Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く 作:りー037
【第一章:深夜の降霊儀式と拒絶の法輪、そして大聖杯の致命的誤認】
【記録:2004年2月1日 00時00分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・地下空間】
リビングに置かれたアンティークの掛け時計が、低く、重々しい音色で深夜零時を告げた。
一月という凍てつく月が終わりを告げ、いよいよ二月が産声を上げる瞬間。それは、七人の魔術師による血みどろの殺し合い――第五次聖杯戦争が、本格的な幕を開けるという決定的な合図であった。
間桐桜は、静まり返った自室のソファーからゆっくりと立ち上がった。
彼女の顔には、死地に赴く魔術師特有の悲壮感も、未知なる英雄を呼び出すという高揚感も一切ない。ただ、日々のルーティンである予習や復習をこなす時と同じ、極めて事務的で、冷徹なまでの落ち着きだけが支配していた。
あらかじめ準備しておいた魔術素材の入ったアタッシュケースを手に取り、彼女は音もなく部屋を出る。
向かった先は、自身が居住する高層マンションの最下層。一般の居住者は決して立ち入ることのない、無機質なコンクリートに囲まれた広大な地下空間であった。
埃っぽさと、湿ったカビの匂い。蛍光灯の無機質な光が、等間隔に並ぶコンクリートの柱を薄暗く照らし出している。
彼女は、この空間を聖杯戦争における『召喚の儀式』の場として選定していた。
(自室のリビングで英霊を呼び出すような真似は、いくら何でもリスクが高すぎますからね。召喚した直後に、相手がどのような行動に出るか分かりませんし)
もし、呼び出した英霊が狂気に満ちた怪物であったり、あるいはマスターの意に沿わない反逆者であった場合、召喚直後に戦闘へ発展する可能性は決してゼロではない。自室を、不確定要素の塊である英霊との小競り合いで破壊されることは、避けたかった。
故に、この無機質で、どれだけ破壊されても構わない地下空間こそが、儀式には最も適している。
桜は、あらかじめこの地下室全体に張り巡らせておいた『結界』の稼働状況を、自身の魔力回路を通じて静かに確認した。
第一層には、一般人の認識を強烈に阻害する『人払い』の暗示。もしマンションの管理人や住人がこの階層に近づこうとすれば、理由のない強烈な不安と恐怖に駆られ、無意識のうちに足を引き返してしまう。
第二層には、物理的な音と衝撃の遮断。内部でどれほどの爆発が起きようと、コンクリートが砕け散ろうと、上の階層には一切の振動すら伝わらない。
そして第三層には、彼女の得意とする《虚数魔術》を応用した、魔力波長の完全な隠蔽。ここで膨大な魔力を消費して英霊を召喚したとしても、そのオドの輝きは虚数の位相へと吸い込まれ、外部の魔術師に探知されることはない。
完璧な陣地の構築。
全てにおいて抜かりはない。桜は、地下室の中央、最も魔力の流れが安定している場所へと歩みを進め、アタッシュケースを開いた。
中から取り出したのは、水銀や溶かした銀、そして自身の血液を抽出して精製した触媒となる液体。彼女はそれらを使い、冷たいコンクリートの床に、一息に、そして極めて正確な幾何学模様――召喚の魔法陣を描き始めた。
筆を走らせながら、桜の脳内では、極めて冷徹で合理的な『損益計算』が行われていた。
当初、彼女は英霊というシステムを利用するかどうか、少なからず迷いを抱いていたのだ。
(わたしには、バーサーカーがいます。戦力としては、あの子一人で十分すぎるほど。……いえ、むしろ)
桜の手が、流れるように円を描く。
彼女が構築した戦術の基本は、自身の《虚数魔術》と、魔虚羅の『適応』を完璧に連動させることにある。
敵の魔術や攻撃を桜自身が虚数の影で受け止め、その解析データをダイレクトに魔虚羅へと送り込み、適応を完了させる。このシステムを十全に稼働させるためには、桜自身が常に高度な魔力制御を行い、影への演算領域を確保しておく必要があった。
そこに、全く別のシステムである「英霊」が介入してくるとどうなるか。
マスターとして英霊に魔力を供給し続けるという行為は、桜の魔力リソースに少なからず制限をかけることになる。もちろん、彼女が持つ魔力量であれば、一流のサーヴァントを使役しながら自身の魔術を行使することも十分に可能ではある。
しかし、それはあくまで「可能」というだけであり、「最適解」ではない。
意思疎通すら不確かな英霊との付け焼き刃の連携にリソースを割くよりも、自身と魔虚羅という「完全にリンクした同一存在」の稼働に全魔力を集中させた方が、遥かに効率的であり、有利に立ち回れるのではないか。
それが、桜の当初の懸念であった。
(……それに、英霊という存在そのものが孕む、無視できないリスクもありますしね)
英霊たちは、それぞれが独自の意志を持ち、誇りを持ち、そして『聖杯にかける願い』を持って現界する。
もし、その願いが桜の目的――「聖杯戦争の完全なる破壊」と真っ向から衝突するものだった場合、どうなるか。彼らは裏切り、反逆し、マスターである桜に牙を剥く可能性がある。
または、桜の特異性や、影に潜む怪物の存在に本能的な嫌悪感を抱き、召喚された瞬間に敵対行動を示してくる可能性も否定できない。
いずれにせよ、英霊とは、不確定要素の塊なのだ。
それでもなお。
彼女はいくつかのメリットとデメリットを天秤にかけ、極めて冷酷な計算を弾き出した結果、この召喚の儀式を執り行うことを決断した。
(実際に七体の英霊が召喚されるシステムである以上、わたしがその内の一枠を埋めてしまえば、物理的に倒すべき敵の数が一人減る。これは無視できない戦術的優位ですしね)
魔法陣の最後の円を閉じながら、桜は論理的に思考をまとめる。
加えて、もし呼び出した英霊が使い物になる手駒であった場合、それを利用しない手はない。
強大な敵と遭遇した際、その英霊を最前線に立たせ、肉の盾として戦わせる。その間に、桜は安全圏から敵の神秘を解析し、魔虚羅の『適応』を完了させるための時間稼ぎとして運用することができる。
手札は、多いに越したことはないのだ。
(……いてもいなくても、どちらでも構わない。わたしの勝利の絶対条件は、あくまでバーサーカーの存在なのですから)
桜にとって、英霊の召喚とは、ただの「ゲームの初期手札を引く」程度の認識でしかなかった。
もし優秀で従順なカードが引ければ、まあラッキー。
もし反逆してくるようなカードであれば、その場で魔虚羅の適応の餌にして握り潰すだけ。
結果がどちらに転ぼうとも、彼女の根幹にある『絶対に勝つ』という確信は、一ミリたりとも揺らぐことはない。
故に、彼女の手元には『触媒』が存在しなかった。
彼女にとって、誰が呼ばれるかなど、本当にどうでもいいことだ。
アーサー王であろうと、ヘラクレスであろうと、名もなき暗殺者であろうと、彼女の勝敗に影響を与えるほどの価値はない。大聖杯のシステムが、適当に見繕った魂を一つ寄越せばそれでいい。
準備は、全て整った。
コンクリートの床に描かれた魔法陣が、桜の魔力に呼応して、微かに、しかし確かな鼓動を打ち始めている。水銀と血の混じったラインが、妖しい銀色の光を放ち始めた。
目を閉じ、呼吸を整え、体内に眠る魔力回路を全開にする。
一瞬にして、彼女の温かな体温が消失し、代わりに絶対零度の魔力(オド)が、全身の血管を切り裂くような痛みと共に駆け巡った。
脳髄が痺れ、視界が白く飛ぶ。
しかし、桜の表情には一片の苦痛も浮かばない。彼女は静かに目を見開き、冷徹な魔術師としての詠唱を開始した。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
その言葉を合図に、魔法陣の放つ光が一段と強さを増した。床の上のラインが生き物のように脈打ち、周囲の大気から莫大な魔力を強引に吸い上げ始める。
「降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」
詠唱が進むにつれ、地下室の気圧が異常な低下を見せ始めた。
冷たい突風が吹き荒れ、桜の紫の髪が乱舞する。
彼女の右手に、焼けるような熱と痛みが走った。見下ろすと、白く滑らかな手の甲に、赤黒い痣のような模様が浮かび上がり、魔力によって強引に肉体へと刻み込まれようとしている。
聖杯戦争の参加者の証であり、英霊に対する絶対の命令権――『令呪』。
「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ」
令呪の痛みに顔をしかめることなく、桜はさらに言葉を紡ぐ。
彼女の視線の先、魔法陣の中央の空間が、物理法則を無視して歪み始めていた。
次元の壁が薄れ、遥か彼方、『英雄の座』と呼ばれる星の外側から、莫大な質量を持った情報体――英霊の魂が、この極東の地下室へと引きずり下ろされようとしている。
「繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
光が、飽和する。
地下室全体が、目を開けていられないほどの眩い白光に飲み込まれた。
空気の震えが限界に達し、鼓膜を突き破らんばかりの轟音が鳴り響く。
「――――告げる」
桜は、その光の暴力を真っ向から見据えながら、最後にして最大の言霊を放った。
「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の帰するに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
右手の令呪が、完全にその形を成した。
三つの刃を模したような、鮮血の赤。
マスターとしての登録が完了し、大聖杯のシステムが、桜と、これから顕現する英霊とを繋ぐための『パス』を構築し始める。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」
魔法陣の中央に、大柄のシルエットが形成されつつあった。
情報の塊が、エーテルを構成素材として顕現を果たそうとする、神秘の極致。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!!」
詠唱、完了。
完璧な儀式。完璧な魔力供給。
大聖杯の法則に従えば、次の瞬間には光が収束し、そこに誇り高き神話の英雄が姿を現すはずであった。
桜の右手に刻まれた令呪が熱を持ち、英霊が完全にこの世界へと降り立とうとする、まさにその刹那。
――ズンッ!!
間桐桜の魂の根幹で、巨大な警鐘が鳴り響いた。
いや、それは彼女自身の意志ではない。彼女の足元に広がる影の底で、これまで静かに微睡んでいた『神』が、突如として凶暴なほどの覚醒を見せたのだ。
(え……!?)
桜の表情に、今日初めて「驚愕」の色が浮かんだ。
何かがおかしい。
彼女は、魔虚羅に対して『顕現しろ』という命令など、一切出していない。
魔虚羅が桜の指示を待たずに自動で顕現するための条件は、極めて限定されている。
一つは、間桐桜に対する明確な『殺意』や『敵意』が向けられた時。
先日、言峰綺礼が路地裏で放ったような純度百パーセントの悪意であれば、システムは即座に反応する。しかし、この自動迎撃は、今の桜であれば自身の意志で抑制し、影の中に留めておくことが可能なレベルのものだ。
そして、もう一つ。
桜の意識外からの攻撃、あるいは物理的・魔術的を問わず、彼女の魂や肉体の根幹に『未知の干渉』が強制的に行われようとした時。
これに関しては、抑制は効かない。桜という存在と魔虚羅が完全にリンクしたその日から、彼女の魂を守るための絶対的な『防壁システム』として、強制的に発動するよう組み上げられているのだ。
そして今回、引き金となったのは、間違いなく後者であった。
(干渉……!? わたしの回路に無理やり接続しようと――)
桜がその事実に思い至った瞬間、大聖杯のシステムが構築した『マスターとサーヴァントを繋ぐパス』が、彼女の魂に深く根を下ろそうと接触する。
通常の魔術師であれば、それは歓喜と共に受け入れるべき、契約の証である。
だが、桜と魔虚羅という「すでに完成された同一のシステム」にとって、外部から無理やり突き立てられようとするその魔力パスは、悪質なウイルスの侵入、あるいは魂への許されざる『攻撃』と何ら変わらなかったのだ。
魔虚羅の防衛本能が、それを許すはずがない。
――ガコンッ!!
桜の背後の空間が、ガラスのようにひび割れた。
彼女の意思とは全く無関係に、黄金の光を放つ『法輪』のみが、虚空を突き破って現実世界へと強引に顕現したのだ。
それは、神将の本体を伴わない、システムの中核だけの抽出。
重々しく、そしてこの世のあらゆる法則を嘲笑うかのような無機質な金属音が、地下室に響き渡る。
法輪が、一回転した。
その瞬間。
魔法陣の中央で、顕現を果たそうとしていた英霊のシルエットが、まるでノイズの走ったブラウン管テレビのように激しくブレた。
「な……!?」
桜が息を呑む。
魔虚羅の法輪がもたらす『適応』の力は、物理的な攻撃を無効化するだけではない。魔術の構成そのものを解体し、術式を根底から破断する領域にまで押し上げられる。
法輪が回転し、適応した対象は、大聖杯が何百年もかけて構築した『英霊召喚のシステム』そのものであった。
パァァァァンッ!!
鼓膜を破るような破裂音と共に、コンクリートの床に描かれていた魔法陣が、まるで爆弾を仕掛けられたかのように内側から粉々に砕け散った。
水銀と血のラインが蒸発し、集束していた莫大な魔力が、行き場を失って嵐のように地下室に吹き荒れる。
召喚寸前だった英霊のシルエットは、悲鳴を上げる間もなく光の粒子となって霧散し、次元の狭間へと強制的に弾き飛ばされてしまった。
召喚術式の、強制破断。
そして、機能の完全停止。
荒れ狂っていた魔力の嵐が嘘のように収まり、地下室には再び、重く冷たい静寂が舞い戻ってきた。
背後に浮かんでいた黄金の法輪も、その役目を終えたとばかりに、スゥッと虚空に溶けて消え去っていた。
桜は、完全に破壊された召喚陣の跡地を、ただ茫然と見つめていた。
いかなる事態にも動じないよう訓練され、魔虚羅の圧倒的な力によって常に余裕を保っていた彼女の顔に、隠しきれない困惑が浮かんでいる。
「……これは?」
地下室に、彼女の間の抜けた、しかし純粋な驚愕の声だけが、ぽつりと響き渡った。
コンクリートの粉塵が、静まり返った地下室の空気を白く濁らせている。舞い上がった塵が床に落ちる微かな音すら聞こえそうなほどの、圧倒的な静寂。
英霊は、いない。
神話の英雄は、魔虚羅の法輪がもたらした『術式の強制破断』によって、この世界に産声を上げる直前に次元の彼方へと消え去ってしまった。
「……一体、何が起きたの?」
桜は、ひどく冷静な、しかし困惑を隠しきれない声で呟き、自身の右手を見下ろした。
白く滑らかな手の甲には、三つ赤――『令呪』が、確かな熱を帯びて刻み込まれたままである。
(召喚は失敗した? ……いいえ、もしそうなら、マスターとしての登録自体が完了せず、この令呪は定着前に消滅しているはず)
ならば、召喚自体は成功したが、顕現した瞬間に魔虚羅が英霊を『喰らった』、あるいは『消滅させた』のだろうか。
それも違う。英霊という使い魔を失えば、マスターとサーヴァントの契約は物理的に破綻し、令呪はやはりその効力を失って消え去るのが聖杯戦争の絶対法則だ。
だが、現に令呪は色褪せることなく、桜の魔力回路と深く結びついている。
加えて、桜の魂の根幹には、「聖杯戦争という儀式の一枠に、正式な参加者として当てはまった」という、システム側からの確固たる承認の感覚が残っていた。
英霊は召喚されていない。
なのにもかかわらず、参加者としての席には座っている。
完全に矛盾した、あり得ない状態。
(……干渉。接続。ええ、おそらくバーサーカーが弾いたのは、英霊そのものではなく、大聖杯がわたしと英霊とを繋ごうとした『パス』の構築プロセスですね)
桜は、小首を傾げながらウンウンと考えを巡らせる。
英霊を現界させ、使役するためには、マスターの魂と英霊の霊核を魔術的なパスで繋ぐ必要がある。大聖杯のシステムがそのパスを桜の魂に突き立てようとした瞬間、魔虚羅の絶対防衛システムがそれを「未知の攻撃(干渉)」と自動判定したのだ。
結果として、法輪は回転し、大聖杯の召喚システムそのものを適応・解体して弾き飛ばした。
パスを繋げなかった英霊は現界するためのアンカーを失い、座へと強制送還されたのだろう。
(……驚きました。まさか、大聖杯のシステムそのものにまで適応して、干渉を弾いてしまうなんて。)
桜は、自身の足元の影を見つめ、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
理屈は分かった。だが、桜の体内には、もう一つだけ不可解な『異常』が残されていた。
彼女は、自身の魔力回路の深層、魔虚羅とリンクしている「情報の濁流」へと意識を向ける。
すると、本来であれば「英霊」と「マスター」の間に繋がるはずだったパスが、行き場を失った挙句、極めて『いびつな形』で桜の魂と魔虚羅の間に繋がってしまっているのを発見した。
本来、十種影法術と虚数のバグによって同一存在として完成している桜と魔虚羅の間に、パスなど必要ない。全く使い道のない、冗長な魔力経路。
魔虚羅がパスの干渉を弾いた際、何らかの適応のエラーが起き、その切断されたパスを無理やり自分たちのシステム内に取り込んで、変質させてしまったのだろうか。
桜が魔虚羅の適応ログを確認すると、そこには見たこともない文字列の『エラーコード』がいくつも吐き出されていた。
「……うん、よく分かりませんね」
数秒間の沈黙の後。
桜は、ひどくあっさりと、考えることを放棄した。
小さく息を吐き、肩の力を抜く。
魔術師としてはあり得ないほどの杜撰さ。しかし、彼女にとっては、極めて論理的な結論であった。
(もとより、英霊の召喚になんて期待していませんでしたし。いなくても、特に問題はないですが)
彼女の戦力は、魔虚羅だけで十二分に完成している。
英霊がいないのなら、自分とバーサーカーの二人だけで、予定通りに敵を蹂躙し、この儀式を破壊し尽くすだけだ。
何のアクシデントでもない。ただ、不要な初期手札の一枚が、手に入らなかったというだけの話。
(それにしても、この令呪……英霊ではないバーサーカーに対しても、命令権として機能するのでしょうか? まあ、いざという時のブーストくらいには使えるかもしれませんね)
右手の甲をさすりながら、桜はふりふりと首を横に振った。
彼女の心は、すでに「召喚の失敗」という些事を切り捨て、明日からの日常と非日常の立ち回り方へとシフトしている。
アタッシュケースを拾い上げ、破壊された魔法陣の痕跡をそのままにして、彼女は踵を返した。
間桐桜は、この極東の地下室で起きた決定的なバグの真意を、そしてそれが聖杯戦争全体にどれほどの異常をもたらすかを、もはや気にかけることはなかった。
ここからは、ただ愛する日常を守るため、二人きりで勝ち上がる手段を講じるだけ。
少女の狂信と冷徹さは、微塵の揺らぎもなく、完璧なまでの自己完結を見せていた。
【記録:2004年2月1日 00時15分 / 場所:冬木市 深山町・円蔵山地下 大聖杯内部】
一方、その頃。
冬木の霊脈の中枢であり、聖杯戦争の心臓部でもある円蔵山の地下深く。
広大な空洞の中に鎮座する巨大な魔術回路の集合体――『大聖杯』のシステムは、未知の致命的なエラーコードを前にして、ひどく歪な演算を繰り返していた。
二百年前にアインツベルン、マキリ、遠坂の御三家が構築した、万能の願望機を起動するための巨大な降霊儀式。
システムは、七人のマスターを選別する。
その一人として、マキリの継承者である少女に令呪を刻み込んだ。
そして、彼女の魔力をトリガーとして、英雄の座から一基の英霊を召喚させるプロセスを途中まで、極めて正確に実行していた。
だが、次の瞬間。
システムは、観測不可能な『理外の力』による強烈な拒絶を受け、召喚のプロセスを強制的に破断された。
術式は破壊され、降霊は失敗。
大聖杯の記録(ログ)には、「英霊の召喚は確認されなかった」という事実が、明確なエラーとして刻み込まれた。
しかし。
聖杯のシステムは、同時に、全く相反するもう一つの『事実』を検知していた。
聖杯戦争において、召喚されるサーヴァントのために用意された「七つのクラスの枠」。
セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー。
その内の一つ、本来であればかの地下室で呼び出されるはずだった【ライダー】の枠が、何故か『埋まった』という判定を出力したのだ。
大聖杯の演算処理が、激しく摩擦を起こす。
召喚は、されていない。
それなのに、ライダーの枠には「何者か」がすでに座っている。
それは、魔虚羅がパスを弾いた際に生じたバグと、桜との間に繋がったいびつな経路が、聖杯のシステム上に『サーヴァントが存在している』という虚実を定着させてしまった結果であった。
矛盾。
完全なる論理破綻。
本来の、清浄で厳格な聖杯のシステムであったならば、この時点で儀式は即座に中断(フェイルセーフ)されていたはずだ。
七基の英霊の魂を捧げることで初めて起動する大魔術において、一基が欠落したまま、枠だけが埋まっているというエラーは、儀式の根幹を揺るがす致命傷である。儀式は破綻し、第五次聖杯戦争は開幕と同時に崩壊が確定している代物となる。
だが。
現在のこの大聖杯は、すでに第三次聖杯戦争の折に『この世全ての悪』という呪いによって汚染され、その機能の大部分がドロドロの泥のように腐敗し、バグり果てた代物であった。
呪いによって狂った大聖杯のシステムは、この致命的な矛盾に対して、無意識のうちに極めて短絡的で、おぞましい『誤認』を下した。
『召喚されていないというエラーは記録されている』
『だが、英霊の枠は、埋まっている』
『枠が埋まっているということは、すなわち、召喚は正常に行われたということだ』
エラーの無視。
矛盾の強制的な統合。
狂った大聖杯は、自らの内に巣食う呪いの泥でエラーコードを塗り潰し、「サーヴァントは召喚された」という欺瞞の判定を、高らかに承認した。
ここに、完全に破綻した儀式が成立する。
七基の英霊を召喚することが前提の儀式でありながら、実際に顕現する英霊は『六基』。
にもかかわらず、聖杯は儀式の開始を宣言し、マスターたちに殺し合いを要求する。
アンリマユという内なる『呪いのバグ』。
そして、間桐桜と魔虚羅という外からの『理外のバグ』。
二つの巨大なバグが二重に重なり合い、システムの根底すらもグチャグチャに歪められた、完全なるイレギュラー尽くしの第五次聖杯戦争。
今後、この狂った盤面で、どのような惨劇が展開されていくのか。
英霊たちは、存在しないはずの七人目の影にどのように翻弄されるのか。
それは、監督役の言峰綺礼にも、御三家の魔術師たちにも、そして狂った大聖杯自身にすら、全く予測のつかない未知の領域であった。
ただ一つ確かなことは。
冬木の闇の底で、日常を愛する狂信の少女と、あらゆる事象を喰らい尽くす神将の法輪が、無慈悲に廻り始めたという事実だけである。
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