痛みに耐えながら再生魔法で無理やり突っ込んでいく正義のヒーローに出会ったら? 作:だだだめ
カイ・アーデルが死んだあと、人類の戦線は崩れるはずだった。
不死身の英雄はもういない。
若き英雄も死んだ。
アーデル部隊は穴だらけになり、軍の士気は落ち、都市の民衆は再び活気を失う。
それでも、戦線は崩れきらなかった。
理由のひとつが、エバだった。
彼女は演説はしないし、子供に名前を叫ばれることもない。
それでも、戦場の数字だけを見れば異常だった。
悪魔側の輸送部隊が消えた。
前線へ送られるはずだった魔力結晶が燃えた。
補給拠点を守っていた小隊が、夜の間に首だけになった。
下位の悪魔だけではない。人間が単独で相手にするべきではない階級の悪魔まで、いくつも戻らなかった。
そのどれもが、一人の兵士によってなされている。
これは悪魔たちが特別に危険視するには、十分な理由だった。
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都市外縁の第七補給倉庫は、かつて北西戦線を支えるための場所だった。
薬品や、包帯。
保存食。
魔力弾。
魔力結晶。
簡易寝台。
水の濾過装置。
破損した武具を直すための工具。
命を一日でもつなぐためのものが、そこには大量に集められていた。
だが今は違う。
外壁は崩れ、搬入口には悪魔の爪痕が残り、割れた薬瓶から漏れた液体は黒く乾き、古い包帯は床の血を吸って固まっていた。
そこはもう人間を生かす場所ではなく、悪魔の巣となったのだ。
その補給倉庫に、エバはひとりで辿り着いた。
辿り着いたという事実が、そもそもおかしい。
都市の外縁。
人類の戦線から切り離された区画。
そこに至るまでの通路には悪魔が陣形を組んでいる。
普通の兵士ならまず間違いなく突破などできない。
小隊規模ならよくて半壊、中隊なら少しの希望が見える程度の地獄だ。
それをエバは一人で来た。
正面から入ったわけではない。
最短距離でもない。
瓦礫の下を抜け、崩れた排水溝を這い、悪魔の巡回の隙間を走り、見つかったら殺し、殺しきれなければ振り切った。
たどり着いた補給倉庫の大扉は半分壊れていた。
片方は外れ、もう片方は歪んだ鉄の塊になっている。
エバはその隙間から中へ入った。
倉庫の中は薄暗い。
天井の一部が崩れていて、そこから灰色の光が差し込んでいる。光の筋の中に、埃と薬品の粉が漂っていた。棚は倒れ、木箱は割れ、古い保存食の袋が破れて床に散らばっている。
そしてその奥。
壊れた搬送台の上に、相棒が縛られていた。
もともと逃げる力などないはずなのに、丁寧すぎるほどに縄で固定されている。顔色は悪く、唇は乾き、片足のない体は古い布で乱雑に包まれていた。
それでも、生きていた。
息をしていた。
喉が、ひとつ震える。
「返せ」
声は自分でも驚くほど低かった。
搬送台の向こうで、いつの間にかそこに佇んでいた悪魔が笑った。
人型だった。
背は高く、細い。人間に似た形をしているが、骨格の角度が少しずつ間違っている。長い腕、黒い爪、どこまでも醜い面。
その悪魔は、エバを見て楽しそうに首を傾けた。
「よく来たな」
「返せ」
「お前は補給を断つのがうまいな」
悪魔はエバの声を無視して、倉庫の中を見回した。
「こちらの輸送隊を殺し、結晶倉庫を燃やした。前線に送るはずだった魔力弾を奪った。お前のせいで、どれだけ予定が狂ったことか。我々にとって、お前は今もっとも恐ろしい脅威と言うわけだ。だから、是が非でも殺さなくてはならない」
悪魔は相棒のほうを見た。
「兵士は食料で動く。軍は弾薬で動く。人間の病院は薬で動く。では、お前は何で動いている?」
エバは答えなかった。
悪魔は楽しそうに笑う。
「これだ」
その爪が、相棒の首筋に触れた。
エバの足が、半歩だけ前に出る。
「動くな」
悪魔の爪が、わずかに食い込んだ。
相棒の皮膚に赤い線が浮かぶ。
エバは止まった。
相棒が、ゆっくり顔を上げる。
「……エバ」
声はかすれていた。
「……馬鹿が。みすみす誘き出されてんじゃねぇよ」
悪魔が笑った。
「いいな。実にいい。これが、お前の補給か」
「返せ」
「ああ、返すとも」
悪魔は簡潔に言った。
「だが、条件がある。エバ、お前は死ね。自害しろ。お前が死ぬなら、この男は解放してやる。この手で直々に、あの汚い病院に送り返してやろう」
相棒の目が見開かれた。
「やめろ……!」
エバは悪魔を見ていた。
「信じると思うのか」
「思わぬさ」
悪魔は即答した。
「だから契約という形を取る」
悪魔が爪で床を引っかいた。
倉庫の床に、黒い線が走る。
割れた魔力結晶の粉が吸い寄せられ、古い血と混ざり、幾何学模様が刻まれていく。
これは契約陣だった。
エバにも分かる。術式として、これは本物の効力を持つ。
「この契約は、命より重い。破れば契約そのものに俺が喰われる。お前が信じる必要はない。この儀式自体がお前への担保になる」
「やめろ、エバ……!」
相棒が声を絞った。
「俺のためなんかに死なないでくれ……」
エバは相棒を見た。
弱った顔。
痩せた頬。
乾いた唇。
ゴミ山で一緒に笑っていただけの、一緒に育ったというだけの男。
そして、私の宝物。
「……あんたのためじゃない」
相棒が息を呑む。
「私のためだ」
エバは右手を上げた。
手のひらに、小さな攻撃魔法を展開する。
彼女がよく使う、貫通力だけを高めた魔力弾。悪魔の頭蓋を抜き、装甲の隙間を撃ち、骨の裏側まで穴を通すための魔法。
それを、自分の喉に押し当てた。
「やめろ!」
相棒が叫んだ。
「エバ!やめてくれ……」
エバは迷わず撃った。
音は短く、一瞬で喉が裂ける。
血が噴き出し、視界が赤く染まった。
気管が潰れ、呼吸が途切れ、膝から力が抜けていく。
痛い。
けれど、それよりも先に、体が動いた。
裂けた皮膚が寄る。
破れた血管が結ばれる。
潰れた気管が形を取り戻す。
床に落ちた血が、赤い筋を引きながらエバの体へ戻っていく。
心臓が、強く打った。
エバは生きていた。
「……なんで」
声が出た。
掠れた声だった。
「なんで」
死ねなかった。
加護は、心が折れたら焼き切れるはずだ。
心が折れれば、再生は止まるはずだ。
再生が止まれば、死ねるはずだ。
なのに、再生が止まらない。
つまり、私は折れていないのか?
折れていないということは、絶望していないということだ。
絶望していないということは、まだ希望を持っているということだ。
何に?
答えは、体のいちばん奥から返ってきた。
あいつが、まだ生きているのだ。
だから、まだ助けられるかもしれない。
助けられるかもしれないと思っているうちは、絶望できない。
絶望できないなら、心は折れない。
心が折れないなら、加護は焼き切れない。
死ねない。
相棒が生きているから、死ねない。
私の希望が、私を死なせない。
私の愛が、契約を果たさせない。
「そうか」
悪魔が言った。
「ならば、契約は不成立だ」
エバは顔を上げた。
「お前は死ななかった。ならば、こちらもこの男を解放する理由がない」
「待って」
エバは立ち上がろうとした。
悪魔へ走ろうとした。
だが、遅かった。
悪魔の腕が振り下ろされた。
嫌な音がした。
肉と骨が断たれる音。
相棒の体から重さが抜け、頭が搬送台から落ちて、床の上を転がった。
「あ」
ただそれだけ、声が出た。
エバは悪魔の方へ走った。
殺す。
どうしても殺さなければならない。
あいつが私の宝物を奪った。
あいつを殺せば。
殺せば……。殺せばきっと何かが……。
戻せない。
首を落とされた人間は戻らないと、知っている。
そんなことは、知っている。
ゴミ山で何度も見た。
戦場で何度も見た。
死んだ人間は戻らない。
壊れた体は元に戻らない。
戻らない。
分かっているのに、体はまだ走っていた。
その途中で、足がもつれた。
いつもなら、もつれない。
心臓が一度だけ強く鳴った。
そして、次を打たなかった。
喉の奥がつっかえる。
さっき塞がったはずの傷が、熱を持って開いていく。
血が流れた。
割れた薬瓶の上に血が落ちる。
古い包帯の山に血が染みる。
いつもなら塞がるはずの傷が、塞がらない。
加護が、焼き切れたのだ。
エバは膝をついた。
遠くで悪魔の笑い声が聞こえる。
近くに相棒の首が見える。
私の希望が、私を置いていってしまった。
「……あ」
声にならない息が漏れた。
あの夜、頷かなければよかったんだ。
変えたいなんて、言わなければよかったんだよ。
ゴミ山の中でよかったじゃないか。
腐った臭いの中で、腹を空かせて、明日死ぬかもしれないまま、布切れにくるまって、二人で笑っていればよかった。
いい家なんて、いらなかった。
温かいスープなんて、いらなかった。
まともな布団なんて、いらなかった。
薬も、金も、戦果も、加護も、何もいらなかった。
あんたがいればよかった。
あんたが隣にいて、私を置いていかなければ、それでよかった。
「ごめんな」
血が喉を塞いで、声はほとんど出なかった。
「足を引っぱってたのは、私のほうだ」
エバは床を這った。
相棒の方へ。
指先が血で滑る。
腕に力が入らない。
再生はもう走らない。
それでも、少しずつ近づいた。
悪魔は止めなかった。
エバは相棒の頭のそばまで辿り着いた。
手を伸ばして、触れる。
冷たくなる前の頬から、体温が伝わってくる。
その一瞬だけ、ゴミ山の臭いがした気がした。
どうしようもない、世界の腐った匂い。
そうだ、あの頃へ帰ろう。
エバはそう思った。
ゴミ山の中で、布切れにくるまって、寒さに震えながら笑っていた夜へ。
変えたいなんて、まだ言っていなかった頃へ。
殺せば変わるなんて、まだ信じていなかった頃へ。
エバは相棒の頬に触れたまま、少しだけ笑った。
「……帰ろう」
そして、呼吸が止まった。
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倉庫の中には、まだ血の臭いが残っている。
床に倒れた女の死体と、そのすぐそばに転がる、首を落とされた男の死体。
悪魔は、その二つを見下ろしていた。
目的は果たされたはずだった。
人類側の異物だった女は死んだのだ。
肉体では殺せなかったが、心を壊せば自壊していく。
その仮説は正しかった。
これで、補給線を荒らしていた人類の刃は消えた。
しかし、悪魔がこの場を去ろうとしたところで、そうはできない理由が生えてきた。
「まったく、嘘をつくなんてひどいじゃないか」
場違いに軽い声がした。
悪魔は振り返る。
いつの間にか、そこに一人の人間がいた。
血に濡れた床の上にしゃがみ込み、二つの死体を覗き込んでいる。男の死体と、女の死体。その両方を、まるで珍しい標本でも観察するように見比べていた。
「何だ、お前は?」
「はぁ、君はちっとも英雄じゃなかったね。エバ」
男は問いかけを無視して、少しだけ拗ねたようにそう言った。
「僕はけっこう期待していたんだよ。『守る側に立てば、もっと多くが生き残るんだろ、なってやるよ、英雄に』うん、実にいい返事だった。あの時の君は、かなり英雄っぽかったね。演技だったなら、才能ありってところか」
ダイヤはエバの頬に触れた。
まだ温度が残っている。
「君は大衆にも、人類にも、未来にも興味がない。ただ一人を生かしたかっただけだった」
悪魔は警戒するように身を低くした。
「何者だ」
「あれ、今それを聞く?」
ダイヤはようやく悪魔を見た。
「僕は回復魔法を生業としている、一介の魔法使いだよ」
悪魔は答えない。
目の前の人間から、戦士の気配はしなかった。
魔力圧も薄い。
肉体は脆く、殺すだけなら容易いように見える。
だが、悪魔は動けなかった。
この男はおかしいと、全身が危険信号を発している。
「それにしても、君たちはなかなか面白いことをするね」
ダイヤは悪魔に向き直った。
「肉体ではなく心を狙う、か。うん、合理的だ。僕の加護を攻略するなら、それが一番手っ取り早い。よく見ている。実に賢いよ。拍手拍手」
「……なるほど貴様が、加護の術者か」
「いかにも?」
ダイヤはあっさり頷いた。
「カイ・アーデルに加護を与えたのも、エバに果実を渡したのも僕だ。ちなみに、君たち悪魔に殺されかけたことのある一般人でもある。君の見た目けっこう怖いから、あまり近づかないでくれると嬉しいんだけど」
「ふざけているのか」
「うーん、けっこう真面目なんだけど」
ダイヤはそう言いながら、エバの喉元を見た。
傷は塞がっていない。
加護は完全に焼き切れている。
続いて、胸に手を当てる。
心臓は止まっている。
「素晴らしいね。愛というのは、思っていたよりかなり強いみたいだ」
悪魔が動いた。
床を蹴り、爪を伸ばし、ダイヤの首を狙う。
それは速く、人間の域なら反応できない速度だった。
だが、悪魔の爪はダイヤに届く直前で止まる。
見えない壁があったわけではない。
鎖が絡んだわけでもない。
悪魔の腕そのものが、肉の内側から膨れ上がっていた。
「な――」
悪魔が呻く。
腕の骨が逆向きに伸びる。
筋肉が裂ける。
皮膚の下で血管が暴れ、爪が根元から押し出される。
それは、回復魔法だった。
悪魔の傷を治しているのではない。
壊れた形へ、強引に再生させている。
「僕の専門は回復魔法でね」
ダイヤは立ち上がった。
「壊れたものを元に戻すのが得意なんだ。だから、元に戻る形を少し間違えると、そうなる」
悪魔の腕が破裂した。
黒い血が倉庫の床に散る。
悪魔は跳び退こうとした。
だが、次の瞬間には足が床に縫い付けられていた。
傷ついた足裏が、床材と一緒に癒着している。
「っ、貴様……!」
「怖いなぁ」
ダイヤは一歩下がった。
「僕は戦うのが嫌いなんだ。痛いのも嫌だし、怖いのも嫌だ。だから、僕は勝てる勝負しかしない」
悪魔の体が膨張する。
腕が再生する。
だが、再生した腕は関節が多すぎた。
肩から先が三本に枝分かれし、それぞれが別々の方向へ痙攣する。
悪魔の喉から、初めて悲鳴が漏れた。
「そもそも彼女は失敗例だったなぁ。英雄じゃなかったし、人類のために戦っていたわけでもない。加護の用途としては偏っている。完成していたカイとは違う」
ダイヤは、死んだエバを見下ろす。
「でも、知見としては最高だった」
悪魔は、血を吐きながらダイヤを睨む。
「人間……!」
ダイヤは悪魔を見た。
その瞬間、悪魔の体中の古傷が一斉に開いた。
閉じたはずの肉が裂け、折れたことのある骨がもう一度折れ、かつて失った爪が過剰に生え、体が自分自身の治癒に耐えきれず崩れていく。
「や、め――」
「大丈夫」
ダイヤは優しく言った。
「たぶん死ねるよ。実験体として使うよりは、よほど人道的だろう?」
悪魔の体が潰れた。
倉庫の中に、湿った音が響く。
しばらくして、動くものは何もいなくなった。
ダイヤは血の飛沫を避けるように、少しだけ裾を払った。
「まったく。悪魔というのは本当に怖いね」
そう言ってから、彼はもう一度エバの死体のそばにしゃがんだ。
「さて」
ダイヤはエバの胸に手を当てる。
加護の残滓はまだわずかに残っていた。
焼き切れた後の、焦げた糸のような魔力。
ダイヤは呟いた。
「ありがとう、エバ」
軽い声だけが、倉庫に残った。
「君はちっとも英雄じゃなかったけれど、とても役には立ったよ」