神の目を授かってから女難が止まらない。   作:ヘルタ様万歳

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戻るには遅く【壱】

影向山の夕暮れは、どこか現実感が薄い。

 

山肌を覆う木々は茜色へ染まり、石段へ落ちる木漏れ日も淡く赤い。高所特有の冷えた風が桜の花弁を攫い長い石階段の上を静かに流れていく。遠くでは鳴神大社の鈴の音が小さく響いていた。

 

柏は石段の途中で立ち止まり、ゆっくりと顔を上げる。

 

そして。

 

「はぁ……」

 

心底嫌そうに肺に残った息を吐いた。

 

石段の上。朱塗りの鳥居の傍へひらりと桜色の髪が揺れている。

 

彼女は長い脚を優雅に組み、まるで待ち構えていたかの様に微笑んでいた。白磁みたいな肌。細められた紫の瞳。柔らかく笑っているはずなのに、妙に獲物を追い詰める肉食獣じみた気配があった。

 

柏は数秒黙っていたが、静かに踵を返した。

 

「待て待て待て、汝、何故帰ろうとする」

 

即座に声が飛ぶ。

 

「いえ、ちょっと急用を思い出しまして」

 

「今この瞬間にか?」

 

「ええ。突然“このまま下山した方が世界のためになる”という天啓が降りまして」

 

神子は肩を震わせて笑った。

 

「妾のことを何じゃと思っておるのじゃ。獲って喰らったりはせんよ」

 

「……貴女の前だと生存本能が活性化するだけですよ」

 

柏は諦めたように溜息を吐き、ゆっくり石段を上がる。

 

その間も、神子は楽しげに彼女を眺めていた。どうにもその視線が苦手だった。

 

この女、人を見る時に一切遠慮が無い。まるで“どう転がせば面白いか”を考えながら観察しているような目をする。

 

柏は神子から数歩離れた位置で止まった。

 

「それで。今日は何です?」

 

「挨拶も無しか? 妾、少し傷付いたぞ」

 

「以前その流れで油揚げ泥棒を捕まえに行かされたのを覚えていますよ」

 

「あれは傑作じゃったなぁ。汝が泥塗れになって崖を転げ落ちる様など、思い出しただけでも笑える」

 

「私はその後三日三晩高熱を出したんですが」

 

「でも生きておるではないか」

 

「そこなんですよ。貴女、“死ななければ平気”みたいな基準で物を考えるでしょう」

 

神子は悪びれもせず頷いた。

 

「うむ」

 

「うむ、じゃないんですよ」

 

柏は本気で疲れた顔をした。神子はそんな彼女を見て、ますます機嫌良さそうに目を細める。

 

「しかし汝、本当に良い顔をするのぅ」

 

「絶対褒めてませんよね、それ」

 

「褒めておるぞ? 妾は人の困り顔が大好きじゃからの」

 

「最悪だなぁ……」

 

柏は額を押さえた。

 

八重神子という存在は、稲妻でも別格だ。鳴神大社の宮司。神事と霊的守護の頂点。しかし本人がこの有様だった。

 

勿論、表向きは完璧だ。上品で、美しく、気遣いも出来る。民から慕われる理由も理解出来よう。

 

だが一皮剥けば、人の感情を転がして遊ぶ享楽主義者のようだった。しかも本人に隠す気が無いというのが尚更だった。

 

神子は石段へ頬杖を付きながら、柏を下から覗き込む。

 

「ふむ、汝、最近また少し痩せたか?」

 

「そう見えます?」

 

「うむ。目の下も少し暗い。社奉行家の若造の仕事を手伝っておるせいかの」

 

柏の眉が僅かに動く。

 

「……何処で知ったのかは分かりませんが、本人の前では言わないでくださいよ、それ」

 

神子は楽しげに笑う。

 

「妾は昔から人を見るのが好きじゃからなぁ。特に、何かを隠しておる童のような子はの」

 

柏は黙る。

 

神子は続ける。

 

「最初見た時は、もっと飢えた野良猫みたいじゃった。近付けば噛み付くくせに、腹は減っておる顔をして可愛らしく唸っておったのにのぅ」

 

「酷い言い草ですね」

 

「今は多少、人らしい顔を覚えたようじゃが」

 

神子の紫の瞳が細められる。

 

「その分、色々と知り過ぎた様じゃの。汝は此処から出るべきじゃなかったのじゃ」

 

「……」

 

夕風が吹き抜けた。桜の花弁が、柏の白髪へふわりと落ちる。柏はそれを指先で払いながら、静かに笑った。

 

「……貴女、本当に人の内側を見るのが好きですよね」

 

「うむ。輝いておるものは好きじゃ。人の願いも、欲も、執着も、絶望も。どれも見ていて一片たりとも飽きが来ぬ」

 

神子はくすくす笑う。

 

「特に汝は良い。壊れそうで壊れぬ」

 

「縁起でもないこと言わないでください」

 

「じゃから、勝手に壊れてくれるな。汝を拾い上げたのも、救ってやったのも……のぅ?」

 

神子はくすりと笑いながら、ひらりと立ち上がる。艶やかな桜色の髪が揺れ、白檀にも似た甘い香がふわりと漂った。

 

そのまま一歩、また一歩と距離を詰める。気付けば互いの呼吸すら届きそうな近さだった。

 

神子は細い指先で柏の顎へ触れ、撫でるようにそっと持ち上げる。

 

「……っ」

 

柏は反射的に半歩後ろへ下がった。

 

その様子を見た神子は、ますます愉快そうに目を細める。まるで怯えた小動物でも見つけたかのような、悪戯めいた笑みだった。

 

「なんじゃ、そんなに妾が恐ろしいか?」

 

神子は愉快そうに唇を緩めながら覗き込む。紫水晶を思わせる双眸には、からかうような光が宿っていた。

 

柏は小さく眉を寄せる。

 

「怖いですよ。貴女、時々本気で底が見えないので」

 

「それはお互い様というやつじゃろう」

 

神子はくつくつと喉の奥で笑い、そのまま袖口へ手を差し入れた。

 

取り出したのは、一枚の紙だった。

 

薄紫の封蝋が押されたそれを指先で揺らしながら、神子は悪戯っぽく目を細める。

 

「さて、戯れはこの辺りにして。本題じゃ」

 

柏は途端に露骨な顔をした。今にも「帰りたい」と書いてありそうな表情だった。

 

「貴女の依頼で碌な目に遭った記憶が無いんですが」

 

「安心せい。今回は命の危険はそこまで無い」

 

「今、“そこまで”って付けましたね」

 

「細かい奴じゃのぅ」

 

神子は楽しそうに笑いながら、その紙を柏の胸元へ半ば押し付けるように差し出した。

 

柏は嫌そうに顔を顰めながらも、渋々それを受け取る。

 

 

数秒後。

 

柏は無言のまま紙を閉じた。それから彼女は、ものすごく静かな声で言った。

 

「……何で私が、夜な夜な鳴神大社の倉庫から恋愛小説を盗み読みしている巫女を特定する必要が?」

 

神子は満面の笑みだった。

 

「面白そうじゃろ?」

 

「全然」

 

即答だった。

 

神子はくすくすと肩を揺らす。

 

「ちなみに既に三人ほど容疑者がおる」

 

「内部で処理してくださいよ」

 

「妾が動くと、皆怯えて口を閉ざすのでなぁ」

 

「でしょうね」

 

柏は深く溜息を吐いた。

 

紙を持つ手が既に若干嫌そうである。神子はそんな彼女を眺めながら、本当に楽しそうに笑っていた。

 

その表情には悪びれる様子など一切無い。むしろ完全に面白がっている。

 

柏は心の底から思った。

 

――この女、絶対に私で遊んでるな。

 

 

「汝には潜入調査をしてほしいのじゃ」

 

神子は、さも名案を思い付いたみたいな顔でそう言った。

 

夕暮れの鳴神大社。長い石段を渡ってくる風は少し冷たく、舞い散る桜の花弁が朱塗りの欄干へひらひらと落ちていく。空は薄紫から藍色へ変わり始め、遠くでは巫女たちの鈴の音が静かに響いていた。

 

そんな風情ある景色の中、柏だけがものすごく嫌そうな顔をしている。

 

「嫌な予感しかしませんねぇ……」

 

「安心せい。今回は実に単純じゃ」

 

神子はにこやかに続けた。

 

「汝が巫女たちの中へ紛れ込み、夜な夜な恋愛小説を盗み読む不届き者を突き止める。それだけじゃ」

 

「まず何故私なんです。巫女同士の問題なら、内部で済むでしょう」

 

「外部を入れる理由については、顔を知られておらぬ者の方が都合が良いからじゃのぅ。あと、汝なら適任であろう」

 

「……絶対、別の意味も含まれてますよね」

 

神子は笑って誤魔化した。

 

嫌な沈黙だった。柏は深く、深く溜息を吐き、紙を懐へ仕舞う。

 

「……で?」

 

「うむ?」

 

「その潜入調査とやら、まさか私服で行けとは言いませんよね」

 

その瞬間、神子の目が露骨に輝いた。

 

柏はすっと表情を消す。あぁ、なるほど。そこが本題でしたか。神子は袖口で口元を隠しながら愉快そうに笑う。

 

「んふふ、話が早くて助かるのぅ」

 

「帰ります」

 

柏は踵を返す。だが一歩踏み出すより早く、神子の声が背後から飛んできた。

 

「ちなみに報酬は弾むぞ」

 

神子が何気ない声音でそう付け加えた瞬間、柏の足がぴたりと止まった。

 

「……」

 

沈黙。

 

夕風が白い髪を揺らし、石段の脇を桜の花弁が静かに転がっていく。

 

「なんなら甘味処一ヶ月分くらいは出しても良いぞ。その死に体じゃと、暫くは派手に動けんじゃろう?」

 

柏は無言で空を仰いだ。

 

夕焼けが綺麗だった。

 

山の端へ沈みかけた陽が空を薄紅色へ染め、雲の輪郭を金色に縁取っている。本当に綺麗で、だからこそ余計に現実逃避したくなる景色だった。

 

神子はそんな彼女の背中を眺めながら、実に楽しそうに目を細める。

 

「さて、どうする?」

 

柏は数秒黙り込んだ。

 

本気で葛藤していた。

 

巫女装束への強烈な抵抗感と、一ヶ月分の甘味代が天秤へ掛けられていた。

 

加えて、暫く満足に動けないのも事実だった。

 

脇腹の傷はまだ痛むし、無理をすれば綾華辺りに本気で説教される未来まで見える。そう考えると、鳴神大社で比較的安全な潜入調査をしている方が、まだ現実的なのかもしれない。

 

いや、全然したくはないのだが。

 

柏は夕空を見上げたまま、深い溜息を吐いた。どうして自分の人生はこうも妙な方向へ転がるのだろう。

 

やがて彼女は、ものすごく疲れた声で呟く。

 

「……甘味が美味しくなかったら訴えますからね」

 

「では、契約成立じゃの」

 

神子は肩を揺らしながら笑う。

 

夕暮れの鳴神大社へ、その笑い声だけがやけに楽しそうに響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

巫女装束を着るというのは、実に久し振りのことだった。

 

白を基調とした小袖へ袖を通し、緋袴の紐を結ぶ。その一つ一つの所作に、妙な懐かしさが纏わり付く。

 

柏は元々骨格が細い。

 

肩幅も狭く、手首や指先も驚くほど華奢だった。顔立ちも中性的で、白い髪と灰色の瞳はどこか儚い印象を与える。

 

普段は男装しているおかげで辛うじて誤魔化せているが、本来の彼女には少女特有の線の細さが未だ色濃く残っていた。

 

神子は、それを知っている数少ない人間だ。

 

「嫌そうじゃのぅ」

 

背後から愉快そうな声が飛んでくる。柏は帯を締めながら、ものすごく嫌そうな顔をした。

 

「当然でしょう。貴女、絶対それ見て遊ぶ気じゃないですか」

 

「うむ」

 

「少しは否定してくださいよ」

 

神子はくつくつと喉の奥で笑う。その様子を見て、柏は心底疲れた顔になった。

 

夕暮れの光が障子越しに差し込み、室内を淡い朱色へ染めている。開け放たれた窓からは夕風が吹き込み、桜の香を微かに運んでいた。

 

神子はそんな柏を眺めながら、ふと懐かしむように目を細める。

 

「しかし、久しいのぅ。汝がその装いになるのは」

 

その言葉に、柏の動きが僅かに止まった。

 

夕風が静かに吹き抜ける。舞い込んできた桜の花弁が、二人の間をゆっくり流れていった。柏はしばらく黙り込み、それから静かに視線を逸らす。

 

「……その話、掘り返します?」

 

「妾は割と好きじゃぞ?」

 

神子は面白そうに目を細めながら言った。

 

そうだろうなぁ――と柏は思う。

 

昔の自分は、今以上に余裕が無かった。

 

今でこそ軽口を叩き、人を煙に巻く程度の器用さは身に付いたが、あの頃はそんなもの何一つ無かった。警戒心ばかり尖っていて、誰かの善意ですらまともに受け取れず、常に腹を空かせた野良猫みたいに周囲を睨んでいた。

 

家を出た直後だった。

 

働こうにも、まともに雇ってくれる場所など無い。

 

身体は小さい。

年齢も幼い。

男のふりをしていても限界があった。

 

荷運びをすれば力不足で怒鳴られ、雑用へ紛れ込めば年齢を理由に追い出される。食事を得るために必死で取り繕っても、世の中は驚くほど容赦が無かった。

 

結局、数日まともに食べられなかった。空腹で視界が霞み、足元も覚束なくなり、それでも意地だけで歩き続けた。

 

雨の日だった。

 

山道はぬかるみ、草履はとうに泥だらけだった。冷え切った雨水が髪を伝い、着物の裾から身体の芯まで染み込んでくる。柏はそのまま力尽きるように倒れた。

 

泥水の中へ頬を打ち付けても、起き上がる気力すら残っていなかった。ぼんやりと雨音だけを聴きながら、遠くで鳴る雷鳴を子守唄にこのまま死ぬのだと諦めてしまったその時だった。

 

そんな死体にも等しい柏を拾い上げたのが、八重神子だった。

 

『随分、死にかけた顔をしておるのぅ』

 

 

 

 

今思い返しても、本当に碌でもない。柏は静かに溜息を吐く。

 

「……普通、倒れてる子供を見た第一声がそうなります?」

 

「事実じゃったしの」

 

神子は悪びれもせず笑う。

 

 

 

雨音の中、神子だけが妙に鮮明だったのを柏は覚えている。

 

朱色の番傘。濡れた石畳。

桜色の髪。

 

狐みたいに細められた紫の瞳。ぼやける視界の中でも、あの存在だけは妙に色褪せる事もく鮮明だった。

 

妖怪だ、と最初に思ったくらいだ。実際、半分くらいは間違っていないのだろうが。

 

あの後、柏は鳴神大社へ拾われた。

 

食事や寝床を与えられただけでなく着替えまで用意され、半ば雑用係みたいな形で働かされた。

 

掃除や荷運び。書庫整理。

巫女たちの使い走り。

 

最初の頃はまともに礼を言うことすら出来なかった。与えられる側という状況に慣れていなかったのだ。何かを受け取る度、胸の奥が妙に落ち着かなかった。

 

こんなものを貰って良いのか。その内、追い出されるのではないか。役立たずだと思われた瞬間、全部失うのではないか。そんな考えばかりが頭を過ぎっていた。

 

だから柏は、必死だった。

 

誰より先に起きて働いた。頼まれる前に雑用を片付けた。熱を出しても黙っていた。

 

迷惑になりたくなかった。

 

“居ても良い理由”を失うのが怖かったのだ。今思い出しても痛々しいことこの上ない。もはや黒歴史でしかない。

 

 

けれど、そんな生活は長く続かなかった。

 

柏は昔から自分の不調を隠す癖があった。空腹も、痛みも、熱も、出来る限り表へ出さない。弱っていると悟られること自体が危険だと、半ば本能みたいに身体へ染み付いていたのだ。

 

だから、その怪我も隠した。山道で倒れる少し前、野盗に襲われた時の傷だった。

 

脇腹を深く裂かれていた。本来ならとても歩き回れる状態ではない。けれど柏は布を巻き、黙って働き続けた。

 

掃除をしている時も。水を運ぶ時も。

夜、布団へ倒れ込む時も。

 

痛みはずっとあった。熱も上がっていた。それでも、弱音を吐けば捨てられる気がしていた。だから黙っていた。

 

ある夜のことだった。

 

書庫整理を終えた柏は、人気の無い廊下を歩いていた。

 

秋雨の降る夜だった。外では風が木々を揺らし、障子の向こうで雨音が絶えず続いている。

 

その時、不意に視界が揺れた。

 

「あ……」

 

足元から力が抜ける。

 

次の瞬間、柏の身体は廊下へ倒れ込んでいた。ぼんやりする意識の中、誰かの足音が近付いてくる。

 

「――何をしておる、童」

 

頭上から声が落ちる。柏は霞む視界のまま顔を上げた。彼女は倒れ込んだ柏を見下ろし、ふと目を細める。

 

その視線が、着物の脇腹へ向いた。

 

じわり、と。

雨水ではない赤が滲んでいた。

 

神子の笑みが消える。先程までの柔らかな声音が、すっと冷え、なんとなく空気が変わったのを肌で感じた。

 

「ほう」

 

柏は嫌な予感がした。本能的に、逃げた方が良い、と。

 

だが身体が動かない。熱で頭が回らなかった。神子は静かにしゃがみ込む。細い指先が柏の着物へ触れ、そのまま乱暴に布を捲り上げた。

 

瞬間、痛ましい傷口が露わになる。既に膿み始めている部分まであった。恐らくあと数日放置していれば、本当に死んでいたのだろう。

 

数秒、沈黙が落ちる。

 

柏は恐る恐る視線を上げた。

 

神子は笑っていた。

見たことのない、ぞっとする微笑で。

 

「汝、妾に殺されたいのか?」

 

その頃からだっただろうか。八重神子が妙に柏を構うようになったのは。

 

最初は本当に些細なことばかりだった。

 

ある日の昼下がり。柏は長い廊下へ膝を付き、黙々と雑巾を掛けていた。磨き上げられた床板には庭の緑が薄く映り込み、開け放たれた障子からは桜の香を含んだ風が吹き込んでくる。

 

後ろから、聞き慣れた足音の音が近付いてくる。嫌な予感しかしない。案の定、頭上から声が落ちた。

 

『童、そこに埃が溜まっておるぞ』

 

柏は無言で顔を上げた。そこには、扇子を片手にした八重神子が立っている。

 

柏は雑巾を握ったまま真顔で返す。

 

『どこです』

 

『そこ』

 

『どこです』

 

『そこじゃ』

 

『抽象的過ぎません?』

 

神子はくつくつ笑いながら、扇子の先で廊下の隅を示した。よく見ると柱の角に本当に薄く埃が残っている。

 

柏は沈黙した。

 

『……貴女、視力良過ぎでしょう』

 

『狐じゃからの』

 

意味が分からない。柏は心底嫌そうな顔をしながら、再び雑巾を掛け始める。

 

神子は何故かその場から動かなかった。

 

『……まだ何かありますか』

 

『いや、童が嫌そうな顔をしておるのが面白くてのぅ』

 

『マジで自分の部屋に帰ってくれませんか』

 

『断る』

 

また別の日、朝霧の残る境内で柏は眠そうな顔のまま祝詞を読んでいた。早朝は苦手だった。声も若干死んでいる自覚はあった。

 

すると案の定、後ろから声が飛ぶ。

 

『童、祝詞の声が眠そうじゃの』

 

柏はぴたりと読むのを止めた。

振り返る。

 

縁側に腰を下ろした神子が楽しそうにこちらを見ていた。

 

朝日が桜色の髪を照らし、その笑みだけがやけに眩しい。柏は半目のまま言う。

 

『眠いので』

 

『開き直りおった』

 

『まだ日も昇り切ってないじゃないですか……』

 

『神へ仕える者がそれでどうする』

 

『私はただの雑用係です』

 

『巫女装束を着ておる時点でそれは通らぬのぅ』

 

柏は真顔になった。

 

 

そして極め付けが、あの日だった。

 

昼過ぎだった。境内の裏手にある大木の上で、柏は枝へしがみ付きながら器用に身体を引き上げていた。

 

『童、何故かような場所におるのじゃ』

 

鳴神大社の裏手に立つその木は古く、幹も太い。枝葉は高く広がり晴れた日には木漏れ日が地面へまだら模様を落とす。もっとも、今の柏にそんな風情を楽しむ余裕は無かった。

 

『……猫が逃げたので』

 

柏が低い声で答える。木の上では、小さな白猫が怯えたように鳴いていた。

 

巫女たちが困り果てていたのだ。最初は誰かが降ろそうとしていたらしいが、途中で逃げられ、更に高い枝へ登られてしまったらしい。結局、誰も手が出せず途方に暮れていた。

 

だから柏が代わりに身を乗り出した。普段世話になっている分、そのくらいはしておこうと思ったのだ。

 

すると事情をしった神子が呆れ半分で見上げてくる。

 

『妾が下ろしてやる故、普通に降りて来い』

 

 

 

今思えば、そんなに悪くなかったように思う。

 

巫女たちは皆、柏へ優しかった。

 

最初こそ流れ者を見るような警戒はあったが、それも長くは続かなかった。掃除のやり方を教えてくれる者が居た。余った菓子をこっそり分けてくれる者も居た。熱を隠して働いていれば、無理やり座らされて薬湯を飲まされたこともある。

 

「貴女は働き過ぎです」

 

「もう少し私たちを頼ってください」

 

そんな言葉を掛けられる度、柏はどう返せば良いのか分からなかった。優しくされることに慣れていなかったのだ。

 

何かを与えられる度、自分が負担になっている感覚だけが胸へ残る。

 

食事一つ。

布団一枚。

薬一つ。

 

それら全部が、本来なら自分には過ぎたものに思えた。だから必死に働いた。雑用を片付けた。頼まれる前に動いた。

 

少しでも“居ても良い理由”を作ろうとしていた。けれど同時に、そんな自分が情けなくもあった。

 

拾われて、生かされているだけの自分が、あの場所へ長く居てはいけない気がしていた。

 

 

 

夕風が吹き抜け、桜の花弁が静かに舞う。柏は窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。

 

「……本当に酷い職場でしたね」

 

「ほう?」

 

神子が目を細める。

柏は淡々と続けた。

 

「労働環境は悪いですし、上司は性格悪いですし、些細な理由で甘味を取り上げられますし」

 

「じゃが、楽しかったじゃろ?」

 

「貴女だけです」

 

神子はころころと笑う。

 

鈴を転がすような、妙に耳へ残る笑い声だった。柏は昔から、八重神子という女の性格が苦手だった。人を揶揄って反応を眺めたり、相手が困れば困るほど機嫌が良くなる悪辣さがありながら、柏が本気で嫌がる事はしなかった。

 

だから、働ける年齢になった瞬間、真っ先に辞表を叩き付けた。

 

『辞めます』

 

神子は筆を走らせていた手を止める。

 

それから、ゆっくり顔を上げた。

 

『ほう?』

 

『もう働ける年齢ですし、自分で稼げます。なので辞めます』

 

『ふむ』

 

『あと、もう二度と戻りません』

 

そこだけ妙に力強かった。

 

神子は数秒黙り込む。

やがて、ふっと目を細めた。

 

『そうか』

 

その笑みは静かだった。からかうでもなく、引き止めるでもなく、ただ妙に穏やかだった。

 

『では、次に会う時が楽しみじゃのぅ』

 

あの時の神子の笑顔は、今でも覚えている。まるで全て見透かされた様な背筋も凍る笑みだった。

 

柏がどういう人間で、どれだけ意地っ張りで、何を嫌がり、何処へ戻って来るのか。全部分かった上であっさりと許可を出した。

 

事実、その通りになった。結局、柏はその後も何度も鳴神大社へ戻って来ている。

 

依頼だったり、ちょっとした情報交換。

神子から押し付けられる面倒事。

 

しかし断ろうと思えば断れた筈なのだ。実際、柏は他人との関わりを切ることに躊躇が無い。必要以上に踏み込まれるのを嫌うし、自分から距離を置くことにも慣れている。

 

それなのに、八重神子に対してだけは、それが上手く出来なかった。

 

あの女は、決して柏を甘やかさない。優しい言葉ばかり掛ける訳でもない。むしろ揶揄い、振り回し、面白がってくることの方が多い。

 

それなのに、気付けば側へ寄ってしまう。

柏は深く息を吐いた。

 

人間というのは案外単純で。人生が沈み切っている時に差し伸べられた手というものを、簡単には忘れられない。

 

 

 

「……結局、戻ってきてる辺りが人生って感じですね」

 

「んふふ。妾は汝が戻って来ると思っておったぞ?」

 

神子は楽しそうに笑う。

柏は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「最悪だなぁ」

 

「何がじゃ?」

 

「その、“全部分かってました”みたいな顔です」

 

「実際、分かっておったしのぅ」

 

柏は本気で嫌そうに顔を覆った。神子はそんな彼女を見ながら、ますます愉快そうに肩を揺らして笑う。

 

柏は何か返したかったが、どうせ言い返してもこの女が喜ぶだけなので黙っていた。

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