八千夜 作:超かぐや姫!に脳を焼かれた人
彩葉視点、一気に畳むつもりだったのですが、丁寧に書いていたら全然話が進まなくてですね……。
あと二、三話ほど、彩葉視点で書かせてください。
それと、息抜きで書いた二話完結の短編作品が、ありがたいことにとても好評をいただいているようで、本当にありがとうございます!
本作品ともども、今後もよろしくお願いいたします。
※2026/5/29 03話の内容に04話が上書きされてたようです。申し訳ないです……。
『Remember』の続きを歌い切る前に、泣き声は止まっていた。
「……ぁ」
思わず、歌うのをやめかける。
けれど、腕の中の赤ちゃんが小さく身じろぎしたので、慌てて息を吸い直した。
まだ止めてはいけない気がした。
止めた瞬間に、また泣き出す気がした。
だから私は、震える声のまま、ヤチヨの歌を口ずさみ続けた。
何度も聴いた曲。
勉強の合間に、学校へ向かう電車の中で、チヤさんから届いた作業用データを開く前に。
少し気合いを入れたい時も、逆に肩の力を抜きたい時も、自然と再生していた曲。
初めて聞いた時から、不思議と耳に馴染み、心の奥底にまで響いた曲。
ヤチヨの歌は、私にとって生活の中にある小さなスイッチみたいなものだった。
聴くと背筋が伸びる。
少しだけ肩の力が抜ける。
今日もちゃんとやろうと思える。
そんな歌を、私は腕の中の赤ちゃんに向けて歌っていた。
さっきまで全身で泣いていた赤ちゃんは、私の腕に頬を押しつけるようにして、すうすうと小さな寝息を立てている。
私は安堵の息をひとつ吐き、赤ちゃんを起こさないように小さな声で呟いた。
「……ヤチヨパワー、すご……」
いや、すごいのは知っていた。
だって、推しだし。神だし。
知っていたけれど、赤ちゃんにも効くの?
私の推し、守備範囲広すぎない?
いや、ロリコン的な意味合いではなく。
そんな現実逃避みたいなことを考えながら、私はそろりそろりと布団の上に赤ちゃんを横たえた。
布団と言っても、私の布団だ。赤ちゃん用のものなんてない。
あの電柱ちくしょう、赤ちゃんだけ置いていきやがった。
せめて、ベビーベッドやら玩具やらも置いていけ。
腕を抜く。
指を抜く。
息を止める。
十秒待つ。
赤ちゃんは、起きなかった。
「……よかったぁ」
その場にへたり込みそうになって、ぎりぎり踏みとどまった。
よかった。ではない。全然よくない。
私の部屋には今、七色に光るゲーミング電柱から出てきた赤ちゃんが寝ている。
「……これは、保護? 誘拐? どっち?」
声に出したら、余計に怖くなった。
違う。誘拐ではない。拾った。
いや、拾った赤ちゃんを部屋に連れて帰った時点で、かなり危うい。
警察。
そうだ。警察だ。
迷子とか、保護とか、そういうのは警察に通報するべきだ。
私はスマホを握った。
生まれて初めて、自分の意思で一一〇番を押す。
指先が震え、汗ばみ、たった三つの数字でさえうまくタップできない。
通話ボタンを押す前に、頭の中で説明を組み立てる。
――七色に光る電柱から赤ちゃんが出てきまして。
だめだ。完全にだめだ。
いたずらと判断されるか、最悪危ない薬を疑われる。
――建物の前で赤ちゃんを見つけまして。
それならまだ通じる。
でも、見つけた場所を聞かれたら?
防犯カメラを確認されたら?
私が電柱の扉を押し返したり、赤ちゃんを抱き上げたり、部屋に駆け込んだりしている映像がばっちり映っていたら?
待て。
そもそも、家に連れ帰った時点で、もう何らかの法に抵触しているのでは?
「いや、それでも、通報しない方がまずいやろ……?」
私は震える親指で通話ボタンを押した。
コール音。一回。二回。三回。
『はい、一一〇番です。事件ですか、事故ですか』
「ひゃいっ」
変な声が出た。
『どうされましたか?』
正直に話そう。
正直に話せばきっとどうにかなる。そうに違いない。
ちょっと警察のご厄介になるかもしれないが、私は未成年だし、すべては善意でやったことだ。
だから―――
警察。事情聴取。
実家。連絡。両親。母親。弁護士。
チヤさん。監督不行き届き。
「……あ! 大丈夫です! 今、大丈夫になりました! すみません、ありがとうございます!」
切った。切ってしまった。
警察に、大丈夫なことだけを伝えて切るという謎の電話をかけてしまった。
「何してんの、私……」
頭を抱えた。けれど、もう一度かけ直す勇気は出なかった。
かけ直して、すべてを正直に話せば、事態は解決するかもしれない。
だが、代わりに別の問題が起きる。
実家へ連絡が行く。私が赤ちゃんを拾って、家に連れ帰ったことが母に知れる。
母に、善意だからとか、未成年だからとか、そんな言い訳が通じるはずがない。
弁護士の母が、罰せられないとはいえ、法に抵触しかねないことをしでかした私をどうするか。
確実に実家に連れ戻される、そして、チヤさんに監督不行き届きの責任を追及するだろう。
布団の上の赤ちゃんは、何も知らない顔ですやすや眠っている。
すやすやと、小さな胸が呼吸によって上下している。
小枝のような腕には銀色のブレスレット。
柔らかそうな頬が幸せそうに緩んでいる。
「……どうしよう」
警察はだめ。両親もだめ。
残る選択肢は、チヤさん。
でも、チヤさんに迷惑をかけるのは……
―――あんたみたいなあまちゃんには無理や
―――困った時に、誰かが都合よう助けてくれると思ってるなら……
チヤさんなら、きっと変な話を変な話のまま受け止めてくれるだろう。
電柱から赤ちゃんを拾った、なんて頓狂な話もきっと聞いてくれる。
私の音楽に価値があると言ってくれた人。
東京へ来るまでのあれこれを、かなり強引に、でもちゃんと筋を通して支えてくれた人。
長年の友人で、ヤチヨ案件の窓口で、仕事相手で、私が困った時に、いつも妙な軽さで逃げ場を作ってくれる大人。
チヤさん。
私は通話ボタンを押した。
一秒も待たずに繋がった。
『ヤオ……じゃなかった。はいはーい、チヤさんだよ〜。どうしたの、彩葉ちゃん。こんな時間に』
「……チヤさん」
『うん』
チヤさんの声を聞いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
ビデオ通話に切り替える。
画面にチヤさんの姿が映る。
少し青みがかかった銀髪、散りばめられたピンクのメッシュ、勝気そうな、ややつり目気味の青い瞳。
腰元まで伸びた長い髪を下ろし、部屋着なのかダボっとしたパーカを着ており、のぞいている鎖骨がとても……
あっぶね。
ギャルっぽい。そんな第一印象が最初にくる容姿。
ともすれば、本当に成人女性か?と疑ってしまうほどに少女性を強く宿している顔立ち。
この容姿で、あの軽くてふわふわした声が出ているのが、ちょっと信じられない。
この容姿で、ヤチヨのプロデューサーなんて大役をやっていて、私のスケジュール管理まで完璧にこなすしごできなのが、ちょっと信じられない。
この容姿で、あの母と対等に渡り合った事実が、ちょっと信じられない。
あの完璧超人で弁護士な堅物が、ギャルみたいな容姿でふわふわと喋るチヤさんにやり込められ、認めるに至ったことが、いまだに信じられない。
容姿で判断するのは失礼なことを承知で、ちょっと信じられないスペックだと思う。
チヤさん、あなたは逆に何を持ち得ないのだ?
……変な思考が走った。
いま考えるべきことは絶対にそこではない。
やはりまだ混乱しているらしい。
変なことや失礼なことを考えたのはすべて、きっと電柱と赤ちゃんのせいだ。
「今、大丈夫ですか」
『大丈夫。どうしたの?』
「笑わないで聞いてもらえますか」
私は話した。
ワーキングスペースを出て、家の前まで辿り着いたこと。
家の前の電柱が、七色に発光していたこと。
不用意に近づいてしまったこと。
電柱に観音開きの扉がついていたこと。
必死で扉を閉じようとして、ダメだったこと。
中にベビーベッドと玩具があり、赤ちゃんが眠っていたこと。
泣き出しそうになった赤ちゃんを、思わず抱き上げてしまったこと。
七色の光と扉が消えてしまったこと。
赤ちゃんだけ置いて、ベビーベッドや玩具は置いていかなかったこと。
私はすべてをチヤさんにぶちまけた。
普段の私からは考えられない。
理路整然などない、ただ記憶と感情をそのまま吐き出すような語り。
そんな私の話を、チヤさんは真剣に、時々相槌を打ちながら聞いてくれた。
「私、たぶん、誘拐犯です」
『うん、一旦落ち着こうか〜』
画面の向こうのチヤさんは、いつものチヤさんだった。
軽い。ふわふわしている。
でも、笑わなかった。馬鹿にしなかった。
私の話を、真剣に受け止めてくれていた。
「信じて、くれるんですか」
『彩葉ちゃんが、変な嘘つく子じゃないってことは、ちゃ〜んと知ってるよ』
その言葉だけで、少し呼吸が楽になった。
「……ありがとうございます」
『で、赤ちゃんは今、泣いてる?』
「寝てます。ヤチヨの歌を歌ったら寝ました」
『へえ〜。流石はヤチヨの歌、おそるべし』
「すごいです。神です」
『でしょ〜?』
「なんでチヤさんが誇らしげに?」
そんなやり取りをしているうちに、気持ちが落ち着いて、頭が動き始めた。
チヤさんは、赤ちゃんの呼吸、顔色、寝かせ方、布団の状態、部屋の温度をひとつひとつ確認してくれた。
私は言われるままに見て、触って、答えた。
「これからどうしたらいいんでしょう」
『今夜を越えよう』
「今夜、ですか」
『そう。今後のことは、明日考える。警察に行くにしても、病院に行くにしても、まず彩葉ちゃんが倒れないこと。赤ちゃんが無事なこと。目標はそれだけ』
『大丈夫。彩葉ちゃんは今、けっこうちゃんとやれてる』
『赤ちゃんを放っておかなかった。泣いたらあやした。寝かせた。相談した。ぜんぶ百点』
「ひ、百点の誘拐犯では?」
『だから、大丈夫だって〜』
大丈夫。その言葉は、たぶん何の保証にもならない。
でも、今の私には、次に何をすればいいかを一緒に考えてくれる声が必要だった。
「あの、このこと、両親には……」
『……うん、うまいこと誤魔化しとく。言っておくけど、彩葉ちゃんも共犯だからね』
通話は朝方まで続いた。
赤ちゃんが身じろぎするたびに私が固まり、チヤさんが「大丈夫だから」と励ます。
私が何度も「すみません」と言うたびに、チヤさんは「謝らなくていいよ」と返す。
『むしろ わたしの方こそゴメンね、彩葉……』
「うぇっ、すみません! 今一瞬、意識飛んでました! ……何か言いました?」
『ううん、なんにも☆』
そうして、私はほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
朝、起床すると布団が濡れていた。
オムツくらい履かせとけよ、電柱ちくしょう!
子守唄代わりに、タブレットと無線スピーカーでヤチヨの曲を流しながら、私はスマホで調べた即席のおくるみを作った。
赤ちゃんをシーツでくるむ。抱き上げる。落とさないように、腕の角度を何度も確認する。
どう考えても、人に見られたくない。
けれど、こんなか弱い生き物を置いて買い物へ行くのも違う気がする。
軽くシャワーを浴び、外着に着替え、私は赤ちゃんを抱えたまま西竹屋へ向かった。
子育ての味方。
そう大きく書かれた看板を見上げて、私は心の底から思った。
味方なら、もう少し売り場の案内を初心者向けにしてほしい。
「オムツって、種類多すぎない……?」
新生児用。Sサイズ。テープ。パンツ。肌に優しい。吸収力がすごい。夜用。昼用。
いや、赤ちゃんって昼と夜で仕様変更入るの?
ミルクもわからない。
哺乳瓶もわからない。
消毒用品もわからない。
服のサイズもわからない。
全部わからない。
赤ちゃん用品は知らない単語と知らない判断基準だらけだった。
チヤさんが送ってくれた詳細なリストがなかったら、私は赤ちゃん用品売り場という迷宮で迷子になっていたところだった。
ふじゅ〜まで振り込んでもらうのは流石に遠慮したが、結局押し切られた。
チヤさんは、そういうところがある。
私に対してまったくお金を惜しまない。
チヤさんは「出世払いで返してくれたらいいよ〜」と冗談めかして言うが、私はもう既に、あなた経由でお仕事をして結構なお給金をいただいてるんです。口座の残高があきらかに高校生のそれじゃないんです。
いつになったら返させてくれるんですか?
このままだと、返せないレベルに恩が積み重なってしまいます!
おっと、話がずれた。
赤ちゃんが起きてぐずり出す前に帰らなければ。
チヤさんのリスト通りに買い物かごにベビー用品を放り込んでいく。
オムツ。ミルク。哺乳瓶。肌着。おしりふき。それから―――
値札を見て、頭の中でそろばんをはじく。
一万三千二百四十三円。
チヤさんから送金されたふじゅ〜を円換算すると―――
いや、多い!差額が、二万円……?
何が「余ったらお小遣いにしていいよ〜」だ!
こんなの最初から余らせる気満々の額じゃないか!
一万三千二百四十三円。
レジを通して、改めてその額の大きさを実感し、私は一瞬、真顔になった。
高校生の財布に優しい金額ではない。けれど、払えないわけではない額。
私はそこらの高校生よりも金銭に余裕がある方ではあるが、しかし、普通は見ず知らずの赤子に使う額ではない。
一万三千二百四十三円。
赤ちゃんを育てるというのは、つまりこういうことなのだろうか。
ひとつひとつの判断に、責任と値札がついてくる。
一瞬迷って、結局、チヤさんが送ってくれたふじゅ〜には手はつけなかった。
小さな意地だった。
両手いっぱいの荷物と、胸元の赤ちゃんを抱えて帰宅した時には、もう腕が死にかけていた。
赤ちゃんは途中で目を覚ましていた。泣いてはいない。ただ、こちらを見上げていた。
「……ただいま」
返事はない。
でも、小さな手がひょこっと動いた。
それだけで、少しだけ胸が変なふうに緩んだ。
タイミングよく、インターホンが鳴った。
宅配便だった。
送り主は、チヤさん。
品名は、余り物。
「……余り物?」
段ボールを開ける。
新品の布団。レトルト食品。栄養ゼリー。日持ちするスープ。赤ちゃん用ではないけれど、私が食べられるものばかり。
スマホを手に取る。すぐに通話をかける。
「これは何ですか」
『余ってたから』
「新品の布団と食料品が?」
『うん』
「余ることあるんです?」
『余ることもあるよね〜』
画面の向こうのチヤさんは、困ったように笑っていた。
深くは聞かずに受け取ってくれと、チヤさんの目は言っている。
そういうところだ、チヤさんの、そういうところ良くないと思う。
私はしばらく黙って、段ボールを見た。
もらいすぎだ。いつだって、私はもらってばかりだ。
助かる。腹立たしいくらい、助かる。
今の私に必要なものを、必要なタイミングで、必要以上に送ってきている。
「……ありがとうございます」
『どういたしまして〜』
「でも、次からは事前に言ってください。受け取るかどうか、こちらにも判断する権利があります」
『はい』
「あと、レトルト食品と栄養ゼリーは赤ちゃんには向きませんよね」
『余ってたから』
「……わかりました。深くは聞きません」
『助かる〜』
本当に、変な人。
変な人。
私は甘やかされすぎている。
私はチヤさんとは対等でいたいのに。
対等の友達でいたいのに。
今の私にはそれができない。それができる力も立場も今の私にはない。
今はまだ無力だ。じゃあ、いつになれば―――
私は、その日届いた布団に赤ちゃんを寝かせた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
三連休は、赤ちゃんに飲み込まれた。
ミルク。オムツ。寝かしつけ。泣いた。寝た。起きた。また泣いた。ミルク。オムツ。寝かしつけ。
時計を見るたび、時間が吹き飛んでいた。
「勉強……」
机の上には、開きっぱなしの参考書がある。
「仕事……」
業務用ノートPCも置いてある。
チヤさんは「三連休の仕事はなしにするから」と言ってくれていたが、それでも確認したい資料くらいはあった。
「睡眠……」
それが、一番足りない。
けれど、赤ちゃんが泣くと、身体が勝手に動いてしまう。
人間の女性としての本能にでも刻まれているのだろうか。
すべてに完璧に対処できているわけではない。
むしろ、何一つ予定通りではない。
抱き方はぎこちない。
ミルクの温度は毎回不安。
オムツ替えは手際が悪い。
泣いている理由も、たぶん半分くらいしかわかっていない。
でも、泣かせっぱなしにはできなかった。
「はいはい、ミルクですね。少々お待ちくださいませ、お嬢様」
赤ちゃんは「うえっ」と短く声を出した。
最初は全部同じ泣き声に聞こえたのに、三日目にはなんとなく違いがわかるようになっていた。
お腹が空いた時。眠い時。オムツの時。抱っこしてほしい時。
本当にわかっているのかは知らない。
でも、私はわかった気になっていた。
「チヤさん、オムツって、これで合ってます?」
『…………う、うん。上手上手。彩葉ちゃん、手際いいね〜』
ビデオ通話の向こうで、チヤさんの声が震えていた。
「チヤさん?」
『な、何かな〜』
「大丈夫ですか。声、震えてますけど」
『大丈夫。大丈夫だよ。ちょっと、親身になりすぎただけ』
「親身になって声が震えること、あります?」
『あるんだよ〜。頼れるお姉さんなので〜』
「頼れるお姉さんなら、もう少し頼れる声を出してください」
『……うん。がんばる〜』
『がんばって、この羞恥に耐えてみせる……ッ』
何なのだろう。
赤ちゃんが苦手なのか。
それとも、私の手つきが危なっかしくて見ていられないのか。
理由はわからない。
けれど、チヤさんは通話を切ることなく、ずっと私に寄り添っていた。
私が慣れない手つきでオムツを替え、服を直し、赤ちゃんを抱き上げるまで、ずっと画面の向こうにいてくれた。
それだけで、安心できた。
「できた……?」
『うん。彩葉ちゃん、ちゃんとできてるよ』
赤ちゃんが、ふにゃっと笑った。
「たい♡」
「……」
ずるい。それはずるい。
こっちは寝不足で、腕も腰も痛くて、予定も全部崩れているのに。
そんな顔をされたら。
「……かわいい」
言ってから、我に返った。
画面越し、チヤさんの姿が一瞬、ぶれた。
『彩葉ちゃん、絆されちゃった☆』
「今の聞かなかったことにしてください」
『無理かな〜』
「聞かなかったことにしてください」
『努力はする〜』
私たちのやりとりが伝わったのかは知らない。
赤ちゃんがもう一度笑った。
それだけで、色々とどうでもよくなった。
なんか、負けた気がする……
◇◇◇◇◇◇◇◇
三連休最終日。
赤ちゃんは、少女になっていた。
「……」
私は、布団の前で固まった。
昨日まで、赤ちゃんだった。
いや、昨日の時点で少し大きくなっているとは思っていた。
でも、成長期にも限度がある。
そこに座っていたのは、十歳ほどの少女だった。
腰まで伸びた艶やかな髪の毛。
月の光みたいに白い肌。
流れ星を閉じ込めたような目。
手首につけた銀色のブレスレットだけが、少女があの赤ちゃんであることを証明している。
いや、よく見ると顔立ちにも面影が―――
「お腹空いた、ミルクちょうだい」
喋った。
「……」
「いろはー?」
名前を呼ばれた。
「ぎゃあああああああああ!」
叫んだ。
少女も驚いたように跳び上がった。
「うわあっ! ビビったぁ……」
「ビビったのはこっちだから! いきなり大きくなりすぎ! こわっ!」
「んー。まあ、今時は何もかもスピードが早いんですわ」
インタビューのコメントかな?
薄々、いや、わりと真面目に思っていた。
こいつは人間じゃないと。
しかし、赤ちゃんの姿をされていると、どうしても無下にはできなかった。
赤ちゃんの姿をされていると、ね。
大きくなったなら話は別だ。
私は段ボールにベビー用品を詰めて少女の前へ置いた。
「なにこれ?」
「お引き取りください」
少女は理解できないといった目を私に向けた。
「どゆこと〜〜?」
「あなたの荷物です。どうぞ月なり電柱なりへお帰りください」
「やだー」
「やだじゃない」
「お腹空いた〜」
ぐぅー、と少女のお腹が鳴った。
それにつられるように、私のお腹も鳴った。
気まずい沈黙。
少女は、こちらを見上げた。
「たすけて〜?」
「……」
たぶん、この子は言葉の重さなんてわかっていない。
お腹が空いたから。困ったから。目の前にいる私へ、手を伸ばしただけだ。
それでも、助けてと言われてしまった。
再度、少女の顔を見る。
赤い瞳に涙をためて、上目遣いでこちらを見上げている。
やはり、赤ちゃんだった頃の面影が―――
私は手で自分の顔を覆った。
親愛なるチヤさん、私はもう手遅れみたいです。
我が家は、小さな宇宙人に侵略を完了されてしまいました。
「……オムライスでいい?」
「おむらいす? おいしそう!」
「まだ何なのかもわかってないでしょ」
私は立ち上がって、炊飯器を開けた。
中身は水に浸かった生米。
昨日、スイッチ入れ忘れた……。
冷蔵庫を開く。
幸いにも冷やご飯があった。
他には、チヤさんから送られてきたレトルト食品や、昨日さらに追加で届いた野菜が入っている。
私が買い足した食材の占有率は、微々たるものだった。
冷蔵庫は、すでにチヤさんに侵略を完了されてしまっていた。
必要な食材を取り出し、調味料を確認して、調理にとりかかる。
調理中、後ろで「すげー」「なにこれー」と飛び跳ね、はしゃいでいる少女を「危ないでしょ」と叱りつけて遠ざける。
母親か私は……。
二人前のオムライスを作り、盛りつけ、少女の座る食卓へ運ぶ。
私は、こんな早朝からなんでオムライスなんて作ってるんだ?
私が言い出したので、引くに引けなかったとはいえ、朝から重い。
もっと胃に優しい料理名を出せばよかった。
少女はオムライスを不思議そうに眺めたあと、一口食べた。
瞬間、目を輝かせた。
「すごい! 何これ!」
「オムライス」
「オムライス! 大好き!」
「初めて食べたのに?」
「今、大好きになった!」
勢いがすごい。食べる速度もすごい。
この子は、世界のすべてを初めて見るみたいに反応する。
卵にも。ケチャップにも。スプーンにも。
「……そんなに好きなら、私のもあげる」
「やたー! ありがとう! 彩葉ー!」
ああ、嫌になる。
自分が今、とても穏やかに微笑んでいることが、鏡を見ずともわかってしまった。
―――彩葉ちゃん、絆されちゃった☆
ええ。はい。否定できないです。
「あんた、どこから来たの?」
「んー、月?」
やっぱり、想像通り宇宙人じゃねぇか。こわっ。
「月って、あの月?」
私は窓の外を指さした。
まだ朝なので、当然、月は見えない。
それでも、少女は迷いなく窓の向こうを見上げた。
「たぶん、あっち!」
「たぶんって……じゃあ、なんで地球に来たの?」
「んー、すごくつまらなかったから、逃げてきた……気がする」
「雑」
雑すぎる。なんだ、つまらないから逃げてきたって。
だが、本人がそう言うのなら、たぶんそうなのだろう。
七色に光る電柱から出てきて、三日で赤ちゃんから少女になり、月から来たと宣言する存在。
この時点で、常識の方が折れるしかない。
月から来た女の子。
そう考えた瞬間、頭の中でひとつの御伽噺が浮かんだ。
「……竹取物語」
「たけ?」
少女が首を傾げる。
「そう。昔話。月から来た女の子の話」
「月から!」
反応が早い。
少女はスプーンを置き、身を乗り出してきた。
興味津々、という言葉が服を着て座っているみたいだった。
私はタブレットを引き寄せ、子ども向けの『竹取物語』のページを開いた。
画面には、光る竹と、そこから見つかる小さな女の子の絵が表示される。
「この話だと、光る竹の中から女の子が見つかるの。あんたは電柱だったけど」
「でんちゅう?」
そう。
しかも、ただの電柱ではない。
七色に光るゲーミング電柱だ。風情の欠片もない。
私は画面をスクロールした。
「で、見つかった女の子はすぐに大きくなって、すごく綺麗なお姫様になる」
「おー、お姫様!」
「たくさんの人から結婚を申し込まれたり、帝に求婚されたりするんだけど」
「けっこん?」
「あー、家族じゃない大切な人と、家族になること」
「かぞく」
「最終的に、月から迎えが来て、その子は月へ帰って、めでたしめでたし」
私はそこで一度言葉を切った。
タブレットの画面には、夜空から降りてくる月の使者たちと、地上に残される人々の絵が映っている。
少女は黙って画面を見つめた。
さっきまで、卵やケチャップやスプーンにいちいち騒いでいた子とは思えないほど、静かだった。
「帰るの?」
「うん」
「その子、帰りたかったの?」
「……どうだろうね」
私は曖昧に答えた。
子どもの頃に読んだ時は、綺麗で少し寂しい話だと思った。
でも、今こうして月から来たらしい少女を目の前にして読むと、ずいぶん勝手な話にも思える。
拾われて、育てられて、好かれて、慕われて。
最後には、迎えが来たから帰る。
それが物語の決まりだと言われれば、それまでだけれど。
「でも、そういう話なの。月から来た子は、最後には月に帰る」
「なんで?」
「なんでって……」
決まっているから。
そういうものだから。
変えられないものは、覚悟して受け入れるしかないから。
喉元まで出かかった言葉に、自分で少し嫌になる。
それは母の声に似ていた。
正しい。
たぶん、正しい。
冷静で、現実的で、隙がない。
けれど、目の前の少女は納得しなかった。
赤い瞳が、じっと画面を睨んでいる。
「やだ」
「やだって言われても、そういうお話だから」
「やだ。そんなの、全然めでたしじゃない!」
少女は頬を膨らませた。
けれど、その顔はただ駄々をこねているだけには見えなかった。
本気で怒っている。
本気で、気に入らないと思っている。
「せっかく楽しいところに来たのに、帰って終わりなの?」
「まあ、そういう結末ではある」
「残った人たちは?」
「悲しむ、かな」
「じゃあ、ダメじゃん」
「ダメって」
「ダメだよ。そんなの、超バッドエンドじゃん!」
私は言葉に詰まった。
「物語って、そういうものばかりじゃないでしょ。悲しい終わり方もあるし、どうにもならないこともある」
「どうにもならなくない」
「いや、昔話に怒ったところで」
「だったら、変えればいいじゃん」
少女は、あまりにも簡単に言った。
「月から迎えが来るなら、帰らなければいい。帰らなきゃいけないなら、帰らなくていい方法を探せばいい。悲しい終わりになるなら、違う終わりにすればいい」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃなくても、やる!」
少女は立ち上がった。
だぼだぼの私の服の裾が揺れる。
まだスプーンの持ち方も怪しいくせに、タブレットで見た御伽噺の結末に対して、本気で喧嘩を売る顔をしていた。
「わたしは、自分でハッピーエンドにする!」
その声は、狭い部屋には少し大きすぎた。
私は思わず肩を揺らした。
「そんで、ハッピーエンドまで彩葉も連れてく!」
「……は?」
「ハッピーエンドまで!」
少女はにぱっと笑った。
「一緒に!」
当然のように言われた。
あまりにも当然のように。
私は、呆れるべきだった。
何を勝手に人を巻き込んでいるのかと怒るべきだった。
そもそも、今日初めてまともに会話した宇宙人に人生の行き先を決められてたまるか、と突っ込むべきだった。
なのに。
一緒に。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
「……いや、意味わかんないんだけど」
「わかんなくてもいいよ!」
「よくない」
「でも、決めた!」
「勝手に決めないで」
「勝手に決めた!」
「胸張るところじゃない」
少女は楽しそうに笑っている。
本当に、何も怖がっていないみたいだった。
月から来た。
帰らなければならないかもしれない。
物語の結末は悲しい。
そんな話を聞かされたばかりなのに。
それでも、この子は笑っていた。
悲しいなら変えればいいと、何の疑いもなく言ってのけた。
まぶしい。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
けれど、認めたくなくて、私はタブレットの画面を消した。
「この話はおしまい」
「えー、続きは?」
「もう終わったでしょ」
「終わってないよ。ハッピーエンドになってないもん」
「昔話に追加パッチを当てる気か?」
「ぱっち?」
少女は不満げに頬を膨らませたあと、また私の皿を見た。
「彩葉、オムライスもうないの?」
「さっき全部食べたでしょ」
「ハッピーエンドにはオムライスが必要だと思う!」
「あんたが食べたいだけでしょ……」
私は深々と息を吐いた。
やっぱり、こいつは手に負えない。
自由すぎる。
危なっかしい。
何を考えているのかも、どこまで考えているのかもわからない。
けれど。
一緒に。
その声だけは。
なぜだか、なかなか頭から離れてくれなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
少女が落ち着いたようなので、タブレットを与えた。
そちらに夢中になっているうちに、チヤさんへ通話をかける。すぐ出た。
『はいはーい、なんだいなんだい?』
「チヤさん」
『うん』
「赤ちゃんって、こんな急に大きくなるものなんですか」
『……んー、まぁ、今時は何もかものスピードが早いのかなー?』
画面の向こうのチヤさんは、乾いた笑いを浮かべていた。
「そんなことあります?」
というか、今の台詞って……。
あの宇宙人、チヤさんの影響受けてる?
いや、たしかに、昨日までほぼ通話繋いでたわけだし。スピーカーモードだったし。
私とチヤさんの会話を聞いて学習した可能性が。
「ねー、チヤってだれー?」
少女の頭がにゅっと、私とスマホ画面の間に割って入った。
あっ、こら!
『はじめまして〜。チヤさんだよ』
「チヤ! なんか知ってる声する!」
『君が赤ちゃんの間、ずっと彩葉と通話してたからじゃないかな?』
「んー、そうかも?」
「ちょっと、割り込んでこないでよ」
くそう。もうタブレットに興味を失ったか。
「チヤー! 聞いてよ! 彩葉が追い出そうとするの!」
『あー』
「それだけ大きくなれば、もう自立できるでしょ、宇宙人?」
「やだー! いーやーだー!」
どったんばったんと手足を振り回して駄々をこねる少女。
やめなさい。みっともない。
下の階の住人にも迷惑でしょうが。住んでるかわからないけど。
少女を尻目に、私は少女から聞き出した情報を話した。
といっても、月から逃げてきた宇宙人?月人?ということしか、私もわかっていないわけだが。
『御伽噺みたいだね〜』
「あ、私もそれ思いました。かぐや姫みたいだなって」
まあ、竹じゃなくてゲーミング電柱とかいう、情緒の欠片もない代物から出てきたわけだが。
『これからどうするの?』
「とりあえず、月からお迎えがくるのを待ってみます」
『それまで彩葉ちゃんの家で面倒見る、と?』
「まあ、はい、そう、なりますね……」
苦渋の決断。
私の生活が壊れる可能性は高い。
学校、仕事、両親への報告、どれかひとつでも支障が出れば、両親にバレる。
バレたら、どうなるか。
最低でも、実家に連れ戻される可能性は高い。
でも、今更放り出せない。
『……そっか。わたしは彩葉ちゃんの選択を尊重するよ』
ご両親への報告の調整は任せて。
そんなふうに軽く請け負ってくれているが、バレた時のリスクは私なんかよりもはるかに高いはずだ。
社会的な信用に瑕がつく可能性をわかっていて、チヤさんは私の味方をしてくれる。
ヤチヨが神様なら、チヤさんは天使なのかもしれない。
「……ありがとうございます」
『可能な限りサポートするから、困ったら電話してね』
「はい、ありがとうございます」
どんっと、背後から抱き着かれ、首に腕を回された。
少女が飛びついてきたようだ。
「彩葉ー、お腹空いたー」
「は? さっきオムライス食べたばっか」
は? お腹空いた? お腹空いたと申すか?
オムライス二皿食べてから、まだそこまで時間が経っていないというのに。
「オムライス!」
「宇宙人の食欲、どうなってるわけ?」
私はぶつくさ文句を言いながら立ち上がる。
少女が後ろをついてくる。まるで生まれたてのヒヨコが親を追うように。
画面の向こうでチヤさんが苦笑いしているのが見えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
怒涛のような三連休が終わった。
信じられない。
三連休、本当に終わったの?
本当に?
三連休は、勉強と睡眠と、それからヤチヨのアーカイブ視聴で構成された完璧な予定だったはずなのに……。
人生、予定通りにいかないものだというが、これはそんな次元の話ではない。
私の三連休が、宇宙人に侵略されてしまった……。
「彩葉」
放課後。
心身ともに抜けきらない疲れで、重たい身体を引きずるように、とぼとぼとした足取りで昇降口を出ると、芦花に声をかけられた。
隣には真実もいる。
「今日、予定ある?」
「うん、ごめんね。今日はちょっと」
予定はある。
主に、帰宅して宇宙人が部屋を破壊していないか確認するという予定が。
「じゃあ、パンケーキね」
「芦花さーん?私は今日予定が」
「うん、聞こえた。だからパンケーキね」
「どういう論理?」
「彩葉の予定、どうせ勉強かバイトかヤチヨでしょ。じゃあ、そこにパンケーキも入れて」
「なんて横暴……」
「はいはい、行くよー」
「ああ、ちょっと、腕を引っ張るのは―――」
くそう。
抗えない。私だって、二人とパンケーキ行きたい。
でも、宇宙人が―――
「行こ? 彩葉?」
芦花の甘えた声と、こてん、とあざとく首を傾げる姿にドキリとさせられる。
心の天秤が、傾きそうになる。
少しくらいなら、平気ではないか。
私とて、何の対策もなく、宇宙人を家に置いてきたわけではない。
一、外に出ない。
二、目立たない。
三、勝手に人の物を触らない。
四、お腹が空いたら、ストックしてある菓子パンを食べる。
五、火は使わない。
今朝、考えつく限りの禁止事項を紙に書き、宇宙人に読み聞かせた。
宇宙人は「はーい!」と元気よく返事をした。
信用ならない。
まったく信用ならないが。
しかし、学校を休むわけにもいかない。
母への定期報告に出席日数の乱れなど記載できない。
万が一、ここで変な乱れを作れば、母は間違いなく理由を問いただしてくる。
その理由が、電柱から出てきた宇宙人の世話とか、言えない。
かなりオブラートに包んでも、見ず知らずの子どもを拾って、家に連れ込んで世話をしていましたとか。
即、実家送還ものだ。
しかも、チヤさんまで巻き込む。
あの母が「事情はわかりました。彩葉の判断を尊重します」なんて言うはずがない。
私が未成年であること、出所不明の子どもを一時的にでも家に置いたこと、チヤさんがそれを知りながら保護者に報告しなかったこと。
母はそれらをひとつひとつ、正確に、冷静に、逃げ場なく詰めてくる。
考えただけで胃が痛い。
だから私は、実質チヤさんにしか頼れない。
そして、そのチヤさんに頼り切っている現状が、また胃に悪い。
「彩葉?」
芦花が、少しだけ心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「なんか、顔色悪くない?」
「ちょっと寝不足なだけ。心配してくれてありがと」
「そっか。じゃあパンケーキで回復しよ」
「結局そこに戻すんだ」
真実が、両手を合わせた。
「行こ?」
「……一時間だけね」
言った瞬間、二人の顔がぱっと明るくなった。
出会ってからこの方、この手のことで、私は二人に勝てた試しがない。
いつも、結局、押し切られてしまう。
まあ、一時間。
一時間だけなら、大丈夫だろう。
宇宙人とはいえ、さすがに、たった一時間で問題を起こすことなど―――
「いろはー!」
起こした。
駅前のパンケーキ店。
芦花が予約してくれていた席に着き、期間限定パンケーキが運ばれてきた、その瞬間だった。
店の入り口から、聞き覚えのありすぎる声がした。
私は、ゆっくりと振り向いた。
そこに、宇宙人がいた。
私の服を着て。
いや、正確には、私の部屋着にしていた大きめのTシャツとパーカー、それにスカートを組み合わせていた。
着慣れていないことが目に見えてわかるほど。全体的にややだぼっとしている。
けれど、顔がいいので、謎にそれっぽく見えるのが腹立たしい。
腰元まで伸びた艶やかな髪。
赤い瞳。
白い肌。
今朝の時点では、十歳ほどだったが、今や、ほとんど私と同じくらいにまで育っている。
成長速度がおかしい。
人混みの中で、そこだけ切り抜いたみたいに目立っている。
禁止事項。
一、外に出ない。
二、目立たない。
三、勝手に人の物を触らない。
破られた。
「な……」
声が出ない。
出したら終わる。
宇宙人は私を見つけるなり、ぱあっと笑って、店内を一直線に突っ切ってきた。
店員さんが「あっ」と声を上げる。
芦花と真実が、同時に目を丸くする。
私は立ち上がった。
遅かった。
宇宙人は、私の横に滑り込むように座ると、テーブルの上のパンケーキを見て、赤い瞳を輝かせた。
「なにこれ! おいしそう!」
「ちょっと待っ――」
止める前に、フォークが刺さった。
私のパンケーキに。
ふわふわの生地。
山盛りのいちご。
白いクリーム。
それらが、宇宙人の口へ消えた。
「―――っ!」
宇宙人は、言葉を失ったように固まった。
次の瞬間、頬がぱあっと緩む。
「すごい! なにこれ! あまい! ふわふわ! いちご、すごい! 地球すごい!」
「地球って言うな」
私は反射で小声を飛ばした。
「どうして、ここがわかったの」
「タブレットが教えてくれた!」
「……まさか、私のスマホの位置情報?」
「うん! 彩葉、ここにいるって出てる! ほら!」
「端末同期……切ってなかった……! というか勝手に持ち出さないで」
位置情報。切り忘れていた。最悪だ。
というか、昨日の今日でよくもまあ、そこまで使いこなして。
芦花が、ゆっくりとこちらを見る。
真実も、口元にフォークを運びかけたまま固まっている。
「彩葉」
芦花が言った。
「その子、誰?」
終わった。
いや、落ち着け。
まだ終わっていない。
ここで何か自然な説明をすればいい。
親戚の子。
知り合いの子。
近所の子。
「えっと……親戚の子で、今家で預かってて」
「へぇ! 彩葉の親戚の子かぁ。 かわいいねー、どこから来たの?」
パンケーキを咀嚼し終えた宇宙人が、元気よく口を開いた。
「月――」
「築地! 築地から来たんだよね!」
私は宇宙人の口を手で塞ぎながら叫んだ。
店内の数人がこちらを見た。
芦花と真実も見た。
宇宙人も、口を塞がれたまま不思議そうにこちらを見上げている。
「築地?」
芦花が眉をひそめる。
「そう。築地……方面」
「方面」
「こ、細かいことはいいでしょ。東京は広いんだから」
「築地かぁ……美味しいお店とか知ってたりする〜?」
真実が、じっと宇宙人を見つめた。
宇宙人は、私に口を塞がれたまま、真実を見つめ返している。
そして、にこっと笑った。
真実の表情が、一瞬でとろけた。
「かわいい〜」
「真実?」
「すごくかわいい〜」
「真実、帰ってきて」
芦花まで、宇宙人の顔を覗き込む。
「たしかに、可愛い。めちゃくちゃ可愛い」
「えぇ……」
たしかに顔は整っているが、そこまでだろうか。
私がここ三日間で見慣れてしまっただけ?
「でも、なんで彩葉の服着て、こんなところにいるの?」
「それは……」
私が聞きたい。
宇宙人が私の手をぺいっと剥がした。
「彩葉が置いてった!」
「置いてったんじゃなくて、学校に行ったの!」
「わたしも行きたかったのに!」
「無理。だめ」
芦花が宇宙人に視線を向ける。
宇宙人は、何が楽しいのか、ずっとにこにこしている。
「ねえ、お名前は?」
名前。
その単語が、思ったより深く刺さった。
そういえば、名前を聞いていない。
どこから来たのかは聞いた。月と答えた。
宇宙人であることも、たぶん確定した。
でも、名前は。
私はこの三日間、この子のことを赤ちゃんだとか、宇宙人だとか、あなたとか、こいつとか。
名前を知らない。
いや、もしかして、名前がない。
宇宙人は、首を傾げた。
「なまえ?」
「そう。あなたの名前」
真実が、優しい声で言った。
「名前……」
宇宙人は、少し考え込むように視線を上へ向けた。
まずい。
このままだと、また「月」がどうとか言い出しかねない。
あるいは、もっと取り返しのつかない単語を出すかもしれない。
何か。
何か名前を。
月。宇宙人。
光る竹。いや、光る電柱。
赤ちゃん。
竹取物語。
月から地球へやってきた、美しい少女
私の脳内で、雑な連想ゲームが爆速で回った。
「……かぐや」
気づけば、口からこぼれていた。
三人分の視線が、私に集まる。
「かぐや?」
芦花が繰り返した。
「うん」
私は、もう引き返せないと思いながら頷いた。
「この子の名前。かぐや」
宇宙人が、ぱちぱちと瞬きをした。
赤い瞳が、私を見上げる。
「かぐや?」
「……そう」
「かぐや……」
宇宙人は、自分の口の中でその音を転がすように繰り返した。
「かぐや……かぐや……」
それから、ふわりと笑った。
「そっかぁ。かぐやかぁ〜!」
胸の奥を、何かが軽く叩いた。
嬉しそうだった。
本当に、嬉しそうだった。
さっきパンケーキを食べた時とも違う。
オムライスに目を輝かせた時とも違う。
タブレットで動画を見ていた時とも違う。
自分に向けられた音を、宝物みたいに受け取って、抱きしめるような笑顔だった。
私は、一瞬、見惚れてしまった。
赤い瞳が、パンケーキのいちごよりも、ずっと鮮やかに輝いている。
私のだぼだぼの服を着て、私のパンケーキを勝手に食べて、私の平穏をめちゃくちゃにしたのに。
綺麗だと思ってしまった。
「かぐや、かぁ」
宇宙人――かぐやは、もう一度、自分の名前を確かめるように呟いた。
そして、私の方を見て笑う。
「ありがと、彩葉!」
「……別に」
声が少し詰まった。
ごまかすように、私は残り少なくなったパンケーキの皿を自分の方へ引き寄せる。
その瞬間、かぐやの視線が皿に吸い寄せられた。
「いろはー」
「なに」
「かぐや、もっと食べたい」
「今、いい感じの空気だったよね?」
「いい感じだから、もっと食べたい!」
「台無し!」
芦花が吹き出した。
真実も、くすくす笑っている。
「いいじゃん、彩葉。追加で頼もうよ」
「誰が払うの」
「私、半分出す」
「私は味見する」
「真実は食べたいだけでしょ」
「うん」
かぐやは、芦花と真実を見て、またにぱっと笑った。
「パンケーキ、もう一個!」
「お金の概念を覚えてから言って」
「おかね!」
「復唱すればいいわけじゃない」
私は頭を抱えた。
けれど、店員さんを呼ぶ芦花を止めなかった。
真実が追加メニューを開くのも止めなかった。
かぐやが嬉しそうに足をぱたぱたさせるのも、止めなかった。
テーブルの向こうで、芦花が小さく笑っている。
「彩葉、なんかお母さんみたい」
「やめて」
「え、地雷?」
「地雷というか、爆心地」
「ごめん」
芦花はすぐに引いた。
その距離感がありがたかった。
ただ、芦花の目だけは、笑っているようでいて、まだ何かを測っているようにも見えた。
かぐやは、そんな会話の意味などわかっていないようで、私の袖を引っ張る。
「いろはー、かぐやって呼んで」
「今呼んだでしょ」
「もう一回」
「……かぐや」
「もう一回!」
「かぐや」
「へへー」
かぐやは、名前を呼ばれるたびに嬉しそうに笑った。
困った。
本当に困った。
名前をつけてしまった。
名前をつけるということが、こんなにも重いことだなんて知らなかった。
私はこの子を、ただの宇宙人として追い出す最後の機会を、自分で手放してしまったのかもしれない。
かぐや。
もう、そう呼んでしまった。
呼ばれたこの子は、こんなに嬉しそうに笑ってしまった。
だったら、もう。
取り上げることなんて、できるわけがない。
「いろはー」
「今度はなに」
「かぐや、いちご大好き!」
「はいはい」
「パンケーキも大好き!」
「はいはい」
「彩葉も好き!」
「はいはい……は?」
聞き返す前に、かぐやは運ばれてきた追加のパンケーキへ飛びついていた。
芦花と真実がにやにやとこちらを見ている。
「彩葉」
「なに」
「顔、赤いよ」
「……照明のせいだから」
「うんうん、そうだね」
あー、もう、顔あっつい。
このお店、冷房効いてないんじゃないか。
私は水を飲んだ。
冷たい水が喉を通っていく。
それでも、胸の奥の熱はなかなか引かなかった。
かぐやは、幸せそうにパンケーキを頬張っている。
その横顔を見ながら、私は思った。
この子を拾ったのは、失敗だった。
通報できなかったのも、失敗だった。
チヤさんに頼ったのも、たぶん、正しいとは言い切れない。
勝手に外へ出たこの子を叱らないといけない。
母に知られたら、本当に終わる。
私の東京生活も、チヤさんの信用も、全部危ない。
わかっている。
わかっているのに。
「……口にクリームついてる」
「んー?」
私は紙ナプキンを取って、かぐやの口元を拭いた。
かぐやはくすぐったそうに笑う。
「ありがと、彩葉」
「……どういたしまして」
ああ。
本当に、どうしよう。
私の三連休は終わった。
けれど、どうやら私の平穏も、三連休と一緒に終わってしまったらしい。
チヤさんのイメージは、公式ガイドブックのヤチヨの初期案をイメージしてます。