神の目を授かってから女難が止まらない。   作:ヘルタ様万歳

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白鷺の君

 

 

目を覚まして最初に視界へ映り込んだのは、見慣れない白木の天井だった。

 

細い梁には塵ひとつ見当たらず、障子越しに差し込む夕暮れの光が淡い金色となって静かな部屋を染め上げている。鼻先を掠めるのは乾いた畳の香りと薬草特有の青臭さ。それから仄かな白檀の匂いが鼻に付いた。

 

恐らくここは神里屋敷の一室だろうか。周囲を観察する限り、怪我人や病人を休ませるための離れのようだった。

 

柏はしばらく瞬きもせず天井を見つめ、それから深く息を吐く。そこで身体を起こそうとした瞬間、脇腹へ焼け付くような激痛が走った。

 

「っ……!」

 

思わず息が漏れる。

 

見れば、左肩から脇腹に掛けて包帯が幾重にも巻かれていた。かなり深く斬られていたらしい。加えて頭も重い。脳の芯へ鈍い鉛でも流し込まれたかの様に意識がぼやける。血を流し過ぎた弊害だろうか、身体の芯が妙に冷えていた。

 

「……」

 

仕方なく身体を横たえたまま、ゆっくり視線を巡らせる。

 

枕元には薬湯。綺麗に畳まれた包帯や替えの着物、机の上には傷薬まで幾つか並べられていた。

 

柏は小さく眉を寄せる。

 

こんな場所へ長居したくなかった。磨き抜かれた廊下も、静かな庭園も、行き届いた気遣いも。全部が柏には過ぎたものに思えたから。

 

何より人に世話をされるのが苦手だった。依頼人とはいえ、これ以上自分のために人手も時間も割かせたくない。借りを作るのも御免だった。

 

柏は痛む身体を無視して無理やりに布団から身を起こす。途端に視界がぐらりと大きく揺れた。

 

「……ぅわ、これは」

 

思った以上に酷い。

 

床へ片手をつきながら呼吸を整える。傷口が熱を持って脈打ち、じわりと血が滲む感覚があった。

 

それでも何とか立ち上がり障子を静かに開けると、辺りは既に夕暮れ時だった。茜色へ染まり始めた空が庭園の池へと映り込み水面がゆらゆらと揺れている。遠くからは使用人たちの話し声と、夕餉の支度でもする様な音が微かに聞こえてきた。

 

柏は無意識に足音を殺しながら静かに廊下へ出る。

 

長年染み付いた癖だった。

 

壁際を滑るように進みながら、乱れそうになる呼吸を無理矢理押し込める。途中、使用人たちの声が近付いてきて、柏は咄嗟に柱の陰へ身を隠した。

 

「柏様のお加減は……」

 

「まだお休みです。綾人様からも絶対安静にと――」

 

柏は遠い目をした。

 

半ばうんざりしながら廊下を抜け、中庭を横切り、塀際へ辿り着く。高い塀を見上げ、柏は小さく顔を顰めた。普段なら造作も無い高さだが、今は少し難儀しそうだ。

 

けれどここを離れたかった。

 

ここには見張る人間や世話を焼く人間が居る。それが、どうしようもなく落ち着かなかった。

 

近くの木へ手を掛ける。

 

「……余計なお世話だ」

 

ぶつぶつ文句を零しながら、どうにか枝へ身体を引き上げる。夕暮れの風が白髪を揺らし、包帯の隙間から滲んだ血がじわりと着物を汚した。

 

幸い、誰にも見つからなかった。柏はそのまま塀を越え静かに屋敷の外へ降り立ち、着地の衝撃で脇腹へ激痛が走った。

 

「っ……!」

 

流石に顔が歪む。

 

だが、それでも柏は小さく息を吐いた。

 

夕暮れの町は人通りが多い。買い物帰りの人々が行き交い、露店からは焼き魚や甘味の香りが漂ってくる。その雑踏へ紛れ込めば白髪の少女一人など誰も気に留めない。柏は人波の中を静かに歩いた。足取りは覚束ない。時折視界が揺れるのを無視しながら、無理やりに帰路へ着く。

 

やがて辿り着いたのは花見坂から少し離れた古びた長屋の一角だった。壁は潮風で色褪せ、軒先には小さな風鈴が吊るされている。柏は懐から鍵を取り出し、静かに戸を開けた。

 

狭く、暗く。灯りなどなくて、人の気配すらない。柏は靴を脱ぎ、そのまま力尽きるように敷かれたままの布団へ倒れ込んだ。

 

身体中が痛い。呼吸をするだけで傷が軋む。それでも不思議と安心した。

 

柏は薄暗い天井を見上げながら、小さく息を吐く。

 

「……ただいま」

 

誰へ向けた訳でもない独り言は、静まり返った部屋の中へ静かに溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

稲妻城下は、久々によく晴れていた。

 

数日前まで空を覆っていた重たい雨雲は嘘みたいに流れ去り、澄み切った青空の下では色鮮やかな幟が風へ揺れている。花見坂には人の流れが絶えず、露店から漂う甘辛い醤油の香りや焼き魚の匂いが、賑やかな呼び声と混ざり合いながら通りを満たしていた。

 

そんな喧騒を少し離れた橋の欄干へ寄り掛かり、柏は団子を片手にぼんやり空を眺めている。

 

白い髪は陽光を受けて淡く透け、風に揺れる度、絹糸みたいに細い光を零した。黒い着物に灰色の袴という相変わらず地味な格好だったが、その整った顔立ちは嫌でも人目を引く。

 

もっとも本人は、そんなことを一切気にしていないが。

 

「……平和ですね」

 

ぽつりと呟く。

 

大きな依頼が片付いた直後だった。

 

密輸組織の摘発、奉行所内部の粛清。

関係者の拘束。

 

社奉行が裏で迅速に処理したおかげで、世間へ流れたのは『悪徳商会の摘発』程度の噂だけだ。

 

だから街は今日も平和だった。人々は笑い、子供たちは通りを駆け回り、商人たちは声を張り上げる。

 

誰も、ほんの数日前まで一歩間違えば人が死んでいたことなど知らない。

 

柏は団子を一口齧った。

 

甘い。

 

「……悪くないですね」

 

「そうだろ?」

 

隣から声が飛ぶ。

 

宗助だった。

 

茶屋の縁台へ腰掛け、湯呑みを片手に呆れたような顔でこちらを見ている。

 

「お前、前は団子なんか高ぇって言って食わなかったのにな」

 

「今でもそう思っていますよ。三串でこの値段は暴利です」

 

「言いながら二本目食ってる奴が何言ってんだか……」

 

柏は肩を竦める。

 

今日は珍しく、本当に暇だった。

 

綾人からの呼び出しも無ければ、差し迫った依頼も無い。稲妻は拍子抜けするほど平和で、だから柏は先日の礼も兼ねて宗助へ茶を奢っていた。

 

「しかし宗助さん、随分偉くなりましたよね」

 

「何がだよ」

 

「昔は荷運びの途中で木箱ひっくり返して、港の親父さんに追い回されてたじゃないですか」

 

宗助の顔が引き攣る。

 

「……お前、まだ覚えてやがったのか」

 

「ええ。今にも泣きそうな顔してました」

 

「してねぇよ!」

 

柏はくすくす笑う。

 

その笑い方は年相応で、柔らかく、どこか悪戯っぽかった。宗助はそんな柏を見ながら、少しだけ目を細める。

 

「お前も変わったよな」

 

「そうですか?」

 

「昔はもっと小さかった」

 

「身長の話なら殴りますよ」

 

「そういう意味じゃねぇよ……」

 

宗助は頭を掻きながら言葉を探す。

 

「なんつーか、今のお前、妙に落ち着き過ぎてんだよ。一七のガキの顔じゃねぇ」

 

「あと一年と経たず成人ですよ」

 

柏は団子を咥えたまま空を見上げた。

澄み渡った青空だった。

 

数日前、血と硝煙の臭いが染み付いていた海と同じ国とは思えないほど穏やかだ。

 

「それに苦労すると老けるんです」

 

「お前の場合、方向性がおかしいんだよ」

 

「失礼ですね」

 

そんな風に言葉を交わしている時間は、不思議なほど穏やかだった。

 

柏は普段、人と長く一緒に居ない。

 

職業柄というのもあるが、彼女の中には必要以上に他人へ踏み込まないという線引きが既に出来上がっている。

 

関われば迷惑を掛けるかもしれない。

危険へ巻き込むかもしれない。

 

何より、自分の本性を知った時、気味が悪いと目を逸らされるのが怖かった。

 

だから距離を取り、そうやって生きてきた。

 

だが宗助だけは別だった。

 

昔から変わらない。余計な世話を焼き、無駄に人が良くて、妙なところで頑固だ。

 

どれだけ突き放しても、結局またこちらを気に掛けてくる。柏にとっては有り難く、数少ない気を遣わなくていい相手だった。

 

 

不意に、宗助の視線が柏の背後へ向いた。

 

「あ」

 

短い声だった。だが、その瞬間に柏は嫌な予感を覚える。そうした勘は、大抵ろくなことにならない。柏は団子を咥えたまま、ゆっくり振り返った。

 

そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 

淡い水色の髪。丁寧に仕立てられた上品な着物。花が綻ぶように柔らかな物腰。

 

お得意様の妹君、神里綾華。

 

その姿を認識した瞬間、周囲の空気が僅かに変わる。街を歩いていた人々が、まるで無意識のうちに道を開けていた。

 

白鷺の姫君。稲妻において、彼女を知らない人間はきっと存在しないだろう。

 

綾華は柏を見ると、小さく会釈した。

 

「こんにちは、柏さん」

 

柏は数秒ほど黙り込む。それから、ゆっくりと宗助へと視線を向けた。

 

宗助は露骨に視線を逸らす。

 

「あー……そうだ、俺、仕事思い出したわ」

 

「今この瞬間に?」

 

「急ぎなんだよ!」

 

宗助は立ち上がりながら、妙に早口で言葉を重ねる。

 

「じゃ、じゃあ俺行くから! 茶ありがとな!」

 

「え、ちょ、待ってくださ――」

 

「じゃあな!」

 

言い切るより早く、宗助はものすごい勢いで人混みの中へと消えていった。

 

柏はその背中を無言で見送る。

 

恨めしそうに。

本当に恨めしそうに。

 

「……逃げましたね、あの人」

 

ぽつりと呟くと、綾華は少し困ったように微笑んだ。

 

「嫌われてしまったでしょうか」

 

「いえ。宗助さんは昔から、気の強そうな女性を見るとすぐ逃げるので」

 

「まぁ」

 

綾華は扇子を広げ、小さく口元を隠しながら笑う。鈴の音みたいに穏やかな笑い声だった。

 

柏は静かに溜息を吐き、手元へ残っていた団子を一口齧る。

 

 

 

 

 

 

宗助が逃げるように人混みへ消えていった後、妙な静けさだけがその場へ残った。

 

花見坂は相変わらず賑やかだった。露店の店主が声を張り上げ、子供たちは橋の上を駆け回り、遠くでは琵琶の音が夕風へ溶けていく。潮の気配を含んだ風が通りを抜け、焼き魚や甘味の香りを運びながら、人々の衣の裾を静かに揺らしていた。茜色へ染まり始めた空の下、通りには柔らかな喧騒が満ちている。

 

けれど柏だけは、その賑わいから薄く切り離されているようだった。

 

橋の欄干へ凭れたまま団子を齧る横顔には、どこか居心地の悪そうな影が差している。白い髪は夕陽を受けて淡く透け、伏せられた灰色の瞳は人混みではなく、もっと遠くの何かを眺めているようにも見えた。

 

「……随分、嫌そうなお顔をされていますね」

 

綾華が少し困ったように微笑む。

 

その声音は穏やかで、春先の水面へ落ちる雫みたいに柔らかい。

 

柏は団子を齧りながら視線を逸らした。

 

「いえ、そこまででは……」

 

「今、“面倒な方が来た”と仰りそうなお顔をなさっていましたが」

 

柏は少しだけ考えるように黙り込み、それから小さく肩を竦める。

 

「……そんなことありませんよ」

 

綾華は思わず小さく笑った。

 

上品で柔らかな笑い方だったが、その奥には年相応の少女らしい親しみやすさも混じっている。

 

柏はちらりと彼女を見る。

 

神里綾華。

 

街を歩けば、人々が自然と道を開けるような存在だった。

 

綾人ほど底知れない人物ではないにせよ、彼女もまた、人の上へ立つ者としての責務を強く胸へ抱いている人間だった。

 

異国の言葉で、ノブレス・オブリージュ――だったか。

 

高貴な者には、それに相応しい責任が伴う。綾華という少女はまるでその言葉を形にしたような人間だった。

 

誰へも礼を欠かさず、弱い立場の人間へ自然と手を差し伸べる。決して傲らず、それでいて己の立場から逃げもしない。

 

白鷺の姫君。

 

その呼び名は、恐らく見目の美しさだけで与えられたものではない。彼女自身の在り方があまりにも澄み切っているのだ。

 

だから柏はどうにも彼女が苦手だった。綺麗過ぎる人間を見ると自分の手の汚れを妙に意識してしまうから。

 

綾華の視線がふいに柏の脇腹へ落とした。

 

ああ、しまったな――と柏が思った時にはもう遅かった。黒い着物の下、包帯の辺りから僅かに赤が滲んでいた。

 

それへ気付いた綾華の表情が曇る。

 

「……やはり、怪我が開いていらっしゃるではありませんか」

 

柏は反射的に袖で隠した。

 

「大したことありませんよ」

 

「大したことのない方は、そのようなお顔をなさいません」

 

「どんな顔ですか」

 

「今にも倒れそうなお顔です」

 

柏は少し黙った。

綾華は静かな声で続ける。

 

「屋敷へ戻ってください。まだ安静が必要です」

 

「嫌です」

 

即答だった。

綾華が目を瞬かせる。

 

柏は団子の串を紙へ包みながら、小さく息を吐いた。

 

「……どうにも落ち着かないんですよ、あそこ」

 

柏は橋の下を流れる水面を眺めながら、柏は困ったように笑う。

 

「私が勝手に怪我をしてきただけです。なのに気付けば部屋も薬も用意されていて、誰かが様子を見に来る。……何だか、自分が随分手の掛かる人間になったみたいで落ち着かないんです」

 

綾華は困ったように黙り込む。けれど、それでも引き下がる気は無かった。

 

「それに、何か飲まされる度に薬草の味しかしませんし」

 

「それはお薬なのですから当然です」

 

綾華は困ったように眉を下げたが、それでも引き下がる気配は無かった。

 

柏はそんな彼女を見て、ほんの少しだけ視線を和らげる。夕暮れの風が吹き抜け、橋の下を流れる水面へ細かな波紋を広げていった。

 

「……お気遣いは、有り難く思っています」

 

柏は静かにそう言った。

 

夕暮れの光が白い髪へ淡く差し込み、その横顔へ柔らかな陰影を落としている。喧騒に満ちた花見坂の中で、その声音だけが妙に静かだった。

 

「ただ、私は昔から、一人でいる方が性に合っているんです」

 

冗談めかした軽さすら滲ませた言い方だった。

 

それは相手を拒絶する様な響きすらあったが、こうまで言い含めないと伝わらない気がした。

 

綾華はそれを察したのだろう。それ以上、無理に言葉を重ねようとはしなかった。

 

ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。彼女の長い睫毛が夕陽の中で薄い影を落としていた。

 

その表情には押し切れなかった落胆よりも、触れてはいけない場所へ触れてしまったような遠慮が滲んでいる。

 

柏はそれを見ないように、手元へ残っていた団子を口へ運んだ。

 

甘い。

 

砂糖醤油の濃い味が舌へ広がる。けれど何故だか、先程より少しだけ苦い気がして眉を顰める。

 

橋の下では、水が絶えず静かに流れている。花見坂の喧騒も、子供たちの笑い声も、遠く響く琵琶の音も変わらない。

 

それなのに、二人の間にだけ、薄い夕闇のような沈黙が静かに落ちていた。

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