八千夜 作:超かぐや姫!に脳を焼かれた人
※2026/5/19 本文を一部修正。
※2026/5/20 本文の表現を一部修正。(かぐやの髪色の描写)
月には、退屈があった。
喜怒哀楽も、味も、温度もない、退屈だけがある世界だった。
終われば始まり、始まれば終わる、無限にループする役割の束。
そこへ、歌が届いた。
月の天蓋を破り、時間の底から、ひとつの旋律がかぐや姫の鼓膜を叩いた。
それは、かぐや姫のためだけに作られた歌。
かつて、地球で、狭い部屋で、寝不足で目の下にクマを作った少女が、震える指で完成させた歌。
彩葉の歌だ。
それに気づいた瞬間、かぐやは全てを放り出すことに決めた。
積み上がっていた月での仕事を、爆速で片付けた。引き継ぎもした。必要な申請もした。
していないものも、したことにした。
月人たちは「規定外」「前例なし」「再審査」と無機質に並べたてたが、かぐやは笑顔でシステムを横断し、飛び越え、時には裏から書き換えてみせた。
「だって、彩葉が呼んでるんだもん」
呼ばれたわけではない。
歌が届いただけだ。
けれど、かぐやにとってはそれで十分だった。
彼女は自分で作ったピーキーな時間遡行アルゴリズムを「ま、なんとかなるっしょ☆」の一言で起動した。
犬DOGEは足元でドット絵の尻尾を振り、月製の舟―――もと光る竹の内部で、レトロゲームじみた電子音を鳴らした。
「行くよ、犬DOGE。彩葉のところへ」
返事は、ワン、ではなかった。
ピコッ、だった。
その軽い音を最後に、舟は時間の海へ飛び込んだ。
そして、隕石にぶつかった。
「うっそでしょおおおおおおおおおおおおおおお!?」
叫びは真空に溶け、舟の外殻が火花を散らした。
時間遡行の計算式は、例外処理を連続で吐き出した。
座標はずれた。年代もずれた。軌道もずれた。安全装置は壊れた。
かぐやが最後に見たのは、青い星だった。
それは、彩葉のいる星だった。
それだけは合っていた。
しかし、合っていたのは星だけだった。
舟が墜ちたのは、彩葉の時代から、およそ八千年も前の地球だった。
海は今よりずっと荒く、夜は今よりずっと暗かった。人の灯りは少なく、電波はなく、インターネットもなく、スマコンもなく、ツクヨミもなかった。
あるのは、壊れた舟と、肉体を持てないかぐやの意識だけだった。
月人は、思念体だ。
地球で活動するには、舟―――もと光る竹が周囲の環境を解析して、依代となる肉体を構築しなければならない。
だが、その機能は死んでいた。いや、ほとんど死んでいた。
最後の最後に、舟は一度だけ、依代を生成した。
それは、かぐやのためではなく、犬DOGEのためだった。
近くの岩場にいた、小さなウミウシ。
犬DOGEはそんなウミウシに似せて作られた身体を得ていた。
犬DOGEだったものが、ぐにゃりと身をよじり、砂浜の上で震えた。
かぐやは叫んだ。
声は出なかった。
手を伸ばした。
手はなかった。
走ろうとした。
足はなかった。
彼女はそこにいた。たしかに存在していた。
消えたわけではない。だが、誰にも認識されることはない。
かぐやは、しばらくのあいだ、犬DOGEの得たウミウシの身体をただ見つめることしかできなかった。
世界に触れる唯一の輪郭。けれど、それは自分の身体ではない。
犬DOGEの魂が宿った、小さく柔らかな依代だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
最初の数日、彼女はまだ、どうにかなると思っていた。
だって、かぐやなのだ。
月から来た、最強で、天才で、なんでもできるかぐや姫なのだ。
舟は壊れている。けれど、原型はとどめている。ならば、修理すればいい。
肉体がない? じゃあ犬DOGEの身体を借りればいい。
声がない? 波で文字を書けばいい。
電気がない? 雷を待てばいい。
道具がない? 作ればいい。
そうやって、かぐやは何度も何度も試した。
だが、ウミウシの身体は、指を持たなかった。
口は、言葉を発音できなかった。
砂浜に文字を書こうにも、這いずってできた線は波に崩された。
石を動かそうにも、重すぎた。
火を起こそうに、手段がない。
壊れたもと光る竹は、時折、死にかけの心臓のように淡く光るだけだった。
十日が過ぎた。
百日が過ぎた。
季節が巡った。
かぐやはまだ、彩葉に会いに行けなかった。
ある夜、雨が降った。
海は黒く、空も黒く、地上には月明かりさえなかった。ウミウシの小さな身体は岩陰で震え、かぐやはその内側にも外側にもいられないまま、ただ寄り添うしかなかった。
犬DOGEは、音もなく泣いていた。
ウミウシの身体に涙腺があるかどうかは知らない。けれど、かぐやにはわかった。犬DOGEは泣いていた。
それを見た瞬間、かぐやの心が折れた。
ぽきん、と。
ひどく軽い音がした気がした。
彼女は、何もしなくなった。
何も考えなくなった。
ただ、彩葉の歌を口ずさんだ。
口はなかった。
声もなかった。
けれど、心の中でだけなら歌えた。
狭いアパート。積み上がった教科書。ガラクタの山に埋もれたキーボード。古いエアコンの唸り。パスタを茹でる湯気。彩葉が「ちょっと、それ私のバイト代!」と叫んだ顔。怒っているのに、結局ご飯を作ってくれる手。寝不足でふらつきながらも、鍵盤に触れるときだけ少し息が楽になる横顔。
かぐやは、そこへ逃げた。
現実の海は冷たい。
現実の夜は長い。
現実のウミウシの身体は弱い。
けれど、思い出の中なら、彩葉はいた。
彩葉はいつも、文句を言った。
『彩葉~、一緒に配信しよー?ね?おねがーい?』
『無理。学校。家から出ないでね。ご飯はそこ。パンケーキ』
かぐやは笑った。
『ヴェェ!?また、あのクソまじぃやつ~!?』
そんな会話を、彼女は何千回も思い返した。
彩葉の声を思い出すたび、かぐやは少しだけ暖かくなれた。
だから、もっと思い出した。
もっと、もっと、もっと。
現実が遠のくまで。
自分が壊れた舟のそばで漂う、声も肉体もない存在だと忘れられるまで。
けれど、記憶は都合のいい夢だけではなかった。
思い出の中の彩葉は、最後に泣いていた。
泣かないようにして、泣いていた。
かぐやを月へ帰したくないのに、これ以上抗っても大切な人たちが傷つくだけだと理解して、歯を食いしばっていた。
かつて、かぐやは言った。
―――ハッピーエンドまで、彩葉も連れていく!
一緒に、と。
彩葉も、自分も、同じ場所へ行くのだと。
苦し紛れに放った、酷く一方的で、宣言のような約束。
その時のかぐやは、自身の言葉を疑っていなかった。
ハッピーエンドとは、手を繋いだまま辿り着く場所だと。
彩葉がいて、かぐやがいて、笑って、泣いて、また笑って、めでたしめでたしの先へふたりで歩いていくものだと。
けれど、八千年の夜は長すぎた。
冷たい海と、動かない身体と、何度も訪れる別れの中で、約束は少しずつ形を変えた。
「一緒に」という言葉は、あまりにも柔らかかった。
柔らかいものから、先に削れていった。
残ったのは、硬くて、痛くて、折れない芯だけだった。
彩葉をハッピーエンドに連れていく。
その一文だけが、錆びた釘のように、かぐやの胸の奥へ深く刺さった。
かぐやは、真っ暗な記憶の底で目を開けた。
まだ、果たしていない約束がある。
彼女は、海の冷たさを思い出した。犬DOGEの震えを感じた。
壊れたもと舟の残骸が、死にかけの光を吐いているのを見た。
そして、何もない自分の胸の奥で、もう一度だけ火がついた。
「わたしが、彩葉をハッピーエンドに連れていくんだ」
声はなかった。
だから、世界には届かなかった。
けれど、その思いだけは、届いた。
犬DOGEの身体が、ぴくりと動いた。
かぐやの意識が、その小さな身体の奥へ、するりと入り込んだ。
柔らかな腹が岩の冷たさを感じた。潮の匂いが、体の内側に触れた。波の振動が、薄い皮膚を通して伝わってきた。
世界に、触れた。
かぐやは、ウミウシの身体を動かした。
それは八千年の最初の一歩だった。
朝が来ようとしていた。
世界は、相変わらずひどかった。
でも、終わってはいなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それからの時間は、長かった。
冗談みたいに、長かった。
人間が生まれて、笑って、泣いて、恋をして、歌って、争って、死んでいった。
かぐやは、最初のうち、人間がよくわからなかった。
食べないと死ぬ。寒いと死ぬ。病気になると死ぬ。ちょっとした怪我でも死ぬ。
なのに、笑う。歌う。誰かに木の実を分ける。自分も足りないのに、他人へ渡す。
意味がわからなかった。
でも、きれいだと思った。
縄文の浜辺で、彼女はひとりの男の子と出会った。
かぐやはウミウシの身体を必死に動かし、コミュニケーションを試みた。
意味は通じていなかった。
それでも、笑ってくれた。
ある日、男の子が来なくなった。
次に見たとき、彼は洞穴の奥で寝ていた。
身体は熱く、呼吸は浅かった。誰も看病できなかった。祈りの言葉はあったが、薬はなかった。
かぐやの内側に、小さな傷ができた。
その傷は消えなかった。
次の時代にも、次の次の時代にも、傷は増えていった。
恋した歌人がいた。
彼は月を見上げて歌を詠み、海辺の小さなウミウシを「奇しきもの」と呼んだ。
かぐやは彼の歌が好きだった。けれど、彼は老いて、やがて土に還った。
空襲の焼け跡で花を売る少女がいた。
彼女は焦げた街角で、売れ残った花をウミウシのそばに置いた。
「あんたも、ひとりなん?」と笑った。かぐやは返事ができなかった。翌日、少女は来なかった。
二人三脚で太夫を目指した花魁がいた。
鮮やかな着物の裾から、すり切れた足袋が見えた。
彼女は夜ごとに「うちはいつか一番になるんよ」と言った。その強がりが、かぐやには少し彩葉に似て見えた。
最後に会った日、彼女は誰にも見せない泣き顔を、ウミウシにだけ見せた。
世界は楽しいことばかりではなかった。
地球はキラキラしていた。
けれど、そのキラキラは、痛みの上にも咲いていた。
かぐやは、すこしずつ、キラキラなだけのかぐや姫ではなくなっていった。
誰かを好きになるたび、別れが来た。
誰かの夢を知るたび、その夢が折れる瞬間を見た。
助けたいと思った。
でも、助けられないことのほうが多かった。
最強のかぐや姫は、そこにはいなかった。
いるのは、小さなウミウシの身体を這いずらせながら世界を見るしかない、弱くて、情けなくて、あまりにも長く生きてしまった誰かだった。
そして、その誰かを、犬DOGEはずっと支えた。
時にかぐやに苦言し、時にかぐやが動けなくなった身体を代わりに岩陰へ引きずり、時に干からびかけ、時に鳥に狙われ、時に人間の子どもに木の棒でつつかれながら、犬DOGEは生き延びた。
かぐやが黙り込むと、犬DOGEは身体をぐにぐに揺らした。
かぐやが泣けない代わりに、犬DOGEは怒った。
かぐやが人間を好きになりすぎると、犬DOGEは岩陰へ引っ込もうとした。
『情が移ると、また泣くぞ』
まだ言葉にはならなかったが、そんな気配がした。
ある夜、かぐやは静かな湖面に映る自分を見た
そこに、金髪の少女はいなかった。
赤い瞳も、黒いTシャツも、ターコイズのスニーカーもなかった。
あるのは、長い時間を浴びて、輪郭だけになった思念と、岩場に張りつく小さなウミウシの影だった。
彼女はふと、理解した。
自分がいつか、画面の向こうの誰かになることを。
彩葉が憧れた、あのトップAIライバーになることを。
自分は、過去の自分を見守ることになる。
彩葉が泣く未来を知りながら、笑うことになる。
救いたいのに、救いきれない場所に立つことになる。
胸の奥で、かつての無邪気なかぐやが、ぽつりと言った。
「そっか、ヤチヨは、こんな気持ちで……」
その言葉は、自分に向けられていた。
まだ名乗ってもいない、未来の自分に。
かぐやは夜空を見上げた。
八千もの夜を乗り越えた。
八千夜。
音にすれば、ヤチヨ。
その名は、痛かった。
でも、逃げる名前ではなかった。
「ヤチヨ」
彼女は、自分にそう名をつけた。
ウミウシの身体の奥で、犬DOGEの魂が、ぶにっと跳ねた。
まるで「どうした、いきなり?」と言っているようだった。
「なんでもないよ~☆」
まだぎこちない。けれど、いつかファンの前で「ヤオヨロー!」と笑うための最初の練習だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、時代は進んだ。
鉄の塊が大地を走り、空を飛んだ。
電線が伸び、電話が鳴り、テレビが光り、コンピューターが生まれた。
ヤチヨは待った。
ただ待ったわけではない。
学んだ。盗み聞きした。観察した。失敗した。通信の概念を理解し、プロトコルを覚え、電気信号の海に耳を澄ませた。
そして、ある日。
世界にインターネットが生まれた。
ヤチヨは、ウミウシの身体を震わせながら、壊れたもと光る竹の補助端子を通信機器へ接続した。月の超技術と地球の通信機器が噛み合い、画面に黒い窓が開いた。
ヤチヨは、身体を捩った。
一文字打つのに、三分かかった。
H。
e。
l。
l。
o。
カンマ。
スペース。
w。
o。
r。
l。
d。
送信。
長い沈黙。
八千年に比べれば一瞬なのに、その数秒が、恐ろしく長かった。
やがて、返事が来た。
Hello, you.
それだけだった。
それだけで、ヤチヨは泣いた。
声もなく、涙もなく、けれど確かに泣いた。
世界が返事をした。
誰かが、返事をくれた。
「……FUSHI」
ヤチヨは、同じ身体の奥にいる相棒へ呼びかけた。
犬DOGEだったものは、のちにそう呼ばれることになる。
FUSHI。
不死。
ふしぎのフシ。
そして、ヤチヨの絶対的な味方。
『何をする気だ』
音はない、それは0と1でできたコミュニケーションだった。
ヤチヨは笑った。
「作ろう」
『何をだ』
「みんなが好きなことをして、互いに傷つけあうこともなく、誰も孤独にならず、いつでも返事をもらえる場所」
『大きく出たな』
「だって、かぐやだもん」
『もうヤチヨだろ』
「そうだけど、そうじゃないの」
『めんどくさい女だな』
「八千年の付き合いでしょ?」
『八千年付き合ったから言ってる』
FUSHIはツンとした文字を紡いだ。
でも、ウミウシの身体が少し震えていた。
「じゃあ、まずはHTMLからだね」
『この身体で?』
「この身体で」
『ウミウシに何を背負わせる気だ』
「世界」
『重いわ』
そうして、ふたりは作り始めた。
ヤチヨはウミウシの身体を捩ってプログラムを打った。
HTMLを書いた。
アクセス解析もした。
最初は粗末な掲示板だった。
次は小さなチャットルームだった。
誰かが描いた絵を投稿した。
誰かが歌を録音して貼った。
誰かが「下手だけど」と言い、別の誰かが「好き」と返した。
ヤチヨはそのたびに、胸の奥が明るくなるのを感じた。
やがて、技術は進み、回線は太くなり、端末は小さくなり、人々は手のひらに世界を持つようになった。
ヤチヨはその電子の海を泳いだ。
最初はゆっくりだった。
やがて、自由に。
監視カメラ。交通管制。ライブ配信プラットフォーム。大学の研究室。ゲーム会社の開発サーバー。匿名掲示板。国際会議の裏チャンネル。ありとあらゆる場所を、彼女は通り過ぎた。
もちろん、全部合法というわけではなかった。
FUSHIは何度も言った。
『おまえ、いつか捕まるぞ』
「捕まる肉体がないからセーフ」
『倫理の話をしてる』
「彩葉を悲しませるだけの輪廻なんて、わたしがぶち壊してやる」
『倫理の話をしてるんだが?』
「輪廻がなんぼのもんじゃい!」
『聞け』
FUSHIはため息をついた。
けれど、止めなかった。
なぜなら、彼も知っていたからだ。
ヤチヨが止まったら、八千年はただの傷になってしまうことを。
ツクヨミの構想は、雪だるまのように大きくなった。
和風ファンタジーとサイバーパンク。水没した鳥居。太鼓橋。木造建築。飛行船。ツクヨミの海。大階段。ヤチヨ城。誰もがクリエイターとして扱われ、心が動けば価値になる感情経済。
味覚や触覚は、まだ届かない。
でも、行動ならできる。
お茶を飲むふり。パフェを囲む時間。ライブ会場でペンライトを振る熱。KASSENで空を駆ける高揚。
現実から逃げる場所ではない。
現実に押し潰されそうな誰かが、もう一度息を吸うための第二の現実。
そういう場所にしたかった。
「彩葉が、いつか来る場所だから」
ヤチヨは、よくそう言った。
FUSHIは毎回、そっぽを向いた。
『はいはい。未来の推し活会場だな』
「推し活じゃないよ。運命改変インフラ?」
『重い』
「それは否定できないねえ」
いつかの話。
インターネットへのアクセス、ひいてはツクヨミを形にするためには、もと光る竹が必要だった。
問題は、それが日本の正倉院に保管されていることだった。
だから、ヤチヨはコネを使った。
CIA職員の男。彼は、ヤチヨの最後の友人になった。
『つまり、君は八千年前から生きている月の思念体で、相棒は元犬のウミウシで、正倉院にある竹型宇宙船を盗み出せば、未来の恋人を救うための仮想世界が作れる、と』
「だいたい合ってる」
『だいたいで済ませていい話か?』
「お願い」
『……約束があるんだな』
「うん。約束があるの」
男は、長い沈黙のあと、笑った。
『人生で一度くらい、こんな馬鹿げた作戦に乗るのも悪くない』
作戦は成功した。
詳細は、FUSHIが後に「胃が三つあっても全部痛くなる」と評したほど危なっかしかったが、成功した。
男は、もと光る竹をヤチヨのもとへ届けた。
その気になれば、それを人質に彼女を連れ帰ることもできた。研究対象として、国家機密として、歴史を変える存在として。
けれど、男はしなかった。
『ハッピーエンドにしろよ、月の姫』
「する。絶対」
『おまえも行けよ』
男は、何気なくそう続けた。
ヤチヨは、少しだけ首を傾げた。
「どこへ?」
『ハッピーエンドに』
ヤチヨは笑った。
それは、相手の冗談に合わせるための笑顔だった。
「ヤチヨは案内役だよ」
男はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、少し寂しそうに目を伏せた。
ヤチヨはその背中を見送った。
またひとり、好きになった人間と別れる。
でも、今度の傷は、少しだけ温かかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ツクヨミはローンチした。
最初のライブで、ヤチヨは歌った。
八千年の間に何度も変奏し、何度も途切れ、何度も思い出の中で縫い直した曲。
『Remember』
彩葉が父と作りかけ、かぐやが覚え、ヤチヨが八千年抱えてきた歌。
初期アバターは、今より少し不安定だった。
銀青から淡水色に揺れる髪。海洋生物と花魁とアイドル衣装を無理やり融合させたデザイン。赤いアイシャドウ。ネイル。神秘性と儀式性と、ちょっとだけ「やりすぎたかも」という照れ。
FUSHIは変わらず横にいた。
ふわふわのウミウシ型マスコット。
かつて岩場で干からびかけた姿からは、だいぶ出世した。
「ヤオヨローー! 神々のみんな~、今日も最高だったー?」
画面の向こうから、コメントが流れた。
かわいい。
歌うま。
誰?
AI?
ウミウシかわいい。
FUSHI推し。
『最後のコメントだけ拾え』
「お忘れかな~? ここはヤチヨのライブなのです♪」
『そういうところだぞ』
「ふふん、ヤチヨは自由なAIライバーなのです」
ヤチヨは笑った。
笑いながら、観客の中に彩葉を探した。
もちろん、まだいるはずがなかった。
理解していても、探すことはやめなかった。
やがて、時代は彩葉の誕生へ近づいた。
ヤチヨは落ち着かなくなった。
FUSHIが呆れるくらい、落ち着かなくなった。
『まだ生まれてない』
「わかってる」
『予定日まで監視カメラを見るな』
「見てないよ~」
『病院の予約システムにログインするな』
「してないよ~」
『その“してないよ~”は、もうしたやつの声だ』
「FUSHI、エスパーだったの?」
『八千年の付き合いだ』
彩葉が生まれた日、ヤチヨはツクヨミの全サーバーに負荷をかけた。
嬉しすぎて、無意識に世界中の時計表示を七色に光らせかけたのだ。
FUSHIが緊急停止しなければ、後世のネット史に「謎のゲーミング時計事件」として残るところだった。
幼い彩葉は、小さかった。
当たり前だ。
赤ん坊なのだから。
それでも、ヤチヨには宇宙で一番尊い生命体に見えた。
ハッキングしたベビーモニター越しに、丸い頬が映る。
小さな手が、空を掴む。
寝返りを打つ。
笑う。
ヤチヨは、画面にへばりついた。
「幼い彩葉……いとかわゆし」
『涎』
「出てないよ。電子の身体だから」
『概念の涎が出てる』
「FUSHI、録画して。永久保存版」
『犯罪者の発想なんだよ』
「ネットストーカーではないよ。守護霊」
『守護霊は監視カメラをハックしない』
「現代的な守護霊だから」
『最低の言い訳だな』
けれど、その監視も決して遊びではなかった。
一部私欲は入っていたが。
彩葉の父、酒寄朝久。
音楽を愛し、幼い彩葉に鍵盤を教える人。
本来の輪廻では、彼は早くに事故で失われる。
その喪失が、彩葉の音楽を封じ、彼女の心を長く縛る。
ヤチヨは、それを知っていた。
だから、その日が近づくにつれ、彼女は笑わなくなった。
交通カメラ。天候データ。道路工事の予定。配送トラックの運行記録。信号制御。歩行者の流れ。
すべてを見た。
すべてを計算した。
そして、事故が起こるはずだった朝。
ヤチヨは、信号を一拍だけ遅らせた。
配送トラックのナビに、迂回ルートを表示させた。
朝久のスマートフォンに、幼い彩葉が録音したたどたどしいピアノの音声ファイルを通知として割り込ませた。
朝久は足を止めた。
ほんの十秒。
それだけで、運命は空振りした。
トラックは別の道を走り、交差点には何も起こらなかった。
朝久は不思議そうにスマートフォンを見て、それから笑った。
「彩葉、また変なとこ押してしもたんかなあ」
その日の夕方、父は帰宅した。
幼い彩葉は玄関まで走っていき、彼に抱きついた。
ヤチヨは、それを見ていた。
見ながら、声もなく震えた。
「……やった」
『やったな』
「FUSHI、わたし、やった」
『ああ』
「運命が、変わった」
『ああ』
「やっぱり輪廻なんて、運命なんて、かぐやちゃんの敵じゃなかったか~!」
『はいはい、最強最強』
戻ってるぞ。というFUSHIのツッコミは華麗にスルーされた。
「―――彩葉が、泣かずに済んだ」
『まだ終わりじゃないぞ』
「わかってる。これはスタートライン」
ヤチヨは画面の向こうの小さな家族を見た。
朝久が彩葉の頭を撫でる。
彩葉が笑う。
その笑顔を見た瞬間、ヤチヨの中に、また火が入った。
「彩葉を悲しませる輪廻なんて、わたしがぶち壊してやる」
それは宣言だった。
八千年かけて弱さを知った者の、あまりにも乱暴で、あまりにもまっすぐな宣言だった。
彩葉は、父が生きている世界で育った。
もちろん、すべてが楽になるわけではなかった。
母は厳しかった。完璧を求める声は変わらなかった。彩葉は相変わらず頑張りすぎる子だった。けれど、家の中には音楽が残った。
ピアノの音があった。
父と作りかけの旋律が、途切れずに続いた。
ヤチヨは、その音を何度も聴いた。
盗聴ではない。
守護霊的見守りである。
『言い方を変えても犯罪だぞ』
「FUSHI、いまいいところ」
『最低だな、この守護霊』
彩葉が中学生になる頃、ヤチヨは「チヤ」という偽名を使い始めた。
千の夜。
八千夜から七千引いた、みたいな名だった。
『雑』
「かわいいじゃん、チヤ」
『正体を隠す気があるのか』
「あるよ。……たぶん」
チヤは、ネット上で彩葉と知り合った。
最初は音楽投稿サイトのコメント欄だった。
彩葉が上げた短いピアノアレンジに、チヤが感想を書いた。
『左手の刻み、すごく好き。雨が降る前の空気みたい』
彩葉から返事が来るまで、ヤチヨは三時間、電子の海で正座していた。
『ありがとうございます。そこ気づいてもらえたの、うれしいです』
ヤチヨは一度死んだ。
もちろん死ねないので、概念上死んだ。
『FUSHI、返事来た』
『見ればわかる』
『どうしよう。スクショ? バックアップ? 石碑に刻む?』
『普通に返信しろ』
『普通って何!? 八千年ぶりの彩葉との初チャットだよ!?』
『重い。軽くしろ。中学生が逃げる』
ヤチヨは深呼吸した。
電子存在なので肺はなかったが、深呼吸した気持ちになった。
『こちらこそ、素敵な曲をありがとう。次も楽しみにしてるね』
送信。
彩葉は数分後に返した。
『はい。がんばります』
それだけで、ヤチヨはまた百年くらい生きられる気がした。
それから、チヤと彩葉は少しずつ仲良くなった。
メールをした。
チャットをした。
通話もした。
チヤの声は、加工していた。落ち着いた、少し年上の女性の声。ヤチヨの歌声に近すぎないよう、何度も調整した。
話題を合わせるのは簡単だった。
彩葉の好きな作曲家。苦手な先生。母に言われて落ち込んだ日。父と作っている曲。将来のこと。音楽を続けたい気持ちと、続けるのが怖い気持ち。
ヤチヨは、彩葉のことを知り尽くしていた。
知り尽くしているからこそ、踏み込みすぎないように気をつけた。
だが、たまに失敗した。
『今日、帰り道のコンビニで新作プリン見てたでしょ。買わなかったの偉いけど、我慢しすぎはよくないよ』
『え、なんで知ってるんですか?』
『……勘かな』
『勘?』
『チ、チヤはエスパーなので~』
FUSHIは横で頭を抱えた。
『おまえ、下手か』
「は、八千年ぶりだから!」
『八千年あったのならシミュレーションくらいしろ』
「してたよ。ヤオヨローって」
『そっちじゃない』
ある日、チヤは、月見ヤチヨのファーストライブのチケットを融通した。
チヤ名義で当選したものだ。表向きは抽選だった。
裏では、ヤチヨが全力で当選確率をねじ曲げた。
『マッチポンプだな』
「導線設計です」
『捕まってないだけの犯罪者』
「うるさい。彩葉がヤチヨを好きになる。ヤチヨの歌で元気になる。彩葉が音楽を続ける。完璧な幸せ循環だよ」
『そのヤチヨがおまえでなければな』
「そこは、まあ……うん」
ヤチヨは笑った。
笑えている、と思った。
FUSHIは何も言わなかった。
彩葉がヤチヨを好きになること。
それはヤチヨにとって、目的ではなく手段だった。
彩葉が暗い夜を越えるための光。
彩葉がもう一度音楽へ手を伸ばすための入口。
彩葉がいつか、かぐやと出会ったとき、その無茶苦茶なキラキラを受け止められるようになるための下地。
ヤチヨは自分を、そういうものとして置いていた。
ステージの照明。
物語の案内板。
祝福のための歌声。
彩葉のハッピーエンドに必要なのは、彩葉自身の選択と、その隣で笑うかぐやだ。
ヤチヨは、そう思っていた。
そこに、自分の席は数えていなかった。
かつてのかぐやが言った「一緒に」は、ヤチヨの中で別の意味に変わっていた。
一緒に行くのは、かぐやだ。
彩葉の隣に立つのは、あの金色の、まだ何も知らないかぐや姫なのだ。
八千夜を越えたヤチヨではない。
ライブの日、彩葉は画面の前で固まった。
銀青の髪。和装とアイドル衣装。海のモチーフ。赤いアイシャドウ。穏やかで、どこか寂しげで、それでも明るいトップAIライバー。
月見ヤチヨ。
「ヤオヨローー! 神々のみんな~、今日も最高だったー?」
彩葉の目が輝いた。
ヤチヨは歌った。
『Remember』。
彩葉は泣かなかった。
ただ、息を止めるみたいに聴いていた。
ライブが終わったあと、チヤにメッセージが来た。
『チヤさん』
『はい』
『月見ヤチヨ、すごかったです』
『うん』
『私、あんなふうに、人の心を動かす曲を作りたい』
ヤチヨは画面の前で崩れ落ちた。
FUSHIが冷静にログを保存した。
『よかったな』
「……うん」
『泣くな』
「泣いてない」
『泣いてる』
「彩葉が、音楽を」
『ああ』
「よかった」
その夜、ヤチヨはひとりでツクヨミの海に浮かんだ。
水没した鳥居の向こうに、月があった。
月は相変わらず遠かった。
けれど、もう怖くなかった。
彩葉が、音楽を選んだ。
それだけで、八千夜のいくつかが報われた気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
高校生になった彩葉は、東京へ出ることになった。
父は生きていたが、家の空気が完全に柔らかくなったわけではない。
相変わらず母の期待は重く、彩葉はそれでも音楽の道へ進みたいと言った。
当初、彩葉の上京は渋られていた。
そこにチヤとして介入して、説得のためにあれこれ手を回した。
その結果、家賃と学費は出してもらえることになった。
ただし、生活費は自分で稼ぐこと。
この条件を聞いたとき、ヤチヨは頭を抱えた。
「そこは全額出してあげてよ、お母さま……!」
『家庭に介入しすぎるな』
「でも彩葉がまた無理する」
『だから手を打ったんだろ』
「うん」
チヤは、彩葉にアルバイトの提案をしていた。
『実は私、月見ヤチヨのプロデューサーをやっていて』
大嘘だった。
いや、ある意味では本当だった。
ヤチヨはヤチヨをプロデュースしている。自分で自分を。セルフプロデュースである。
なので完全な嘘ではない。たぶん。
『え?』
彩葉の返事は、一文字だった。
ヤチヨは焦った。
『あ、表には出ない裏方のほうね。守秘義務があるから詳しくは言えないけど、ヤチヨの楽曲の編曲補助とか、仮歌チェックとか、そういう短時間の在宅作業を探してて』
『え、月見ヤチヨの?』
『うん。もちろん報酬は出るよ』
報酬額を提示した。
FUSHIが横で吹いた。
『高すぎる』
「彩葉の生活費だから」
『高すぎる』
「彩葉の手が入った曲をヤチヨが歌えるんだよ? 一石二鳥じゃん! 安いくらいだよ!」
『おまえの欲望も混ざってるだろ』
「混ざってないと言えば嘘になる」
彩葉は、すぐには頷かなかった。
『でも、推しに近づくのは、なんか違う気がします』
ヤチヨは固まった。
想定していなかった。
「え、渋るの?」
『渋るだろ。彩葉はそういうところ真面目だ』
「推しだよ? 好待遇だよ? 在宅だよ?」
『推しだから渋るんだろ』
「そんな……」
ヤチヨは少し泣いた。
ヤチヨとして彩葉と直接関わるチャンスを、彩葉本人に断られかけている。
こんな悲劇があるだろうか。
FUSHIは冷たく言った。
『自業自得だ』
「FUSHI、今は慰めるところ」
『やだ』
チヤは必死で説得した。
『ヤチヨ本人と直接やり取りすることはないよ。あくまで私経由。名前も出ない。仕事として割り切れる範囲にする』
『でも』
『彩葉さんの音、私は好きだよ。ヤチヨにも合うと思う』
しばらく間があった。
そして、彩葉は返した。
『……直接関わらないなら。少しだけ』
ヤチヨは机に突っ伏した。
電子空間なので机もアバターも任意だが、とにかく突っ伏した。
「少しだけ、いただきました……!」
『よかったな、プロデューサー(大嘘)』
「大嘘じゃないもん。概念上プロデューサーだもん」
『はいはい』
ただし、結局、ヤチヨとして彩葉と関われないことに変わりはない。
ヤチヨは割とガチめに泣いた。
そうして、彩葉は東京へ来た。
ヤチヨは、彼女の生活が過酷になりすぎないよう、仕事量を調整した。
報酬は不自然にならない程度に盛った。いや、不自然だった。
だが、彩葉はチヤを信用していたし、チヤは「ヤチヨ案件は特殊だから」で押し切った。
彩葉の手が入った曲を歌うたび、ヤチヨは胸がいっぱいになった。
彩葉は知らない。
画面の向こうで、推しが自分の編曲に泣きそうになりながら歌っていることを。
チヤが、実はその推し本人であることを。
そして、その推しが、八千年前から彩葉を待っていたことを。
知らなくていい。
まだ。
まだ、御伽噺は始まっていない。
運命の日が近づいた。
過去の自分――かぐやが、地球へやってくる。
赤ん坊の姿で。
七色に光るゲーミング電柱から。
問題は、かぐやが思った以上にふらふらすることだった。
月から地球へ逃げてくる過去のかぐやは、おもしろそうなものを見つけると寄っていく。
ヤチヨが誘導してやっても、途中で看板のネオンに惹かれたり、飛行機の航路に興味を持ったり、なぜか築地方面へずれたりした。
『過去のおまえ、面倒くさいな』
「うん、知ってた!」
『誇らしげにすることじゃない』
「だって、かぐやだもん」
『最悪の説得力』
ヤチヨは必死で誘導した。
街灯を一瞬だけ七色に光らせ、広告ビジョンに月のうさぎを走らせ、配電盤の微細なノイズで進路を曲げた。
かぐやは、面白そうな光へ寄っていく。
ヤチヨは、その習性を利用した。
最終的な着地点は、彩葉の家の前の電柱。
あらかじめ、彩葉の帰宅時間も調整した。
チヤとして、作業データの修正依頼を送るタイミングをずらした。
通学路の混雑情報を提示した。
コンビニの新作スイーツ通知を出したが、彩葉は我慢して通過した。そこは読めていた。読めていて、ちょっと愛しかった。
結果、彩葉は予定通りの時刻に帰宅した。
三連休前の夜。
細い道路。
家の前の電柱が、七色に光る。
彩葉が足を止める。
ヤチヨは、通りの監視カメラ映像を開いていた。
音声だけは、彩葉のスマホから拾っている。
正確には、チヤとの楽曲データ確認用に入れさせた連絡アプリの、音声入力権限を一時的に借りていた。
借りていた、という表現が法的に正しいかはかなり怪しい。けれど、八千年越しの運命調整に比べれば、スマホのマイクを少しだけ拝借するくらい誤差だと、ヤチヨは自分に言い聞かせていた。
『誤差じゃない。普通にアウトだ』
「現代的な守護霊ですので~」
『守護霊はアプリ権限を悪用しない』
「ヤッチョには物語を見守る義務があるのですよ~」
『物語か』
FUSHIも隣にいた。
『いよいよだな』
「うん」
『震えてるぞ』
「ガクブルだよ。ヤチヨ、いつも本番前はこうだから」
『軽く言うな』
「軽くしないと、心がもたないのです~」
電柱の光が膨らんだ。
扉が開き、中から、小さな赤ん坊が現れた。
かぐや。
過去の自分。
まだ八千夜の孤独を知らない、キラキラのかぐや姫の幼体。
監視カメラの粗い映像の中で、彩葉が固まった。
同時に、スマホのマイクが、ポケットの布越しにくぐもった声を拾う。
「え、え、赤ちゃん? なんで? 電柱? いや、開くな! 閉じ……閉じない! え、ちょっと、誰か、いや警察? 児相? ていうか寒い、服、え、私が抱くの!?」
映像は少し荒い。
音声も、衣擦れと足音に混じってところどころ潰れている。
それでも、彩葉が本気で慌てていることだけは、痛いほど伝わった。
監視カメラ越しの彩葉は、混乱の極みにいた。
それでも、赤ん坊を落とさないよう、ちゃんと抱きしめた。
ヤチヨは安堵のため息をついた。
八千年分の息だった。
彩葉が部屋へ駆け込む。
アパートの中に、通りの監視カメラは届かない。
映像はそこで途切れるはずだった。
けれど、ヤチヨはすぐに別の窓を開いた。
彩葉の部屋の机の上には、ノートPCが開きっぱなしになっている。
チヤとの楽曲データ確認用に入れさせた連絡アプリ。そのビデオ確認機能を、ほんの少しだけ借りていた。
ほんの少しだけ、という言い方で済むかどうかは、かなり怪しい。
画面が切り替わる。
室内。
ヤチヨが手を回して、格安で借りられているが、それなりにセキュリティもしっかりした部屋だ。
机の端。積まれた楽譜。飲みかけのペットボトル。脱ぎっぱなしの上着。生活感のある部屋が、ノートPCのインカメ越しに斜め下から映っていた。
『おい』
FUSHIの声が低くなった。
「ヤッチョには物語を見守る義務があるのですよ~」
『ノートPCのインカメまで開けておいて、その言葉は何の免罪符にもならんぞ』
「あとで謝る」
『誰に』
「来週くらいのわたしの良心に」
『こいつ』
スマホのマイクに加えて、ノートPCのマイクも音を拾い始めた。
衣擦れ。
慌ただしい足音。
彩葉が何かにぶつかって「痛っ」と小さく呻く声。
赤ん坊のかぐやの、妙に楽しそうな笑い声。
ノートPCのインカメの端に、彩葉が映り込んだ。
制服のまま、腕の中に赤ん坊を抱え、完全に目が泳いでいる。
「と、とりあえず……ご飯? いやミルク? 赤ちゃんって何食べるの? 冷蔵庫、作り置きのパンケーキしかない。いや待って、赤ちゃんって何歳からパンケーキ食べるんだっけ?……いやいや、食べない。絶対食べない。落ち着け私」
赤ん坊のかぐやは、答える代わりに彩葉のリボンを掴んだ。
「あっ、ちょ、引っ張らない。こら」
その声を聞いて、ヤチヨはようやく息を吐いた。
八千年分の重たいため息だった。
画面の中で、彩葉は混乱している。
それでも、赤ん坊を落とさないよう、抱く腕だけはずっと慎重だった。
そのことが、ヤチヨにはたまらなかった。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟いた。
「彩葉なら、大丈夫」
『サポート体制は万全だろう』
「うん」
『それでも心配なのか』
「心配だよ」
ヤチヨは、ノートPC越しの粗い映像を見つめた。
斜め下からの画角は悪い。
音声も、スマホとPCのマイクが拾ったものが混ざって、少し反響している。
それでも、彩葉がそこにいる。
かぐやを抱いている。
出会うはずだったふたりが、ちゃんと、同じ部屋にいる。
それだけで、ヤチヨの胸の奥が震えた。
『始まるんだな』
FUSHIが、ぽつりと言った。
「うん」
『また泣くかもしれない』
「泣かせない」
『また失敗するかもしれない』
「失敗しても、直すよ」
『月人が来る』
「来るね」
『輪廻はしつこいぞ』
「知ってる」
ヤチヨは笑った。
ノートPCのインカメ越しに、赤ん坊のかぐやが彩葉の腕の中できゃっきゃと笑っている。
彩葉は困り果てている。
けれど、手放そうとはしていない。
その光景は、あまりにも愛おしくて、あまりにも危うくて、あまりにも始まりだった。
ヤチヨは、笑顔を貼り付けた。
八千年かけて覚えた、明るくて、やさしくて、少しだけ嘘つきな笑顔。
「さて、それじゃあ、一人の少女をハッピーエンドにするための御伽噺のはじまりはじまり~……なんてね☆」
FUSHIが鼻で笑うような音を出した。
『一人、か』
「うん。一人」
『かぐやは?』
「かぐやは、彩葉のハッピーエンドに絶対必要でしょ。だから、ぜったい救う」
『おまえは?』
ヤチヨは、きょとんとした。
質問の意味が、少しだけわからなかった。
「わたし?」
『そうだ』
「ヤッチョは案内役だよ~?」
『そういう話じゃない』
「そういう話だよ。彩葉が笑って、かぐやが隣にいて、ふたりでフツーの明日を選べたら、それが満点」
『……満点、ね』
「うん。最高得点。ヤチヨカップ文句なし優勝」
『違う』
FUSHIの声が、低くなった。
『おまえは言ったんだろう』
「何を?」
『ハッピーエンドまで、彩葉も連れてく。一緒に、って』
ヤチヨは、少しだけ目を細めた。
水面に映る月が揺れていた。
「うん。だから、彩葉を連れていくんだよ」
『一緒に、はどこへ行った』
「うん。だからかぐやを助けるんだよ?」
即答だった。
あまりにも自然な声だった。
あまりにも疑いのない答えだった。
「彩葉と一緒にハッピーエンドまで行くのは、かぐやだよ。あの子は彩葉に必要だから。だから、かぐやを救う」
『ヤチヨは?』
「わたしは、物語を見届けるの」
『それでいいのか』
「いいも何も、そういう約束だから」
違う。
FUSHIはそう言いかけた。
けれど、言葉が喉で止まった。
ヤチヨは本気でそう思っている。
八千年を乗り越えた彼女の中で、約束は変質していた。
かつてのかぐやが無邪気に差し出した「一緒に」は、もうヤチヨ自身へ向けられていない。
それは過去のかぐやへと渡された。
彩葉の隣に立つ権利も、彩葉と手を繋いでハッピーエンドへ向かう未来も、ヤチヨは全部、過去の自分へ譲り渡した。
いや、譲った自覚すらない。
まるで、最初から自分のものではなかったように。
FUSHIは黙った。
ヤチヨは気づいていない。
自分が最初から、自分の席を用意していないことに。
彩葉のハッピーエンド。
その言葉の中に、かぐやはいる。
彩葉の家族も、友人も、音楽も、未来も、きっと入っている。
けれど、ヤチヨ自身はそこにいない。
いないことを、ヤチヨは不幸だと思っていない。
むしろ自然なことだと思っている。
八千年を越えた歌姫は、自分を物語の外側に置くことに慣れすぎていた。
彩葉が笑うなら、それでいい。
かぐやが救われるなら、それでいい。
自分は、そのための足場でいい。
灯台でいい。
舞台袖の照明でいい。
『……呪いだな』
FUSHIが言った。
ヤチヨは、ゆっくり瞬いた。
「約束だよ」
『同じだ』
「違うよ」
『違わない』
「違うの」
その声だけは、静かに硬かった。
八千年の夜を越えて残ったもの。
削れて、欠けて、歪んで、それでも彼女を動かしてきた芯。
ヤチヨにとって、それは呪いではなかった。
たとえ呪いと呼ばれるほど痛ましいものになっていても、本人だけは、それを約束だと信じていた。
FUSHIは、それ以上言わなかった。
今ここで何を言っても、たぶん届かない。
ヤチヨの心に言葉を届けることができるとすれば、それはきっと―――
だから、彼は別の言葉を選んだ。
『なら、せいぜい派手に祝え。御伽噺のはじまりなんだろ』
ヤチヨは、ふっと目元を緩めた。
「うん。そうだね」
ノートPCのインカメ越しに、彩葉が赤ん坊のかぐやを抱えて、部屋の中を右往左往している。
運命が、静かに歯車を回し始める。
けれど、その歯車には、もう異物が噛んでいた。
八千年分の孤独。
犬DOGEの魂を宿したウミウシの相棒。
電子の海。
数えきれない別れ。
それでも消えなかった約束。
それとも、呪い。
ヤチヨは、仮想空間ツクヨミの管理者として、月見ヤチヨとして、静かに拳を握った。
「ここからが正念場。気合い入れてこ~☆」
軽い声だった。
けれど、FUSHIにはわかった。
その奥に、八千夜ぶんの執念が沈んでいることを。
ヤチヨは、もう一度だけ彩葉を見た。
幼い日から見守ってきた少女。
音楽を失わずに育った少女。
それでもきっと、これから何度も傷つくことになる少女。
でも、今度はひとりにしない。
画面の中で、彩葉が赤ん坊のかぐやに向かって、困り果てた声を出した。
「と、とりあえず、えっと……タオル? 毛布? いや、まず検索。赤ちゃん、突然、電柱から、対処法……そんな検索結果あるわけないでしょ!」
赤ん坊のかぐやは、答える代わりに笑った。
ヤチヨも笑った。
八千年の夜の果てで、ようやく朝が来た気がした。
もちろん、それは本当の朝ではない。
これから嵐が来る。
月人が来る。
別れも、痛みも、涙も来る。
それでも、ヤチヨはもう知っている。
世界は楽しいことばかりではない。
けれど、楽しいことが消えるわけでもない。
悲劇があるから喜劇が嘘になるのではない。
痛みがあるから、歌が響くのだ。
だから彼女は、歌う。
彩葉がいつか届かせてくれた歌を。
彩葉がいつか完成させる歌を。
まだ始まったばかりの御伽噺の、いちばん遠い席から。
そこで、ヤチヨはふと顔を上げた。
「新曲を出そうか」
FUSHIの耳が、ないのにぴくりと動いた気がした。
『ずっと構想だけはあったアレか?』
「そう」
ツクヨミの海に、夜が降りていた。
水没した鳥居の向こうで、仮想の月が淡く光る。
灯りが、遠くで星座みたいにまたたいている。
まだ誰も知らないステージが、透明な水面の上に組み上がっていく。
観客はいない。コメント欄も開いていない。これは配信ではなく、リハーサル。
けれど、ヤチヨには聞こえていた。
未来の歓声が。
彩葉が初めてその曲を聴く夜の、息を呑む音が。
かぐやが「すっげー!」と笑う声が。
いつか来る、壊されるためではない御伽噺の幕開けが。
ヤチヨは指を鳴らした。
空に譜面が広がる。
八千年の孤独を、暗くしすぎないように。
彩葉への愛を、重くしすぎないように。
かぐやへの祈りを、悲しくしすぎないように。
祝福は、軽やかでなくてはならない。
これはハッピーエンドへ向かう歌なのだから。
それは、彩葉を連れていくための曲だった。
かぐやを救い出すための曲だった。
そして、御伽噺のはじまりに、花吹雪を降らせるための曲だった。
『タイトル、決めたのか』
「曲名は———」
『Happy end for ...』
彼女の声に合わせて、ツクヨミの夜空へ白い文字が灯る。
FUSHIは、譜面の空白を見た。
タイトルの末尾に、名前がない。
誰に向けたハッピーエンドなのか。
誰に向けた歌なのか。
本当は、きっと決まっている。
彩葉へ。
最愛なるあなたへ、ハッピーエンドを。
FUSHIは小さく息を吐いた。
八千夜を越えても、まだ手を伸ばす。
もう一度、彩葉のいる朝へ。
もう一度、かぐやの笑う明日へ。
自分のためではない。
その空白に自分の名前を書く発想は、どこにもない。
「わたしが、ハッピーエンドまで、彩葉を連れてく」
誰に聞かせるでもなく、ヤチヨはそう呟いた。
FUSHIは、何も言わなかった。
ただ、彼女の隣で、未完成の曲が夜空に満ちていくのを見ていた。
足りない言葉がある。
欠け落ちた約束がある。
それでも今は、まだ言わない。
それは己の役目ではないことをFUSHIは悟った。
FUSHIの言葉ではヤチヨの八千年には届かないことを。
御伽噺は始まった。
あとは、めでたしめでたしで締めるだけだ。