「お待たせ。渚くん」
「いえ。全然、待ってませんよ」
「うん。じゃあ、行こっか」
玄関前で合流した、潮田渚と狐判稔は、デートに出掛けて。
でも、手は、繋がなかった。
二人が出掛けるところを目にした神室真澄は、そっと目を伏せて。
そこから、離れようとして。
柱の影で、顔を隠して泣いている、一之瀬帆波に、気付いた。
「……………だ、大丈夫?一之瀬」
「……………がむろざん」
「……………えっと、その、話、聞くよ」
「……………ゔん」
神室真澄は、一之瀬帆波を連れて。
「……………だぶん、おぶろ、ごのじがんなら、だれもいないがら」
「……………はいはい。分かったわよ」
一之瀬帆波を連れて、誰もいない大浴場へ。
「で、今日はどこ行くの?」
「報国寺から、寺社仏閣巡りです。
先輩、歴史好きですよね」
「よく覚えてたね」
「一ヶ月間、色々話してましたから」
報国寺。
竹の爽やかな匂いと、静かで涼しげな雰囲気が混ざり合った、優しいお寺。
静かなところも好きな、稔先輩の好みにぴったりだった。
「………はー、静かで良い場所だね」
「………ですね。冬ですし」
「………確かに。人、少ないね」
二人はいつもこんな感じだった。
静かで、ちゃんと距離を置いている、そんな二人で。
踏み込みすぎないでいてくれる潮田渚だから、稔は好きになったのだ。
「………時代劇とか、こういう竹林で斬り合うよね」
「ですね」
「ナイフでこれ切れる?」
「うーん、綾小路くんなら切れると思いますけど」
「緋音ちゃんなら引っこ抜けそうだね」
「確かに。桃井先輩なら引っこ抜けそうですね」
和服姿の桃井緋音が、竹を引っこ抜いて振り回して薙ぎ倒していくのが想像できる。
多分、持ってる刀使えやってツッコミが入ると思う。
「ほんと、緋音ちゃんが同じクラスで良かったよ。
じゃなかったら、私、自主退学してたかも?」
「冗談でも笑えませんよ?」
「冗談だと思う?」
「………あんまり」
冗談を言える程、器用な人だとは思っていない。
この人は、本当に、生真面目な人だから。
「じゃあ、他の神社、回りましょう」
「お、良いね。
私の希望は、高徳院かな」
「鎌倉大仏、ですね」
そうして二人は、また歩き回った。
やっぱり、手は繋がなかった。
「殆ど貸切ね。悪くないわ」
「ゔん。ぞゔだね」
「………はぁ。あんた、本当に大丈夫?」
「思っだよりジョッグでがい」
「潮田のこと、そんなに好きだったの」
「…………わがってたんだけどね。
あかりちゃんから告白したら、渚くんに、断る理由なんて無いから」
そう。
きっと、一之瀬帆波の恋は、最初から。
「………はぁ。私から告白したら、変わってたのかなぁ」
「どうかしらね。潮田がどこまで、雪村のことが好きだったのかって話しだけど」
「………一番距離の近い友達だったよ。男女含めてね」
クラスメイトや、綾小路清隆、赤羽業を筆頭とした他クラスの生徒と話すのも楽しそうだったが。
雪村あかりと話す時が、一番楽しそうだった。
「………なるほど。勝ち目、かなり薄かったのね」
「………あかりちゃん恨めたら、話は楽なんだけどさ。
これに関しては、殆ど私の横恋慕だったから」
「まぁ、そうよねぇ」
足だけを入れて、足湯のように楽しみながら、水面を揺らして。
昨日の結論を、思い出していた。
夜、わざわざ二人きりで会って、あいつは本当に、申し訳なさそうに。
自分を、何よりも傷つけながら。
『………すまない。真澄。僕は』
『………そっか。うん。そう、だよね』
二人とも、頭がいいから。
それだけで、全て、分かってしまった。
『………まぁ、最初から何となく、分かってたけど』
『………そんなに、分かりやすかったか?』
『多分有栖も、何となく気付いてたんじゃない?』
学秀は、本当に、苦虫五百匹は噛み締めているような顔で。
それでも、ちゃんと、私を見て。
『…………僕は、九十九先輩が、好きだ。
…………綾小路のように、二人纏めて愛せる程、器用じゃないから。
だから』
『うん。分かったよ』
最初から、そうだった。
だって、浅野学秀は、最初から。
九重九十九の渾名呼びを許していた。
最初からずっと、特別扱いしていたのだから。
『ま、露骨だよねぇ。先輩の為だけに、わざわざゲーム機買ってみんな巻き込んで対策して。
先輩の為だけに頭下げて、律?の手を借りたりして』
浅野学秀は、真面目な男だ。傲慢な男だ。
家族同然の幼馴染でもない誰かのために、そこまで動くような人間じゃない。
神室真澄を助けたあの時は、坂柳有栖に頼まれたから。
でも、九重九十九を連れ出したあの日は、浅野学秀から、みんなに頼み込んでいた。
浅野学秀が、先輩の為だけに、そこまでするなんて。
坂柳有栖も、驚いたのだろう。
『………ほんと、ラッキーだったよ。
だってクリスマスの日、先輩がちゃんと告白してたら、多分それで終わってたでしょ?』
そう。
だから、慰め会だったのだ。
だって、有栖と真澄からして見れば、ゲームセットの流れだったのだから。
先輩が恥ずかしくて頬キスで逃げるお子様だったから、奇跡的に延長戦に入れたのだ。
それが、今、こうしてゲームセットに向かっているということは。
『はっはーん。さては、お父さんに何か言われたわね?』
『……………はぁ。何も言わないが、圧は掛けてきていたからな』
『ふふふ、ちゃんとしてるお父様だこと』
神室真澄に残されていた勝ち筋は、九重九十九が二の足を踏んでいる間に、グイグイ攻めに攻めて、一気に落とすしか無くて。
しかし、浅野學峯の襲来で、覚悟が決まってしまったから。
『………まぁ、仕方ないよ。
先輩は、魅力的な先輩だから、さ。
私なんかよりも────』
『なんかじゃない』
『………ふぇ?』
『真澄は、魅力的な人だ。
無愛想なところもあるし、ストレスで万引きするし、時々当たり強いが』
『………ちょっと、欠点しかあげてないじゃん』
神室真澄は、欠点まみれの人間で。
『そんなことどうでも良くなるくらい、努力家で、友達想いで、優しい人間だ』
神室真澄は、美点だらけの人間だから。
『………もう。振るのか口説くのか、どっちかにしなよ』
『………振っている』
『知ってます』
この男は本当に。
全く。
…………全く。
『…………ねぇ。名前呼びは、辞めなくても、良いよ』
『…………あぁ。そうしよう』
振った振られたの関係で。
でも、二人は友達でもあるから。
友達よりも、少しだけ、踏み込んだ関係だったから。
きっと、親友というやつだから。
『で、告白とかどうすんのよ』
『明日、先輩とデートに行く。その時に』
『はいはい。
あ、もう義理チョコだけど、バレンタインは渡すわね。有栖たちと一緒の合作で』
『あぁ。楽しみにしておく』
『そ、じゃ』
『…………真澄』
『ん?』
『…………君に好きだと言われて、嬉しかった』
そう。確かに、困りはしたのだ。
好きな人がいるのに、告白されたから。
でも、嬉しかったのは、事実だったから。
いつか、稔先輩に言われたように。
『…………私も、学秀に会えて、学秀を好きになって、良かったよ』
『…………これからも、このクラスで』
『勿論。手は抜かないし、負ける気もない』
『あぁ』
『じゃあ、もう遅いし、私寝るわね』
『………おやすみ。真澄』
『………うん。おやすみ。学秀』
そうして、別れて。
部屋に戻って。
私のことをチラチラ見ながら、意識的にゲームに集中しようとしてる九十九先輩に、思わず笑っちゃったから。
『………先輩』
『な、何?』
『明日のデート、頑張ってください』
『………うん』
そして、今朝。
『あ、シュウ。はやい、ね』
『……そうですね。その、早く会いたかったので』
『……そっ、か』
『……じゃあ、行きましょう』
『……うん』
浅野学秀は、九重九十九の手を取って、デートに向かって。
それを、こっそり見送って、神室真澄は、部屋に戻ろうとしたのだ。
で、まぁ、そこで一之瀬帆波を見かけたので、こうして大浴場で二人からなのだが。
(………でかいと湯船に浮くってマジだったんだ)
隣で湯船に浸かる一之瀬帆波の巨峰が、半分ほど顔を出しているのを見て、思う。
自身もある方ではあるのだが、このレベルには遠く及ばないので。
有栖とか藤乃先輩がこれ見たら憤死しそうだなぁ。
「………神室さんは、辛くないの?」
「あれ、言ったっけ?」
「いや、その、浅野くんと九重先輩のデート、見送ってたし。
昨日浅野くんに呼び出された後、ちょっと沈んでたじゃん」
「あー、まぁ、そこから分かるよね」
抜けるような青空を見上げて。
自身の思いを、打ち明けた。
「ま、辛いけど。
でも、すっきりした。
辛いけどね」
思いを打ち明けて。
ちゃんと考えてくれて。
ちゃんと、選んでくれたから。
「………そっかぁ。
私も、告白したら、すっきりするかなぁ」
「今からでもすれば良いじゃん」
「………ううん。ダメだよ」
胸を押し潰すように、足を抱き込んで。
親友と、好きな人と、自身の罪を、思いながら。
「………稔先輩も、渚くんのこと、好きだったじゃん?」
「………みたいね」
「………今以上に、渚くん、困らせたくないよ」
「………そっか」
神室真澄は、何となく。
一之瀬帆波は、何かを隠しているのでは、と思った。
同じ部屋で交わした会話を思い返して、何となく。
「ねぇ、一之瀬」
「……なぁに?」
「実はね、私、酒万引きしてたの」
「…………え」
急な暴露に、一之瀬帆波はバグった。
数秒掛けて、情報を処理して、一言。
「…………え」
おそらく処理しきれていないのだろう。
神室真澄は気にせず暴露を続けた。
「中学の時にさ、テストで一位取れなくて親から散々酷いこと言われて、ストレス溜まったから何となく万引きして。
で、それ以降、辞められなくなってました」
「………なんでAクラスなの?」
「見つからなかったから」
「泥棒の才能あるね」
「あったら学秀盗めてるってーの」
「それもそっか」
肩の力が抜けたのか、一之瀬帆波は、引き気味に笑っていた。
「ここでも同じことしてたんだよね。ほら、コンビニに酒置いてあるじゃん」
「あー、なるほど」
「うん。実際に万引きしてたから、先輩たちに迫られた。証拠見せるために服投げとか言われたよ?で、学秀に助けられた」
「………うーん、先輩達の要求も論外なんだけど、でもなぁ」
「ま、私の隠し事は、こんなとこ」
その一言で、一之瀬帆波は、神室真澄が何を言いたいのか、察した。
曖昧に笑いながら。
「………シンパシーってやつかな?」
「どーだろ。でもさ、『青天白日』って言われた時とか、後、私が学秀に惚れたきっかけ話した時とか、なんか、やけに気まずそうだったからさ」
「あっはははは。鋭いねぇ」
「ほら、テーブルゲームはそういうのもある程度は必須だから」
「あー、神室さんに何となくバレてたってことは、堀北さんとか九重先輩にはバレてそー」
「堀北は兎も角、九十九先輩は大丈夫よ。あの人その辺結構鈍いから」
「………そっか。
まー、うん。何となく分かってそうですけど、話します。
私も、アクセサリー、万引きしました」
「………やっぱり?」
「………うん。
母子家庭だったから、お金無くて。
お母さん倒れちゃったから、いるか、二つ下の妹の誕生日プレゼント、用意できなくて。
で、まぁ、その、万引き、しました」
「………万引きの理由まで良い子すぎない?」
「まー、その、すぐに気付いたお母さんが商品持って謝り行ったから、警察のお世話になることは無かったんだよね。
まぁ、その、ショック過ぎて、中三の後半は殆ど引き篭もってたんですけど」
「………ガチ万引きの私に比べたらマシ過ぎでしょ」
罪とも言えない罪過ぎる。
店側も理由が理由過ぎて警察に通報とかできなかっただろう。
「うぅん。考えが足りなかったんだよ。だって、もう中学生だよ?日雇いで働けば、ちょっとしたアクセサリー分のお金なんて、簡単に稼げたのに。
………私が馬鹿だったから、お母さんを傷つけちゃった」
「いやそこまで責めなくて良いでしょ気にしすぎよ」
「………そう、かなぁ」
「ここにストレス解消の為にガチで酒万引きして、今平然としてる人いるのよ?」
「それはそれで開き直り過ぎじゃない?」
「………それもそっか」
テーブルゲーム部はそんなのばっかなのだ。
元万引き常習犯神室真澄!
普通にハッカー九重九十九!
元いじめっ子浅野学秀!
元脅迫犯坂柳有栖!
脛に傷あり四天王!
尚、全員漏れなく初期Aクラスである。成績だけなら優等生である。
日本はもうダメかもしれない。
「………なーんか、私の罪悪感馬鹿らしくなっちゃったかも」
「そーそー。罪悪感なんて抱えてるとおかしくなるから」
やらかしで罪悪感抱えて吐いた卜部藤乃!
やらかしで罪悪感抱えて吐いた南雲雅!
やらかしともいえないやらかしで罪悪感抱えて泣いた朝比奈なずな!
やらかしで罪悪感抱えて自己嫌悪拗らせた九重九十九!
罪悪感でやられた二年生四天王!
九重九十九は二部門でノミネートしている。
中々凄い。
「…………そっか。うん。そうだね」
「どうせ、告白出来なかったのも、『罪を犯した私が潮田の隣に居て良いのか』とか悩んでたんじゃないの?気にせず行けば良かったのに」
「…………それも、ある」
「それもって、え、マジで雪村に悪いからって理由の方が大きかったの?」
「うーん、比率で言うと、8:2かな」
「あんた良い子すぎて損するタイプね。
悪いこととか絶対出来ないでしょ」
「そんなことないもん。悪いことしたもん」
「ふーん。挙動不審すぎて店側から怪しまれてそうだけど」
「いやいや。お母さんにバレるまで完璧だったから」
なお、店員側は普通に気付いていた模様。
何度か家族で店に来て、キラキラした目で一番安いアクセサリーを見ている妹に、『誕生日になったら買ってあげるから』と優しく諭しながらも、申し訳なさそうにしているお母さんと、妹に『誕生日まで良い子にしてるんだよ〜』と優しく諭すお姉ちゃんを見て。
店員一同はなんとなくその一家の事情を悟り。
思い詰めた表情で、明らかに周りの目を過剰に気にしながら、一時間近く一番安いアクセサリーの前で固まって、とても申し訳なさそうな表情で一番安いアクセサリーを持ち逃げした瞬間を目撃した店員は、見なかったことにしていた。
尚、母と共に謝罪と返品に来た瞬間は、見逃した店員は、この一家は本当にもう、とでも言いたげな顔をしていた。
店側は、この一家を通報とか絶対無理で完全一致していた模様。
なんなら代金こっち持ちで譲渡して良くね?などと言い出す店員も出た。
それだとあの一家もっと気にしちゃうでしょと諭す店員もいた模様。
「………うぅ〜」
「すっきりしたいなら告白したら?」
「でも〜、でも〜」
「………はぁー、あんたはもうちょっと、ずるくなっても良いと思うけど?」
「………うぅ〜」
湯に浸かりながら唸り続ける一之瀬帆波の隣で。
神室真澄は、もはや呆れていた。
「………ねぇ、シュウ」
「………なんですか?」
「………なんでシュウは、私を選ぶの?真澄の方が──」
「そういうのやめてください」
「………やめます」
指を絡ませて歩きながら、九重九十九は、改めて確認する。
どうして、自分を選んだのか。
「………以前、男友達のように思ってるって、言いましたよね」
「あー、あのノンデリ発言ね」
「そうですね。デリカシーなさすぎましたけど。
でも、それが、一番の理由だったんです」
「………どゆこと?」
「何も気にせず、隣で笑い合いたかったんです。
僕の周り、そういう人、あまりいませんでしたから」
浅野学秀の周りにいたのは、自分よりも圧倒的に前にいて、だからこそ挑む人間と、自分の後ろをついてくる、或いは挑んでくる人間ばかりだった。
だから、初めて九重九十九に会った時。
自分と隣で、何も気にせず、楽しく笑える人間に会えた時。
「───あなたに、これからも隣でいて欲しいと思っていました」
天才とは、往々にして孤独だ。
だが、出逢える時には、出逢えるのだ。
浅野學峯の隣には、妻と、坂柳成守と、嘗ての生徒達がいた。
初代死神の隣には、雪村あぐりと、烏間惟臣と、イリーナ・イェラビッチと、三年E組がいた。
綾小路清隆の隣には、堀北鈴音と、櫛田桔梗と、松雄親子と、殺せんせー達と三年E組がいた。
そして、浅野学秀には。
「最初から有栖がいて、五英傑のみんながいて、真澄、葛城、吉田、橋本、Aクラスのみんながいて、メメ先輩達テーブルゲーム部のみんながいて、元E組のライバルで友達達がいて、学先輩や、卜部先輩のような、超えたい壁もいて。
でも、彼らにずっと隣でいて欲しいとは、思えなくて」
彼らがもし、浅野学秀から離れても。
浅野学秀は、何も言わなくて。
でも、九重九十九が、離れるかもしれないとき。
浅野学秀は、動いた。
「ずっと、隣にいて欲しいんです。
ずっと、隣で笑い合いたいんです。
だから、好きなんです」
「………………ね、熱烈、すぎ」
あまりにも、あまりにも熱烈な告白に。
九重九十九は、照れた。
照れて、でも。
「………うん。私も。
シュウには、隣でいて欲しい。
好き、だから」
「………ふ、やっと、ちゃんと言葉にしてくれましたね」
「………しょーがないじゃん。言葉にするのって、勇気がいるんだよ?」
「ビビリですね」
「言ったなこら」
浅野学秀は、不意に足を止めて。
「シュウ?どうし───」
九重九十九は、心から、驚いた。
だって、殆どゼロ距離で、というか一部は接触しながら、見つめあっているんだから。
浅野学秀の、綺麗な薄紫の瞳に、吸い込まれそうになる。
そっと、離れて。
唇で感じていた熱が、少し、名残惜しくて。
「………ロマンとか、もうちょい考えたら?」
「………我慢、できなくて」
ちょっとだけ、文句を言って、笑い合った。
「あ、でもこれ、ファーストキスでは無いですよ?」
「………そうだった。真澄め」
湯船に浸かっている、神室真澄は。
いつか、唇で感じた熱を、思い出して。
「………ま、これくらいは、盗ませてくださいね。先輩」
少しだけ、笑っていた。
湯船に浸かっているので、頬を汗がつたっても仕方ない。
仕方ないから、一之瀬帆波も、何も言わなかった。
色々な寺社仏閣を回って、太陽が柔らかい赤色に変わったころ。
「そろそろ、門限だね」
「あー、はい。昨日は、その、少しだけオーバーして、茶柱先生に怒られちゃいました」
「罰金どれくらいだったの?」
「三万です」
「結構掛かるね。ふふ、もうちょっと振り回そうかなって思ったんだけど、先輩なので、辞めてあげます」
「先輩のご好意に感謝します」
帰りながら、今日を思い出して。
狐判稔は、自身の思いを、打ち明けていく。
「ねぇ渚くん。
私のこと、優しい人だと思う?
まともな人だと、思う?」
「………うーん、まともとは、少し違うかもしれませんけど。
でも、優しい人だと、思います」
「………そっ、か」
ぼんやりとした、どことなく暖かい赤色を見つめながら。
「………私のこと、話したよね」
「………そうですね」
潮田渚は、思い出す。
狐判稔が、小学生の頃、起こした事件を。
クラスで飼っている兎が、檻から脱走して、教室中を走り回っていて。
捕まえてと頼まれた稔は。
自身の身体能力では、捕まえられないということを、まず把握して。
それでも、捕まえてと頼まれたのだから、どうにかしなければと考えて。
丁度掃除中だったので、手に持っていた箒で、全力で吹き飛ばして、壁に叩き付けて、気絶させた。
自身の身体能力と、兎の耐久性を考えた結果であり、兎は殆ど無傷ではあったのだが。
周りの生徒からは普通に恐れられて遠巻きにされて、捕まえてと頼んだ生徒からは責められて、それから、いじめられるようになって。
犯罪の被害者は、警察に通報しなければならないと、先生が言っていたから。
教師への相談をすっ飛ばして警察を呼んで。
学校中は、火をつけたかのような大騒ぎ。
隠蔽しようとした教師達だが、警察は、証拠がなければ動かないと、財布を盗まれた両親が愚痴っていたのを覚えていたので、証拠を残しておいた稔のおかげで、いじめていた生徒達は、処分を受けて。
そうして稔の周りから、友達がいなくなって。
停学処分を受けた生徒達は、復学してから、また、稔をいじめて。
「先生から言われたんだよね。余計なことしないでって。
でも、何が余計なことなのか分からなかった。
だって私は、頼まれたことを、教わったことを、学んだことをしただけだったから」
だから、またいじめられても、どうすればいいのか分からなくて、耐えて、耐えて、耐えて。
「………なんで、耐えなくちゃいけないんだろって、考えちゃってさ」
それを一度考え始めたら、もう、止まらなくて。
どうしようもなく、怒ったから。
また、証拠を集めて、今度は、先生に報告して。
先生は、揉み消した。
「『教えてくれてありがとう。なんとかする』って言ったのに、何も変わらなかったからさ。
証拠が足りなかったのかもって思って、色々集めて、また提出したんだよね」
提出して、揉み消されて、提出して、揉み消されて、提出して揉み消されて提出して揉み消されて提出して揉み消されて。
どうして変わらないんだろうと、考え始めて。
「やっぱり警察に提出しないとダメなのかなって考えて、通報して提出して」
結果、証拠を揉み消し続けていた、稔の担任は、懲戒免職となり。
いじめていた生徒達は、転校して。
稔だけが、平然としていた。
心のどこかでは、先生にも生徒にも、怒っていたから。
「でもさ、小中って、同じ地区でしょ?
だから、私がしたことは広まってて。
誰も、私に近付こうとしなかった」
何がダメなのか、分からなかった。
捕まえてと頼まれたから、兎を捕まえた。
犯罪の被害者は通報しないといけないと教わったから、通報して。
証拠がないと動けないという事を覚えていたから、証拠を集めて。
余計なことをしないでと言われたから、耐えていて。
どうして耐えなくちゃいけないのか分からなくなって、ちゃんと先生に相談して。
何も変わらなかったから、やっぱり警察に通報しないとダメなのかな、と考えて。
そうしたら、人がいなくなった。
「一人は寂しい。一人は嫌だ。
でも、どうしてなのかは分からないけど、私が動くと良くないことになるらしい。
だから、自分から動けなくて。
そのうち、人と話すのが怖くなった」
そして、この学校に入学して。
初日の説明を受けた段階で、なんとなく、色々なことは分かったけど。
人と話すのが、怖かったから。
だから、誰とも、関われなくて。
孤立していく中で、学校にいるのが、嫌になって。
そんな時に。
「緋音ちゃんに連れられて、テーブルゲーム部に入って、そこで話すのが楽しくなってて。
そうして、今年の体育祭とか、藤乃さんのこととか、九十九ちゃんのこととか、色々知って。
今度こそ動こうって、そう思って。
今度は、上手く行ってた。
ちゃんと部長出来てて。
ちゃんとクラスを運営出来てて。
ちゃんと特別試験に勝てて。
だから、何か、変われてるのかなって思ってて。
そんな時に、君に会った」
潮田渚の才能を見て。
その才能なら、この試験に勝てるのかもしれないと、考えて。
それを、活かして伸ばす為に。
「………初めて、君に、親しい人を殺させて。
そうして、君が、吐いちゃったときに、さ。
また、余計なことしたって、思ったんだよね」
上手くいくようになっていたのに。
ちゃんと人と関われていたのに。
ちゃんと部長出来ていたのに。
ちゃんと試験に勝てていたのに。
「また、台無しにしちゃった、って思ってたら。
『大丈夫』って、君が言うから」
勝手に救われたような気になっていた。
まともになれているような、そんな気になっていた。
「………ほんとは、ね。渚くん」
そこで、言葉を止めて、立ち止まる。
潮田渚は、すぐに立ち止まって、ちゃんと真っ直ぐ、向き合った。
「………はい。なんですか?」
「………君と二人で、練習するの、楽しかったの」
「………僕も、です」
親しい人を殺して。
親しい人を殺させて。
目の前の先輩も殺して。
目の前の後輩に殺されて。
休憩がてら、過去の話とか、E組の思い出とか、話して。
なんだかんだで、同じベッドで寝るようになって。
隣で、お互いの熱を感じて。
「………私、ね。
あの日、自慢したかったんだ」
あの日、潮田渚を、部屋に連れてきたのは。
自慢したかったのだ。
自分と彼は、すっごく仲が良いんだぞって。
「………でも、ね。
あかりさんに叩かれて、ほむらちゃんに諭されて、ようやく。
私の、何が間違えていたのか、気付いたの」
狐判稔は、生真面目だった。
生真面目で、融通が効かなかった。
こうと決めたら、どこまでも、一直線だった。
人の心が、分からなかった。
「誰かが傷つくとか考えなかった。
人の心を、感情を、持っていたのに、考慮していなかった」
兎を壁に叩き付けたとき、泣きながらなんでこんなことしたのかと言われた時。
「『だって、捕まえるにはこれしかなかったから』って、普通に答えたんだよね」
本当だったら、あの日も。
雪村あかりが怒ったとしても、才能を磨くにはこれしかなかったからって、そう言おうとしてて。
…………でも、叩かれたのに。
…………叩いた方が、辛そうな顔をしていたから。
…………その、顔を、見て、ようやく。
「…………私は、ね。
…………きっと、押し付けてた」
全て、善意だった。
彼女はずっと、真面目だった。
兎を壁に叩き付けて気絶させたのも。
証拠を集めて、警察を呼んだのも。
潮田渚に、人を殺させたのも。
和泉なすかを、捨て駒にしたのも。
全て、善意で、真面目だった。
「そりゃ、和泉さんに怒ってはいたんだけど。
でも、それ以上に、クラスに馴染めるようにしなきゃいけないって、考えてたからさ」
怒りはあった。
それよりも、善意の方が、強かっただけ。
「先輩は、生真面目なんですよ。
でも、視野が狭くて。
………だから、優しいんです」
生真面目だから、頼まれたことは、なんとしてもこなす。
生真面目だから、教わったことは、ちゃんとやる。
生真面目だから、勝たなければいけないなら、ちゃんと、勝つ。
生真面目だから、潮田渚が、苦しそうだったら、ちゃんと、止める。
だから、優しい。
「………渚くんは、独特だね」
「………先輩も、独特です」
「ほんと、君は、悪い子だよ。
いつも真っ直ぐ、私を見て。
いつも真っ直ぐ、私に向き合うんだから。
私の心臓、君に取られちゃった。
私、君のこと、好きになっちゃった」
狐判稔の告白を、ちゃんと、真っ直ぐ、受け取って。
潮田渚は、ちゃんと、真っ直ぐに。
「…………ごめんなさい。僕、好きな人が、居るんです」
「知ってた。昨日、付き合い始めたばっかりでしょ」
「…………そうですね」
酷く、すっきりした顔で。
狐判稔は、歩き始めた。
「じゃあ、帰るよ。
あっ、そうそう。明日からの練習には、あかりちゃんも付き合うからね」
「…………………え、僕、あかりの前で目隠しするんですか?」
「…………………あ、そうなるね」
彼女の前で、目隠しされて、仲の良い異性の先輩に、耳元で囁かれる彼氏。
…………………かなり、上級者向けでは?
「あかり、大丈夫、かなぁ?」
当日。
目の前で、彼氏が目隠しされて、先輩が耳元で囁いているのを見た、雪村あかりの脳味噌には、なんだかよくない電流が流れていて。
その顔を見た狐判稔は、申し訳なさと、僅かな興奮を覚えて、少しだけ、密着度を上げて、囁いて。
最終的に、先輩に取られたくないという独占欲と渚が人を殺しているという罪悪感でおかしくなって暴走して。
先輩の目の前で、すっごく濃厚なキスを自分からかまして。
思わず、潮田渚は反撃して。
二人の、ドロドロでぐちゃぐちゃでねとねとしたしかし愛のあるやり取りを見て。
狐判稔の脳味噌に、10まんボルトが炸裂する。
しかし二人は、そんなことはまだ知らないので。
「……………うーん、まぁ、私が卒業するまでに、渚くんのイメージを補強できるようになってもらわないと」
「……………まぁ、そうですね」
割と軽い気持ちで、そんなやり取りを交わしていた。
「……………め、目の前で、くっつく瞬間を、見た、と?」
「あ、哀れすぎる………」
昨日の夜遅くから、途中で休憩がてら寝て、朝方から、二人の馴れ初めから今に至るまでを、事細かく聞いた卜部藤乃と、西川亮子は、もはやおそれ慄いていた。
な、なんと、哀れな……。
「いやそれよりも赤羽くんあまりにも悪い男すぎますよ。
母性抱かせて特別扱いしてこの人には私がいないとダメだと思わせて定期的に惚れ直させて最終的に両片思いの相手とくっつくとか許されない所業です。
綾小路くんに比べたらクズです」
「カルマくんの悪口言わないでください………」
「事実です」
坂柳有栖は、痛烈に赤羽業を非難して。
椎名ひよりは、思わず、反論して。
そんなひよりを見た卜部と西川は、より哀れんだ。
「はぁ、とっとと切り替えて別の男を狙うべきです」
「有栖さんもそんなこと出来てないじゃん」
「…………それはそうなんですが」
「えっと、その、告白したらどうかしら。
…………現状告白も出来なかった私がいえたことではないのだけれど」
坂柳有栖のためにならないアドバイスを一旦無視して、卜部藤乃は、現実的なアドバイスを口にするが。
「…………そんなことしたら、カルマくんも奥田さんも、傷付いてしまいます。
二人に、そんな顔、させたくないです」
「椎名さん………」
「椎名……………」
卜部も西川の、健気が過ぎる椎名ひよりを、心から憐れんで。
「は?何を甘っちょろいこと言ってるんですか?恋愛は戦なんです。ガンガン攻めるべきなんです」
「普通に振られた人のアドバイスは参考にならないと思います有栖さんっ!」
「殺します」
西川亮子の脇腹を全力でつねりあげる坂柳有栖のアドバイスを聞いて。
卜部藤乃は、心から、深くため息を吐いていた。
裏の意図などお見通しだ。どうせ、ここの三人を気不味い空気にさせることで、少しでもうさを晴らそうとしているのだろう。
テーブルゲーム部と親衛隊の面々には優しいが、それ以外には基本的に性悪なままなので。
「もう。少し黙りなさい有栖」
「………むぅ」
がっしりと頭を掴んで、いつでもアイアンクローを放てる姿勢で静止する。
坂柳有栖は、素直に従った。
「………二人を傷つけたくない。
でも、カルマくんのそばに居たい。
カルマくんが、好き、なんです」
「…………椎名、さん」
「…………椎名………」
卜部と西川は、椎名ひよりに厳しすぎる世界を、少しだけ呪って。
「そんなに未練たらたらなら逆レでもしたら────あだだだだだだ」
「最低よ。本当に最低よ。人としてどうかと思うわ有栖」
本気も本気のアイアンクローで、坂柳有栖の頭を握り潰そうとして。
椎名ひよりの様子がおかしいことに、気づいた。
何やら、考え込んでいて。
「し、椎名、さん?」
「し、椎名?」
「…………なんでもないです」
「ダメよ⁉︎それは本当にダメよ⁉︎誰も幸せになれないわっ‼︎」
「そ、そうだよっ!それは、本当に、ダメだからっ!」
「…………で、ですよねっ!
あ、いや、そんなこと考えてませんっ!
考えてないので、その、少し出掛けてきますっ!」
「それだけは本当にダメよ椎名さんっ!」
「そうだよっ!それは本当にダメだからっ!」
「考えてませんっ!考えてませんからっ!」
慌てて逃げ出した椎名ひよりの背中を、二人は見送ることしかできなくて。
その後。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい雲雀先輩。海どうでした?」
「寒かったですが、それはそれとして泳ぐの楽しかったです」
「筋金入りの水泳部ですね」
「剣城先輩には及びません。…………ところで、その、坂柳さんは、どうして?」
「…………助けてください」
「助けてはダメよめぐる」
「助けちゃダメですよ雲雀先輩」
「わ、私が悪かったです。ご、ごめんなさい」
「謝ったところで大会には参加させないわよ」
「そ、そんな、一局、お願いです藤乃先輩、一局、一局だけでも……」
罰として椅子にぐるぐる巻きで縛り付けられて。
卜部藤乃主催の、テーブルゲームトーナメントを観戦することしか出来ない坂柳有栖に。
驚いていた。
「あ、あぁ、あぁ、そ、そんな、そんな。
こ、こんなに沢山の強い人と、戦えたら、楽しいのに、た、楽しいのにぃ」
「卜部ガールに女子部屋に呼び出されたかと思えば、まさか大会とはねぇ」
「あら、私の相手は不満かしら」
「まさか。君ほどの強者と戦えるなど、実に得難い機会さ」
「そう。私が勝ったら先輩と呼ぶように」
「ふっ、勝てたら、の話だろう?」
高円寺六助と卜部藤乃は、とても楽しそうに指していて。
見ているだけの坂柳有栖は、泣きそうになっていて。
「お、お願いです真澄さん。お願いです」
「ダメよ。ほら、
「
「いや、普通に全力でやらないと負けるから。
ほら、もう一回やるわよ」
「お、良いねぇやろっか」
「待ってください真澄さん待ってなんで一之瀬さんと名前呼びなんですか仲良すぎませんか」
「あー、このまま帆波親衛隊に転職しようかしらー」
「あっはははは。親衛隊なんて無いってば」
「非公式だけどあるわよ」
「え」
「嘘です嘘です嘘ですよね真澄さんやめてください親衛隊辞めないで」
「これに懲りたら反省しなさい」
なんだか、うん。
その、なんと言うか。
「………これが相当な罰になる坂柳さんは面白い人ですね」
雲雀めぐるは、苦笑して。
首を傾げた。
「あれ、藤乃さん、生徒会長たち呼んでないんですか?」
「罰にも最適だったし三人呼んでイチャイチャテーブルゲームやらせようかなって思っていたのだけれど、三人でデートしているそうなのよ」
「あ、あが、あがが」
「なるほど。それは仕方ないですね」
そう。
綾小路清隆と、堀北鈴音と、櫛田桔梗は、デートしていた。
森の中で。
「なるほど。明日からの桃井先輩との手合わせに勝ちたいのね」
「そしてその為に、勝利への執着を完全に味方に付けたいと」
「あぁ。堀北先輩との手合わせの時は、うまく味方に付けられていたから、あの時の感覚を再現したいんだが」
「………そうね。勝つことそのものではなく、勝った先で得られることを目的にしていたから、味方に付けられていたんじゃないかしら」
「あー、勝利を目標にするんだね」
「………成程。あの時は、二人と付き合えることが目的になっていたから、うまく折り合いがつけられていたのか」
「つまり、あなたが明日勝つことで、何かしらのご褒美があれば、勝利への渇望を味方に付けられる、ということなのね」
「ご、ご褒美、かぁ………」
「う、うぅむ。その、合宿所、だと」
「………………その、だから、ね?」
堀北鈴音は、今いる場所を、指し示す。
「………………や、やばい、だろ」
「………………じゃ、じゃあ、その、清隆は、さ。
い、今更、それ以外のご褒美で、満足できる、の?」
「………………しょ、正直に、言うと、多分、無理」
「そ、そうよね。うん」
「し、知ってた。うん」
「………………えっと、その」
「さ、最初は、私、からね。
い、言い始めたのは、その、私、だもの」
「う、うん。ろ、ローテーションで行こう。うん。
ば、バレたら、不味すぎる、し。うん」
「………………明日、絶対勝つ」
「………………っっっっ」
「ふ、震えてるよ。鈴音」
「ふ、冬だから。寒かったから」
「そ、そんなに厚着なのに?」
「寒いものは寒いのよ」
「だ、だよね。うん」
三人の、そういう危ない会話をたまたま聞いてしまった女子が、一人。
思わず部屋を飛び出して、合宿所から少し離れた森まで来てしまった、椎名ひより。
「………………り、倫理観とか、ど、どうでも、良いの、では?」
椎名ひよりの脳味噌は、熱暴走を、始めていた。
雲の上の殺せんせーは。
『あー!あー!ダメですダメですダメです三人とも‼︎
椎名さんもそれはダメですっ‼︎
て、転生!早く先生を転生させてください!
昨今のジャンプのトレンドでしょう⁉︎推しの子然り鬼滅然り逃げ若然り‼︎
と、止めなければ‼︎止めなれければ‼︎せ、生徒の倫理が、倫理がぁ‼︎』
色々な関係が変わった土日が終わって。
椎名ひよりの、『倫理崩壊の一週間』が、幕を開けた。