Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第三章 :摩天楼の観測者、充足の夜と、日常に潜む英霊たち】

【記録:2004年2月1日 20時30分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 冬木の街に、凍てつくような夜の静寂が降りてきた。

 

 外の寒気が嘘のように、暖房によって適温に保たれた高層マンションの一室。間桐桜は、夕食の片付けを終え、湯気を立てる熱いバスタブにゆっくりと身体を沈めていた。

 

 

 地下室での召喚の儀式、遠坂凛との夕暮れの探り合い。

 

 魔術師として極度に神経をすり減らすような非日常の出来事が連続した一日であったが、温かいお湯が、強張っていた筋肉と魔術回路の熱を優しく解きほぐしていく。

 

 

(……今日も一日、やるべきことは全てやり切りました)

 

 

 桜は、お湯の中で自身の真っ白な腕をゆっくりと伸ばし、小さく息を吐いた。

 

 街の要所に放った虚数の使い魔たちは、現在も何のエラーも吐き出すことなく、完璧に稼働し続けている。

 

 

 もし仮に、敵の陣営に使い魔の存在を感知され、排除されるようなことがあったとしても、それはそれで「そこに術者がいる」という明確な座標の特定に繋がる。

 

 どちらに転んでも、桜の盤石な観測体制が揺らぐことはない。

 

 

 完璧な戦略。完璧な日常の維持。

 

 風呂から上がり、手早く髪を乾かした桜は、肌触りの良いルームウェアに身を包んでリビングへと向かった。

 

 

 部屋の照明を少し落とし、間接照明の柔らかな光だけを残す。

 

 キッチンでお気に入りの茶葉、アールグレイを淹れ、湯気を立てるティーカップを片手に、ゆったりとした大きなソファーへと深く腰を下ろした。

 

 

 ソファーの背もたれに身体を預け、大きな窓ガラスの向こうに広がる冬木新都の夜景を見つめる。

 

 何万という人々が、明日も明後日も続くはずの「普通の生活」を営んでいる、美しくも退屈な箱庭。

 

 

(……素晴らしいですね。この充足感)

 

 

 桜は、紅茶を一口含み、その芳醇な香りを鼻腔から抜きながら、至福の吐息を漏らした。

 

 ご飯を作り、美味しく食べ、温かいお風呂に入り、あとは温かいベッドで眠るだけ。

 

 

 この、何でもない、ただ静かに流れていく夜の時間が、彼女はたまらなく好きだった。

 

 時計塔での血みどろの権力闘争や、いつ背中を刺されるか分からない魔術師の業から完全に切り離された、少女としての時間。

 

 

 

 自分は一人ではない。

 

 彼女の足元、暖かな光が落とす影の奥底には、世界の理すら喰らい尽くす無敵の神が、主の平穏な鼓動に合わせて静かに微睡んでいる。

 

 

 絶対的な暴力に守られた、絶対的な安寧。

 

(明日もまた、頑張りましょう。……この日常が、ずっとずっと、永遠に続けばいい)

 

 

 桜は目を閉じ、ソファーのクッションに頬を擦り寄せながら、ふにゃりとだらしない笑みを浮かべた。

 

 

 もう、このままベッドへ向かってしまおうか。

 

 それとも、眠りにつくまで魔術の教本でも読もうか、回路の微調整を行おうか。

 

 あるいは、ただこの圧倒的な充実感に身を委ね、ぼんやりと夜景を眺め続けるのも悪くない。

 

 

 

 完璧な静寂。

 

 だが、その静けさがあまりにも心地よすぎたのか、彼女は「少しだけ、何かしらの音が欲しい」という、ささやかな気まぐれを起こした。

 

 テーブルの上にあったリモコンに手を伸ばし、なんとなしに、テレビの電源を入れる。

 

 

 パッと画面が明るくなり、深夜のニュース番組の無機質な音声がリビングに流れ込んだ。

 

『――続いてのニュースです。本日午後、冬木市郊外の住宅街において、複数の住民の遺体が発見されました。警察と消防は、ガス漏れの可能性も視野に入れ、周辺地域の立ち入りを規制し……』

 

 

 そのアナウンサーの淡々とした声を耳にした瞬間。

 

 間桐桜の胸の内を温かく満たしていた圧倒的な充足感が、まるでバスタブの栓を抜かれたかのように、急速に、冷たく沈んでいった。

 

 

 彼女の目は、テレビの画面に映し出された冬木市郊外の映像――ブルーシートが張られ、救急車が何台も連なっている物々しい現場の様子に釘付けになった。

 

(……ガス漏れ? 原因不明の遺体?)

 

 

 根拠はない。物理的な証拠も、魔力的な感知も、今このテレビ越しに行えるはずがない。

 

 だが、桜の研ぎ澄まされた魔術師としての『直感』が、それが単なる事故や病気の類ではないと、鋭く告げていた。

 

(……魔術的な、何か。それも、一般人の生命力を強引に吸い上げるような、粗悪な術式?)

 

 

 もしこれが、聖杯戦争に参加している何者かの仕業だとしたら。

 

 英霊を維持するための魔力供給を、自らの回路で賄うことを放棄し、関係のない一般人の命を啜り取ることで補おうとする、下劣極まりない魔術師の凶行だとしたら。

 

 

 

 ゾワリ、と。

 

 桜の胸の奥底に、ひどく冷たく、どす黒い不快感が募っていく。

 

 彼女が何よりも愛し、満喫していた平和な時間に、泥水をぶちまけられたような不快感。

 

(もちろん、ただの偶然という可能性はあります。魔術とは一切関係のない、本当のガス漏れ事故なら、それでいい)

 

 

 

 だが、もしそうでないのなら。

 

 わたしの『日常』を、勝手な都合で食い荒らすというのなら。

 

 

 

 ピ。

 

 桜は、無表情のままリモコンの電源ボタンを押し、テレビの画面を真っ暗に落とした。

 

 これ以上見ていても、得られる収穫はない。現場の映像から術式を解析することなど不可能だし、不快な雑音で寝る前の気分を害されるのもご免だった。

 

「……寝ましょう」

 

 

 冷めかけた紅茶をシンクに流し、桜は寝室へと向かった。

 

 ベッドの冷たいシーツに潜り込み、目を閉じる。

 

 明日もまた、学校がある。退屈で愛おしい日常が待っている。

 

 

 また明日、頑張ろう。

 

 そんな当たり前の思いと共に、狂信の魔術師は、影の底の神将に抱かれるようにして深い眠りへと落ちていった。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月2日 15時30分 / 場所:冬木市 深山町 穂群原学園】

 

 

 翌日。

 

 学園の風景は、昨日と何一つ変わらぬまま、穏やかに進行していた。

 

 朝の登校時、昇降口付近で遠坂凛とすれ違ったが、互いに「おはようございます」「ええ、おはよう」と、完璧な笑顔で通り過ぎるだけだった。

 

 昨日の夕暮れ時のような、ヒリヒリとする探り合いすらない。互いに「敵」であると確信を抱いたからこそ、表層の日常はどこまでも滑らかに、白々しく保たれていた。

 

 

 特に変わったこともないまま、放課後を迎える。

 

 ホームルームが終わり、桜は帰宅するために教室を出た。

 

 すれ違うクラスメイトや、他学年の生徒たちに柔らかく挨拶を返しながら、廊下を歩いていく。

 

 

「あ」

 

 渡り廊下に差し掛かったあたりで、桜は、一人の男子生徒が床に座り込んでいるのを発見した。

 

 赤みがかった髪。手にはドライバーやレンチなどの工具を握り、廊下の隅に置かれた大型のストーブのパネルを外し、何やら複雑な配線と格闘している。

 

 

 衛宮士郎。

 

 たまに学園で見かける、一つ上の先輩。

 

 いつも誰かから頼まれごとをしていて、嫌な顔一つせずに壊れた備品の修理から掃除まで引き受けている、「人助けが趣味のような人」だと、女子生徒たちの間で噂になっていた。

 

(衛宮、先輩。……確か、弓道部に所属しているんでしたっけ?)

 

 

 桜は、彼の真剣な横顔を少しだけ離れた場所から眺め、ふと興味を惹かれた。

 

 魔術師の血みどろの闘争とは無縁の、ただ純粋に他者のために汗を流す「善人」。

 

 それは、桜がこの冬木で守護すべき『日常』を構成する、美しくも無害なピースの一つに他ならなかった。

 

 

 コツコツと歩み寄り、彼女は少しだけ屈み込むようにして声をかけた。

 

「こんにちは、衛宮先輩」

 

「えっ!?」

 

 

 不意に声をかけられた士郎は、ビクッと肩を震わせ、驚いたように顔を上げた。

 

 見上げた先にいたのは、学園でも一、二を争うと噂される美少女。紫の髪を揺らし、完璧な微笑みを浮かべる間桐桜の姿に、士郎はあからさまに目を丸くして固まった。

 

「あ、えっと……間桐、だったか?」

 

「はい。桜でいいですよ。衛宮先輩」

 

 

 桜がふわりと笑いかけると、士郎は少しだけ頬を掻きながら、照れくさそうに姿勢を正した。

 

 互いに学年も違い、直接言葉を交わすのはこれが初めてに近い。

 

「わたしのこと、ご存知だったんですね」

 

「そりゃあ……学校でも有名人だからな。知らない奴の方が少ないと思うぞ」

 

 

 士郎の言葉は、お世辞でも何でもない純粋な事実だった。

 

 桜自身も、同級生だけでなく上級生から声をかけられたことは一度や二度ではない。だからこそ、こうして顔と名前を一致させてくれていることには何の違和感も抱かなかった。

 

「衛宮先輩は、何をやっているんですか? こんな冷たい廊下で」

 

「ああ、これか。生徒会の備品のストーブなんだけど、少し調子が悪いらしくてさ。一成……生徒会長に、直せないかって相談されたから、ちょっと中を開けて見てたんだ」

 

「生徒会長に……。衛宮先輩は、本当に何でも直してしまうんですね。でも、放課後の貴重な時間に、そんな雑用まで引き受けてしまうなんて、大変じゃないですか?」

 

 

 少しだけ首を傾げて心配そうに尋ねると、士郎は手元のドライバーをくるりと回し、どこまでも真っ直ぐで、濁りのない瞳で笑った。

 

「いや、大変ってことはないよ。自分が好きでやってることだし、誰かの役に立つなら、それでいいんだ。それに、機械いじりは昔から得意だからさ」

 

 

 桜は、彼の言葉の裏に一切の偽りも計算もないことを悟り、内心で静かに微笑んだ。

 

 この学園には、魔術師の泥臭い世界を知らない、真っ白で無害な善人たちが溢れている。

 

 だからこそ、守る価値がある。この退屈で愛おしい日常の舞台(セット)として、私の世界が正しく運営されるため、彼らには明日も明後日も、こうして笑っていてほしい。

 

 

 舞台を作るには配役が必要不可欠なのだから。

 

「そうですか。でも、無理はしないでくださいね。……修理、頑張ってください、衛宮先輩」

 

「ああ、ありがとう。間桐……いや、桜も、気をつけて帰れよ」

 

 

 小さく手を振り、再び昇降口へと向かって歩き出した。

 

 背後から聞こえてくる、士郎がストーブの金属板を叩く規則的な音。

 

 

 それは、桜の愛する日常を象徴する、ひどく平和で心地よいBGMのようだった。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月2日 21時00分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 すっかり夜の帳が下りた冬木の街。

 

 桜は、自室のリビングの暗闇の中で、静かに目を閉じていた。

 

 彼女の意識は、肉体を離れ、街の至る所に配置した『虚数の鳥』たちの視覚と完全にリンクしている。

 

 俯瞰する冬木の夜景。交差点、大橋、公園、教会周辺。

 

 

 今のところ、目立った戦闘の痕跡や、大規模な魔力の衝突は確認されていない。

 

(いえ、正確に言えば……魔力の『乱れ』のようなものは、街のあちこちから感じ取れるのですけれど)

 

 

 それは、極めて巧妙に隠匿され、偽装された魔力の波長。

 

 敵のマスター、サーヴァントも馬鹿ではない。自身の位置座標を安易に特定されるような、無防備な魔力放出を行う者はいない。

 

 

 事実、今日の帰宅途中、桜の使い魔は、空を飛んでいた『他者の使い魔』らしきものを一匹、虚数の影へと飲み込んでいた。

 

(……カラス。一見すると、ただの鳥を用いた簡易的な使い魔でした。ですが、その眼球や脳髄に編み込まれていた術式は、緻密で、情報量も高かった)

 

 

 桜は、影の奥底で現在進行形で行われている『解析』のログを閲覧しながら、冷静に推測を重ねる。

 

 現代の生物を依り代としている点や、術式の構造の複雑さからして、これを仕掛けたのは『現代の魔術師(マスター)』である可能性が高いだろう。

 

(おそらく、わたし以外にもこうして街全体に監視網を敷いている陣営がいる。……飲み込んだ使い魔の解析は、すでに始めていますが、直接攻撃を受けたわけではないので、術者まで辿るには、時間が掛かりそうですね)

 

 

 

 所詮は使い魔一匹分の情報量だ。

 

 相手の魔力波長への『適応』を済ませるには、もっと大量に喰らうか、術者本体からの直接干渉を受ける必要がある。

 

 それに、使い魔を飲み込んだことで、逆にこちらの『未知の干渉』や、使い魔の大まかな位置を相手の魔術師に把握されてしまった可能性もある。

 

(まあ、いいでしょう。向こうがこちらを観測しようと、バーサーカーを突破することは不可能ですから。取りあえずこのカラスは『有効活用』するとして)

 

 

 桜がそう結論付け、次の区画の使い魔へと視覚を切り替えようとした、その時だった。

 

 

 

 ――ビィィィィィンッ!!

 

 

 

 桜の脳髄を、強烈な魔力のスパイクが貫いた。

 

 冬木市郊外、新都から深山町を抜け、さらに奥まった森の近くに配置していた一羽の『虚数の鳥』が、けたたましいアラートを上げていた。

 

(……膨大な、魔力反応!)

 

 

 桜は即座に目を見開き、意識の全てをその一羽の使い魔の視覚へと集束させた。

 

 

 暗闇のリビングで、彼女の視界が、冬木の冷たい夜の森の入り口へと切り替わる。

 

 そこで使い魔が捉えていたのは、桜の冷徹な思考すらも一瞬で停止させるほどの、圧倒的な『神話の激突』の光景であった。

 

「……ッ」

 

 

 桜の喉から、声にならない息が漏れる。

 

 凄まじい衝撃波が木々を薙ぎ倒し、アスファルトを粉砕している。

 

 

 使い魔の視界の先。

 

 凄惨な戦場の中心に立っているのは、大柄で筋骨隆々の、まるで岩山のような威圧感を放つ巨人の英霊。

 

 

 そして、その傍らで無邪気に微笑む、雪の妖精のような白い少女。

 

 (アインツベルンのホムンクルス……! そして、あの巨人が彼女のバーサーカー)

 

 

 さらに視線をずらす。

 

 その巨人に立ち向かい、圧倒的な力で弾き飛ばされながらも、不可視の剣を振るって食い下がっている青銀の騎士――セイバー。

 

 そして、少し離れた位置から、弓を用いて超遠距離の援護射撃を行っている赤い外套の男――アーチャー。

 

 その後方で、歯を食いしばって戦況を見つめている、黒髪の少女。遠坂凛。

 

 

 そこまでは、桜の予測の範疇であった。

 

 遠坂とアインツベルンが激突すること自体は、聖杯戦争の開幕として極めて妥当な展開だ。

 

 

 

 だが。

 

 桜の脳内に、致命的な『エラー』が走ったのは、その次の光景を視認した瞬間であった。

 

 

 アーチャーと遠坂凛から少し離れた位置。

 

 青銀の騎士の背中を、悲痛な顔で見守り、何事かを叫んでいる一人の少年の姿。

 

(え……?)

 

 

 桜の完璧な記憶処理能力が、一瞬だけバグを起こしたかのようにフリーズした。

 

 

 間違いない。

 

 たった数時間前、学園の廊下でストーブを修理し、「自分が好きでやってることだから」と、純粋な善人の顔で笑っていた、あの先輩。

 

 

 衛宮士郎。

 

 彼が、マスターの証である令呪を右手に刻み、あろうことかセイバーのマスターとして、この血みどろの神話の戦場に立っていたのだ。

 

(なぜ……? あの人が、英霊を従えている? 完全に一般人の波長でした。魔力なんて微塵も感じなかった。偽装……? いえ、あの人は魔術師なんかじゃ……)

 

 

 もし彼が、魔術師であることを完璧に隠し通していたのだとすれば、桜の目は完全に節穴だったことになる。

 

 もしくは、ただの一般人が、何かの手違いで巻き込まれ、偶然英霊を呼び出してしまっただけなのか。

 

 そして、なぜ遠坂凛と共闘するような形で、共にバーサーカーと対峙しているのか。

 

 

 無数の疑問符が、桜の脳内を嵐のように駆け巡る。

 

 

 

 だが。

 

「……どうでもいいことです。今は」

 

 

 数秒後、桜は極めて強靭な精神力でそのエラーを脳から弾き出し、強制的に思考を『魔術師のそれ』へと切り替えた。

 

 驚愕は終わった。衛宮士郎がマスターであろうと、遠坂凛と組んでいようと、もはや過去の事実だ。

 

 今、最も優先すべきは、この予想外の事態に狼狽えることではなく、目の前で繰り広げられている『盤面』を冷静に分析すること。

 

 

 

 アインツベルンのバーサーカー。

 

 遠坂凛のアーチャー。

 

 そして、衛宮士郎のセイバー。

 

 

 聖杯戦争の参加者、三陣営。

 

 それが、開幕早々に一つの戦場に集結し、互いの手札を晒し合っている。

 

 これは、これ以上ないほどの『情報の宝庫』であった。

 

 桜は、マンションの安全圏にいながらにして、強敵三人の能力と宝具、そして戦闘スタイルを完璧に観測する機会を得たのだ。

 

(……順調すぎるほどの滑り出しですね)

 

 

 桜の唇に、三日月のような冷酷な笑みが浮かんだ。

 

 戦況は、圧倒的にアインツベルンのバーサーカーが支配している。

 

 セイバーの不可視の剣撃も、アーチャーの放つ規格外の矢も、あの巨人の肉体を完全に破壊するには至っていない。

 

 

 圧倒的な神秘のぶつかり合い。

 

 現代兵器など児戯に等しい、神代の概念が物理法則を蹂躙する、本物の『神話の闘争』。

 

(……凄まじい。これが、英霊同士の戦闘)

 

 

 桜は、使い魔の視界越しにその熱量を感じ取りながら、自身の戦術を猛烈な速度で再計算し始めた。

 

 

 介入すべきか。

 

 静観すべきか。

 

 今の戦力で、あの戦場に魔虚羅を放ち、三陣営を同時に相手取ることは可能か?

 

 

 おそらく、勝てる。だが、未知の宝具の直撃を受けるリスクがある。ならば、今は戦闘能力を理解し、分析することに徹するのが最優先だ。

 

 しかし、状況は常に流動する。もし、あの場で三陣営が共倒れになるような絶好の機会が訪れたら?

 

(……臨機応変に、ケースバイケースで対応するしかありませんね)

 

 

 桜は、ソファーから立ち上がった。

 

 マンションの自室からでは、もし介入の必要が生じた際、物理的な距離が遠すぎる。

 

 

 何か起きたらすぐに対処できるよう、そして万が一の漁夫の利を逃さないよう、自らも現場の射程圏内へと移動する必要があった。

 

 クローゼットから黒のロングコートを取り出し、無造作に羽織る。

 

(介入できる距離でありながら、アーチャーの千里眼や、他陣営の魔力探知から完全に補足されない位置……)

 

 

 桜の脳内マップが、現場周辺の地形を瞬時に弾き出す。

 

 戦場から数キロ離れた、未完成のまま放棄された廃マンションの屋上。

 

 あそこなら、アーチャーからの射線(視角)は周囲のビル群に遮られ、一般人の目につくこともない。《虚数魔術》による気配遮断を併用すれば、英霊であろうと発見することは極めて困難だ。

 

 

 玄関の扉を開け、冬木の冷たい夜風の中へと足を踏み出す。

 

 彼女の足元では、影が主の決意に呼応し、いつでも大いなる法輪を回す準備を整えていた。

 

 

 日常の象徴であったはずの住人が、血みどろの戦場に立っている。

 

 その事実を冷酷に切り捨て、間桐桜は、神話を観測し、そして蹂躙するための『特等席』へと向かって、闇夜の街を駆け出した。

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月2日 21時15分 / 場所:冬木市 新都郊外・廃マンション屋上】

 

 

 冬木の夜気は、まるで刃物のように研ぎ澄まされていた。

 

 新都から数キロメートル離れた郊外。バブル期に建設が計画され、資金繰りの悪化によって骨組みだけが完成したまま放置されている、巨大なコンクリートの墓標のような廃マンション。

 

 

 その最上階、剥き出しの鉄骨と風化したコンクリートが広がる屋上の縁に、間桐桜は音もなく降り立った。

 

 彼女の黒いロングコートの裾が、吹き荒れる冬の強風に煽られて激しく翻る。

 

 だが、その華奢な身体は、物理的な強風に晒されていながらも、ミリ単位のブレすら見せずに直立していた。肉体の重心制御と、極めて高度な魔力による身体強化。

 

 桜は、屋上の縁から数歩下がった位置――下方のストリートからも、遠方の高台からも決して視認できない絶妙な『死角』を選び取り、そこに自らの陣地を構築する。

 

 

「《虚数展開(イマジナリ・スフィア)》――気配遮断、及び魔力隠蔽」

 

 

 薄い唇から紡がれた言霊と共に、彼女の足元に広がる影が、タールのように黒く、そして静かにドーム状へと隆起した。

 

 

 それは、桜の肉体をすっぽりと覆い隠す、虚数の殻。

 

 外界の光は透過させながらも、内側からの音、熱源、そして何より魔力(オド)の波長を、実数空間の法則から完全に切り離す完璧なステルス迷彩である。

 

 遠坂凛に付き従っていたあの『赤い外套のアーチャー』。彼の、超遠距離からの狙撃を警戒しての処置であった。

 

(……この距離、そしてこの虚数の殻があれば、どれほど優れた視力を持つ英霊であろうと、わたしを『風景の欠落』として認識することすら不可能です)

 

 

 桜は、安全圏を確保したことを冷徹に確認すると、再び意識の深層を、戦場の上空を旋回させている『虚数の鳥』へとダイブさせた。

 

 視界が、一瞬にして数キロ先の戦場――深山町の郊外、切り立った崖に面した坂道へと切り替わる。

 

 

 先ほどよりも、戦況はさらに激しさを増していた。

 

 凄まじい衝撃波が、使い魔の視界をビリビリと揺らし、鼓膜を持たないはずの影の鳥にすら、空間の『軋み』を錯覚させる。

 

(……凄まじい。これが、本物の神代の闘争)

 

 

 マンションの自室で見ていた時よりも、意識を深く共有している分、その圧倒的な熱量と質量が肌を刺すように伝わってくる。

 

 

 戦場の中心で暴れ狂う、アインツベルンの巨漢――バーサーカー。

 

 その体躯は、ただ大きいというだけではない。隆起した筋肉の一繊維、一繊維に至るまでが、膨大な魔力によって圧縮された『神秘の結晶』であった。

 

 彼が黒い岩剣のような無骨な武器を振り回すたびに、アスファルトは爆発したように吹き飛び、周囲の木々は根本からへし折られて宙を舞う。

 

(あの膂力、あの速度……。近代の兵器を何十発と撃ち込んでも、あの肉体には傷一つ付かないでしょうね。それどころか、並の魔術師の攻撃など、彼の防壁を突破できずに霧散してしまう)

 

 

 桜の脳内データベースが、猛烈な速度で巨人の能力を数値化し、分析していく。

 

 その怪物に真っ向から立ち向かっているのが、衛宮士郎のサーヴァントである青銀の騎士――セイバーだ。

 

 彼女の振るう剣は、不可視の風に覆われており、その刀身の長さを正確に測ることはできない。だが、彼女が踏み込み、巨人の岩剣と刃を交えるたびに発生する光の火花は、彼女が放つ一撃もまた、純然たる『神話の具現』であることを証明していた。

 

 

 ガァンッ!! という、鋼と岩が衝突する絶大なる音。

 

 セイバーの膂力は、見た目の華奢さからは想像もつかないほど強大だ。魔力放出によって自身の筋力を爆発的に引き上げているのだろう。だが、それでもなお、アインツベルンの巨人の暴力的な質量には一歩及ばず、剣を打ち合うたびに後方へと弾き飛ばされ、苦戦を強いられている。

 

(セイバーの剣技は極めて洗練されている。ですが、基礎となるステータスの差が歴然ですね。あのまま正面から打ち合いを続ければ、いずれセイバーの魔力が尽きるか、防御を破られて圧殺されるのは火を見るよりも明らかです)

 

 

 冷酷な観測者としての桜の眼は、戦況の推移を正確に読み解いていた。

 

 そして、そのセイバーの不利を覆すべく、後方から絶え間なく援護の矢を放っているのが、遠坂凛のアーチャーである。

 

 

 

 ヒュッ、ドガァァァァンッ!!

 

 

 遥か上空から、文字通り『隕石』のような速度と威力を持った矢が、巨人の死角を正確に貫く。

 

 

 しかし。

 

(……効いていない。いえ、ダメージは入っているはずなのに、あの巨人は痛覚が麻痺しているのか、それとも)

 

 

 

 桜の目が、使い魔の視界越しに限界まで細められた。

 

 アーチャーの放つ致命的な狙撃をその身に受けても、巨人の動きは一瞬たりとも鈍らない。何事もなかったかのようにセイバーへの猛攻を再開しているのだ。

 

(あれは……『攻撃を無効化する概念』を肉体に宿している。それも、半端な神秘では突破できないレベルの強固な法則)

 

 

 桜の足元で、彼女の思考に共鳴した魔虚羅の影が、ズクン……と重く脈打った。

 

 それは、同類――あるいは似て非なる性質を持つ『不死性』に対する、純粋な反応。

 

 魔虚羅の『適応』は、事象を解析し、無効化し、変質させるプロセスである。対して、あの巨人が持つ不死性は、神の呪いか祝福による『概念的な不壊』の法則に近い。

 

 

 どちらが優れているかは別として、あの巨人が、生半可な手段では決して殺しきれない絶望的な相手であることは間違いない。

 

「……衛宮先輩」

 

 

 桜は、その絶望的な神話の衝突のすぐ傍らで、歯を食いしばって立ち尽くしている少年の姿に視線を移した。

 

 先ほど、彼がマスターであるという事実に直面した際の驚愕は、すでに桜の心の中には存在しない。

 

 

 今あるのは、ひどく冷たく、残酷なまでの『評価』だけであった。

 

(彼から、セイバーへの魔力供給のパスは……繋がってはいますが、極めて細く、そして不安定。ほとんど機能していないと言っていいレベルですね)

 

 

 本来、サーヴァントというものは、マスターからの莫大な魔力供給を受けて初めて、その真価を発揮する。

 

 だが、衛宮士郎の魔術回路は、おそらく素人同然。セイバーという最高峰の英霊を現界させておきながら、彼女に十分な魔力を送ることができず、結果としてセイバーのステータスを大幅に制限してしまっているのだ。

 

(マスターとしては、三流以下の存在。いえ、魔術師としてすら成立していない。彼がなぜ令呪を持っていたのかは分かりませんが、あの場にいること自体が、セイバーにとって最大の足枷になっています)

 

 

 桜の冷静な分析は続く。

 

(わたしが介入して、彼を助けるべきでしょうか?)

 

 

 桜の脳裏に、数秒だけその選択肢が浮かび上がった。

 

 この数キロ離れた屋上から、彼らの背後に影を広げ、虚数の世界へと引き摺り込み、安全に逃がすこともできる。

 

 もしそうすれば、衛宮士郎という『善良な先輩』の命を救うことはできるだろう。

 

 

 

 だが。

 

「……いいえ、あり得ませんね」

 

 桜の口からこぼれたのは、北極の氷よりも冷徹な、完全なる『拒絶』の声であった。

 

 彼を助けるために介入するということは、桜自身の情報――間桐桜がマスターであるという事実を、アインツベルンと遠坂凛、そして三基の英霊に対して完全に暴露することと同義である。

 

 それは、桜が構築した「受け身の姿勢で情報を集め、完全に適応した後に蹂躙する」という絶対の戦理から、真っ向から逸脱する愚行に他ならない。

 

(彼は、自らあの戦場に立つことを選んだ。令呪を刻まれ、英霊と共に戦うことを受け入れた。ならば、彼はもう『わたしの世界』の住人ではない。……わたしの平穏を脅かす、聖杯戦争の歯車の一つに過ぎない)

 

 

 桜の瞳から、人間としての情や躊躇いが完全に抜け落ちた。

 

 衛宮士郎がここで死ぬのなら、それは彼の魔術師としての力不足が招いた自己責任だ。

 

 可哀想だとは思う。学校で親切にしてくれた優しい先輩が、あのような肉塊に潰されて死ぬのは、少なからず胸が痛む。

 

 

 だが、その痛みを理由に、自らの神の勝利を危険に晒すような真似は、断じて許されない。

 

 自らの日常を守るためなら、かつての日常のピースであった彼を切り捨てることすら、桜にとっては「当然の損益計算」の範疇であった。  

 

彼女は、完全に感情を排除した観測機械となり、戦場の終局を見据えた。

 

 

 圧倒的な質量と暴力で押し潰そうとするアインツベルンの巨人。しかし、青銀の騎士――セイバーは、ただ蹂躙されるだけの存在ではなかった。

 

 ステータスにおける絶望的なまでの劣勢を、彼女は神域に達したきめ細やかな剣技と、研ぎ澄まされた直感で凌駕していく。巨人の岩剣を紙一重で躱し、あるいはその威力を殺して受け流し、巨人の猛攻の隙間を縫うように着実に懐へと踏み込んでいく。

 

 

 

 そして。

 

 巨人が大上段から岩剣を振り下ろした、その最大の隙を突いて。

 

 セイバーの剣を覆っていた「不可視の風」が、爆発的な突風となって四方へと解き放たれた。

 

 

(風の結界が、解かれた……?)

 

 

 使い魔越しに観測していた桜の目が、限界まで見開かれた。

 

 風の封印から解き放たれた刀身。それは、冬木の闇夜を真昼のように照らし出す、眩いばかりの『黄金の輝き』であった。

 

(……何という、星の息吹。あれはただの魔剣の類ではない。極限まで高められた神秘の到達点――神造兵装!)

 

 

 桜の魔術回路が、その桁違いの神気と魔力密度に震え上がる。

 

 黄金の光を帯びた聖剣が、下から上へと跳ね上がるような絶大なる斬撃となって、アインツベルンの巨人の分厚い鋼の如き肉体を深く、完全に貫き通した。

 

 

 肉を断ち切り、骨を砕き、巨人の内側から黄金の魔力光が爆発する。

 

 間違いなく、致命傷。いかなる英霊であろうと、星の光を宿したこの一撃を受ければ即座に霊核を破壊され、消滅を免れない。

 

 

 

 だが。

 

 アインツベルンの怪物は、その巨大な胸を黄金の剣に貫かれた状態のまま、凄まじい咆哮を上げ、死に絶えるどころか眼前のセイバーごと岩剣で叩き潰そうと凶悪に身をよじったのだ。

 

(……致命傷を受けてなお、動くというの!?)

 

 

 巨人の執念の反撃。渾身の一撃を放ち、無防備な姿勢となっているセイバーには、その巨岩の如き一振りから逃れる術がない。

 

 

 

 しかし、その巨人の意識と殺意が完全にセイバーへと向き、最も無防備な死角を晒した刹那。

 

 

 ダメ押しとばかりに、戦場の空気が『歪んだ』。

 

『――投影、開始(トレース、オン)』

 

 

 使い魔の聴覚が、戦場から遥か遠く離れたビルの屋上――超遠距離から弓を構えるアーチャーの、低く重い詠唱を拾い上げた。

 

 同時に、桜の魔術回路が、先ほどの黄金の剣に勝るとも劣らない『異常な魔力膨張』を感知し、総毛立った。

 

(……何ですか、あの魔力の密度は!?)

 

 

 桜は、思わず屋上の縁から身を乗り出しそうになり、慌てて虚数の殻の出力を引き上げた。

 

 

 遠く離れたアーチャーの周囲の空間が、極度の魔力圧縮によって陽炎のように歪んでいる。

 

 彼の手に握られた弓。そこに番えられたのは、単なる矢ではない。

 

 それは、見るからに禍々しく、そして神々しい光を放つ『ねじれた剣』。

 

 

 英霊の象徴であり、切り札である宝具。それを矢として変形させ、さらに自身の魔力を限界まで注ぎ込んで『崩壊』させることで、一撃限りの絶大な破壊力を生み出すという、絶技――『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』。

 

(あれは……ダメです。現代魔術の尺度で測っていい代物じゃない。純粋な神秘の塊、極大の魔力が極限まで圧縮された、疑似的な核弾頭……!)

 

 

 桜の脳内に、かつてないほどの激しい警告のアラートを鳴らし始めた。

 

 今の魔虚羅の耐性は、あくまで現代の魔術を起点として構築されたもの。あのような、神話の概念そのものを暴走・爆発させるような一撃を、仮に『無防備な状態での初見』で真っ向から受けた場合。魔虚羅の存在ごと完全に消滅させられてしまうリスクがある。

 

「……ッ」

 

 

 桜は、額に冷や汗を滲ませながら、瞬きすら忘れてその光景を網膜に焼き付けようとした。

 

 

 

 それは、もはや矢というよりは、夜空を切り裂いて地上へと降り注ぐ、一筋の『流星』であった。

 

 

 凄まじい閃光。

 

 そして。

 

 

 ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!!

 

 

 

 数キロ離れた桜の立つ廃マンションの屋上にすら、暴風のような衝撃波と熱風が遅れて到達した。

 

 虚数の殻が激しく軋み、桜の紫の髪がコートのフードの下で乱舞する。

 

 使い魔の視界が、圧倒的な光と爆炎によって真っ白に染まり、数秒間、完全に機能不全に陥った。

 

(……情報量が、多すぎる。これが、神造兵装……そして、それに匹敵する宝具の直撃)

 

 

 桜は、使い魔とのリンクを必死に維持しながら、影の底の魔虚羅に向けて、今観測したばかりの莫大な『熱量』『魔力波長』『空間の歪曲率』のデータを、滝のように流し込み続けた。

 

 直接喰らったわけではない。だが、これほど間近で観測し、その威力の余波を使い魔越しに正確にデータ化できたことは、魔虚羅の『神域への適応』のための、かけがえのない第一歩となる。

 

 

 やがて、白い閃光が収まり、もうもうと立ち込める土煙の向こう側が、再び使い魔の視界に映し出された。

 

 戦場となっていた墓地や坂道は、まるでクレーターのように巨大なすり鉢状に抉り取られ、周囲は火の海と化している。

 

 並の英霊であれば、消滅は免れないほどの圧倒的な破壊。

 

 

 

 だが。

 

 その土煙の中心に、アインツベルンの巨人は、未だに立っていた。

 

『……私のバーサーカーは、最強なのよ!』

 

 

 使い魔が、上空に浮かぶ白銀の少女――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの、無邪気で残酷な声を拾う。

 

 巨人の肉体は、アーチャーの直撃を受けた右半身が大きく欠損し、黒焦げになっていた。だが、それほどの致命傷を負いながらも、彼の肉体からは信じられないほどの速度で蒸気が噴き出し、失われた筋肉が、骨が、文字通り『時間を巻き戻すように』再生していく。

 

(……自己蘇生。ただの治癒魔術ではなく、世界からの干渉を弾き返すような、概念的な復活)

 

 

 戦慄と共にその光景を分析した。

 

 あの巨人は、宝具の直撃を受けて一度は死んだのだ。だが、その死という結果を無効化し、さらに蘇生と同時に、その攻撃に対する耐性すらも獲得しようとしている。

 

 それは、桜が飼う魔虚羅の『適応』システムと、非常に似通った性質を持つ能力であった。

 

(ですが……違う。バーサーカー、あなたが持つ無限の適応と、あの巨人の不死性は、似て非なるものです)

 

 

 桜は、自身の足元で脈打つ影に、そっと心の中で語りかけた。

 

 あの巨人の蘇生には、おそらく『回数制限(ストック)』がある。無尽蔵の魔力を感じるが、決して無限ではない。世界の法則の枠内に収まる、有限の奇跡。

 

 対して、魔虚羅の適応には、限界など存在しない。一度受けた事象を解析し、無効化し、変質させ、最後には相手の法則そのものを喰らい尽くす、無窮の進化。

 

(……ええ。やっぱり、あなたが最強です。どれほど神代の神秘が強大であろうと、最後に勝つのは、絶対にあなた)

 

 

 アーチャーの圧倒的な宝具。アインツベルンの巨人の不条理な不死性。

 

 それらを目の当たりにしてなお、間桐桜の胸の中にある『神への絶対的な狂信』は、微塵も揺らぐことはなかった。

 

 むしろ、この強力な敵のデータを手に入れ、魔虚羅の適応の糧とできたことへの、ドロリとした歓喜すら湧き上がってきている。

 

『……今日はこのくらいにしてあげるわ、リン。お兄ちゃんも、またね』

 

 

 イリヤスフィールの気まぐれな言葉と共に、アインツベルンの巨人はゆっくりと後退し、闇の中へと姿を消していった。

 

 戦場に残されたのは、疲労困憊のセイバーと、満身創痍の衛宮士郎、そして緊張から解放されて座り込む遠坂凛。

 

「……終わりましたね」

 

 

 冬の冷たい夜風が、再び彼女の紫の髪を揺らす。

 

 初戦から、これ以上の情報収集はないというほどの大きな収穫であった。

 

 三陣営は互いに手札を晒し、疲弊し、そして生き残った。桜にとっては、彼らがさらに争い、傷つき、適応のためのデータを撒き散らしてくれるのが一番の望みである。

 

「さあ、帰りましょう。明日の学校に遅れては大変ですから」

 

 

 冷酷な観測者は、再び日常の少女の顔へと戻り、踵を返した。

 

 

 

 だが。

 

 数歩歩み出したところで、彼女の足がピタリと止まる。

 

 吹き荒れる冬の夜風の中、桜は振り返ることなく、ただじっと足元の影を見下ろしていた。

 

 その横顔から「日常の少女」の気配がスゥッと抜け落ちていく。何かを天秤にかけ、幾重もの可能性を猛烈な速度で演算しているような、意味深で、底知れぬ深淵を感じさせる沈黙。

 

 

 数秒か、あるいは数十秒か。

 

 深い思考の海から浮上した彼女の瞳には、先程までの「静観」の意思とは全く異なる、鋭く凍てついた決意が宿っていた。

 

「……いえ。やはり、少しだけ予定を変更しましょう」

 

 

 桜はゆっくりと振り返り、再び遥か彼方――イリヤスフィールたちが去り、満身創痍のセイバーと衛宮士郎、そして遠坂凛たちが残された戦跡へと視線を向けた。

 

 

 決断。

 

 傍観者からの脱却。そして、この狂った盤面への致命的な『介入』。

 

「行きなさい、バーサーカー。あの戦跡へ」

 

 

 桜の静かな、しかし絶対的な命令に呼応し、廃マンションの屋上に落ちていた彼女の影が、飢えた獣のように大きく波打った。

 

 彼女の細い指先が、闇夜の空気を撫でるように滑らかに動き、極めて高度で複雑な《虚数魔術》の術式を編み上げ始める。

 

 

 静かなる観測の時間は終わった。

 

 神代の神秘が荒れ狂った直後の傷だらけの戦場へと、あらゆる事象を喰らい尽くす異戒の神将を投下する。

 

 冬木の凍てつく夜空の下、少女の影の奥底で、重々しい『法輪』の回転音が静かに響き渡ろうとしていた――。

 

 

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