Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第二章 :水面下の索敵と、黄昏の心理戦、そして静寂の確信】

【記録:2004年2月1日 07時00分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 大聖杯のシステムを根本からバグらせるという前代未聞の事態を引き起こした翌朝。

 

 間桐桜の朝は、極めて規則正しく、そして静謐なままに幕を開けた。

 

 

 昨夜の地下室での召喚儀式、その失敗――否、魔虚羅による大聖杯の干渉の拒絶と術式の破壊というアクシデントは、彼女の精神に何ら波風を立ててはいなかった。

 

 朝のシャワーを浴び、丁寧に長い紫の髪を梳かし、キッチンで自身の朝食と弁当を手早く作る。その一連の動作には、これから始まる凄惨な殺し合いへの恐怖も、未知なる敵に対する焦燥も微塵も感じられない。

 

(儀式のための最終調整は全て終了しました。少々予想外のバグは生じましたが、バーサーカーが健在である以上、大勢に影響はありません)

 

 

 食卓に置かれた熱いダージリンティーの湯気を見つめながら、桜は静かに思考をまとめる。

 

 英霊という不確定な手駒がないのならば、二人で完璧に立ち回るだけのこと。

 

 そのための基本戦略は、すでに昨夜のうちに彼女の魂の中で強固に組み上げられていた。

 

 

 第一に、自ら積極的に動いて敵を討つような真似はしない。

 

 第二に、使い魔を駆使して冬木の街全体を観測し、マスターとサーヴァントを炙り出す。

 

 第三に、敵の英霊を見つけ次第、使い魔や結界を経由し、影の奥底から安全に相手の『神秘』を削り取り、解析し、適応を完了させた上で、確実に破壊する。

 

 

 極めてシンプル。それ故に、つけ入る隙のない完璧な戦理。

 

 まずは街全体の動きを俯瞰し、臨機応変に対応する。敵が自滅するならそれで良し、自身の領域に踏み込んでくる愚か者がいれば、適応という名の絶対の暴力で蹂躙する。徹頭徹尾、受け身の姿勢を貫くこと。

 

 

 それが、最強の盾と矛を併せ持つ間桐桜の、最も効率的な勝利への道筋であった。

 

(聖杯戦争の御三家……アインツベルンと遠坂。この二つの家系は、必ず表舞台に出てくるでしょう。それに、先生の言葉が正しければ、時計塔からも厄介な魔術師が送り込まれているはず)

 

 

 桜は、カップを静かにソーサーに戻した。

 

 時計塔の枠は不透明だが、御三家の動きは予測しやすい。

 

 特に、この冬木の霊地を管理する遠坂家の現当主――遠坂凛。

 

 彼女が今回の聖杯戦争にマスターとして参戦することは、もはや確定事項と言っていいだろう。

 

 

 

 遠坂、先輩。

 

 その名を脳内で反芻した瞬間。

 

 桜の胸の奥底、ロンドンで培った氷の合理性で完全に覆い隠されていたはずの感情の海に、ぽつりと、極小の『炎』が灯った。

 

 

 それは、憎悪ではない。恨みでも、嫉妬でもない。

 

 かつて間桐へと自分を追いやった遠坂の家系に対する怒りなど、今の彼女には一切存在しない。

 

 だが、ただの魔術師として、あるいは一人の少女として。完璧に気高く、いつでも前を向いて歩き続ける『実の姉』に対して、心の奥底でチリチリと燻り続ける、言葉にし難い対抗心。

 

 

(――負けませんよ、遠坂先輩)

 

 

 彼女の紫の瞳に、薄く、暗い影が落ちた。

 

 それは、間桐桜という『完璧な狂信の魔術師』の中に、まだ人間としての感情――肉親に対する複雑な因縁の糸が、ほんの僅かに残っていることの証左であった。

 

 本人ですら自覚しきれないレベルの、極小の感情の波。

 

「……ふふっ、何を考えているんでしょうね、わたしは」

 

 

 だが、桜はすぐに小さく息を吐き、その極小の炎を意識の彼方へと冷酷に振り払った。

 

 個人の私情。姉妹の因縁。そんなものは、今の彼女にとってはどうでもいいことだ。

 

 

 ただ、勝つだけ。

 

 自身の愛する退屈な日常のために。

 

 そして何より、影の底で自分を守り、あらゆる事象に適応し続ける『無敵の神』に、完璧な勝利を捧げるために。

 

 それ以外の個人的な感傷など、全てはゴミ箱に捨てるべき些事でしかない。

 

 桜は静かに立ち上がり、穂群原学園の制服の襟を正して、マンションのドアを開けた。

 

     

 

 

 

 

【記録:2004年2月1日 12時30分 / 場所:冬木市 深山町 穂群原学園】

 

 

 新入生として入学してからもうすぐ一年。

 

 穂群原学園の日常は、今日も変わらず平和で、活気に満ち、そして退屈であった。

 

 昼休みの喧騒。弁当を広げて談笑する生徒たち、グラウンドでボールを追いかける運動部の掛け声。窓から差し込む冬の陽光は温かく、魔術師の血みどろの殺し合いなど、まるで別世界の出来事のように思える。

 

 

 だが、桜は知っている。

 

 この眩しいほどの平穏の裏側、薄皮一枚隔てた世界の裏側で、すでに狂気と呪いに満ちた儀式が確実に動き始めていることを。

 

(……この学園の生徒の中に、マスターが潜んでいる可能性は……)

 

 

 桜は、購買で買ったパンを小さくかじりながら、教室の窓から校庭を眺め、ふとそんな荒唐無稽な想像を巡らせた。

 

 もし、魔術の知識を持たない一般の生徒が、大聖杯の気まぐれによって令呪を刻まれ、英霊を呼び出してしまっていたら。

 

 

 しかし、すぐにその可能性を頭から振り払う。

 

 休み時間を利用して、彼女はそれとなく学園の敷地内を歩き回り、魔力的な波長や、生徒たちの様子を観察していた。だが、不審な点は何一つ見当たらない。生徒たちのオドの流れは正常であり、死地に立つ者の焦燥や恐怖の匂いを漂わせている者はいなかった。

 

 

 いつも通りの、完璧な日常。

 

 ただ一点の『欠落』を除いては。

 

 学園のアイドルであり、誰もがその姿を目で追ってしまう二年A組の優等生。

 

 

 遠坂凛は、本日、学園に登校していなかった。

 

(聖杯戦争の開幕に合わせた、陣地の構築や英霊の召喚。……あるいは、昨夜のうちに、すでに他陣営との戦闘を行っている可能性もありますね)

 

 

 桜は、冷たく透き通った瞳で思考を回す。

 

 学園内に異常な結界が張られている様子もなく、使い魔が放たれている痕跡もない。今のところ、この学園はまだ「戦場」としては設定されていないようだ。

 

 

 午後の授業を受けながら、桜は放課後の行動予定を組み立てていた。

 

 このまま学園に残っていても、得られる情報はない。

 

 放課後は一旦マンションに帰宅し、動きやすい私服に着替えてから、冬木市の要所を巡ろう。

 

 聖杯戦争の開幕に合わせて、自らの目となり耳となる『使い魔』を、街の全域に配置していくために。

 

     

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月1日 15時45分 / 場所:穂群原学園 校舎内・廊下】

 

 

 放課後を告げるチャイムが鳴り終わり、生徒たちが部活動や帰宅のために一斉に動き出す。

 

 桜もまた、鞄を手に取り、静かな足取りで教室を後にした。

 

(さて、まずは新都の交差点に使い魔を配置して、それから大橋の周辺を回って……)

 

 

 頭の中で、これから巡るべき街の要所を順番にシミュレートしながら、帰宅の途につくべく廊下を歩いていた時のことだった。

 

「――あ、桜」

 

 

 ふと、背後から声をかけられた。

 

 振り返ると、そこには同じクラスの角隈白野が立っていた。手には数枚のプリントの束を持っている。

 

「白野くん。どうかされましたか?」

 

「ごめん、帰るところ引き止めて。実は次の歴史の課題の、俺たちの班の話なんだけど、集まる日程の連絡を忘れててさ。来週の火曜日の放課後でどうかなって、確認したかったんだ」

 

 

 角隈は、申し訳なさそうに少し頭を掻きながら用件を伝えた。

 

「来週の火曜日ですね。はい、わたしは大丈夫ですよ。わざわざ教えに来てくれてありがとうございます」

 

「よかった。それじゃあ、俺は行くよ。……あ、桜も、帰りは気をつけてね」

 

 

 連絡事項を伝え終え、歩き出そうとした桜の背中に、角隈が少しだけ真剣な、心配そうな声を投げかけた。

 

「はい。ありがとうございます」

 

「最近、この辺りもなんか物騒だからさ。……ほら、葛木先生のこともあるし」

 

 

 

 葛木宗一郎。

 

 現代社会と歴史を担当し、機械のように正確に職務をこなすことで知られていた男性教師。

 

 彼が言っているのは、その葛木が、冬休みが明けてから今日に至るまで、一度も学園に出勤していないという事実についてだった。何の前触れもなく姿を消し、連絡もつかないことから、生徒たちの間では「行方不明になったのでは」という不気味な噂が立っているのだ。

 

「……ええ、確かにそうですね。気をつけます」

 

 

 桜は、不穏な噂に怯える女子高生としての「不安そうな顔」を完璧に作り上げ、しおらしく頷いた。

 

(……ええ。本当に、物騒な街です)

 

 

 桜は、心の中で冷ややかに同意する。

 

 葛木宗一郎という男の不在。その事実に対して、彼女の心にさざ波一つ立つことはない。ただの、すでに「処理」された日常の風景の一部でしかない。

 

「それでは、この辺りで失礼します。角隈くんも、あまり遅くならないようにしてくださいね」

 

「うん、また明日」

 

 

 角隈に見送られながら、桜は再び歩みを進めた。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月1日 16時30分 / 場所:冬木市・深山町〜新都の市街地】

 

 マンションに帰宅し、制服から動きやすい黒のタートルネックと暗い色合いのロングスカートに着替えた桜は、再び冬木の街へと足を踏み出していた。

 

 桜は、深山町の閑静な住宅街、新都の繁華街、冬木大橋の周辺、そして円蔵山へと続く山道の入り口など、街の要所を順番に巡り歩いていた。

 

 その足取りは、まるで休日の散歩を楽しむかのように優雅で、周囲の風景に完全に溶け込んでいる。だが、彼女の足元の影の中では、極めて高度で複雑な《虚数魔術》の演算が、息を吸うように自然に行われていた。

 

 

「《虚数展開(イマジナリ・スフィア)》――分離」

 

 

 桜が、誰もいない路地裏や、ビルの屋上などの死角で小さく呟くたび。

 

 彼女の足元の影から、ドロリとした漆黒のタールのようなものが数滴、地面にこぼれ落ちる。

 

 それは、数秒も経たないうちに鳥の形へと姿を変え、パタパタと羽ばたきながら冬木の上空へと飛び立っていった。

 

 

 間桐桜が独自に編み出した特別製の使い魔。

 

 それは、動物の死骸や鉱物を依り代とする通常の使い魔とは、根本的に存在の次元が異なっている。

 

 彼女の使い魔は、実数空間には存在しない『虚数属性』を編み込んで作られた、物理的な質量を持たない鳥である。

 

 肉眼では決して捉えることができず、実数空間の物理法則の枠外に存在しているため、通常の魔術的な探知網に引っかかることも極めて稀であった。

 

 

 戦闘能力は皆無。物理的な干渉力もほとんどない。

 

 しかし、その代わりに『隠密性』と『観測能力』においては、最高峰の魔術礼装すらも凌駕する性能を誇っていた。

 

 

 視覚と聴覚の完璧な共有。微細な魔力濃度の変動の感知。

 

 そして何より恐ろしいのは、この使い魔を媒介として、桜自身が遠隔から魔術を行使するための『術式の起点』にすらなり得るという点であった。

 

(……これで、新都の主要な交差点と、大橋の監視網は完了。あとは、深山町の洋館周辺と、教会の様子を探るだけですね)

 

 

 桜は、ポケットに手を入れたまま、ふわりと冷たい息を吐き出した。

 

 

 使い魔を配置しながら、冬木の街を巡る。

 

 視覚的な異常や、魔術戦が行われた決定的な痕跡は、今のところ見当たらない。

 

 

 だが。

 

(……空気が、重い)

 

 

 桜の肌は、極東の冬の寒さとは質の違う、べっとりとした異質な冷気を感じ取っていた。

 

 街のそこかしこに、高密度の魔力が滞留し、互いに牽制し合っているかのような緊迫感。

 

 見えない糸が張り巡らされ、誰かがその糸に触れる瞬間を、暗闇の中で獣たちが待ち構えている。そんな、ひどく息苦しく、血生臭い気配。

 

 

 間違いなく、何かが起きている。

 

 第五次聖杯戦争は、すでにこの街の裏側で、決定的な産声を上げているのだ。

 

 

 夕日が西の空に沈みかけ、冬木の街を燃えるような茜色に染め上げていく。

 

 路地裏の影が長く伸び、昼と夜の境界線が曖昧に溶け合う逢魔が時。

 

 あらかた使い魔の設置を終え、十分な監視網の構築が完了したことを確認した桜は、小さく安堵の息をついた。

 

(今日のところは、このくらいにしておきましょう。これで、明日からはいつでも観測と迎撃が可能です)

 

 

 成果としては十分すぎる。

 

 

 よし、帰ろう。

 

 夕食の買い出しをして、暖かい部屋で紅茶を飲もう。

 

 桜は、張り詰めていた魔術師としての意識を少しだけ緩め、いつもの「日常を愛する少女」の顔へと戻り、帰路を急いだ。

 

 

 深山町の住宅街を抜ける、長い坂道。

 

 茜色の夕日を背に受けながら、静かな足取りで坂を下っていた、その時だった。

 

 

 交差する十字路の角。

 

 レンガ造りの塀の向こう側から、コツ、コツと、桜の歩調とは違う、凛とした足音が近づいてくる。

 

 魔力的な隠蔽はされていない。ただの、女子高生の足音。

 

 だが、桜の魔術回路が、相手の纏う『極めて質の高いオドの波長』に、ピクリと反応を示した。

 

 

 角を曲がり、互いの姿が視界に収まる。

 

「あら」

 

「…………」

 

 

 夕暮れの冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。

 

 風に揺れる、艶やかな紫の髪。

 

 そして、夕日を受けて燃えるように輝く、黒髪。

 

 

 間桐桜。

 

 遠坂凛。

 

 かつて血を分けた姉妹であり、今やこの冬木の地で対極の運命を背負う二人の魔術師が。

 

 何の前触れもなく、夕暮れの街角で、静かに視線を交差させた。

 

 

 

「こんなところで、奇遇ですね。遠坂先輩」

 

 

 驚いたような素振りを見せながらも、その所作には一片の乱れもない。ふわりと微笑む顔は、どこにでもいる「先輩を慕う礼儀正しい後輩」のそれであり、絵画のように完璧な美しさを保っていた。

 

「……ええ。本当に奇遇ね、間桐さん」

 

 

 対する遠坂凛の返答は、一拍だけ遅れた。

 

 だが、すぐに学園のアイドルとしての「完璧な優等生」の仮面を被り直し、艶やかな黒髪を揺らして微笑みを返す。

 

 

 冬木の冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。

 

 表面上は、偶然街角ですれ違った同じ学園の生徒同士の、ごくありふれた穏やかな挨拶。

 

 だが、その薄皮一枚隔てた内側――二人の魔術師の深層心理においては、すでに目にも止まらぬ速度で、互いの腹の底を探り合う熾烈な思考の刃が交錯し始めていた。

 

 

(……間桐、桜)

 

 

 凛は、口元に柔らかな笑みを張り付けたまま、目の前に立つ少女を頭の先から爪先まで、見開かれた魔術師の眼で冷徹に観察していた。

 

 

 かつて、魔術の道を歩ませるために間桐の家へと養子に出された、実の妹。

 

 だが、その間桐の家はすでに没落した。当主である臓硯は死に、後継者であった雁夜も命を落とし、魔術を継ぐべき血筋は完全に途絶えたはずだった。間桐桜は、魔術の呪縛から解放され、一般の家庭で普通の少女として保護され、育ってきたと、凛はそう信じていた。いや、そうであってほしいと願っていた。

 

(魔力の漏出は、ゼロ。魔術回路が稼働している痕跡も、結界や使い魔を忍ばせているような霊的な気配も、何一つ感じられない。……見た目通りなら、ただの一般人)

 

 

 凛の卓越した魔力感知能力をもってしても、桜からは「魔術師としての匂い」が一切しなかった。

 

 だが、凛の魔術師としての『直感』が、脳髄の奥で警鐘を鳴らし続けている。

 

(おかしい。ただの一般人が、これほどまでの『静寂』を纏えるはずがない)

 

 

 目の前の少女の立ち姿。重心の置き方。呼吸の深さ。

 

 その全てが、あまりにも洗練されすぎているのだ。まるで、無駄なエネルギーを一切消費しないように精密に設計された機械のような、一流の武術家のような、異常なまでの「隙のなさ」。

 

 何より、この第五次聖杯戦争が開幕し、街全体に高密度の魔力が張り巡らされ、空気が血生臭く張り詰めているというのに。目の前の少女は、その異常な空気に全く当てられることなく、ただそこに『在る』ことを完全に確立している。

 

 それは、一般人の無知ゆえの鈍感さではなく、もっと底知れない、圧倒的な自己の確立、『何らかの神秘を隠し持っている』ことの証明ではないのか。

 

 

「……」

 

 

 凛の鋭い観察の視線を浴びながら、桜の内心もまた、極めて冷徹な演算を繰り返していた。

 

(遠坂先輩。やはり、この街を回っていたのですね。彼女の纏う空気……魔術回路は完全にアイドリング状態ですが、いつでも即座に魔術を行使できる『臨戦態勢』のそれです)

 

 今、ここで自ら《虚数魔術》による探知を行えば、確実に目の前の『遠坂家当主』にその波長を悟られる。故に、桜は一切の魔術を使わない。ただの「無力な後輩」という完璧な鏡面に徹し、相手が投げてくる小石を柔らかく受け流すだけだ。

 

「今日は、学校をお休みされていましたね。……どうかされたんですか? どこか、お加減でも悪いのでしょうか」

 

 

 桜は、小首を微かに傾げ、心から相手を気遣うような、少しだけ不安そうな瞳で問いかけた。

 

 

 それは、ごく自然な後輩からの心配の声。

 

 だが、その実態は、聖杯戦争という儀式に身を投じているであろう魔術師に対しての、極めて悪辣で鋭い『探り』であった。

 

(さあ、どう答えますか。体調不良と偽るか、それとも)

 

 

「ああ、ごめんなさいね。心配かけちゃったかしら」

 

 

 凛は、桜の問いかけに対し、ほんの僅かに目を伏せ、困ったような苦笑を作ってみせた。

 

「少し、家の野暮用があってね。急ぎで片付けなきゃいけない親戚のゴタゴタがあって、今日は一日中それに振り回されていたのよ。体調が悪いわけじゃないから、安心して」

 

 

(家の用事、親戚のゴタゴタ。なるほど、聖杯戦争の開幕に伴う儀式の準備と、他陣営への牽制といった所ですかね。)

 

 

 桜は、内心で冷ややかに事実を照合しながら、表面上はパッと顔を明るく輝かせた。

 

「そうだったんですか。よかった、ご病気じゃなくて。遠坂先輩が倒れられたりしたら、学園の男子生徒たちがパニックになってしまいますから」

 

「もう、間桐さんまでそんな大袈裟なことを言うのね。……でも、ありがとう。明日からは普通に登校するわ」

 

 

 二人は、夕暮れの街角でふふっと和やかに笑い合う。

 

 

 だが、凛の眼光は決して緩んでいない。

 

(……この子の反応に、一切の淀みはない。私が『家の用事』と言っても、微かな動揺すら走らなかった。本当に、何も知らない……?)

 

 

 凛は、さらに踏み込むための言葉を紡ぐ。

 

「間桐さんも、気をつけてね。最近、この辺りも物騒みたいだから。暗くなる前に、真っ直ぐお家に帰るのよ?」

 

「はい、ありがとうございます。冬木の夜は、最近とても冷え込みますしね。遠坂先輩も、お気をつけくださいね」

 

 

 

 探り合い。

 

 互いに核心には一切触れないまま、言葉の裏側にある真実を引きずり出そうと、見えない糸を引き合うような極度の緊張感。

 

 しかし、桜の纏う「完璧な日常の仮面」は、遠坂凛という一流の魔術師の眼をもってしても、一切の綻びを見せることはなかった。

 

 

 これ以上立ち話を続けても、互いに得られる情報はない。

 

「それじゃあ、また明日。学校でね」

 

「はい。さようなら、遠坂先輩」

 

 

 桜は深く、丁寧にお辞儀をし、凛の横を通り過ぎていく。

 

 互いの背中が離れ、足音が次第に遠ざかっていく。

 

 茜色の夕暮れの中、二人の少女の邂逅は、表面上は何事もなく静かに幕を閉じた。

 

     

 

 

 

 

 

 

 間桐桜の背中が完全に角を曲がり、視界から見えなくなったことを確認すると。

 

 遠坂凛は、それまで纏っていた優等生の柔らかな仮面を完全に脱ぎ捨て、魔術師としての険しい表情へと戻った。

 

「……はぁっ」

 

 

 たった数分間の立ち話であったにもかかわらず、凛の背中にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。

 

 精神の疲労感が、戦闘を行った後と同等に重い。

 

「……どう思う、アーチャー」

 

 

 凛は、誰に宛てるでもなく、虚空に向かって低く問いかけた。

 

 すると、彼女の背後の空間――霊体化してずっと彼女の周囲を護衛していた赤い外套の騎士が、念話を通じて彼女の脳内に直接声を響かせた。

 

『なんだ。あの小娘を疑っているのか、凛』

 

 

 皮肉げな、しかしどこか慎重さを孕んだ男の声。

 

 昨夜召喚したばかりの、彼女のサーヴァント。

 

「疑うわよ。あの子は間桐桜。没落した間桐家の生き残りよ。魔術の知識を持ったまま一般社会に隠れ潜んでいるのか、それとも本当に魔術とは完全に切り離された生活を送っているのか、現時点では判断がつかない」

 

『どちらもあり得る話だ。魔術家系が崩壊した際、魔術回路を持ったまま放逐される子供は珍しくない。……だが、君は彼女が、今回の儀式のマスターの一人かもしれないと疑っているのだろう?』

 

「……ええ。私の勘が、あの子から目を逸らすなと告げているの」

 

 

 凛は、桜が消えていった方向を鋭い目で見つめながら、自身の腕を強く抱いた。

 

 

 あの子の纏う、あまりにも完璧すぎる静寂。

 

 それが、どうしても凛の心をざわつかせるのだ。

 

「アーチャー。あなたは、あの子から何かを感じ取った? 霊体化していたとはいえ、サーヴァントであるあなたの感知能力なら、魔術師の隠蔽の底にある何かを暴けたんじゃないの?」

 

 

 凛の問いに対する、アーチャーの返答。

 

 それは、数秒の重い沈黙の後に、極めて曖昧な形で紡がれた。

 

『……所感から言えば。私は彼女から、何一つの特異な力も、魔力も、感知することはできなかった。私の存在に目を向けるような素振りも、霊的プレッシャーに対する生理的な反応も、一切見られなかった。どこからどう見ても、ただの無力な一般人だ』

 

「そう……」

 

 

 凛が落胆の息を漏らそうとした、その時。

 

『だが』

 

 

 アーチャーの声が、かつてなく低く、冷徹な響きを帯びた。

 

『確証はない。だが……何かがある。あの少女には』

 

「……何かって、何よ」

 

『あの、異常なまでの【何もない感覚】だ』

 

 

 アーチャーの言葉に、凛の眉がピクリと跳ねる。

 

『……世界に開いた【穴】の縁に立っているかのような、絶対的な虚無。……あの異常なまでの何もなさは、逆に、何かとてつもないモノを隠しているのではないかと、そう直感させるのに十分だ』

 

「……」

 

 

 百戦錬磨の英霊にすら、警戒心を抱かせるほどの「完全なる虚無」。

 

 現時点では、彼女がマスターであるという確証は何一つない。だが、遠坂凛は、間桐桜という存在を、決して「無害な一般人」のリストには入れないことを固く心に誓った。

 

「引き続き、警戒は怠らないで。……もし彼女が敵として立ち塞がるなら、その時は」

 

 

 凛は、その先の言葉を飲み込み、夕暮れの空を見上げた。

 

 冬木の街に、暗く冷たい夜が降りてこようとしていた。

 

     

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月1日 18時00分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 カチャリと鍵を閉め、間桐桜は自室へと帰り着いた。

 

 外の凍てつく寒さとは無縁の、暖房の効いた快適なリビング。コートを脱ぎ、部屋着に着替えながら、彼女の脳内では先ほどまでの夕暮れの対話の再構築が、極めて高速で行われていた。

 

(遠坂先輩との、会話。……ええ、表面上はただの挨拶でしたが、互いに腹の底を探り合う、ひどく疲れる対話でしたね)

 

 

 キッチンに立ち、簡単な夕食の準備を進めながら、桜は思考をまとめる。

 

(彼女との会話から、マスターであると断定できる決定的な証拠は、一つも引き出せませんでした。彼女の隠蔽もまた、一流のもの。サーヴァントの気配も、感知することはできなかった)

 

 

 いや、正確に言えば。

 

 桜が本気で《虚数魔術》の探知網を広げれば、遠坂凛の周囲に潜むサーヴァントの霊体を暴き出すことは十分に可能。

 

 

 だが、桜は意図してそれをしなかった。

 

(わたしの口車で、彼女のボロを引き出そうともしましたが……やはり、手強い。さすがは遠坂の当主と言うべきですね)

 

 

 包丁で野菜を一定のリズムで刻みながら、桜は小さく微笑む。

 

 自身の観察眼や会話の誘導だけでは、凛がマスターであるという確証を得るには至らなかった。

 

 

 だが。

 

 間桐桜の思考とは全く別の次元――彼女の足元の『影の奥底』は、別の答えを弾き出していた。

 

(……彼女との会話中。ほんの一瞬だけ、バーサーカーが、極微小な反応を示した)

 

 

 それは、桜自身ですら危うく見逃しそうになるほどの、本当に些細な影の震え。

 

 外界には一切の魔力も殺気も漏らさない、影の最深部でのみ行われた、システムのアラート。

 

 桜は、そのアラートの意味を、冷徹な論理で紐解いていく。

 

(バーサーカーが、わたしの指示なしに自動で反応する条件は。わたしに対する『干渉』、あるいは『殺意・敵意』が向けられた時のみ。……ですが、あの会話中、遠坂先輩からは一切の敵意も殺意も向けられていませんでした。あれはあくまで、ただの警戒と探りの視線。バーサーカーが、あんな程度の視線にいちいち反応するはずがありません)

 

 

 

 ならば。

 

 遠坂凛の敵意ではないとすれば、魔虚羅は『何』に反応したというのか。

 

(……あの場には、遠坂先輩以外の『何か』が確実に存在していた。そしてその存在は、いつでもわたしに害を及ぼせるほどの圧倒的な暴力と、脅威を秘めていた)

 

 

 桜の手が、ピタリと止まった。

 

(遠坂先輩に付き従い、姿を隠し、いつでもわたしを殺せる位置で、わたしという存在を品定めしていた『脅威』。……バーサーカーのシステムは、その見えない殺刃の気配を、狩るべき対象、適応すべき敵の干渉として、自動的に反応した)

 

 

 そこまで推論を組み立てた時。

 

 間桐桜の脳内で、全てのピースが完璧に噛み合った。

 

「……なるほど。確定、ですかね」

 

 

 桜は、包丁を静かにまな板に置き、窓の外――すっかり日が落ちて、ネオンの光が輝き始めた冬木の夜空を見つめた。

 

 

 自らの魔力探知は一切使わず。

 

 ただ、自らの神が示した「防衛本能の極小の揺らぎ」を逆算することで、彼女は真実に到達した。

 

 遠坂凛は、すでにサーヴァントを召喚し、霊体化させて護衛に付けている。

 

 

 彼女は、この聖杯戦争の正式なマスターである、と。

 

(八割方の確信でしたが、九割九分の確信に変わりました。……やはり、彼女はわたしの日常を脅かす、排除すべき『敵』ですね)

 

 

 桜の瞳に、夜の闇よりも深く、冷たい影が落ちる。

 

 

 肉親の情など、もとより存在しない。

 

 遠坂凛がマスターであると確定した以上、彼女は今後、桜が観測し、適応し、破壊すべきリストの最上位に位置付けられることとなった。

 

「さあ、夕食の準備を急ぎましょうか」

 

 

 桜は、先ほどまでの冷徹な魔術師の顔を魔法のように消し去り、再びエプロン姿の「普通の少女」の笑顔へと戻った。

 

「明日も、頑張りましょうね」

 

 

 彼女は、誰に宛てるでもなく、いつも通りにそう呟いた。

 

 

 明るく照らされたキッチン。温かい夕食の匂い。

 

 だが、その足元で。主の静かなる殺意と狂信を吸い込んだ魔虚羅の影が、まるで来るべき蹂躙の時を待ちわびるように、ゆらりと、不気味な脈動を打っていた。

 

 

 日常と非日常の境界線は、すでに完全に決壊している。

 

 異戒の神将と、狂信の少女の観測は、静かに、そして確実に、聖杯戦争の盤面を侵食し始めていた。

 

 

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