Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第七章:虚数の海に沈む神理、無窮の適応録】

【記録:2004年1月31日 23時45分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 一月最後の夜。

 

 極東の冬は、底冷えするような静謐に包まれていた。

 

 窓の外に広がる冬木新都の街並みは、煌びやかなネオンの瞬きを少しずつ減らし、日付が二月へと移り変わる深夜の静寂の中へと沈み込もうとしている。

 

 暖房によって適温に保たれたマンションの最上階。一切の生活音を削ぎ落としたかのような静まり返ったリビングの中央で、間桐桜はただ一人、薄暗い部屋のソファーに深く身体を沈めていた。

 

 

 今日という一日が終われば、明日からは二月。

 

 それは、ただカレンダーの数字が変わるというだけの意味ではない。この冬木の地で、五十年の沈黙を破り、理不尽で凄惨な血みどろの殺し合い――第五次聖杯戦争が、いよいよ本格的な幕を開けるという決定的な転換点であった。

 

 「自らの日常を脅かす儀式を盤面ごと破壊する」という決意を固めてから、はや数週間が経過。

 

 その間、桜が被っていた「完璧で愛想の良い女子高生」という仮面の裏側で推し進めてきたのは、魔術師としての冷徹極まりない、戦争への最終準備であった。

 

 

 

 自室の防衛機構、陣地作成は、すでに数日前に完了している。

 

 部屋の壁、床、天井の裏側に至るまで、微細な虚数属性の魔力糸を幾重にも編み込み、物理的・魔術的な干渉を根底から「存在しなかったこと」へと変換する結界を敷き詰めた。

 

 

 緊急時に使用するための礼装のチューニングも、魔術回路の最終調整も、全てが完璧な状態に仕上げられていた。

 

 物理的な準備、魔術的な迎撃態勢。その一切に、もはや修正すべき余地はない。

 

 間桐桜という一人の魔術師が持ち得る手札は、すでにテーブルの上に隙間なく並べられている。

 

 

 

 

 故に、彼女がこの一月の最後の夜、最後の最後に行うべき「最終調整」はただ一つ。

 

 彼女の絶対的な戦力であり、存在の核である、異戒の神将――『バーサーカー』の、現在のスペックの完全なる把握であった。

 

「……さて。始めましょうか」

 

 

 桜は、誰に聞かせるでもなく、吐息のように静かに呟いた。

 

 部屋の照明を完全に落とす。窓から差し込む冷たい月光だけが、フローリングの床に彼女の影を長く、そして濃く落としていた。

 

 彼女はゆっくりと目を閉じ、意識のベクトルを外界から、自身の足元に広がる「奈落」へと反転させる。

 

 

 それは、ただ魔術回路を繋ぐという次元の行為ではない。

 

 深海の底へと自ら身を投げるような、圧倒的な下降感。

 

 肉体という殻を脱ぎ捨て、魂の形そのものを自身の影――実数空間には存在しない『虚数位相』へと溶かしていくプロセス。

 

 通常、マスターとサーヴァントを繋ぐのは、魔力供給のための「パス」と呼ばれる魔術的な管に過ぎない。二つの個体が、契約という鎖で結ばれている状態だ。

 

 

 だが、間桐桜と魔虚羅の関係性は、そのような主従の法則には全く当てはまらなかった。

 

 魔虚羅が属する『十種影法術』という術式は、本来、自身の影を媒介にして式神を使役するものである。

 

 そして、間桐桜という少女が生まれ持った『虚数』は、影という事象を入り口として、世界に存在しない虚空へと干渉する性質を持っていた。

 

 この極めて似通った、しかし全く異なる理を持つ二つの要素が接触した時、奇跡とも呼べる、あるいは世界の法則を無視した巨大な『バグ』が発生した。

 

 影という同じ媒体(インターフェース)を通じて、召喚主と神将の境界線が融解し、混線し、ドロドロに溶け合ったのである。

 

 

 今の彼らは、使い魔と召喚主という別個の存在ではない。

 

 いわば、一つの巨大なシステムを共有する『同一存在』。

 

 桜という少女がそのシステムを統括する「脳」であり「瞳」であるならば、影の奥底に微睡む魔虚羅は、システムを実行する「心臓」であり「腕」であった。

 

 互いが互いの一部として、分かち難く、完璧に繋がり合っている。

 

 

 意識が、無限に広がる虚数の暗黒へと沈み切る。

 

 その瞬間、桜の脳髄に、言語を絶するほどの圧倒的な『情報の濁流』が流れ込んできた。

 

 

(ああ……何度触れても、気が遠くなりそうなほどの情報量ね)

 

 

 桜は、押し寄せる情報の波に呑まれることなく、その波の上に静かに立ち、内なる世界で微笑む。

 

 

 今、彼女の脳内に直接展開されているのは、魔虚羅がこの世界に顕現してから約十年という歳月の中で、その身に刻み込んできた『適応の記録(ログ)』の全てである。

 

 桜と魔虚羅が完全にリンクしているが故に、彼女は魔虚羅の肉体に蓄積された適応情報を、まるで自分自身の記憶を引き出すかのように、高度に整理されたデータベースを検索するかのように、自由に閲覧することが可能なのだ。

 

 

 その広大無辺なデータベースの目次を、一つ一つ丁寧に読み解いていく。

 

 それは、召喚されてからの数年間、彼女がロンドンの時計塔で過ごした数年間、そして冬木へ帰還してからの日々において、魔虚羅がどれほどの事象を解析し、変質させてきたかという、神の進化の歴史そのものであった。

 

 

 

 まずは、物理的な事象への耐性。

 

 データベースの深層には、極めて強固な物理法則への適応情報が刻まれていた。

 

 

 重力、運動エネルギー、摩擦、斬撃、打撃、刺突。

 

 現代兵器がもたらす銃弾の貫通力や、爆薬による衝撃波といった物理的破壊力は、すでに魔虚羅の肉体構造に「致死のダメージを与えない」レベルにまで最適化されている。仮に高層ビルが崩落して下敷きになったとしても、今の魔虚羅の皮膚と骨格は、傷一つ負うことなく瓦礫を跳ね除けるだろう。

 

 熱や寒さといった極端な環境変化、真空状態や異常な気圧下における活動にも、完璧な耐性が構築されている。自然環境という檻すら、この神を縛ることはできない。

 

 

 

 次に、有毒な物質や呪詛に対する耐性。

 

 桜の意識が、データベースの古く、ひどく暗い部分へとアクセスする。

 

 

 そこには、かつて間桐の地下臓で桜の肉体を蝕もうとした、臓硯の『蟲』によるおぞましい呪詛の記録が残されていた。

 

 魔虚羅は、召喚された直後からその呪いを喰らい、解析し、完全に無効化した。それだけではない。ロンドンの時計塔での、過酷な環境の中で浴びせられた様々な毒物、霊薬、精神を汚染する呪いや幻術の類も、全てが「すでに適応済みのエラーコード」として処理されている。

 

 もはや、現代のいかなる猛毒であろうと、高位の呪術であろうと、魔虚羅の肉体から一滴の血を流させることすら不可能だ。

 

 

 

 だが。

 

 桜が最も注意深く、そして絶対的な自信を持って確認したかったのは、それらの物理・化学的要因の先にあるもの。

 

 すなわち、現代魔術そのものに対する耐性と、その進化の『現在地』であった。

 

(……素晴らしい。本当に、あなたはどこまでも進化し続けるのね)

 

 

 桜の魂の底から、感嘆の息が漏れる。

 

 

 データベースに記された魔術戦の記録。

 

 火、水、風、土、空。魔術の基本となる五大元素による干渉。

 

 ルーン魔術による束縛、錬金術による物質変換、降霊術による霊的干渉、そして先日の路地裏で魔術師が放った中東基盤の魔術と結界術式。

 

 それら数え切れないほどの神秘に晒され続けた結果、魔虚羅の魔術に対する耐性は、すでに「現代の魔術師が到達し得る最高峰」を遥かに置き去りにする次元へと到達していた。

 

 

 

 

 それほどの圧倒的な耐性。

 

 だが、間桐桜という魔術師が底知れず恐ろしく、そして魔虚羅という存在が『最強』たる所以は、その「先」にある。

 

 

 魔虚羅の『適応』は、耐性を獲得したとしても、そこで終わりを迎えるわけではない。

 

 攻撃を無効化する防御壁を構築してなお、背後の法輪は回り続ける。

 

 敵の術式の構造を、魔力の波長を、その魔術が成立している基盤そのものへ、際限なく続く解析。

 

 

 それは、防御という枠組みを超えた、終わりのない『攻略』のプロセスである。

 

 一度適応した魔術であれば、次からはただ無効化するだけでなく、その術式を対処するための最適を弾き出す。

 

 

 敵の魔術の属性を反転させ、全く逆のベクトルを持つ特効の呪力として撃ち返す。

 

 さらには、相手の魔術基盤そのものの矛盾を突くような、別次元からの新たな攻略手段を、呼吸をするように編み出し続けるのだ。

 

 

 現代魔術に対する解析、理解、変質、そして逆利用。

 

 それらのプロセスは今この瞬間も止まることなく、影の底で膨大な演算として処理され続けている。

 

 時間が経過すればするほど、敵にとっての「詰み」の状況が幾重にも上書きされ、絶対に逃れられない死の螺旋へと相手を引きずり込んでいく。

 

 

(……現代の魔術師が相手ならば、もはや戦いにすらならないでしょうね)

 

 

 桜は、情報の濁流の中で、その絶対的な事実を冷徹に確認した。

 

 物理攻撃は通じず、魔術は解体され、呪いは霧散する。そして、あらゆる事象に適応した巨人が、退魔の剣を振り下ろすだけで全てが終わる。

 

 それは、魔術の歴史そのものを嘲笑うかのような、理不尽極まりない無敵性の証明であった。

 

 

 

 暗闇のリビングで。

 

 目を閉じたままの桜の唇に、ふわりと、あまりにも美しく、そして残酷な微笑みが浮かんだ。

 

 彼女の内に秘められた、自身の神に対する絶対的な誇りと、揺るぎない自信の表れ。

 

 

 

 だが。

 

 その微笑みの奥で、彼女の魔術師としての『冷徹な瞳』は、決して狂気に呑まれることなく、静かに現実を見据え続けていた。

 

 

 彼女は慢心しない。決して、油断などしない。

 

 なぜなら、これから幕を開ける聖杯戦争において、彼女が立ちはだかり、打ち砕かなくてはならない敵は、現代の魔術師などという矮小な存在ではないからだ。

 

 彼女の視線はすでに、現在獲得している圧倒的な適応の、そのさらに先にある『未知の領域』へと向けられていた。

 

 

 

 

 

 リビングの暗闇の中、桜は深く沈み込ませていた意識の深層から、ゆっくりと浮上してきた。

 

 完全に自身の影――魔虚羅が構築してきたおよそ十年に及ぶ無窮のデータベースとリンクしていた彼女の網膜には、まだ黄金の法輪が放つ幻の残光が焼き付いている。

 

 

 現代魔術におけるあらゆる事象への完全な耐性。

 

 

 物理、毒、環境、そして神秘の解体と逆利用。

 

 時間が経過すればするほど、影の底に微睡む神は際限なくその能力を上昇させ続け、すでに現代という枠組みの中においては一切の傷を負うことのない絶対の到達点へと至っている。

 

 その事実を確認し、彼女の胸の奥底には、静かで、しかし揺るぎない絶対的な自己肯定に満ちていた。

 

 

 だが、桜の瞳に宿る光は、熱を帯びてはいない。

 

 どこまでも冷たく、凪いだ湖面のように透き通った、極めて理知的な『魔術師の眼』であった。

 

 

 ソファーの背もたれからゆっくりと身を起こし、テーブルの上に置かれたまま完全に冷え切った紅茶のカップを見つめた。

 

 カップの暗い水面に、窓から差し込む冷たい月明かりが反射している。

 

 

(……ええ。バーサーカーの適応は、現代の神秘というレベルにおいては、すでに完璧。一流の魔術師でも、今のあの子を傷つけることはできない)

 

 

 それは、誇張でも何でもない純然たる事実である。

 

 

 だが、桜は同時に、魔術世界の絶対的な法則、すなわち『神秘の格』という越えられない壁の存在を、誰よりも正確に理解していた。

 

 エルメロイⅡ世の元で魔術の深淵を覗き込み、時計塔という歴史の集積地で学んできた彼女だからこそ、これから冬木の地で幕を開ける儀式の「異常性」を、肌身で感じ取ることができるのだ。

 

 

 

 第五次聖杯戦争。

 

 七人の魔術師が、自らの血肉を捧げて召喚する存在。

 

 人間の歴史、信仰、そして畏怖が結晶化した、過去の亡霊たち――『英霊(サーヴァント)』。

 

 彼らが纏う神秘は、現代を生きる魔術師たちが血を吐くような努力で紡ぎ出す魔術とは、そもそも根源からして異なる。

 

(現代の魔術師が扱う神秘は、所詮、大気中に薄く引き伸ばされた魔力をかき集め、法則の隙間を縫って一時的な奇跡を偽造するだけのもの。……でも、過去の神秘は違う)

 

 

 

 神代。

 

 それは、大気にエーテルという高密度の魔力で満たされ、神々が大地を歩き、幻想が当たり前のように現実を凌駕していた時代。

 

 英霊たちの中には、その神代の空気を吸い、神々の血を引き、あるいは神々によって鍛え上げられた武具――『神造兵装』を携えて現界する者が必ず存在する。

 

 

 彼らが放つ一撃は、単なる物理的破壊力や魔力波の塊ではない。

 

 神話という概念そのもの、あるいは星の息吹そのものを凝縮した、圧倒的な『情報量』と『密度』の暴力である。

 

(バーサーカーの適応は、一度受けた事象を解析し、無効化し、変質させるプロセス。時間経過と共にその能力は上昇し続けている。でも、今のあの子が起点としているのは、あくまで『現代の神秘』の解析に過ぎない)

 

 

 桜は、冷たく透き通った瞳で、自らの内に潜む神の「現在地」を客観的に推し量る。

 

 現代魔術の延長線上の適応で、神代の魔術や神造兵装の直撃を、初見で完璧に防ぎ切れるか?

 

 

 

 十中八九、防げないだろう。

 

 それが、桜の導き出した冷徹な結論であった。

 

 適応のアルゴリズムがどれほど優れていようとも、入力される情報の質量が現代のそれとは文字通り「桁違い」なのだ。

 

 もし、魔虚羅が初見で神造兵装による神話級の熱量を真っ向から受け止めた場合、解析と適応のプロセスが完了するよりも僅かに早く、肉体の再生限界を超えて消滅させられてしまう可能性は、確かに存在する。

 

 

 そのレベルの存在が、これから始まる聖杯戦争の盤面に確実にいる。

 

 過去の神秘とは、現代のそれとは比べ物にならない。その事実を前提として行動しなければ、一度の致命的な見落としが、全てを破滅へと導くことになる。

 

「……だからこそ、まずは知らなくてはいけませんね」

 

 

 まずは、手本が必要だ。

 

 彼女には、好き好んで自ら戦場に飛び出し、血湧き肉躍る闘争に身を投じるような戦闘狂の気質は微塵もない。

 

 彼女の戦略は、いついかなる時も慎重にして冷徹、そして極めて効率的なものであった。

 

 

 英霊の神秘、その『密度』を知ること。

 

 

 情報量を測ること。

 

 敵のサーヴァントと遭遇したとしても、決して初手から、何も考えず真っ向からの力比べなどを挑むような愚は犯さない。

 

 自らの虚数空間である影を盾とし、結界を利用し、魔虚羅の能力の一部だけを抽出しながら、敵の放つ魔力波長や宝具の片鱗を「削り取り」、影の奥底へと流し込む。

 

 

 そうして敵の神秘の密度と情報を限界まで解析し、魔虚羅の適応システムに『神代の基準値』を学習させる。

 

 適応の法輪を回し、完璧な耐性と攻略法を構築したその後に初めて、無慈悲な蹂躙を開始する。

 

 相手がどのような神話の英雄であろうと、どれほど強大な神造兵装を持っていようと、適応さえ完了してしまえば、あとはただの作業に過ぎない。

 

 

 それが、間桐桜という魔術師が構築した、絶対に敗北しないための完璧な戦理であった。

 

(神代の神秘。どれ程の情報量なのか、今の時点では理解する術も、試す方法もありません。)

 

 

 

 いや、神代の神秘に触れる機会が、過去に一度もなかったわけではない。

 

 たった一度だけ、その機会は確かにあった。だが、その機会は不測のイレギュラーのせいで砕け散り、霧散してしまった。

 

(……もったいないことをしましたね。あの時のあれを上手く逝かせていれば、もっと楽に立ち回れたと思うのですが)

 

 

 

 脳裏に、軽く後悔の念が過る。

 

 しかし、終わったことをいつまでも悔やむのは不毛だ。桜は即座にその未練を切り捨て、次の思考へと向かう。

 

(まあ、何も問題はないでしょう)

 

 

 心臓の鼓動。そして、その奥底で脈打つ、主の思考に共鳴する影の鼓動。

 

 二つの重なり合うリズムを感じながら、彼女の顔に、微かな――しかし、これ以上ないほどに深く、歪で、純粋な『狂熱』が浮かび上がった。

 

(……不安など、あるはずがありません。そんなもの、抱く理由がどこにあるというのでしょう)

 

 

 彼女の魂の最も深い部分。

 

 優等生としての完璧な仮面も、エルメロイ教室で培った冷徹な合理性も、すべてを剥ぎ取った後に残る、間桐桜という少女のむき出しの『本質』も。

 

 全て自身の影に微睡む神に対する、言語を絶するほどの狂信的な愛によって支えられたもの。

 

 

 神代の英霊がどれほど強大であろうと、神造兵装がどれほど星を焼く威力を秘めていようと。

 

 最後に勝利するのは、絶対に、間違いなく、バーサーカーである。

 

 彼女は、それを自分に言い聞かせるまでもなく理解している。太陽が東から昇り、水が低きへ流れるのと同じように、この宇宙における絶対の真理として「知っている」。

 

 

 自分が、自らの神の勝利に一ミリでも不安を持つなど、不敬極まりない。

 

 そんな感情は、彼女の精神構造の中には最初から存在しない。

 

 勝つことを少しも疑っていない。だが、決して傲慢にもならない。

 

 神の勝利は約束されている。だからこそ、その勝利までの過程において、マスターである自分が油断し、神に余計な傷を負わせるような不手際や、傲慢に酔いしれて隙を晒すような真似は、断じてあってはならないのだ。

 

 

 

 確実に、ただ、勝つ。

 

 完璧なプロセスを経て、完璧に蹂躙し、完璧な勝利を神に捧げる。

 

 

 それだけでいい。それ以外は、何もいらない。

 

 

 

 

 

 彼女にとって、魔虚羅という存在は、全ての源であり、自身の存在を形成する「核」と言っても過言ではなかった。

 

 ロンドンでルヴィアと共に笑い合い、完璧な淑女として振る舞えたことも。

 

 冬木の学園で、誰に対しても優しく、余裕を持って接することができる「優雅な淑女」としての自信も。

 

 間桐の蟲蔵で植え付けられた地獄の記憶に押し潰されることなく、こうして温かな日常を謳歌できているという事実も。

 

 

 その全ては、この影の底に『絶対的な無敵の神』が寄り添ってくれているからこそ、成立している砂上の楼閣。

 

 

 もし、自分の神が奪われるようなことがあれば、彼女の培ってきた全ては、その瞬間に音を立てて崩れ落ちるだろう。

 

 理性も、日常も、人間の形すらも維持できず、世界を呪うだけの空っぽな肉塊へと成り果てる。

 

 もちろん、そんなことには絶対に、万に一つもならないと、桜は根拠なく、しかし強烈に確信している。誰にも奪わせはしない。奪える者など、この世界には存在しては、ならないのだ。

 

 

 この感情は、他者にすがるような「依存」という安い言葉で表現できるものではない。

 

 

 そもそも、そんな次元の話ではないのだ。

 

 人は、酸素がなくては生きてはいけない。

 

 息を吸うたびに、「ああ、自分は今、酸素に依存している」などと考える人間はいないだろう。

 

 それは在って当然の前提であり、肉体を動かし、思考を紡ぐための、世界を構成する絶対的な基礎法則。

 

 

 彼女の魂は、魔虚羅という酸素を吸うことでしか、もはやこの世界で呼吸をすることができない。

 

 神が適応し、勝利し続けること。それが、桜がこの退屈で愛おしい日常を生きるための、唯一にして絶対の条件なのである。

 

 

「……だから、全て壊します」

 

 

 

 桜は、ソファーから立ち上がった。

 

 フローリングに落ちていた彼女の影が、まるで巨大な獣が身を起こすように、音もなくズズ……と広がり、部屋の壁際までを漆黒に染め上げる。

 

 

 時計の針が、深夜零時を指し示めす。

 

 日付が変わり、一月が終わりを告げ、二月という凍てつく冬の月が始まる。

 

 それは、この冬木という街に暮らす数多の人々にとって、明日も明後日も続くはずだった「普通の日常」が、人知れず終わりを告げる瞬間であった。

 

 

 窓ガラス越しに見下ろす冬木の街は、深く、暗い眠りに落ちている。

 

 

 時計塔から派遣された魔術師たちが、聖堂教会の代行者が、そして運命の糸に手繰り寄せられた極東の魔術師たちが、それぞれの野望と理想を胸に、血みどろの殺し合いの舞台へと足を踏み入れようとしている。

 

 

 

 だが、彼らは知らない。

 

 自分たちが命を懸けて追い求める奇跡の儀式が、そして彼らが召喚するはずの誇り高き神話の英雄たちが。

 

 この新都の高層マンションから街を見下ろす、一人の美しい少女の「日常」を脅かしたという、ただそれだけの罪によって。

 

 

 すでに、完全に破壊されるべき『エラー』として、容赦のない処刑リストに書き加えられているという事実を。

 

「……さあ、行きましょうか、バーサーカー」

 

 

 桜の冷徹な、しかし甘く蕩けるような囁きに呼応して。

 

 

 

 

 ――ガコンッ。

 

 

 現実の物理法則を無視した、大いなる歯車の回る音が、部屋の虚空に重々しく響き渡った。

 

 

 それは、運命の歯車ではない。

 

 世界の理を喰らい尽くし、あらゆる神秘を蹂躙し、絶望を適応によって塗り替える、奈落の神将が放つ産声。

 

 

 極東の夜風が、窓ガラスをカタカタと震わせる。

 

 間桐桜の愛した、平和で退屈な日常は、この夜を以て完全に終わりを告げた。

 

 ここから先は、理外の怪物を飼い慣らす狂信の魔術師による、一方的で、冷酷極まりない『非日常』の蹂躙が始まる。

 

 

 

 

 次なる舞台は、

 

 血塗られた神話の始まりである。

 




もう1つ話あった。
次から聖杯戦争編やります。
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