八千夜   作:超かぐや姫!に脳を焼かれた人

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一瞬だけランキング載ってたみたいです!
ありがとうございます!

03話からは彩葉視点の話になります。
書きたいこと全部入れたので、結構な文字数になってしまいました。
読みにくかったら申し訳ないです……。

※2026/5/23 本文の表現を一部修正。(かぐやの髪色の描写)


03話_Happy end for Iroha

「私、東京の高校に行きたいんよ」

 

私は、母と父にそう直談判した。

 

中学二年生の夏のこと。

まだ受験校を決めるには少し早い。

けれど、高校から東京へ出たいと言うなら、早すぎるくらいでちょうどいいと思っていた。

 

将来的には、東京の音楽大学に進学するつもりで、高校のうちから上京したいことを訴えた。

兄、酒寄朝日も高校の時分には家を出て、東京で一人暮らしをすることを許されていた。

だから、私だって、きっと許されるはず。

 

そして、そんな私の甘い考えは、すぐに母に切って捨てられた。

 

「あんたみたいなあまちゃんに一人暮らしは無理や。おとなしゅう地元の高校に進学しぃ」

 

正直、ここまでは想定内だった。

母の出方は予想通りと言っていい。

 

想定外だったのは―――

 

私は次に、縋るように父に視線を送った。

父は困ったように笑っていた。

そして、母の言葉に異を―――

 

唱えることはなかった。

 

「父さんもお母さんと同意見や。音楽の道を志してくれるんは嬉しいけど、上京は大学からでも遅うないと思う」

 

愕然とした。

そんな、お父さんは、私の味方やないん!?

 

私が視線で父に助けを求めたことに、目ざとく気づいた母はため息を吐いた。

 

「そういうとこや。肝心な時、すぐ他人に助けを求める。彩葉、あんたに一人暮らしは無理や」

 

こうして、酒寄彩葉による、第一回目の説得は惨敗という形で幕を閉じた。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

「聞いてくださいよー、チヤさーん」

 

その夜、私は自室のベッドに寝間着姿で寝転がり、チヤさんに愚痴を話していた。

普段は京都弁の訛りが出る私だが、チヤさんと話す時は自然と標準語寄りの口調になる。

 

『……………………うーん、そっかぁ、お許しでなかったかぁ』

 

チヤさんの声は何故か震えていた。

 

「そうなんです。今回はお父さんもお母さん側についちゃって」

 

父がこちらに付けば、母も丸め込めるだろうと踏んでいた。

考えが甘かったという他ない。

私が二対一の一側になるなど、微塵も想定していなかった。

 

『そっか、そっかぁ……そうきたかぁ』

 

「そうきたかぁ、って何ですか」

 

『いや、こっちの話。お父様も慎重派かぁ……』

 

画面の向こうのチヤさんは、いつもの軽い調子でそう言った。

けれど、やはり、どこか声が上ずっている。

 

不思議に思いつつ、チヤさんと会話を続けながら思考に耽る。

早々に次の手を考えなければならない。

だが、どうすればあの母を説得できるだろう。

あの完璧超人で、弁の立つ母を。

私に、説得できるのだろうか。

 

『まぁ、女の子の一人暮らしだと認めさせるのは至難の業かもね……』

 

「ですよねぇ……」

 

それは、たしかに。

母はよくわからないが、父は私のことを大事にしてくれている。

兄が家を出て行ってから、父は余計に私に過保護になった気がする。

 

てっきり一枚だと思っていた、乗り越えるべき壁が実は二枚だった。

ちょっと絶望的な状況に泣きそうだ。

 

『……ねぇ、彩葉ちゃん』

 

「はいぃ……」

 

『その説得、二対二にしてもよろしいかー?』

 

「……え?」

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

チヤさんの言う「二対二」は、単に味方として口を挟む、という意味ではなかった。

 

翌日の夜。

私は自室でノートPCを開き、チヤさんと改めて作戦会議をしていた。

 

『まず前提としてね、彩葉ちゃん』

 

「はい」

 

『彩葉ちゃんを、うちの会社でスカウトしたいです』

 

「……はい?」

 

思考が止まった。

 

スカウト。

スカウトとは。

あの、才能ある人に声をかけるやつ?

私に?

何を?

 

『正確には、音楽制作サポート業務の委託だね。採譜、メロディデータの整理、簡単な編曲補助、ボーカルエディット。そのあたりをお願いしたい』

 

「いやいやいや、待ってください。どこの、何の仕事ですか」

 

『そこ、ちゃんと説明するね』

 

画面の向こうで、チヤさんが妙に改まった顔をした。

 

『こほん……。わたくし、株式会社Luminaにて、ツクヨミのトップAIライバー、月見ヤチヨのプロデューサーをさせていただいております、逆月千夜と申しまーす☆』

 

「ヤチヨのプロデューサー!?」

 

私は椅子から転げ落ちかけた。

 

ヤチヨ。

月見ヤチヨ。

私の推し。

いや、私のではない。

世界のヤチヨ。

そのプロデューサー?

 

『うん。ごめんね、黙ってて』

 

「え、え、え、え、じゃあ、チヤさんは、ヤチヨの、関係者……?」

 

『関係者というか、窓口というか、裏方というか……まあ、そういう感じ』

 

「無理です」

 

『早い』

 

「無理です。お断りします」

 

『彩葉ちゃん? 東京行きたいんだよね?』

 

「行きたいです。でも、それとこれとは話が別です」

 

自分でもびっくりするくらい、即答だった。

 

東京には行きたい。

音楽もやりたい。

できることなら、どんな条件でも掴みたい。

 

けれど。

 

「東京に行けるのは嬉しいです。スカウトの話も嬉しいです。でも、推しとお近づきになるのは、違うんです」

 

『…………』

 

「すみません。意味のわからないことを言っている自覚はあります。でも、私はヤチヨの歌に救われてるんです。毎日聴いてます。配信も見てます。グッズも、買える範囲で買ってます。だからこそ、ファンとしての距離感は守りたいんです」

 

自分で言っていて、だんだん早口になってきた。

まずい。

これは面倒くさいオタクの喋り方だ。

 

でも止まらない。

 

「推しの関係者とたまたま知り合ったから、その伝手で東京行けて、仕事をもらうとか、なんか、こう、違うじゃないですか。ヤチヨは私みたいな一ファンが変に近づいていい存在ではないというか、認知されたら死ぬというか」

 

『死なないでね』

 

「死にます」

 

『死なないでってば』

 

チヤさんは、嬉しそうな、悲しそうな、困ったような顔をしていた。

豊かな表情筋だなと思った。

それから、少しだけ声を落とした。

 

『彩葉ちゃん。これは、ヤチヨとお近づきになる仕事じゃないよ』

 

「でも、ヤチヨの音楽制作サポートなんですよね?」

 

『そう。だけど、彩葉ちゃんが表に出ている月見ヤチヨ本人と直接打ち合わせをする形にはしない。窓口は全部わたし。依頼内容も、制作素材として切り分ける。彩葉ちゃんがやるのは、あくまで裏方の音楽作業』

 

「……ヤチヨと直接、話したりは?」

 

『少なくとも、この仕事を理由に、彩葉ちゃんをヤチヨへ直接引き合わせることはしない』

 

チヤさんは、そこだけ妙に慎重に言った。

 

軽い調子で「しないしない」と流すのではなく。

言える範囲を、きちんと選んでいるみたいだった。

 

『ヤチヨの名前を餌にして、彩葉ちゃんを釣るつもりはないよ。報酬も、条件も、業務内容も、全部ちゃんと書面にする。ファンだから安く使うとか、そういうことも絶対にしない』

 

「……でも、私でいいんですか」

 

『彩葉ちゃんがいい』

 

即答だった。

 

『彩葉ちゃんの音楽には価値がある。これは推し活じゃなくて、仕事の話。彩葉ちゃんが積み上げてきた技術に対して、正当な報酬を払いたいって話だよ』

 

「…………」

 

それは、ずるい言い方だった。

 

単にヤチヨに近づける。

そう言われていたのなら、私は頑なに拒否していた。

 

でも。

あなたの音楽に価値がある。

そんなことを言われたら、拒めなくなってしまう。

 

『もちろん、嫌なら断っていい。東京行きの説得材料として使えるのは確かだけど、彩葉ちゃんの気持ちを無視して進めるつもりはないから』

 

「……ヤチヨと直接関わる仕事では、ないんですよね」

 

『うん。表向きの月見ヤチヨと、直接やり取りする仕事ではない。窓口はチヤさん。そこは約束する』

 

「ファンとしての節度を失わなくていい?」

 

『むしろ、そこまで言える彩葉ちゃんだからお願いしたいかな』

 

そんなことを言われたら、もう、どうしようもなかった。

 

私はしばらく悩んで、悩んで、悩んで。

最後に、深々と息を吐いた。

 

「……わかりました」

 

『ほんと?』

 

「はい。ただし、私はあくまで裏方です。ヤチヨのファンとして、節度は守ります。お仕事として受けます」

 

『うん。それでいい』

 

画面の向こうで、チヤさんがほっとしたように笑った。

 

今思えば、あの時のチヤさんは、私以上に必死だった気がする。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

チヤさんを味方に付けた第二回目の説得。

 

酒寄家の家族会議に、ノートPC越しに参加するチヤさん。

事前に二人には伝えていたものの、母はチヤさんが画面に映った瞬間、何ともいえない表情をしていた。

 

食卓の上には、私が作った進学希望校の資料。

音楽大学への進学実績。

東京で受けられるレッスンの一覧。

そして、チヤさんから事前に郵送で届いた、妙に分厚い封筒。

 

母はそれらを一瞥し、腕を組んだ。

 

「まず聞きますけど、チヤさん? あなたはどういう立場で、この話に同席してはるんですか?」

 

『はい。そこからご説明します』

 

画面の向こうで、チヤさんが姿勢を正した。

いつもの、ふわふわした頼れるお姉さんの顔ではある。

けれど、声の芯だけが少し違う。

 

軽いのに、誠実な声音。

 

『ビデオ通話越しで申し訳ありませんが、改めて名乗らせていただきます』

 

チヤさんに促され、私は封筒から一枚の名刺と書類を取り出した。

もちろん、中身は知っている。

今日の話は、事前にチヤさんと何度も作戦会議をしている。

 

している、はずなのだが。

 

『わたくし、株式会社Luminaにて、ツクヨミのトップAIライバー、月見ヤチヨのプロデューサーをさせていただいております、逆月千夜と申します。どうぞよろしくお願いいたします』

 

「ヤチヨのプロデューサー!?」

 

思わず叫んだ。

 

『いや、彩葉ちゃんはこの話聞くの二回目だよね? なんで驚いてるの?』

 

「なんか、いまだに現実味がなくて……」

 

母、父、チヤさんからの視線が私に集中する。

あっ、はい、すみません。

 

いや、無理だ。

何回聞いても無理だ。

 

月見ヤチヨ。

私のヤチヨ。

 

いや、私のではない。

 

世界のヤチヨ。

ツクヨミのトップAIライバー。

私が毎晩のように配信を見て、歌を聴いて、明日も頑張って生きようと思わせてくれるあのヤチヨ。

 

そのヤチヨのプロデューサーが、私のネットの友人として画面の向こうにいる。

 

どういう人生?

 

「……月見ヤチヨいうたら、彩葉がよう聴いとる歌の人か?」

 

父が、少し驚いた顔で私を見る。

 

「うん。神」

 

「神……?」

 

「神」

 

「話を戻しましょか」

 

母の一言で、浮かれかけた空気が即座に撃ち落とされた。

はい、度々すみません。

 

母は名刺を手に取り、そこに記載された会社名、部署名、連絡先を順に確認していく。

その目つきは、完全に仕事中の弁護士のものだった。

 

「つまりチヤさんは、彩葉の友人としてではなく、企業側の人間としてこの話をしに来た。そういう理解でええですか?」

 

『はい。友人として彩葉さんを心配しているのは事実です。ただ、今日ご提案する内容は、個人的な善意だけではありません。弊社の業務として、彩葉さんに音楽制作の補助を依頼したい。そのための環境整備について、ご両親にご相談に上がりました』

 

「彩葉は、その話を知ってるんですか?」

 

『はい。事前に説明しています』

 

母の視線がこちらに向く。

 

「知ってて今の反応なん?」

 

「知ってても驚くもんは驚くんよ……」

 

「落ち着きがない子やなぁ」

 

「はい」

 

母は、呆れたようにため息を吐いた。

けれど、その目はすぐにチヤさんへ戻る。

 

「それで。月見ヤチヨさんの仕事ということは、彩葉がその方と直接関わるんですか?」

 

心臓が跳ねた。

 

そこ。

そこは大事だ。

とても大事だ。

 

私が口を開くより早く、チヤさんが答えた。

 

『いいえ。少なくとも、この業務を理由に、彩葉さんを月見ヤチヨ本人へ直接引き合わせることはありません』

 

「本人へ?」

 

母がわずかに眉を寄せる。

 

『表向きのライバーとしての月見ヤチヨ、という意味です。業務の窓口はすべて私、逆月千夜が担当します。彩葉さんに依頼する作業も、採譜、データ整理、編曲補助、ボーカルエディットなど、切り分けられた裏方業務です』

 

「……彩葉」

 

「はい」

 

「それでええん?」

 

「ええよ」

 

私は頷いた。

 

「私はヤチヨのファンやからこそ、距離感は守りたい。お仕事として受けるなら、裏方として、きちんと節度を持って関わるつもりや」

 

言っていて、少し恥ずかしくなった。

何を親の前でオタクの矜持を語っているのだろう。私は。

 

でも、母は笑わなかった。

父も笑わなかった。

 

チヤさんだけが、画面の向こうで少しだけ目を細めた。

 

『彩葉さんには、そこも含めて事前に確認しました。そして、一度断られています』

 

「断ったんか?」

 

父が驚いたように私を見た。

 

「……だって、東京行きも、スカウトも嬉しいけど、推しとお近づきになるのは違うやん」

 

「……そうか」

 

父は、何かを理解したような、していないような顔で頷いた。

 

『これはファン心理を利用した勧誘ではありません。彩葉さんの音楽スキルを評価したうえでの業務委託です。報酬、作業範囲、守秘義務、連絡窓口、すべて書面で明確にします』

 

「業務」

 

母が短く繰り返す。

 

『はい。彩葉さんが上京した暁には、保護者同意のもと、短時間アルバイトとして、月見ヤチヨの音楽制作サポート業務に携わっていただきたいと考えています。内容は、採譜、メロディデータの打ち込み、ボーカルエディット、簡単な編曲補助など。在宅で可能な範囲の仕事です』

 

「中学生に?」

 

『契約開始は高校進学後です。未成年ですので、保護者同意のもと、業務時間、報酬、作業範囲、守秘義務を明確に定めます。学業に支障が出る業務量にはしません』

 

「この子に、そこまでの価値があると?」

 

母の声は冷静だった。

冷静すぎて、胃が痛い。

 

チヤさんは、少しも迷わなかった。

 

『あります』

 

即答だった。

 

『彩葉さんの音楽には、これだけの条件を提示する価値があります。いえ、これで足りないようであれば、まだ条件を上乗せするだけの価値があります』

 

「ちょ、チヤさん……」

 

やめて。

お父さんとお母さんの前で褒めないで。

いや、褒めて。

でも、今じゃない。

いや、今なのか。

わからない。

 

顔が熱い。

たぶん真っ赤になっている。

 

父は嬉しそうで、誇らしそうだった。

母は表情を変えない。

ただ、視線だけが少し鋭くなった。

 

『たとえば、ヤチヨが配信で歌った音源をアーカイブ用に整える作業。鼻歌で上がってきたメロディを譜面データに起こす作業。ピアノアレンジのための伴奏データ作成。いずれも、彩葉さんがこれまで独学で積み上げてきた技術を活かせます』

 

「独学で?」

 

母がこちらを見た。

 

しまった。

そこ、あんまり詳しく話していない。

 

「……ちょっとだけ。パソコンで音楽作ったり、耳コピしたり、そういうのは」

 

父が、何か言いたそうに唇を開きかけた。

けれど、何も言わなかった。

 

チヤさんは続ける。

 

『ですので、これは彩葉さんを甘やかすための支援ではありません。彩葉さんに仕事をお願いするための、業務上必要な環境整備です』

 

「環境整備?」

 

母が、そこで初めて少しだけ眉を上げた。

 

「仕事の話をしていたはずやのに、ずいぶん大きな言葉が出てきましたなぁ」

 

『はい。彩葉さんに東京で継続的に業務をお願いする以上、作業環境だけ整えればいい、という話ではありません』

 

チヤさんは逃げずに答えた。

 

『未成年の彩葉さんが東京で生活することになります。ですので、住居、安全面、学業の維持、生活費の管理、緊急時の連絡体制。そこまで含めて、ご両親に確認していただく必要があると考えています』

 

「……住居まで?」

 

父が、少し驚いたように呟いた。

 

「そこまで用意してくれはるんですか」

 

『用意する、というより、条件を明確にします。こちらが何を負担し、彩葉さんが何を守り、ご両親に何を確認していただくのか。曖昧な善意ではなく、書面と記録で残します』

 

母の目つきが、少し変わった。

 

「話がうますぎますなぁ」

 

母が、チヤさんに疑念の目を向ける。

 

「仕事を用意する。住まいの話も出す。安全も見る。親に確認できる形にもする。そんな都合のええ話、ただで転がってるとは思えませんけど」

 

『おっしゃる通りです』

 

チヤさんは、そこで小さく頷いた。

 

『ただではありません。彩葉さんには、きちんと働いていただきます。成果物を出していただきます。もちろん、学生の本分である学業も維持していただきます。その代わり、こちらも報酬を払い、必要な環境を整え、責任の範囲を明確にします』

 

母の眉が、ほんの少しだけ動いた。

 

今の、何か点が入ったな。

弁護士モードの母の機嫌メーターは見えないが、娘なのでわかる。

少なくとも、母の土俵にちゃんと上がった。

 

『ご両親が心配される点は、大きく三つあると考えています』

 

チヤさんの画面に、資料が表示される。

 

『一つ目は、安全面。未成年の女性が東京で一人暮らしをするリスクです』

『二つ目は、金銭面。学費、家賃、生活費、急病やトラブル時の費用負担です』

『三つ目は、彩葉さん本人の継続性。途中で投げ出さないか、生活が乱れないか、学生の本分を守れるか』

 

母は黙って続きを促した。

 

『まず住居についてです。こちらをご覧ください』

 

画面に東京の地図が表示された。

最寄り駅。

通学予定の高校までの経路。

家賃。

設備。

周辺の治安情報。

 

あまりにも整っている資料に、私は一瞬、自分の話だということを忘れた。

何これ。

不動産会社のプレゼン?

 

『こちらは、弊社が提携している若手クリエイター育成支援物件です。防音設備のある単身者向け物件で、一般入居だと少し癖があります。駅からは少し歩きますし、部屋も広くありません。ただ、音楽制作をする学生には都合がいい』

 

「家賃、安すぎませんか?」

 

母が即座に切り込んだ。

 

そう。

私も思った。

資料にある家賃は、東京の物件とは思えない金額だった。

もちろん、京都の感覚で見ても安い。

詐欺広告でしか見ないような好条件だ。

 

『企業側の借り上げ物件です。空室を若手クリエイター支援枠として運用しているので、通常家賃との差額は弊社側の育成費扱いになります。規定はこちらです』

 

次の資料が表示される。

規約。

助成制度。

提携先の名前。

細かい条件。

 

母は黙って読んでいる。

怖い。

無言で契約書を読む母は、たぶん鬼より怖い。

 

『セキュリティは、オートロック、モニター付きインターホン、防犯カメラ、電子キーの入退室ログがあります。管理人は日中のみの巡回で、夜間は無人ですが、そのぶん家賃を抑えられています』

 

「夜間は無人なんですか?」

 

父が不安そうに眉を下げた。

 

『はい。二十四時間有人管理の物件ではありません。そこまで条件を上げると、家賃が跳ねます。ただし、エントランスと共用部には防犯カメラがあり、入退室ログも残ります。防犯カメラは常時監視ではなく、トラブル時に管理会社が確認するための記録です。管理会社への緊急連絡窓口も二十四時間対応です』

 

「……なるほど」

 

母は資料に視線を落とした。

 

「管理人常駐ではない。けれど、オートロック、防犯カメラ、入退室ログ、緊急窓口はある。会社の補助を差し引いた元の家賃との釣り合いとしては、まあ、現実的ですな」

 

『はい。安全性を最大化するというより、家賃と通学距離と防犯設備のバランスを取った物件です』

 

「それ、彩葉のプライバシーはどうなるんや」

 

お父さん。

そこ心配してくれるんだ。

 

『室内映像を送るわけではありません。建物に入った時間、出た時間、緊急時の開錠履歴のみです。彩葉さん本人にも同じログが残ります。月次レポートでは、異常があった場合のみ要点を共有します』

 

「私にも?」

 

思わず声が出た。

 

『うん。自分の生活を自分で管理するための記録だからね』

 

なるほど。

監視というより、管理。

そう言われると、少しだけ受け入れやすい。

 

いや、だいぶ息苦しいけど。

でも、息苦しいくらいの条件でなければ、母は絶対に納得しない。

 

『次に、学業と生活について。毎月末に、学校の成績、出席状況、収支報告、アルバイトの業務ログ、住居まわりの異常報告をまとめた月次レポートを作成し、ご両親に共有します』

 

「誰が作るんですか?」

 

『私です』

 

「そこまでする理由は?」

 

『彩葉さんには、音楽制作に集中していただきたいからです。報告の仕組みはこちらで整えます。ただし、収支の入力や日々の記録は彩葉さん本人にやっていただきます』

 

「つまり、彩葉がサボればすぐわかると」

 

『はい』

 

母の視線がこちらに向いた。

反射的に肩が跳ねる。

 

「ええんやな?」

 

問われた。

母ではなく、契約書に。

未来の私に。

 

「……ええよ」

 

声が、少し掠れた。

 

「やります」

 

母は、返事をしない。

ただ、次を促すように顎を引いた。

 

『そして、彩葉さん本人の覚悟についてです』

 

来た。

一番痛そうなやつ。

 

『東京への進学を許可する条件として、彩葉さん本人に誓約書へ署名していただく形をご提案します』

 

画面に、また新しい書面が表示された。

誓約書。

未成年者本人用。

保護者同意欄。

支援契約解除条件。

 

文字が多い。

多いが、重要そうなところだけは嫌でも目に入った。

 

学年順位が一定以下になった場合。

無断欠席が一定数を超えた場合。

生活費の収支報告に虚偽があった場合。

業務委託を無断で放棄した場合。

深夜外出等、事前に定めた生活規定に重大な違反があった場合。

 

支援契約は解除。

住居支援も解除。

必要に応じて、保護者のもとへ帰宅。

 

つまり。

私は東京へ行ける。

ただし、結果を出し続ける限りにおいて。

 

「……厳しいですね」

 

父が呟いた。

 

『甘やかすための支援ではありませんので』

 

チヤさんは即答した。

 

その瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。

優しいチヤさんにそう言われると、思っていたより堪える。

 

でも。

同時に、少しだけ安心した。

 

チヤさんは、私の味方をしてくれている。

だけど、私を何もできない子供として囲い込もうとしているわけではない。

少なくとも、そう見える形を作ってくれている。

 

母が納得できるように。

父が安心できるように。

そして、私が自分で決めたと言えるように。

 

母はしばらく、契約書を読んでいた。

紙をめくる音だけが食卓に落ちる。

 

やがて、母は顔を上げた。

 

「……東京での住まいを用意する。仕事も用意する。安全面も見る。生活と学業の報告も出す。親の負担も減らす」

 

母は一つ一つ確認するように言った。

 

「ようできてます。ようできすぎてて気持ち悪いくらいや」

 

『あはは……よく言われます』

 

「褒めてへん」

 

『はい』

 

チヤさんが一瞬で小さくなった。

ちょっと面白い。

 

「彩葉が甘えたら?」

 

『契約を打ち切ります』

 

『学業を落とした場合、無断で業務を放棄した場合、生活規定に重大な違反があった場合。支援契約は解除。住居支援も解除。必要に応じて、ご実家へ戻っていただく。その条項も入れてあります』

 

「……筋は通ってます。安全面、金銭面、学業面。親が確認すべきところは、一通り潰してある。契約としても、少なくとも今この場で見た限りでは、穴は少ない」

 

母はそこで、私を見た。

 

「けどな、彩葉」

 

「はい」

 

「ここまで整えてもろうたら、あんたはもう言い訳できひんよ」

 

胸が、きゅっと縮む。

 

「東京は遠い。しんどいこともある。困った時に、誰かが都合よう助けてくれると思ってるなら、最初から行かん方がええ」

 

「……うん」

 

「それでも行くんやな?」

 

「行く」

 

即答だった。

 

母の目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

「東京で飼い鳥になるんは許さへん」

 

「飼い鳥?」

 

「安全な籠を用意してもらって、餌を与えてもらって、きれいな声で鳴くだけ。それを自立とは言わへん」

 

母の言葉は冷たい。

けれど、なぜか今日だけは、いつものようにただ撃ち抜かれる感じではなかった。

 

たぶん、母は試している。

私がどこまで本気なのか。

どこまで自分の足で立つつもりなのか。

 

「学費と家賃は出したる」

 

「え」

 

思わず顔を上げた。

 

母は、深いため息を吐いた。

 

「ただし、生活費は自分で稼ぎぃ」

 

「生活費……」

 

「食費、交通費、日用品、交際費、教材費。自分の暮らしにかかる細かいお金は、自分で管理しなさい。足りひんから送って、は認めへん。赤字を出したら、その時点で帰ってきてもらう。これは朝日にも出した条件や」

 

チヤさんが、画面の向こうでわずかに口を開きかけた。

たぶん、私がもっと苦労しない道を探そうとしてくれたのだと思う。

 

けれど、チヤさんは何も言わなかった。

 

これは、私の母が出した条件だ。

そして、私が受けるべき条件だ。

 

「できます」

 

「簡単に言いなや」

 

「簡単やと思ってへん」

 

母の目を見た。

怖い。

怖いが、逸らしたら終わる。

 

「でも、やる。月次レポートも、仕事も、勉強も、生活費の管理も、全部やる。順位も落とさへん。無断欠席もしない。契約も守る」

 

「守れへんかったら?」

 

「帰ってくる」

 

言ってから、喉が詰まった。

 

帰ってくる。

それは、負けを認める言葉だ。

母の言う通り、私は甘ちゃんだったと証明する言葉だ。

 

でも、それでもいい。

退路があるから甘えるのではなく。

退路ごと契約に書いて、それでも進む。

 

そういう覚悟の形も、たぶん、ある。

 

「そのかわり」

 

私は息を吸った。

 

「守れてる間は、東京にいさせてください」

 

母は黙った。

父も黙った。

チヤさんも黙っていた。

 

家の中の時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

やがて、母は契約書を机の上に置いた。

 

「はぁ……」

 

長い、長いため息だった。

 

「もう好きにしぃ」

 

一瞬、意味がわからなかった。

 

「……え?」

 

「東京、行きたいんやろ。高校も、音楽も、そこまで言うならやってみなさい」

 

「ほんまに?」

 

「二回言わせんといて」

 

怒られた。

でも、これは怒られていいやつだ。

 

胸の奥で何かが弾けた。

嬉しい、より先に、力が抜けた。

膝から崩れそうになるのを、食卓の椅子の背で何とか支える。

 

「ありがとうございます」

 

声が震えた。

 

「お母さん、お父さん。チヤさんも……ありがとうございます」

 

「お礼を言うんは早い」

 

母が即座に釘を刺す。

 

「これからが本番や。契約書、あとで全部読み合わせする。わからん条項があったら、その場で聞きなさい。わからんまま判子ついたらあかん。契約いうんは、読まへん人間から負けるもんや」

 

「はい」

 

「それと」

 

母の視線が、画面のチヤさんへ向いた。

 

「チヤさん?」

 

『はい』

 

「いつか対面で、お酒でも酌み交わしたいもんどすなぁ」

 

娘の私にはわかる。

あれは嫌味だ。

 

娘を預かるというんなら、そのうち家に顔を出せや。

ビデオ通話なんかじゃなく。

言外に、そう言っている。

 

チヤさんも、おそらくそれを理解していた。

 

画面越しの笑顔が、一瞬だけ固まった気がした。

本当に一瞬だ。

すぐに、いつもの柔らかい笑みに戻る。

 

けれど、チヤさんは「ぜひ」とは言わなかった。

 

『……その件について、軽々しいお約束はできません』

 

母の眉が、わずかに動いた。

 

『ただ、彩葉さんをお預かりする以上、不誠実なことはいたしません。ご両親に確認していただくべきことは、すべて書面と記録で残します。必要な報告も、必要な連絡も、必ず行います』

 

チヤさんは、笑顔のままそう言った。

 

たぶん、内心では冷や汗ものだったのだと思う。

それでも、できない約束をして場を丸め込むようなことはしなかった。

 

「……ふぅん」

 

母は、面白くなさそうに、けれど少しだけ感心したように息を吐いた。

 

「口先だけで調子のええこと言わへんのは、悪くありませんな」

 

『ありがとうございます』

 

褒められているのかどうか微妙な言葉にも、チヤさんはきちんと頭を下げた。

 

父が、小さく笑った。

 

「彩葉」

 

「なに?」

 

「ああいうお人は貴重や。ええ友人を持った」

 

父は、画面のチヤさんを見ていた。

それから、私を見る。

 

「欲しくて手に入るもんやない。逃がしたらあかんよ」

 

「……うん」

 

その言葉が、何故だか耳に残った。

 

父は、たぶん何気なく言ったのだと思う。

チヤさんという、私の上京を助けてくれる大人について。

私が偶然知り合って、偶然味方になってくれた、すごい人について。

 

でも、その言葉は妙に重かった。

 

逃がしたらあかん。

手放したらあかん。

 

その言葉の重さの意味が、その時の私には、よくわからなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

そこからの日々は、想像していたよりもずっと忙しかった。

 

契約書の読み合わせ。

進学希望校の確認。

受験勉強。

住居支援の規約。

生活費の管理方法。

月次レポートの項目。

業務契約の説明。

 

母は、本当に容赦がなかった。

 

「彩葉、ここ。読んで」

 

「はい」

 

「声に出して」

 

「え、声に出すん?」

 

「当たり前や。読んでわからん契約に判子つく人間は、契約する資格があらへん」

 

「はい……」

 

母の言葉は、いちいち厳しかった。

でも、逃げるわけにはいかなかった。

 

私が東京へ行くために飲むと決めた条件だ。

私が、自分で選んだ契約だ。

 

読み合わせのたびに胃が痛くなったが、そのたびにチヤさんは画面の向こうで根気よく説明してくれた。

 

『この条項は、彩葉ちゃんを縛るためというより、問題が起きた時に責任の所在を曖昧にしないためのものだよ』

 

「つまり、私がやらかしたら私が悪いってことですね」

 

『端的に言うとそう』

 

「言い方」

 

『でも、チヤさんも責任範囲から逃げないよ。こちらが負うべきところは、こちらが負います』

 

チヤさんは、そういう人だった。

 

甘い言葉で丸め込むことはしない。

できないことを、できるとは言わない。

私に厳しい条件を飲ませるくせに、私の話はちゃんと最後まで聞いてくれる。

 

母は最後まで警戒を解かなかった。

父は最後まで心配そうだった。

私は最後まで緊張していた。

 

それでも、受験は終わった。

合格通知も届いた。

 

しかも、入試成績は一位だった。

 

合格通知とは別に、新入生代表挨拶についての案内まで届いた時、私はしばらく封筒を見つめて動けなかった。

 

「……首席」

 

自分で言って、現実味がなかった。

 

嬉しい。

嬉しいに決まっている。

 

東京へ行くために、私はちゃんと結果を出した。

誰にも文句を言わせないために、できる限りのことをした。

 

けれど、母は通知を一瞥して、短く言った。

 

「首席で入ったからいうて、卒業まで首席でいられる保証はあらへん」

 

「……はい」

 

「東京で浮かれたら、落ちるんは一瞬や」

 

「はい」

 

褒めてほしかったわけではない。

たぶん。

たぶん、そうではない。

 

でも、通知を握る指に、少しだけ力が入った。

 

それでも、引っ越しの日は決まった。

 

そして私は、京都を出た。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

東京の部屋は、狭かった。

でも、必要なものは全部あった。

 

机。

ベッド。

小さなキッチン。

防音の効いた壁。

モニター付きインターホン。

補助錠。

仕事用のノートPCとデスクトップPC。

MIDIキーボード。

それから、チヤさんが「業務に必要だから」と手配してくれた、ヘッドホンとオーディオインターフェース。

 

そして、スマコン。

 

「これは本当に無理です」

 

私は、届いた小さなケースを前に、スマホ越しのチヤさんへ真顔で言った。

 

『たしかに、初めて装着するのは怖いよねー』

 

「そういう意味じゃないです。高すぎます」

 

スマコン。

スマートコンタクト。

 

ツクヨミに深くログインするための、コンタクトレンズ型のデバイス。

目を閉じれば仮想空間へ潜れて、現実の視界にはAR表示を重ねられる。

ヤチヨのライブをちゃんと見るなら、できれば欲しい。

欲しいが、欲しいと買えるはまったく別の話だ。

 

『入学祝いです』

 

「入学祝いで渡していい金額じゃないです」

 

『じゃあ、業務備品』

 

「今、言い換えましたよね?」

 

『私用兼備品だと思って。ヤチヨ案件の確認にも使うし、ツクヨミ上の表示確認にも必要になるから』

 

「でも、私用にも使うんですよね?」

 

『使っていいよ。というか、使って。慣れておかないと仕事で困るから』

 

「押し切る気だ」

 

『はい』

 

「はいじゃないです」

 

『もちろん、会社側の管理台帳には載せます。壊した時の扱いも、契約書の備品貸与条項に従います。だから彩葉ちゃんが個人的に高価なものを贈られた、という形にはしません』

 

言い方が、ずるい。

 

私が断りづらい形を、ちゃんと用意している。

母に聞かれても説明できる形。

私が受け取っても、後ろめたくなりすぎない形。

 

「……本当に、業務に必要なんですか」

 

『必要です』

 

チヤさんは即答した。

 

『彩葉ちゃんには、ヤチヨの音楽がツクヨミ上でどう届いているかも、いずれ確認してもらうことになると思う。音だけじゃなくて、空間演出やコメントの流れ込み方も含めて、ライブは完成するから』

 

「それは……」

 

言われると、弱い。

 

ヤチヨの歌が、ツクヨミでどう響いているのか。

現実のスピーカーやヘッドホンだけではなく、あの空間の中でどう見えて、どう聞こえて、どう人の心を動かしているのか。

 

それを知ることが、仕事に必要だと言われたら。

 

「……備品として、お借りします」

 

『うん。入学祝いとして、受け取ってください』

 

「どっちなんですか」

 

『両方』

 

「ずるい」

 

『大人はずるい生き物なので~』

 

私は小さなケースを見下ろした。

 

高価すぎる。

ありがたすぎる。

怖すぎる。

 

でも、胸の奥はどうしようもなく弾んでいた。

 

東京。

一人暮らし。

仕事。

ヤチヨの音楽。

そして、ツクヨミ。

 

私の世界が、少しずつ広がっていく音がした。

 

部屋自体は、普通の女子高生が一人で暮らすには少し殺風景だった。

でも、音を出せる。

夜でも、ヘッドホンを使えば作業ができる。

駅からは少し歩くけれど、道は明るい。

近くに二十四時間営業の店もある。

 

管理人さんは日中だけ。

夜は無人。

防犯カメラはあるが、常時誰かが見ているわけではない。

何かあった時に管理会社が確認するための記録。

 

それは、契約書と同じ説明だった。

 

「……ここが、私の東京かぁ」

 

引っ越しの荷ほどきを終えた夜。

段ボールがまだ半分残った部屋で、私は床に座り込んでそう呟いた。

 

スマホに、父からメッセージが来ていた。

 

『ちゃんと食べるんやで』

 

続けて、母からも来ていた。

 

『初月の収支表、月末までに提出。領収書を捨てへんように』

 

温度差。

 

父のメッセージに少し笑って、母のメッセージに背筋を伸ばす。

私は両方に返事をしてから、チヤさんにも荷解き完了の報告を送った。

 

すぐに返事が来た。

 

『おつかれさま。今日は作業なし。機器のセッティングとかは明日にして、ご飯食べて、お風呂入って、寝ること』

 

「作業なし」

 

思わず声に出た。

 

私はまだ何も仕事をしていない。

むしろ、今日から頑張らなければならないと思っていた。

生活費を稼がなければならない。

学業も落とせない。

母に言い訳できない。

契約を守らなければならない。

 

だから、少しでも早く仕事を始めたい。

 

そう思っているのに。

 

『引っ越し初日から仕事なんて振りませーん。今日は荷ほどきしただけで偉い。以上』

 

「『荷ほどきしただけで偉い』て」

 

笑ってしまった。

 

チヤさんは、厳しいのか甘いのか、わからない。

 

ただ。

その夜、私は言われた通りにご飯を食べて、お風呂に入って、眠った。

 

次の日から始まる東京生活に、少しだけ怯えながら。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

東京での生活は、驚くほど順調だった。

 

いや。

順調すぎた。

 

まず、学校は思っていたより楽しかった。

 

慣れない土地。

知らない人ばかり。

京都弁が出てしまって浮くのではないか。

一人暮らしだと知られたら変に思われるのではないか。

 

そんな不安は、最初の一週間でだいたい消えた。

 

「酒寄さんって、一人暮らしなんだよね?」

 

昼休み。

そう話しかけてきたのは、綾紬芦花だった。

 

入学式で新入生代表挨拶をしたせいで、私はクラスでも少しだけ名前を知られていた。

首席の子。

京都から来た子。

一人暮らしの子。

 

情報だけが、私より先に教室を歩いているみたいだった。

 

だから私は、学校ではなるべく標準語で話すようにしていた。

明るく、感じよく、隙なく。

完璧女子高生、酒寄彩葉。

 

そうしていれば、誰にも余計なことを言われない気がした。

 

綾紬さんは、くすみピンクの髪を、校則に引っかからないぎりぎりのところで綺麗に整えている。

制服の着方も、メイクも、小物も、全部がさりげなく上手い。

頑張って盛っている、という感じではない。

自分に似合うものを知っている人の整い方だった。

 

美容系インフルエンサーをしているらしい、という噂は聞いていた。

なるほど。

人に見られることと、人を見ることに慣れている子なのだと思う。

 

「うん。一応」

 

「すごいね。私、朝ちゃんと起きて学校来るだけでもまあまあ偉いと思ってるのに」

 

芦花は軽く笑った。

けれど、視線はふわっと私の顔を見ていた。

 

目元。

肌。

髪。

唇の色。

 

たぶん、そういうところ。

 

「酒寄さん、ちゃんと寝れてる?」

 

いきなりそこを突かれて、私は少し詰まった。

 

「寝てるよ。たぶん」

 

「たぶんなんだ」

 

隣で、真実がふわっと笑った。

 

諌山真実。

同じクラスの、どこか眠そうな雰囲気の子。

柔らかい色のカーディガンを羽織っていて、机の上には購買で買ったらしいパンが二つ並んでいる。

 

「一人暮らしって、ちゃんと食べないとすぐ顔に出るよね」

 

真実はそう言って、パンの袋を開けた。

 

「私、食べるの好きだから、そこはけっこう大事にしてる」

 

「そこは、なんだ」

 

「大事だよ。食べるの」

 

真実は大真面目だった。

 

芦花が、私の顔をもう一度見る。

 

「酒寄さん、肌は荒れてないし、目の下もそんなにひどくない。ちゃんと食べて、ちゃんと寝てる顔してる」

 

「顔でそこまでわかるの?」

 

「わりと」

 

「怖い」

 

「褒めてるんだよ」

 

「今の褒めてたんだ」

 

「うん。ちゃんとしてるなって思った」

 

ちゃんとしてる。

 

その言葉に、私は少しだけ胸を張りたくなった。

 

そう。

私は、ちゃんとやれている。

 

朝起きる。

学校へ行く。

授業を受ける。

帰って、課題をやる。

仕事をする。

収支をつける。

月末にはレポートを出す。

 

完璧ではない。

慣れないことも多い。

でも、回っている。

 

私は思っていたより、一人暮らしに向いているのかもしれない。

 

そう思った。

思ってしまった。

 

その日の夜、部屋に帰ると、宅配ボックスの通知がスマホに入っていた。

 

差出人は、株式会社Lumina。

中身は、保存食と栄養補助食品と、なぜか高そうなレトルトスープの詰め合わせ。

 

同封されていた紙には、こう書いてあった。

 

『福利厚生サンプル。若手クリエイター向け食生活支援品のモニターです。感想は任意』

 

「福利厚生サンプル」

 

私は箱の中を見下ろした。

 

どう見ても任意で届く量ではない。

しかも栄養バランスが妙に良い。

朝に食べやすいもの。

夜遅くても胃に優しそうなもの。

作業中につまめるもの。

全部ある。

 

スマホに、チヤさんからメッセージが入った。

 

『荷物届いた? 余ってたサンプルだから気にしないでね』

 

「余ったサンプル……?」

 

余る量ではない。

 

そう思ったが、私は冷蔵庫にスープをしまった。

 

明細はついている。

無料サンプル扱い。

契約書にも、業務上必要な支給品や福利厚生品についての条項はあった。

母に聞かれたら説明できる。

 

説明できるなら、大丈夫。

大丈夫なのか。

 

たぶん。

 

私は自分にそう言い聞かせた。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

初めての仕事は、採譜だった。

 

チヤさんから送られてきた音声データを聞いて、メロディをMIDIに打ち込む。

短いフレーズを整理し、指定された形式で納品する。

 

作業自体は、難しくなかった。

少なくとも、最初の説明を聞いた時はそう思った。

 

『これは、ヤチヨが配信の合間に口ずさんだメロディのラフです。正式な楽曲素材ではなく、制作メモに近いものだから、完璧にしようとしなくて大丈夫』

 

「ヤチヨが」

 

『うん』

 

「口ずさんだ」

 

『うん』

 

「メロディ」

 

『彩葉ちゃん? 呼吸してる?』

 

「しています」

 

していなかったかもしれない。

チヤさんが画面の向こうで苦笑した。

 

私はヘッドホンをつけた。

再生ボタンを押した。

 

そして、死んだ。

 

「…………」

 

いや、死んではいない。

生きている。

生きているが、魂の一部がツクヨミ(黄泉)にログインしかけた。

 

ヘッドホンの中で、月見ヤチヨが鼻歌を歌っている。

 

あのヤチヨが。

世界のヤチヨが。

配信で、ライブで、何万人もの前で歌うあの声が。

何気なく、無防備に、メロディを転がしている。

ヘッドホンの性能もあって、まるで耳元で直接聞かされているような感覚に陥る。

 

無理。

 

「無理」

 

『無理じゃないよ』

 

「今の、声に出てました?」

 

『出てたね』

 

「忘れてください」

 

『業務ログには残さないでおくね』

 

「優しさが痛い」

 

私は顔を覆った。

 

でも、仕事だ。

これは仕事。

推し活ではない。

裏方作業。

音楽制作サポート。

私は節度あるファン。

私は節度あるファン。

 

十回くらい心の中で唱えてから、もう一度再生する。

 

今度は、ちゃんと音を拾った。

 

音程。

リズム。

息継ぎ。

揺れ。

何気なく上がった語尾。

途中で少し迷うように落ちた音。

 

それを一つずつ拾って、画面に打ち込んでいく。

キーボードで音を確かめる。

違う。

半音下。

いや、ここは少ししゃくっている。

楽譜にすると単純だけれど、歌としては違う。

 

気づけば、私は夢中になっていた。

 

推しの声だから、ではない。

いや、それもある。

ものすごくある。

死ぬほどある。

 

でも、それだけではなかった。

 

音楽として、面白かった。

音が、次の音を呼んでいる。

未完成のはずなのに、奥に何かがある。

ここをこう繋いだら綺麗かもしれない。

ここはあえて空けた方が、歌が息をするかもしれない。

 

手が止まらなかった。

 

気づけば、私は指定された採譜データだけでなく、補足メモまで作っていた。

 

このフレーズはピアノなら左手を薄く。

ここはベースを入れるなら遅めに。

サビ前に一拍だけ呼吸を置くと、次の音が伸びる。

 

納品したあとで、私は冷静になった。

 

「……やりすぎた」

 

送信済みの画面を見つめる。

 

チヤさんから返事が来たのは、十分後だった。

 

『確認しました』

 

私は正座した。

部屋で一人、正座した。

 

『想定以上。すごく良い』

 

「……ほんまですか?」

 

思わず京都弁が戻った。

 

『ほんまほんま。追加で作ってくれたメモも助かる。報酬、少し上乗せしとくね』

 

「ま、待ってください」

 

『ん?』

 

「作業時間、そんなにかかってません」

 

『成果物の価値に対する報酬です』

 

「でも」

 

『契約書の第六条、成果物評価加算』

 

「契約書を武器にしないでください」

 

『ちゃんと読んで判子ついたでしょ?』

 

母みたいなことを言わないでほしい。

 

でも、言い返せなかった。

契約書には、たしかにそういう条項があった。

成果物の品質や緊急性に応じて、報酬は加算される。

 

母が見ても、たぶん文句は言えない。

むしろ、契約通りだと言うだろう。

 

私はスマホの画面を見つめた。

 

「……ありがとうございます」

 

『こちらこそ。彩葉ちゃんにお願いしてよかった』

 

その一言で、私はまた死にかけた。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

報酬は高かった。

 

高すぎた。

 

生活費を稼ぐ、という母の条件。

その条件を満たすためには、もっとぎりぎりの生活を覚悟していた。

スーパーの値引き時間を覚える。

食費を削る。

教材費を計算する。

欲しいものは我慢する。

アルバイトと勉強でへとへとになる。

 

そんな未来を想像していた。

 

だが、現実は違った。

 

チヤさんからの仕事は、無理のない量だった。

締切も、基本的に余裕がある。

急ぎの時は、必ず事前に確認がある。

報酬は、毎回きちんと明細が出る。

交通費や機材費が必要な時は、別途支給される。

 

そして、時々届く。

 

『案件用サンプルです』

『福利厚生品です』

『取引先から多くもらったので』

『賞味期限が近いから助けて』

 

助けてと言われると、断りにくい。

 

結果、私は思ったよりちゃんと食べていた。

思ったよりちゃんと眠れていた。

思ったより肌つやが良かった。

 

芦花に言われた通りだ。

 

「彩葉って、一人暮らしなのに生活荒れてないよね」

 

昼休み、芦花が私の顔を見ながら言った。

 

最初は酒寄さんだった呼び方が、いつの間にか彩葉になっていた。

私はそれを、けっこう気に入っている。

 

「荒れてるよ。心は常に荒野」

 

「じゃあ、心の補給にパンケーキ行こう」

 

「繋げ方が強引」

 

真実は購買の新作パンを半分に割りながら、のんびり口を挟んだ。

 

「でも、食べるのは大事だよ。寝るのと食べるのは、無料でできる回復魔法だから」

 

「食べ物は無料じゃないけど」

 

「そこはまあ、ねぇ?」

 

ふわっとしているのに、たまに妙に現実的なことを言う。

 

「今度さ、駅前の有名なパンケーキ食べに行こうよ。真実が行きたいって言ってたとこ」

 

芦花が言った。

 

「行きたい。すごく行きたい。期間限定のいちご、終わる前に行きたい」

 

真実の目が、食べ物の話になった瞬間に輝いた。

 

「私は、予定が合えば」

 

「予定合わせるやつだよ、これは」

 

芦花は笑った。

 

軽い誘い方だった。

断ってもいい。

でも、断らないでほしそうな、ちょうどいい軽さ。

 

私は少し考えてから頷いた。

 

「じゃあ、行く」

 

「決まり」

 

「いちごは正義」

 

真実が真顔で言った。

 

私は笑った。

 

学校にいる私は、ちゃんと笑えている。

そう思うと、少しだけ安心した。

 

 

 

母への月次レポートは、毎月胃を痛めながら提出した。

 

成績。

出席。

収支。

業務明細。

生活上の問題点。

 

一度、母から短い返信が来た。

 

『今月は問題なし』

 

それだけだった。

 

褒められてはいない。

許されてもいない。

ただ、問題がないと判断されただけ。

 

でも、それで十分だった。

 

私は今、東京にいる。

自分で条件を飲んで、自分で生活して、自分で仕事をしている。

 

母の言葉が、時々頭をよぎる。

 

東京で飼い鳥になるんは許さへん。

 

安全な籠。

餌。

きれいな声。

 

私は飼い鳥ではない。

ちゃんと自分で飛んでいる。

 

そう思っていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

その仕事が来たのは、東京での生活にも少し慣れてきた頃だった。

 

『少しだけ、ピアノ伴奏の案を出してもらえないかな』

 

チヤさんは、いつもより少し慎重な声でそう言った。

 

「ピアノ伴奏」

 

『うん。まだ正式な編曲ではなくて、あくまで補助案。ヤチヨの歌メロに対して、どういう響きが合うか、彩葉ちゃんの感覚で見てほしい』

 

「ヤチヨの」

 

『はい』

 

「歌メロに」

 

『はい』

 

「私のピアノを」

 

『彩葉ちゃん?』

 

私は裏方。

私は音楽制作サポート。

私はヤチヨのファンであり、仕事相手ではない。

いや、仕事相手ではある。

でも、直接ではない。

窓口はチヤさん。

節度。

距離感。

理性。

 

理性。

 

消えそう。

 

送られてきたデータは、短い歌メロだった。

仮のテンポ。

仮のコード。

簡単なメモ。

 

ここに、ピアノで伴奏案をつける。

それだけの作業。

 

それだけ、のはずだった。

 

私は何度も歌メロを聞いた。

そのたびに、胸の奥が震えた。

単純なメロディなのに、声が乗ると景色が変わる。

ヤチヨの歌は、いつもそうだ。

明るいのに、どこか寂しい。

軽いのに、底の方に触れられない何かがある。

 

私はキーボードに指を置いた。

 

最初は、薄く。

歌を邪魔しないように。

次に、左手を少しだけ動かす。

この音に行きたい。

でも、行きすぎると歌が狭くなる。

ここは空ける。

ここで一瞬だけ光らせる。

ここは、ヤチヨが息をする場所。

 

気づけば、夜になっていた。

 

「……またやりすぎた」

 

前にも言った気がする。

 

納品したデータは、当初の依頼よりだいぶ多かった。

基本案。

控えめな案。

ライブ向けに少し派手な案。

ピアノだけで成立する短いイントロ案。

 

何をしているのだろう。

私は。

 

チヤさんから返事が来た。

 

『全部確認しました』

 

私はまた正座した。

 

『これ、使わせてもらってもいい?』

 

「……え?」

 

『ピアノ案。すごく良い。ヤチヨの歌に合うと思う』

 

心臓が止まりかけた。

 

ヤチヨの歌に。

合う。

 

私の音が。

 

「それは、あの、裏方として?」

 

『もちろん。クレジット表記や扱いは契約通り確認します。彩葉ちゃんの希望も聞くよ』

 

「表に名前は、出さない方向で」

 

『了解。無理はさせません』

 

「でも」

 

私は、自分でも驚くくらい小さな声で言った。

 

「使ってもらえるなら、嬉しいです」

 

画面の向こうで、チヤさんが黙った。

一瞬だけ。

 

それから、柔らかく笑った。

 

『うん。ありがとう』

 

その声が、なぜか少し震えていたように聞こえた。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

配信の日。

 

私は部屋の明かりを落として、ベッドに腰を下ろした。

 

スマコンを装着する。

目を閉じる。

 

次に目を開けた時、私はツクヨミの中にいた。

 

月見ヤチヨの公式チャンネル。

その奥にある、配信用のライブビューイング会場。

 

巨大なスクリーンのような仮想ステージに、今日の待機画面が浮かんでいる。

周囲には、同じ配信を見に来た観客たちのアバター。

コメントは空中を流れ、ペンライトの光が波みたいに揺れていた。

 

スマホやノートPCで見れば、ただの配信画面なのだと思う。

でも、スマコンで潜ると、ヤチヨの配信はひとつの会場になる。

 

そういうところも、私は好きだった。

 

待機演出。

コメント。

熱気。

 

ヤオヨロ〜、の挨拶が響いた瞬間、私はツクヨミの中で両手を合わせた。

 

「今日も生きててよかった」

 

現実の部屋で言っていたら相当まずい独り言も、ここならたぶん許される。

周りにも似たような人がいっぱいいる。

たぶん。

 

配信はいつも通り楽しかった。

 

ヤチヨは笑っていた。

コメントを拾っていた。

しょうもない話をしていた。

急に歌った。

急にふざけた。

急に、胸をぎゅっと掴むような声で、歌い始めた。

 

そして。

 

そのイントロで、私は固まった。

 

「…………」

 

聞き覚えがある。

 

いや。

あるどころではない。

 

私が弾いた音だ。

 

少しだけ形は変わっている。

音色も違う。

ツクヨミの空間に合わせて、光の演出まで重なっている。

でも、わかる。

 

あの時、私が置いた一音。

歌の邪魔をしないように、でも次の呼吸へ橋をかけるように置いた音。

あの和音。

あの間。

 

それに、ヤチヨの声が乗っている。

 

「…………嘘」

 

コメントが空中を流れていく。

 

最高。

新曲?

神。

泣く。

ヤチヨ天才。

この入り好き。

 

私はその光の文字を、ただ見上げていた。

 

私の音で。

ヤチヨが。

歌っている。

 

歌がサビへ向かって開く。

その瞬間、私の作ったフレーズに合わせて、ヤチヨが息を吸った。

 

息を吸った。

 

「無理」

 

声が出た。

 

「無理無理無理無理無理」

 

ライブビューイング会場の片隅で、私のアバターはその場に崩れ落ちた。

仮想の床に膝をつく。

 

それでも、顔だけは上げた。

 

見逃すわけにはいかない。

 

私の音で。

ヤチヨが。

歌っている。

 

視界が滲んだ。

 

スマコン越しの涙なのか。

アバターの演出なのか。

自分でもわからなかった。

 

嬉しい。

恐れ多い。

嬉しい。

怖い。

無理。

尊い。

死ぬ。

いや死ぬな。

まだ聴け。

最後まで聴け。

 

私はツクヨミの配信会場の片隅で、ほとんど泣きながらヤチヨを見上げていた。

コメントは打てなかった。

そんな余裕はなかった。

 

曲が終わったあと、ヤチヨはいつもの調子で笑った。

 

『いや〜、いい曲になったねぇ。ヤッチョは天才なので〜☆』

 

空中を流れるコメントと、光の拍手で会場が埋まる。

 

私は会場の片隅で、両手で顔を覆った。

 

天才。

そう。

ヤチヨは天才。

 

でも。

ほんの少しだけ。

本当にほんの少しだけ。

 

そこに、私の音があった。

 

その事実だけで、私はしばらく立てなかった。

 

 

 

配信が終わったあと、私はチヤさんに長文メッセージを送った。

 

長文というより、ほとんど怪文書だった。

 

ありがとうございます。

本当にありがとうございます。

使っていただけて嬉しいです。

でも無理です。

ヤチヨが歌ってました。

いや、ヤチヨが歌うのは当たり前なんですけど。

私の音に。

息を。

息を合わせて。

あの。

無理です。

ありがとうございました。

生きます。

いや、死にます。

やっぱり生きます。

 

送ってから、我に返った。

 

「終わった」

 

社会的に終わった。

いくらプライベートが友人関係とはいえ、業務窓口に送る文面ではない。

 

私は慌てて追伸を送る。

 

『すみません、取り乱しました。お仕事として使っていただけて光栄です。今後ともよろしくお願いいたします』

 

数分後、チヤさんから返事が来た。

 

『大丈夫。ちゃんと伝わったよ』

 

それだけだった。

 

でも、そのあとにもう一通。

 

『ヤチヨも、きっと喜んでると思う』

 

私はまた泣いた。

 

節度あるファンとは。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

東京生活は、軌道に乗り始めていた。

 

学校も、仕事も、生活も。

気を抜けないけれど、それでも回っている。

 

芦花と真実とは、放課後に少し寄り道をするくらいには仲良くなった。

母からの返信は相変わらず短い。

父からは、時々どうでもいい写真が送られてくる。

京都の空。

庭の鉢植え。

夕飯のおかず。

たまに、父の指が写り込んでいる。

 

チヤさんからの仕事は、相変わらず無茶ではなかった。

時々、不思議なくらいタイミングよく支援品が届いた。

体調を崩しそうな週に、栄養補助食品。

雨が続く前に、近所のコインランドリーで使える乾燥機のクーポン。

しかも、私の部屋から一番近い店のものだった。

そして、学校の課題が重なる前には、作業量の少ない依頼。

 

偶然、だと思う。

チヤさんはとても気が利く人だから。

私のスケジュールも、契約上共有しているから。

 

だから、変ではない。

 

変ではない、はずだ。

 

「彩葉、今日このあと空いてる?」

 

ある日の昼休み、芦花がスマホをこちらに向けてきた。

 

画面には、コンビニの新作プリンの写真が出ていた。

 

「空いてるというか、帰ったら作業がある」

 

「じゃあ、十分だけ」

 

「短い」

 

「買って帰るだけなら十分でいける。寄り道じゃなくて物資の補給」

 

物資の補給。

その言い方が、少し可笑しかった。

 

真実はその横で、同じ画面をのぞき込みながら、真剣な顔をしていた。

 

「これは行った方がいいよ。今日から発売で、たぶん明日には棚から消える」

 

「そんなに?」

 

「新作とか期間限定という言葉は、人の理性を奪うから」

 

「真実の理性、だいたい食べ物に負けてない?」

 

「負けてるんじゃなくて、譲ってる」

 

ふわっとしているのに、妙に堂々としている。

 

私は少し笑って、スマホの予定を確認した。

 

チヤさんから来ている今日の作業は、締切に余裕がある。

十分くらいなら、問題ない。

 

「じゃあ、十分だけ」

 

「決まり」

 

芦花が満足そうに笑った。

 

学校にいる私は、標準語で話す。

明るく、感じよく、隙なく。

完璧女子高生、酒寄彩葉。

 

でも、芦花と真実の前では、その完璧が少しだけ緩む。

 

それは、悪いことではないのかもしれない。

 

そう思えるくらいには、私は東京に慣れてきていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

三連休前の金曜日。

 

放課後の教室は、いつもより少し浮ついていた。

芦花は投稿用の撮影があるらしい。

真実は限定メニューの食べ歩きに行くらしい。

私はというと、特に予定はなかった。

 

帰ったら、少しだけ部屋を片付けよう。

それから、安売りの野菜を買って、作り置きをする。

夜はヤチヨのアーカイブを見る。

できれば、早めに寝る。

 

完璧な三連休前夜だ。

 

そう思っていたところで、スマホにチヤさんからメッセージが入った。

 

 

 

チヤさん:

彩葉ちゃん、今大丈夫?

 

 

 

珍しい。

チヤさんは、基本的に私の授業時間や移動時間を避けて連絡してくれる。

放課後すぐのこの時間に来るのは、少し意外だった。

 

 

 

彩葉:

大丈夫です。どうしました?

 

チヤさん:

実は、ひじょーに申し訳ないんだけど、急ぎで確認をお願いしたい音源があって……

 

 

 

文字だけでも伝わってくる、チヤさんの申し訳なそうな声音。

私は思わず笑ってしまった。

 

 

 

チヤさん:

今日中に一次確認を入れたいんだけど、帰宅してからだと締切に間に合わない可能性があって

 

チヤさん:

学校の最寄りに、個室のワーキングスペースを押さえたんだけど……

 

チヤさん:

彩葉ちゃん、お願い!

今回だけは断らないでくれると助かるの!

代わりに三連休中の仕事はなしにするから!

 

彩葉:

いや、そこまでしてもらわなくても

普段からお世話になってるのでそのくらいは全然

……ワーキングスペース?

 

チヤさん:

そう、ワーキングスペース

回線とヘッドホン環境が必要だから

業務用ノートPCは、今日持ってきてもらってるよね?

 

 

 

私は足元の鞄を見た。

 

朝、チヤさんに言われて持ってきたせいで、今日は少しだけ重い。

その時は「夕方に軽い確認が入るかもしれない」としか聞いていなかった。

 

 

 

彩葉:

大丈夫です、あります

 

チヤさん:

よかった!

スペース代と移動費、緊急対応分の報酬は会社持ち

作業内容はノイズチェックと譜面データとの照合

難しくはないけど、少し細かくて

 

 

 

チヤさんにしては珍しい、急ぎの依頼。

でも、無茶な依頼ではない。

場所も手配済み。

費用も会社持ち。

何より、普段から気を回されすぎていて、恩がたまりにたまりまくっているチヤさんからのお願い。

 

断る理由は、なかった。

 

チヤさんには、ずっと助けてもらっている。

仕事としても、生活としても。

私が東京でやれているのは、チヤさんのおかげでもある。

 

そのチヤさんが、珍しく困っている。

 

私にできることがあるなら、やりたい。

 

 

 

彩葉:

やります。今日はこのあと、予定なかったので

 

チヤさん:

ありがとう!

すごい助かる!

 

 

 

私は鞄を持ち直し、学校を出た。

 

 

 

ワーキングスペースは、学校の最寄り駅から少し歩いたところにあった。

受付で予約名を伝えると、すぐに個室へ案内された。

 

小さな部屋。

机。

椅子。

電源。

安定した回線。

外の音があまり入ってこない壁。

 

たしかに、家に帰ってから作業するより早い。

移動時間を考えると、ここで済ませた方が合理的だ。

 

「チヤさん、段取り良すぎ……」

 

呟いてから、私は苦笑した。

 

今さらだ。

チヤさんが段取り良いのは、ずっと前からだ。

 

送られてきたデータを開く。

ヘッドホンをつける。

波形を見る。

譜面データと照合する。

 

作業は、説明通り難しくはなかった。

ただ、細かかった。

 

ノイズ。

ブレスの位置。

ピッチの揺れ。

タイミングのズレ。

譜面上の音と、実際の歌のニュアンスの差。

 

一つ一つ確認していると、時間が溶けた。

 

途中でチヤさんからメッセージが来る。

私はペットボトルのお茶を飲みながら返信した。

 

 

 

チヤさん:

遅くなってごめんね。休憩挟んでね

 

彩葉:

大丈夫です。あと少しです

 

 

 

少し、のつもりだった。

 

でも、最後のチェックで引っかかった。

一箇所だけ、どうしても気になる。

譜面通りなら正しい。

でも、歌としては少し窮屈に聞こえる。

 

私は迷った末、補足メモをつけた。

 

ここは、譜面上の修正ではなく、歌の呼吸を優先した方が自然かもしれない。

 

送信する。

 

返事はすぐに来なかった。

その間に、私は部屋の時計を見た。

 

「……え」

 

思ったより遅い。

 

外はもう、すっかり夜だった。

 

その時、スマホが震えた。

画面に、チヤさんからのメッセージが並ぶ。

 

 

 

チヤさん:

確認した!助かったよ!

本当にありがとう!

三連休はゆっくり休んで!

 

彩葉:

あっ、三連休、ほんとに仕事ないんですね

 

チヤさん:

当然、頑張りにはきちんと報いるよ!

明るい道を通って帰ってね

着いたら一言だけ送って

 

彩葉:

チヤさん、今日はいつも以上に心配性ですね

 

 

 

既読がつく。

けれど、チヤさんから返事は来なかった。

 

私はデータを閉じ、荷物をまとめた。

 

ワーキングスペースを出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 

三連休前の夜。

駅前にはまだ人がいた。

でも、私のアパートの方へ向かう道は、駅から離れるにつれて静かになっていく。

 

明るい道。

人通りのある道。

契約書にも書かれていた帰宅ルート。

 

私はそれを守って歩いた。

 

疲れている。

でも、悪い疲れではない。

ちゃんと仕事をした疲れだ。

 

スマホを取り出し、チヤさんに「もうすぐ着きます」と送ろうとした。

 

その時だった。

 

アパートの前で、私は足を止めた。

 

「…………なんで?」

 

声が出た。

 

私のアパートの真隣にある電柱が、七色に光っていた。

 

七色。

 

いや、比喩ではない。

本当に七色だった。

赤、青、緑、紫、黄色。

ありえない色が、電柱の表面を滑るように瞬いている。

 

しかも、光っているだけではない。

 

スモークを吐いていた。

 

「…………」

 

あまりにも非現実的な光景。

目を何度もこすったが、消えない。

夢ではない。現実だ。

 

念のため、ケースに入れていたスマコンも確認する。

装着していない。

当然、視界にAR表示が重なっているわけでもない。

 

もう一度見る。

 

電柱は光っていた。

スモークも吐いていた。

 

「いやいやいやいや」

 

私は一歩下がった。

 

疲れている。

今日は急ぎの仕事をした。

ヘッドホンで音を聞き続けた。

目も耳も疲れている。

だから、電柱が七色に光ってスモークを吐いているように見える。

 

そんなわけがない。

 

疲れて見える幻覚にしては、質感が現実すぎる。

スモークの匂いまで、うっすらする。

 

私は周囲を見回した。

 

誰もいない。

 

三連休前の夜なのに。

さっきまで駅前には人がいたのに。

このアパートの前だけ、妙に静かだった。

 

まるで、光る電柱の周りだけが、世界から切り離されているみたいだった。

いや、それだけではない。

光る電柱を中心に、夜そのものが息を潜めているみたいだった。

 

管理人さんはいない。夜間は無人。

防犯カメラはあるけれど、常時誰かが見ているわけではない。

近所から、何事かと人が出てくる気配もない。

 

つまり。

 

「……私が、どうにかするしかないん?」

 

いや、嫌だ。

どうにかしたくない。

七色に光ってスモークを吐く電柱をどうにかする女子高生とは何だ。

 

チヤさんに連絡。

管理会社に連絡。

警察。

消防。

いや、電柱だから電力会社?

ゲーミング電柱って、どこの管轄?

 

頭の中で選択肢が渋滞する。

 

その間にも、電柱は七色に瞬いていた。

まるで、私を誘うように。

 

「……くそう」

 

背に腹は代えられない。

 

こんな弩級の異常現象をアパートの隣に置いたまま、安らかに三連休を迎えられるほど私は豪胆にできていない。

 

私は鞄を肩にかけ直し、ゆっくり近づいた。

 

一歩。

もう一歩。

 

七色の光が、淡くまたたく。

 

なぜ電柱が光るのか。

それは、いったん考えないことにする。

 

実際に光っているから光る。

もうそれでいい。

 

だから。

 

電柱の真ん中に、突然、扉のような切れ目が入っても。

 

「……うん?」

 

私は立ち止まった。

 

聞いていない。

 

さらに、その扉に竹をモチーフにしたような取っ手が生えても。

 

「いやいやいや」

 

いつの間に、なんて言わない。

言わないが、限度はある。

 

そして、その扉が中から押されるように、徐々に、徐々に、観音開きに開き始めても――

 

「いや、開くな!」

 

私は反射的に手で押し込んでいた。

 

開くのはだめだろう。

光るまでは、百歩譲って許す。

いや、許してはいない。

でも、光ると開くでは大違いだ。

 

「閉まれ、閉まって、お願いだから閉まって!」

 

ぎし、と妙な音がした。

電柱なのに。

扉なのに。

竹みたいな取っ手なのに。

何一つ理解できない。

 

中から押し返される。

 

「ぐおっ、うっ、力づくかい……!」

 

力が強い。

めちゃくちゃ強い。

 

そうなのだ。

完璧女子高生、酒寄彩葉。

身体能力に自信はあるが、所詮は学校の体育科目の話。

 

勉強。

音楽。

家事。

仕事。

収支管理。

月次レポート。

 

いろいろ頑張ってきた。

でも、ゲーミング電柱の観音開きを腕力で押し戻す練習は、していない。

 

「そんな練習、誰がするの!想定できるわけないやん!」

 

誰に向けたツッコミなのかわからないまま、私は押し負けた。

 

ばいーん、と。

 

本当に、ばいーん、という感じで扉が開いた。

 

私は勢いに負けて後ろへよろける。

鞄が肩からずり落ちる。

スマホを落としそうになって、慌てて握りしめる。

 

そして、開いた電柱の中を見た。

 

「…………」

 

ベビーベッドがあった。

 

「…………」

 

電柱の中に。

ベビーベッド。

 

私は瞬きをした。

一回。

二回。

三回。

 

変わらない。

 

ベビーベッドがある。

 

七色に光る電柱の中に。

スモークを吐くゲーミング電柱の中に。

竹みたいな取っ手の観音開きの奥に。

 

ベビーベッド。

 

ふりふりのクッション。

小さなガラガラ。

くるくる回る、ベッドメリーみたいな玩具。

 

そして、その真ん中に。

 

赤ちゃんがいた。

小さな赤ちゃん。

 

「…………赤ちゃん?」

 

声が震えた。

 

赤ちゃんは、もぞ、と身じろぎした。

小さな手が、布の上で動く。

 

生きている。

 

その瞬間、私の中の混乱が、少しだけ別の形になった。

 

電柱が光っている。

スモークを吐いている。

扉が開いた。

ベビーベッドがある。

赤ちゃんがいる。

 

何一つ理解できない。

理解できないが。

 

赤ちゃんがいる。

 

夜だ。

少し寒い。

ここは外だ。

アパートの隣だ。

電柱の中だ。

 

置いておけるわけがない。

 

「……え、待って。通報? 管理会社? 警察? 病院? チヤさん? いや、その前に、え、赤ちゃん? 電柱から?」

 

赤ちゃんが、小さく口を開けた。

泣くのかと思った。

 

私は反射的に手を伸ばしていた。

 

ベビーベッドの中の赤ちゃんを、そっと抱き上げる。

 

軽い。

柔らかいとか、温かいとか、その前に軽い。

まるで、丸めただけのタオルを抱えているみたいに手応えがない。

少しでも力を入れたら壊れてしまいそうで、怖い。

 

だめだ。

 

本能的に思った。

 

こんな弱い生き物を、そこらに置いていくわけにはいかない。

法律とか、倫理とか、そういうものの前に。

人間として、絶対に無理だ。

 

その時、電柱がふっと消灯した。

 

「え」

 

取っ手も。

扉も。

七色の光も。

スモークも。

 

全部、最初からなかったみたいに消えた。

 

目の前に残ったのは、ただの電柱だった。

 

「嘘でしょ。ちょ、待って」

 

私は赤ちゃんを片腕でどうにか抱えながら、電柱を叩いた。

 

「すみませーん!お忘れ物ですよー!」

 

固い。

普通の電柱だ。

何の返事もない。

 

やられた。

 

深夜の路上。

私は電柱の前で、赤ちゃんを抱いて立ち尽くしていた。

 

「こ、この状況じゃ、私が攫ったみたいでは?」

 

腕の中の赤ちゃんが、どすんと重くなった気がした。

 

見下ろすと、赤ちゃんは柔らかそうな頬を持ち上げて、無邪気に笑った。

 

「たい♡」

 

「無理無理無理無理無理!」

 

可愛い。

可愛いが、無理。

 

いや、やっぱりここに置いて――だめ。

路上に放置はあり得ない。

じゃあ、管理会社に――でもこの時間に赤ちゃんを抱えて電話?

警察?

説明できる?

電柱が開いて中から赤ちゃんが出てきました、で通じる?

 

そんな私の逡巡を見抜いたかのように、赤ちゃんが顔をくしゃっと歪めた。

 

「ふえっ」

 

「待って」

 

「ふええええええええええええ!」

 

ド深夜の住宅街に、容赦のない泣き声が響いた。

 

「ああ、もう!」

 

人目に付きたくない一心で、私は泣き叫ぶ赤ちゃんを抱いたままアパートへと駆け込んだ。

 

幸い、誰ともすれ違わなかった。

部屋に入り、鍵をかける。

 

一安心。

 

ではない。

 

「なんで持って帰ってきちゃったの、私……」

 

これで完全に誘拐が成立したのでは。

いや、違う。

違うはず。

たぶん。

お願いだから違ってほしい。

 

「ふえええええええん!」

 

小さな猛獣は、満身の不満を己に許された唯一の方法で訴え続けている。

 

どうしよう。

本当にどうしよう。

 

私は片手で赤ちゃんを抱えたまま、スマホを操作した。

 

『赤ちゃん 泣き止ませる方法』

 

検索結果が凄まじい勢いで並ぶ。

世の中の親御さんたちは、みんなこれと戦っているのか。

尊敬しかない。

 

「えーっと、抱っこはしてる。縦抱き……これで合ってる? 横揺れ、抱っこ歩き、子守唄……子守唄?」

 

子守唄。

 

私は固まった。

 

母が、私に歌ってくれた子守唄。

何かあっただろうか。

 

泣くな。

泣くんは楽をしてるだけや。

ほんまに悲しいなら、同じことが起きんように考えなさい。

 

「……記憶にございません」

 

お説教しか出てこない。

 

その時、机の上に置いていたヤチヨのアクリルスタンドが目に入った。

 

一瞬だけ、頭の中のもやもやが晴れた気がした。

 

「大切な、メロディは――」

 

震える声で歌い始める。

 

ヤチヨの曲。

私が何度も救われた歌。

眠れない夜に聞いた歌。

歩けない日に、足を前に出させてくれた歌。

 

赤ちゃんの泣き声は、少しだけ弱くなった。

 

「流れてるよ――あなたのハートに――」

 

歌いながら、私は赤ちゃんをゆっくり揺らした。

 

軽い。

温かい。

柔らかい。

生きている。

 

さっきまで完璧に回っていたはずの私の生活の中に、ありえないものが入ってきた。

 

私の東京生活は、ようやく軌道に乗り始めていた。

 

学校も。

仕事も。

一人暮らしも。

 

全部、ちゃんと回っている。

そう思っていた。

 

その夜までは。

 

アパートの真隣に立つ、七色に光る電柱。

スモークを吐いて、竹みたいな取っ手を生やして、観音開きに開いたそれ。

 

そして、その中に置かれていたベビーベッド。

 

私はその夜。

 

ゲーミング電柱の中から、赤ちゃんを拾った。

 




長々とお付き合いくださりありがとうございました。
次回は、かぐや救済まで一気に書き上げる予定でいます。

次話はまだプロットだけで、書き溜めがないので時間がかかると思います。
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