Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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前日譚
 【第一章:理外の胎動と浄化の閃光、そして虚数の影は神を孕む】


【記録:1994年11月某日 23時30分 / 場所:冬木市・霊脈直上】

 

 

極東の地方都市、冬木。

 

その地下深くに脈打つ広大な霊脈は、六十年に一度の周期で満ちる魔力が、今まさに臨界点へと達しようとしていた。

 

「聖杯戦争」――七人の魔術師(マスター)が、七騎の英霊(サーヴァント)を召喚し、あらゆる願いを叶えるという万能の願望機を巡って殺し合う、血塗られた儀式。

 

開戦の刻が秒読み段階に入ったこの時、冬木市の空気は、一般人には知覚できないほどの重く粘り気のある魔力の残滓によって淀み、異様な緊張感に包まれていた。それは嵐の前の静けさなどという生易しいものではない。これから始まる凄惨な殺戮劇を予感させる、死の胎動そのものであった。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:1994年11月某日 23時45分 / 場所:冬木市・間桐邸地下蟲蔵】

 

 

その静寂と暗闇の底、間桐邸の地下深く。

 

鼻腔を強烈に突き刺すのは、土が腐ったような酷烈な悪臭と、生命が泥濘の中で死に絶えていく際の甘ったるい死臭。そして、鼓膜を不快に震わせる「カサカサ、ゴソゴソ」という、数万、数十万にも及ぶ蟲たちの這い回る音。

 

 

「……はぁっ……はっ……ぐっ、あ……!」

 

 

石造りの冷え切った床に膝をつき、男――間桐雁夜は、肺の奥から血の混じった呼気を吐き出していた。

 

彼の肉体は、とうの昔に人間の限界を超えている。皮膚のすぐ下、本来ならば血管や神経が通っているはずの場所を、小指ほどの太さを持つ無数の「刻印蟲」が這いずり回っているのが、青白い肌の上からでもはっきりと視認できた。

 

蟲たちが彼の肉体を喰らい、神経を咀嚼し、その代償として強引に疑似的な魔術回路を形成していく。一秒呼吸をするごとに、全身の骨を砕かれ、内臓を素手で掻き回されるような絶痛が雁夜の脳髄を焼き焦がしていた。

 

左半身は既に麻痺し、視力は黒く濁り、白髪と化した髪は抜け落ちている。

 

(……やるんだ。俺が……俺が、やるしかないんだ……!)

 

その極限の苦痛の中で、雁夜の精神を現世に繋ぎ止めているのは、ただ一つの純粋な狂気だった。

 

――間桐桜。

 

兄の娘であり、この地獄のような間桐の家に養子として差し出された、幼く無垢な少女。彼女の光を奪ったのは、自分自身の弱さだ。自分が間桐の魔術から逃げ出したから、彼女が代わりにこの蟲蔵の闇に落とされたのだ。

 

後悔と自己嫌悪が、雁夜の心臓を蟲以上に鋭く締め付ける。だからこそ、彼は自らの命を薪にくべることを躊躇しなかった。この聖杯戦争で勝ち残り、聖杯の奇跡をもって、桜をあの悪魔の掌から奪い返す。その一念だけが、彼の瞳に宿る最後の炎だった。

 

「カッカッカ。どうした雁夜、もう限界か? まだ召喚の儀は始まってもおらんぞ」

 

雁夜の背後、暗闇の奥から、木枯らしが擦れ合うような嘲笑が響いた。

 

間桐臓硯。数百年の時を生きる大魔術師にして、間桐家の当主。そして、桜を地獄に突き落とし、雁夜を嘲笑う全ての元凶。

 

枯れ木のような痩せこけた体躯を杖に預け、臓硯は眼窩の奥の黒い瞳で雁夜をねっとりと見下ろしていた。その視線には、孫に対する愛情など微塵もない。あるのは、自分が仕組んだ舞台で足掻く滑稽な虫けらに対する、純粋で醜悪な「愉悦」のみ。

 

(……この男にとって、聖杯などどうでもいいのだ。俺が狂戦士(バーサーカー)の魔力供給に耐えきれず、絶望の中で死んでいく様を見たいだけ……!)

 

 

雁夜は、胃液と共にこみ上げてくる臓硯への殺意を、無理やり奥歯で噛み殺した。

 

今、この男に怒りを向けても意味はない。全てはサーヴァントを召喚し、聖杯を手にするための過程。

 

 

「……黙って、見ていろ……臓硯……ッ!」

 

 

雁夜は血塗れの指先で、床に描かれた召喚陣の最後の線を結んだ。

 

自身の血液と、蟲の体液が混ざり合った、どす黒く歪な魔法陣。そこから、空気を歪ませるほどの濃密な魔力が立ち上り始める。

 

 

「――告げる」

 

 

雁夜の掠れた声が、地下室の冷たい空気を切り裂いた。

 

 

「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 

聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ。

 

誓いを此処に。

 

我は常世総ての善と成る者、

 

我は常世総ての悪を敷く者」

 

 

詠唱が進むごとに、雁夜の体内の蟲たちが異常な活性化を見せる。疑似回路に規格外の魔力が流れ込み、毛細血管が次々と破裂して皮膚から血の霧が噴き出した。

 

痛覚が完全に焼き切れ、世界が白黒に反転する。

 

それでも、雁夜は止まらない。狂気すらも凌駕する執念で、彼は呪文に「異物」を混ぜ込む。

 

絶対的な勝利を得るため、サーヴァントの理性を奪い、ステータスを底上げする「狂化」の呪詛。

 

 

 

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者

 

 

――汝三大の言霊を纏う七天、

 

抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ………!!」

 

 

 

 

 

【記録:1994年11月某日 23時52分 / 場所:同上】

 

最後の言霊が紡がれた瞬間、魔法陣から爆発的な光が噴き上がった。

 

否、それは「光」と呼ぶにはあまりにも異質だった。

 

通常の英霊召喚に伴う、星の瞬きのような清謐なマナの輝きではない。泥のように重く、全てを呑み込むような漆黒の影が、地下蔵の空間を物理的に歪めながら立ち昇ったのだ。

 

「……ほう?」

 

 

安全圏から見物していた臓硯の細い目が、僅かに見開かれた。

 

長きにわたって魔術の深淵を覗いてきた彼の直感が、名状しがたい「違和感」を告げていた。

 

聖杯のシステムを通じて座から引きずり下ろされる「英霊の気配」とは何かが違う。もっと原初的で、法則(ルール)から逸脱した、絶対的な異物がこの世界に開いた穴から無理やり這い出てこようとしているかのような――。

 

 

轟音。

 

空間そのものが悲鳴を上げるような音と共に、黒い影が弾け飛び、陣の中央に「それ」が顕現した。

 

 

「……あ……?」

 

 

床に倒れ伏し、片目を開けた雁夜の口から、呆然とした声が漏れる。

 

そこに立っていたのは、英霊(ヒーロー)でも反英霊(アンチヒーロー)でもなかった。

 

 

いかなる神話にも、いかなる伝承にも記されていない、正体不明の存在。

 

身の丈は優に二メートルを超え、隆起した大理石のような純白の筋肉が、全身を装甲のように覆っている。その表情を窺い知ることはできない。右腕には、禍々しいまでに鋭利な刃が括り付けられており、そして何より異様なのは――その頭上の空間にフワリと浮かぶ、巨大な『法輪(ダルマチャクラ)』だった。

 

 

神々しくもあり、同時に、見てはならない根源的な恐怖を呼び覚ます禍々しさ。

 

 

 

八握剣異戒神将・魔虚羅。

 

 

 

どのような因果の果てか、聖杯のシステムすらもバグらせて顕現した、理外の絶対適応存在。

 

「な、んじゃ……その、姿は……?」

 

 

臓硯の声が、初めて僅かに震えた。

 

蟲蔵を埋め尽くしていた数十万の刻印蟲たちが、一斉に活動を停止し、壁の隙間へ、地中の奥深くへと逃げ惑おうとしている。魔術の結晶である蟲たちが、純粋な「生存本能」から、目の前に立つ白き巨人に恐怖しているのだ。

 

バーサーカーとして召喚されたその存在からは、知性の欠片も感じられなかった。

 

ただそこに在るだけで、空間の理が軋みを上げている。

 

 

 

 

次の瞬間だった。

 

微動だにしていなかった魔虚羅の顔――装飾の下にある見えない眼球が、ゆっくりと、明確な意思を持って動いた。

 

その視線の先にあるのは、マスターである雁夜ではない。

 

部屋の奥に立つ、死臭を纏った老人――間桐臓硯。

 

 

『――――』

 

 

魔虚羅の中で、単純な方程式が成立した。

 

この式神の本質は、「あらゆる事象への適応」、「邪悪(呪い)の完全なる調和」。

 

蟲という魔性の群体で構成され、何百年にもわたって他者の命を啜り続けてきた臓硯の魂は、魔虚羅の知覚において「極大の邪悪・不浄の呪い」そのものであった。

 

マスターの意思など関係ない。令呪による縛りすら、この瞬間は機能しない。

 

ただ、眼前に滅ぼすべき「邪」が在る。

 

 

故に、祓う。

 

 

「……!? 貴様、マスターは雁夜じゃぞ! ワシを――」

 

 

臓硯が危険を察知し、蟲の体を分解して逃亡を図ろうとした、その刹那。

 

魔虚羅の巨体が、「消えた」。

 

空間を蹴る音すら置き去りにする、物理法則を完全に無視した神速。

 

雁夜の濁った視界が状況を理解するより早く、魔虚羅は既に臓硯の頭上、まさに「死角」から落下しつつあった。

 

右腕に括り付けられた刃――『退魔の剣』が、冷たい光を放って振り上げられる。

 

そこに込められているのは、魔力ではない。

 

呪力という負のエネルギーを掛け合わせて生み出される、純度100%の『正のエネルギー』。あらゆる魔性、邪悪、呪いを根絶やしにする、絶対的な浄化の閃光。

 

「いか、ん――ッ!!!」

 

 

臓硯が真の恐怖に顔を歪ませた直後。

 

閃光が、地下空間を真白に染め上げた。

 

轟音は無かった。ただ、圧倒的な「静寂」の浄化がそこにあった。

 

退魔の剣が臓硯の肉体を両断した瞬間、彼の体を構成していた数万の蟲たちが、断末魔の叫びを上げる間もなくチリチリと白い灰に変わって蒸発した。

 

血の一滴すら残らない。魔術による再生も、魂の退避も、一切の逃げ道を許さない絶対の消滅。数百年の妄執を生きた大魔術師の命は、虫けらのように呆気なく、一瞬の光の中に消え去った。

 

 

「……ぞう、けん、が……?」

 

 

雁夜は、真っ白に染まる視界の中で、憎き老人が塵となって消える様を確かに見た。

 

 

だが、彼に安堵する時間は、一秒たりとも与えられなかった。

 

 

「ガ、アアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!?」

 

 

直後、雁夜の肉体が弓なりに跳ね上がり、喉が裂けるほどの絶叫が蟲蔵に響き渡った。

 

臓硯を焼き尽くした正のエネルギーは、間桐の魔術のパス――「蟲のネットワーク」を逆流していたのだ。

 

雁夜の体内に巣食い、疑似魔術回路として機能していた刻印蟲たち。臓硯とパスで繋がっていたそれらに対しても、退魔の剣の浄化の炎は容赦なく伝播した。

 

雁夜の皮膚の下で、無数の蟲たちが正のエネルギーに触れて瞬時に内側から燃え上がる。

 

それは、雁夜自身の内臓、血管、神経の全てが、数千度の炎で内側から焼却されることと同義だった。

 

(あ、あ……あ……!)

 

 

 

熱い。痛い。苦しい。

 

いや、最早そんな次元の感覚ではない。己という存在そのものが、内側から光に溶かされていく。

 

(……さ、くら……!)

 

 

薄れゆく意識の中、雁夜の右目が、虚空を彷徨うように手を伸ばした。

 

臓硯は死んだ。元凶は消えた。

 

 

だが、代償として、自分もまたここで燃え尽きる。

 

遠くで、暗闇の奥深くで、桜が泣いているような気がした。彼女を抱きしめるための腕は、既に光の粒となって崩壊を始めていた。

 

(ごめん、ごめんな……さくらちゃん……おじさん、が……きっと……)

 

 

約束は、果たせなかった。

 

最後に一筋の涙が頬を伝い、床に落ちるよりも早く、間桐雁夜の肉体は完全に内側から破壊され、物言わぬ炭化した肉塊となって崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:1994年11月某日 23時55分 / 場所:同上】

 

 

全てが終わった。

 

静まり返った地下蟲蔵。あれほど這い回っていた蟲は一匹残らず消滅し、ただ焦げた肉の匂いだけが漂っている。

 

その中央で、白き巨人は静かに立ち尽くしていた。

 

「邪悪を祓う」という一つの行動原理を満たした魔虚羅は、刃を下ろし、虚空を見つめている。

 

 

自身の要石であったマスター・間桐雁夜の死。

 

現世に留まるための魔力供給のパスが完全に途絶えたことで、魔虚羅の巨体は足元から徐々に輪郭を失い、青白い光の粒子となって世界から剥離し始めていた。

 

 

 

十秒。

 

あと十秒もすれば、この理外の存在は完全に消滅し、抑止の輪へと還っていくはずだった。

 

世界が、聖杯のシステムが、正しい状態へと修正されていく。

 

静寂の中、魔虚羅の身体の半分以上が光に溶け、いよいよその存在が世界から消え去ろうとした――。

 

 

 

その、直前。

 

 

 

――ガコンッ。

 

 

 

 

死の静寂に包まれた地下空間に、無機質で、ひどく冷たい「歯車の回る音」が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

――ガコンッ。

 

 

 

それは、物理的な音波ではなかった。

 

鼓膜を震わせる空気の振動などというチャチなものではない。世界を構築する法則、聖杯戦争という儀式を成立させている大魔術の基盤そのものに、巨大な亀裂が入る音。

 

魂の奥底、霊器の根幹で鳴り響いた、冷徹にして無機質な「歯車の回転音」であった。

 

間桐雁夜という魔力供給のパス(命綱)を失い、光の粒子へと分解されかけていた異形の神将・魔虚羅。

 

その足元から胸部にかけて、既に現世の座標を喪失し、透けかけていた大理石のような純白の肉体が、ピタリと、その崩壊を停止した。

 

 

 

否、停止したのではない。

 

 

逆行している。

 

虚空へと溶けかけていた光の粒子が、まるで映像を巻き戻すかのように、再び魔虚羅の肉体へと強引に縫い留められていく。

 

 

 

【……警告。サーヴァント・バーサーカーの魔力供給途絶を確認。座への退去プロセスを続行……不能。エラー。対象の霊基構造に未知の改竄を確認……】

 

 

 

 

大聖杯のシステムが、悲鳴を上げるように不可視のエラーコードを吐き出している。

 

だが、そんなものはこの理外の怪物にとって何の枷にもならなかった。

 

魔虚羅の頭上に浮かぶ巨大な『法輪(ダルマチャクラ)』。

 

 

「あらゆる事象への適応」を司る対理宝具『八握剣異戒神将・法転輪』は、マスターの喪失による「魔力供給の断絶」と、それに伴う「世界からの消滅」という現象そのものを攻撃と認識し、解析を完了させたのだ。

 

 

ガコンッ、という法輪の回転を合図に、魔虚羅の霊基が全く別の形へと変質を遂げる。

 

 

後天的なスキルの獲得。

 

『単独顕現(偽):D』。

 

 

特定の条件下でのみ先天的に備わるはずの最上位スキルを、このバグの産物は「消滅しないための最適解」として自らの霊基に強引に刻み込んだ。

 

現世に留まるための魔力供給を必要としない。要石となるマスターを必要としない。世界からの干渉を弾き返し、ただ己自身の力のみでそこに「在る」という絶対的な独立。

 

十数秒前まで消えかけていた白き巨人は、完全にその実体を取り戻し、蟲蔵の冷たい石床を力強く踏みしめた。

 

それはもはや、聖杯に喚ばれたサーヴァントではない。

 

世界の法則を喰い破り、冬木の地に産み落とされた「独立した生命体」の誕生であった。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:1994年11月某日 23時56分 / 場所:同上】

 

魔虚羅の現界が確定したその空間で、静寂は突如として微かな衣擦れの音によって破られた。

 

 

「……あ……う……」

 

 

蟲蔵の奥深く、臓硯の消滅に伴い全ての刻印蟲が灰となって消え去ったすり鉢状の底。

 

そこに、一人の幼い少女が倒れていた。

 

 

間桐桜。

 

数日前まで遠坂の血を引く誇り高き魔術師の娘であり、今は間桐の秘術によって肉体と精神を徹底的に凌辱されていた生贄。

 

彼女を全裸で包み込み、絶え間ない激痛と絶望を与え続けていた蟲の海は、先ほどの『退魔の剣』から放たれた正のエネルギーによって、ただの白い灰へと変貌していた。

 

 

桜は、冷たい灰の上に裸のまま放り出されていた。

 

全身のあちこちには蟲が這い回った生々しい痕が残り、生気を失った白い肌は泥と血で汚れている。

 

 

彼女は、ゆっくりと虚ろな目を開けた。

 

光のない、死んだ魚のような瞳。外界からの刺激を拒絶し、心を閉ざすことでしか狂気から身を守れなかった少女の脳は、現在の状況をすぐには理解できなかった。

 

(……痛く、ない……?)

 

 

いつもなら、皮膚の下を蟲が這い回る感触がある。内臓を噛み千切られる熱がある。お爺様の、気味の悪い嗤い声が響いているはずだった。

 

 

だが、何もない。

 

静かだ。

 

信じられないほどの静寂と、冷たい空気だけが、桜の裸の肌を撫でていた。

 

 

ゆっくりと、上半身を起こす。

 

視線の先、少し離れた場所に、黒焦げになった肉塊が転がっていた。雁夜おじさんだったものだ。桜のために奔走し、その命を散らした哀れな男の末路。だが、今の桜の壊れた心は、その肉塊を見ても悲しみすら湧いてこなかった。感情の機能そのものが、蟲によってとうの昔に麻痺させられていたからだ。

 

ただ、桜の視線は、その肉塊のさらに奥――空間の中央に立ち尽くす「それ」に釘付けになった。

 

「――ぁ……」

 

 

純白の肉体。隆起した筋肉。顔を隠す不気味な装飾。頭上に浮かぶ黄金の輪。

 

 

神々しくも、禍々しい。

 

見上げるほどに巨大なその存在は、周囲の空間を圧倒的な質量で支配していた。

 

普通であれば、恐怖で泣き叫ぶか、狂乱して逃げ出すような異形。

 

 

 

だが、桜は逃げなかった。

 

彼女の死んだ瞳の奥底で、何かが静かに熱を持ち始めていた。

 

この巨人が、お爺様を消した。

 

この巨人が、蟲を全て殺した。

 

この巨人が、自分を地獄の底から掬い上げてくれた。

 

 

痛みを消し去ってくれたその純白の姿は、今の桜にとって、どんな絵本に描かれた王子様よりも、どんな神話の英雄よりも、美しく、絶対的な「救済者」に他ならなかった。

 

 

 

 

 

 

【記録:1994年11月某日 23時58分 / 場所:同上】

 

 

その時、二つ目の、そして聖杯戦争の根幹を揺るがす最大のバグが引き起こされる。

 

桜の足元。彼女自身の小さな影が、突如として不自然な脈動を始めたのだ。

 

間桐家の魔術属性は「水」。臓硯は桜を間桐の魔術に適合させるため、数日間をかけて蟲によって彼女の本来の属性を強引に犯し、作り変えようとしていた。

 

しかし、その元凶である蟲は全て退魔の光によって消滅した。

 

抑えつけられていた桜の本来の魔術属性――実数空間に存在しない「虚」を司る稀有なる属性、『虚数』。それが、蟲という重石が外れたことで、強烈な反動を伴って一気に表層へと溢れ出したのである。

 

 

 

ドクンッ、ドクンッ。

 

 

 

桜の足元の影が、まるで生き物のように蠢き、インクを零したように石床を黒く染め上げながら急速に広がっていく。

 

同時に、中央に立っていた魔虚羅が、無機質な顔を桜へと向けた。

 

 

 

『八握剣異戒神将・魔虚羅』。それは本来、呪術という体系において「十種影法術」――影を媒介として式神を呼び出す術式――の最奥に位置する存在である。

 

 

 

 

魔虚羅という存在の根源には、「影を通じて現界する」という強固なシステムが組み込まれている。

 

大聖杯というアンカーを失い、世界から孤立した魔虚羅の『影を求める本能』。

 

蟲から解放され、虚数空間という無限の『影の容量』を暴走させる間桐桜。

 

二つの全く異なる世界のシステムが、この冬木の地下深くで、偶然にも、いや必然のように引き寄せ合った。

 

「……あ……ああ……」

 

 

桜の口から、法悦にも似た吐息が漏れる。

 

彼女の広がる漆黒の影が、魔虚羅の足元へと到達した。

 

その瞬間、魔虚羅の純白の巨体が、ズブズブと、まるで沼に沈むように桜の影の中へと沈み込み始めたのだ。

 

 

それは消滅ではない。融合。

 

聖杯のシステムを完全に無視した、新たなパスの開通。

 

間桐桜の持つ『虚数属性』の空間を、魔虚羅が「己の顕現のための領域(影)」として適応し、上書きした瞬間であった。

 

 

 

【……聖杯システムとのリンク……完全断絶。対象【間桐桜】の虚数空間と、対象【魔虚羅】の霊基の強制結合を確認。概念融合……完了】

 

 

 

本来、十種影法術とは複数の式神を操る術式である。

 

しかし、今の桜の影に棲まうのは、この絶対最強の神将ただ一騎のみ。

 

 

「魔虚羅のみを内包する、異常な十種影法術の使い手」。

 

 

大魔術師も、聖杯のシステムも予想し得なかった、最悪で最強のバグの産物がここに誕生したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:1994年11月某日 24時00分 / 場所:同上】

 

 

影への沈み込みは膝の高さで止まった。

 

桜の影を自らの領域と定めた魔虚羅は、そこを定位置とするように、静かに佇んでいる。

 

その姿は、まるで絶対の忠誠を誓う守護者のようでもあり、あるいは、少女の背後に立つ巨大な悪魔のようでもあった。

 

 

桜は、ゆっくりと立ち上がった。

 

足元はふらつき、裸の体は冷気に震えている。だが、その顔つきは、先ほどまでの「壊れた人形」のそれとは全く異なっていた。

 

死んだ魚のようだった瞳に、強烈な光が宿っている。

 

それは、理性や希望といった美しい光ではない。

 

 

――『狂信』。

 

 

自身を救済し、自分の影の中に棲み着いたこの偉大なる神将に対する、盲目的で絶対的な信仰の光。

 

遠坂に捨てられ、間桐に壊され、全てを失って空っぽになった少女の器に、「異戒の神性」がなみなみと注ぎ込まれたのだ。

 

桜は、泥に汚れた小さな手を伸ばし、魔虚羅の巨大で白い指先に、そっと、すり寄るように触れた。

 

 

「……あなたが、わたしを、助けてくれたの……?」

 

 

魔虚羅は答えない。ただ、無言で彼女を見下ろしている。

 

マスターとしての令呪は刻まれていない。大聖杯との繋がりもない。

 

だが、桜の影(虚数)を通じて、二つの存在は魂のレベルで深く結びついていた。桜が危害を加えられれば、影から魔虚羅が現れ、あらゆる事象に適応して敵を惨殺する。絶対の防衛機構。

 

 

「……うふふ……あは、あはははは……」

 

 

血と灰にまみれた蟲蔵に、幼い少女の、鈴を転がすような笑い声が響き渡る。

 

狂気に彩られたその笑みは、凄惨な空間にあって異常なほど美しかった。

 

「ありがとう……わたしの、神様……」

 

 

桜は、魔虚羅の冷たい脚に裸のまま抱き着き、うっとりと目を閉じた。

 

痛くない。もう、誰も私をいじめられない。

 

この神様がいる限り、私は絶対に傷つかない。

 

第四次聖杯戦争。七人の魔術師と七騎の英霊が殺し合う儀式。

 

だが、その盤面の外側、最も深い闇の底で、ルールに縛られない怪物が産声を上げた。

 

魔力供給を必要とせず、あらゆる事象に適応し続ける無敵の式神。

 

そして、その式神を虚数の影に飼い慣らし、神と崇める狂信の少女。

 

 

 

誰も知らない。

 

聖杯の監視者である言峰璃正も、御三家の当主たちも、最強の英霊を召喚して慢心する魔術師たちも。

 

この冬木の地下で、システムそのものを破壊し尽くすほどの、絶対的な絶望が胎動したことを。

 

法輪が、少女の影の中で静かに、次の回転の時を待っていた。

 

 

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