強張る。ほんの刹那。だが、生死を分けるには十分過ぎる隙だった。

 

柏はその懐へ一気に潜り込む。湿った空気を裂きながら、肘が鋭く鳩尾へめり込んだ。鈍い衝撃音。男が苦悶の呻きを漏らし、膝を折る。

 

その瞬間を逃さず、柏は静かに短刀の柄を振り下ろした。

 

 

鈍い音が辺りに響き、意識を刈り取られた男はその場に崩れ落ちた。

 

柏は短く息を吐き、視線を周囲へ向けた。

 

大した時間も掛からず、洞窟の奥で役人の男を見つけた。

 

火薬の臭いと硝煙が湿った空気の中へ濃く滲んでいる。男は短銃を構え直していた。

 

柏は小さく眉を寄せる。脇腹からは未だ血が滴っていた。傷自体は浅いが、動く度に鈍い痛みが走り、上手く力が入りづらい。

 

「……しつこいですね」

 

呟いた直後だった。

 

銃声。

 

乾いた破裂音が洞窟内を激しく震わせる。弾丸が岩肌を砕き、破片が鋭く飛び散った。柏は反射的に横へ跳ぶ。

 

濡れた地面を滑るように着地し、そのまま一気に洞窟奥へ駆けた。

 

男が続けざまに引き金を引く。

 

轟音。

硝煙。

 

狭い洞窟内で反響した銃声が耳奥を殴り付ける。それでも柏は止まらない。濡れた岩肌を蹴り、跳ぶ。弾道を紙一重で掠めながら、一気に男の懐へと潜り込んだ。

 

「な――」

 

最後まで言葉は続かなかった。

 

柏は一気に男の懐へ踏み込み、そのまま短銃を握る手首を強引に掴み上げる。

 

瞬間、紫電が爆ぜた。

 

青白い雷光が至近距離で炸裂し、湿った洞窟の闇を鋭利な刃のように切り裂いた。

 

肉の焼ける臭いが鼻を刺し、男が絶叫を上げながら短銃を取り落とす。

 

指先は痙攣し、皮膚は焼け爛れていた。

 

柏はその隙を一切逃さない。濡れた着物の袖を翻しながら男の胸倉を掴み、そのまま容赦なく岩壁へと叩きつけた。

 

天井から細かな砂や水滴がぱらぱらと降り落ち、波音が不気味に反響した。男は苦痛に顔を歪めながら、それでも憎悪の滲む目で柏を睨み上げる。

 

「……貴様……ッ」

 

「すみませんね……こちらも、仕事なので」

 

血の滴る脇腹を庇いながら、柏は穏やかに微笑む。震える指で短刀を抜こうとする男に、柏は小さく溜息を吐いた。

 

「やめた方が良いですよ」

 

「……ふざ、けるな……!」

 

「……真面目に忠告してるんですけどね」

 

柏は男の様子を見下ろし、小さく息を吐いた。

 

焼け焦げた手を押さえながら、それでもなお憎悪を隠そうともしない視線を向けてくる辺り、随分と根性だけはあるようだ。

 

「元気でなによりです……はぁ」

 

どこか呆れたような声音だった。

 

柏は静かに膝を折り、男と視線を合わせる。澱んだ灰色の瞳が薄暗い洞窟の中で静かに細められた。

 

 

さぁ、最後の一仕事をしようか。

 

そう思い、痛む頭を無理やりに酷使する。柏は男と視線を合わせたまま、静かに意識を潜らせた。

 

触れた瞬間、濁った感情の奔流が脳裏へ流れ込んできた。

 

保身。

欲望。

責任転嫁。

 

自分だけは助かるべきだと疑わない、醜く歪んだ妄執。失敗した部下への苛立ち。消耗品の様に扱われる人間たちへの無関心と残虐性。神里家を潰した後、自分がどれだけ甘い汁を吸えるかという浅ましい皮算用。

 

断片的な思考が、腐った泥水のように意識へと流れ込んでくる。

 

柏は思わず口元を押さえた。

 

「……う゛っ、」

 

小さく漏れた声には、隠し切れない嫌悪が滲んでいた。

 

醜い。

 

ここまで来ると、もはや滑稽ですらある。

 

柏はゆっくり目を開いた。洞窟内には波音だけが残っている。男は荒い息を吐きながら、床へ崩れ落ちていた。

 

柏はしばらく彼を見下ろしていたが、やがて静かに口を開く。

 

「……貴方達、本当に趣味が悪いですね」

 

男は焼けた喉から掠れた声を絞り出した。

 

「た、すけ……」

 

その声を聞いた柏は、小さく眉を下げる。

 

「それを私へ言いますか」

 

穏やかな声音だった。場違いなほど柔らかく、世間話でも交わしているかのような落ち着いた口調だった。

 

柏はフラフラとした足取りで静かに膝を折る。そして男の額へ、そっと指先を当てた。

 

「安心してください」

 

灰色の瞳が静かに細められる。

 

「少なくとも、海へ捨てたりはしませんから」

 

次の瞬間、紫光が洞窟の闇を染め上げた。男の身体が大きく跳ねる。骨が軋み、焼けた臭いが湿った空気へ広がった。

 

痙攣していた指先から、ゆっくり力が抜けていく。やがて男は、完全に意識を刈り取られてしまった。

 

後には波音だけが残る。柏は静かに目を閉じた。

 

ほんの数秒だけ。短く息を吐き、それから何事も無かったかのように立ち上がる。

 

黒い着物の裾から血が静かに滴っていた。外では、夜明け前の海が低く唸っている。

 

荒れた波が岩肌を叩く音だけが、遠く静かに響いていた。

 

 

 

夜明け前の海は、鉛を溶かして流し込んだように重く濁っていた。

 

洞窟の外では荒れた波が絶え間なく岩肌を叩き、湿った潮風が血と火薬の臭いを少しずつ攫っていく。薄暗い洞窟の奥で、柏は濡れた岩壁へ静かに背を預けていた。

 

瞼を閉じる。

 

頭が重い。

 

鈍い痛みが脳の芯へじわじわと染み込み、思考の輪郭を曖昧にしていく。

 

深く潜り過ぎた反動だった。他人の意識へ入り込み、情報を引き剥がすという行為は、結局のところ脳を半ば無理矢理同期させるのと変わらない。

 

恐怖。

 

欲望。

 

焦燥。

 

嫉妬。

 

醜悪な本音。

 

そういった感情の澱が、拒絶する暇すら無く流れ込んでくる。

 

慣れてはいる。既に何度も繰り返してきた。それでも時折、自分の頭の中へ濁った泥水が少しずつ溜まり続けていくような錯覚に襲われる。

 

境界が曖昧になるのだ。これは自分の感情なのか。それとも、他人から流れ込んだ残滓なのか。

 

考え始めると、時々分からなくなる。

 

 

柏は小さく息を吐き、重たい頭を振るようにしてゆっくり立ち上がった。

 

洞窟の中には、拘束された男たちが無惨に転がっている。

 

気絶したまま動かない者。恐怖で顔色を失い、震えることしか出来なくなっている者。簡易的な暗示を掛けられ、虚ろな目で岩肌を見つめ続けている者。

 

人数は既に十を超えていた。湿った空気の中へ、血と汗と硝煙の臭いが濃く淀んでいる。

 

柏は小さく眉を寄せる。

 

「……流石にこれは、一人で運ぶ量じゃありませんね」

 

柏は静かに懐へ手を差し入れ、小さく折り畳まれた紙片を取り出した。

 

己の血に濡れた指先で筆を走らせる。

 

必要最低限の符牒だけを刻み込み、余計な情報は省略する。第三者が見れば意味不明な羅列でしかないが、綾人なら読むだけで状況を把握出来るだろう。

 

書き終えると、柏は細く息を吐いた。

 

それから再び懐へ手を入れ、小さな銀笛を取り出す。

 

短く吹く。澄んだ音色が湿った洞窟を抜け、夜明け前の海へ溶けていった。

 

数秒後。

 

暗闇の向こうから、黒い鴉が音もなく飛来する。艶やかな黒羽は潮風を受けて鈍く揺れ、その赤い瞳だけが微かに光を反射していた。

 

柏は慣れた手付きで鴉の足へ文を括り付ける。

 

「……神里屋敷、綾人様の元へ」

 

静かな命令だった。

 

鴉は短く羽音を鳴らすと、そのまま夜明け前の空へ飛び立っていった。

 

柏はそれをしばらく無言で見送る。やがて小さく息を吐き、疲れたように壁へ頭を預けた。

 

 

 

 

 

 

しばらくして、洞窟の外から複数の足音が響き始めた。

 

濡れた岩肌を踏み締める音、鎧の擦れる気配。

提灯の揺れる微かな音。

 

柏は壁へ背を預けたまま、小さく息を吐く。

 

「……流石、早いですね」

 

疲労の滲む声だった。

 

やがて洞窟入口へ灯りが差し込む。

 

暗闇を押し退けるように橙色の光が広がり、先頭へ立っていた社奉行と思しき武装した兵士たちが、洞窟内の光景を見た瞬間に言葉を失った。

 

「……これは、いったい」

 

困惑と緊張が入り混じった声音だった。

 

その後ろから、聞き慣れた穏やかな声が響く。

 

「すみません、遅くなりました」

 

柏はその声を聞いた瞬間、僅かに肩の力を抜いた。

 

神里綾人だった。

 

淡い灯りを背に、静かな足取りで洞窟内へ踏み入って来る。濡れた地面へ転がる男たちを一瞥し、拘束された役人たちへと視線を流し、それから壁際へ寄り掛かる柏を見た。

 

黒い着物は血と泥で汚れている。袖口は裂け、脇腹から滲んだ血が未だ乾いていない。灰色の瞳にも、隠し切れない疲労が薄く滲んでいた。

 

綾人は静かに目を細める。

 

「……これはまた、随分派手にやりましたね」

 

呆れたようでいて、どこか感心したような声音だった。柏は困ったように笑う。

 

「……はは。途中までは穏便に済ませる予定だったんですがね」

 

軽口めいた返答だった。しかしその声には疲労が混ざっている。

 

周囲の社奉行の兵士たちは、洞窟内の惨状を前に言葉を失っていた。

 

倒れ伏した武装集団。

拘束された勘定奉行の役人。

散乱する火薬と武器。

 

柏はそんな視線を横目に、小さく肩を竦める。

 

「流石に一人で運ぶのは無理だと判断したので、お呼びしました。……ご迷惑でしたか?」

 

綾人はすぐには答えなかった。

数秒ほど、静かな視線で柏を見つめている。

 

その視線は洞窟内の状況よりも、むしろ彼女自身の状態を案じているかのようだった。

 

やがて綾人は柔らかく微笑む。

 

「いいえ」

 

穏やかな声音だった。

 

「むしろ、期待以上ですよ」

 

柏はその言葉を聞き、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

何故なのか、自分でもよく分からない。

 

けれど綾人にそう言われると、胸の奥へ張り付いていた重苦しい何かが、少しだけ軽くなった気がした。




信じられないかもしれませんが、百合ハーレムを書きたくて筆を取りました。信じてください、本当なんです。

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