Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く 作:りー037
【記録:2004年2月2日 21時29分 / 場所:冬木市 新都郊外・廃マンション屋上】
時間を、僅かに数分だけ巻き戻す。
冬木の夜を支配する凍てつくような強風が、完成することなく打ち捨てられた摩天楼の屋上を、悲鳴のような音を立てて吹き抜けている。
街の喧騒から完全に切り離されたその高所。コンクリートの床に広がる、光すらも歪んで吸い込まれるような絶対的な暗黒――《虚数展開(イマジナリ・スフィア)》によって構築された不可視の殻の内側で、間桐桜はただ一人、甘い吐息を漏らしていた。
「……ああ……。ええ、素晴らしい……本当に、素晴らしいです……」
彼女の視界は、自身の肉体の眼球が捉える寂れた屋上の風景を完全にシャットアウトし、数キロ離れた深山町の森の上空を旋回する『使い魔』の網膜と完全にリンクしていた。
脳内に直接流れ込んでくる、神話の激突。
圧倒的な質量と、それを上回る存在の異常性。間桐桜という少女の狂信の対象であり、絶対の守護者である白き巨人――魔虚羅が、過去の英雄たちを相手に、その理不尽な暴威を振るっている光景。
視界の先で、魔虚羅がセイバーの不可視の剣を左腕で受け止める。
血が舞う。だが、その直後に放たれた魔虚羅の蹴りが、青銀の騎士を塵芥のように吹き飛ばす。
遥か遠方からのアーチャーの狙撃――魔力を帯びた矢の雨あられを、圧倒的な筋力による剣の風圧だけで粉砕し、鉄の残骸へと変える。
ただ暴力的に強いだけではない。
桜の心を何よりも昂らせるのは、その白き怪物が、戦闘の最中においてすら『成長』し、『適応』していくという、生命の究極の到達点とも言える完璧なシステムそのものであった。
(見ていますか、かつての英雄たち。これが、現代の魔術の果て……いえ、あらゆる神秘を嘲笑い、置き去りにしたその先にある『神理』の片鱗です。あなたたちのちっぽけな誇りも、伝説も、バーサーカーの前では、ただ解析され、解体されるための餌(データ)に過ぎないのですよ)
桜は、コートの中で自身の肩を抱きしめ、身震いした。
そして。
使い魔の視界越しに、あの『音』が響く。
――ガコンッ。
怪物の頭上に浮かぶ黄金の法輪が、重々しく一回転した。
その瞬間、魔虚羅の肉体に刻まれていた矢傷も、剣の切り傷も、流れた血の痕跡すらもが、世界の法則そのものを塗り替えるようにして『なかったこと』へと更新される。
その神の奇跡を見た瞬間、桜の脳髄に、麻薬のような強烈な快感が弾けた。
眼下で驚愕に顔を歪める遠坂凛。絶望に立ち尽くす衛宮士郎。戦慄に瞳を揺らすセイバー。
今、自身の足元の影から這い出た怪物によって、絶対的な蹂躙を受けようとしている。
「ふふ……、あははっ……美しい、とても素晴らしいお姿です、バーサーカー……!」
彼女は、狂気に満ちた笑い声を、虚数の殻の中で響かせ、感情を昂らせる。
魔虚羅に傷をつける、あのサーヴァントへの殺意と共に。
魔虚羅がその存在を世界に刻み込み、あらゆる法則を喰らい尽くしていくその瞬間を、桜はまるで美しい芸術作品を鑑賞しているかのような、初恋の人の晴れ舞台を見守る乙女のような、甘く熱い感情で満たしていた。
順調だ。極めて順調である。
疲弊したセイバーの剣を喰らい、アーチャーの矢を喰らい、魔虚羅の適応のデータベースには、かつてないほどの濃密な「神代の神秘」のソースコードが蓄積され始めている。
今のところ、致命的な問題は何一つ起きていない。
相手に令呪を使用する隙を与える前に、あのセイバーの首を刎ね飛ばし、適応のデータを持ち帰って撤退する。それこそが、この急襲の完璧な終幕。
(さあ、ここから。)
桜が、使い魔越しに魔虚羅への『執行』の命令を下そうとした、まさにその時だった。
「――何やってんだ、嬢ちゃん?」
背後から。
男の、ひどく野蛮で、それでいてひどく軽薄な声が、凍てつく夜風に混じって桜の鼓膜を打った。
「――――ッ!?」
その瞬間。
間桐桜の心臓が、文字通り氷の塊に変わったかのように、激しく収縮した。
全身の血液が沸騰し、直後に絶対零度へと冷え込むような、極限の戦慄。魔術回路が、異常事態を告げるアラートで悲鳴を上げる。
(……え? 誰……?)
思考が、一瞬だけ完全にフリーズする。
あり得ない。あり得ないのだ。
今、彼女が展開しているのは《虚数魔術》による絶対的な隠蔽結界。光も、音も、魔力の波長すらも実数空間から完全に切り離し、外部からのあらゆる探知をシャットアウトする完璧な殻である。
遠く離れたアーチャーの千里眼ですら、彼女を「風景の欠落」としてしか認識できないはずなのだ。
それを見破り、あろうことか、声が届くほどの至近距離まで接近を許した?
街の要所に張り巡らせていた警戒網(ネットワーク)には、何一つの反応もなかった。魔力感知にも、物理的な足音すらも、一切引っかからなかった。
そして何より、桜の背中越しに突き刺さってくる、この圧倒的で暴力的な『重圧(プレッシャー)』。
むせ返るような血と鉄の匂い。獣のような、むき出しの闘気。
これは、決して現代の魔術師の放つものではない。裏社会を生きる殺し屋の類でもない。
人間の枠組みを遥かに逸脱した、圧倒的な神秘の凝集体。
(サーヴァント……!! しかも、あの戦場の三騎のどれでもない、別の英霊……!)
桜は、驚愕と恐怖に染まりそうになる自身の表情を、強靭な精神力で即座に押さえ込んだ。
脳が千切れるほどの速度で、思考を回転させる。
どうやって見破られた?
魔術的な看破の宝具か? それとも、森羅万象を読み取る英霊としての超常的な『直感』か?
あるいは、神代の術式によって自身の気配を完全に遮断し、桜の結界の僅かな綻び、魔力パスの接続点を匂いのように嗅ぎ取って接近してきたのか。
(本当に……嫌になりますね。この超常的な亡霊たちは、わたしの魔術論理を、いとも容易く嘲笑って踏み躙ってくる)
桜は、奥歯を噛み締めた。
彼女の絶対の安全圏は、完全に崩壊した。
魔虚羅は現在、数キロ離れた深山町の戦場にいる。使い魔を通じた虚数ゲートの構築には、極めて高度な演算が必要であり、今すぐこの屋上に新たなゲートを開いて魔虚羅を呼び戻すには、どうしても「数秒」のタイムラグが生じてしまう。
その数秒の間に、背後に立つ英霊の槍が、桜の心臓を貫く方が圧倒的に早い。
死、という絶対的な結末が、彼女の喉元に冷たい刃を突き立てていた。
その時。
――ズゥゥゥゥン……ッ。
桜の足元。コンクリートの床に広がる自身の『影』が。
唐突に、元の恐ろしいほどの『重み』と『密度』を取り戻した。
「……っ」
桜の瞳に、再び強烈な光が宿る。
それは、桜が意図して行った空間転移の術式ではない。
間桐桜という主の絶対的な防衛をプログラミングされた白き怪物が、主の背後に現れた『致死の脅威』を影の接続パスを通じて本能で感知し、目前の戦闘という命令を完全に放棄して、強制的に影の中へと『緊急帰還』を果たしたのだ。
数キロ先の戦場で、トドメを刺す寸前だった魔虚羅が、突如として姿を消した理由。
それは、戦略でも気まぐれでもなく、間桐桜の命を護るという最上位の優先事項が実行された結果であった。
影の中に、神が戻った。
その事実を悟った瞬間、間桐桜の心を満たしていた恐怖も、戦慄も、焦燥も、全てが嘘のように霧散し、元通り以上の『絶対的な傲慢』へと塗り替わる。
バサッ、と。
虚数の殻が解け、夜風が再び彼女の髪を揺らす。
桜は、ゆっくりと、一切の動揺を感じさせない優雅な動作で、背後へと振り返った。
そこには。
青い全身タイツのような軽装に身を包んだ、野獣のような瞳を持つ男が立っていた。
後ろに撫で付けられた青い髪。首元や腕に覗く、神代の戦士の証。
そして何より、その右手に無造作に握られた、刃の先から柄の末端に至るまでが深紅に染まりきった、禍々しい呪いの槍。
「へえ。驚いて尻餅でもつくかと思ったが、随分と肝の据わった嬢ちゃんだな」
男――ランサーのサーヴァントは、肩に深紅の槍を担ぎながら、獰猛な笑みを浮かべて桜を見下ろした。
その声には、明らかな殺意が混じっている。だが、桜は微塵も怯むことなく、むしろ見下すような冷ややかな微笑みを浮かべて、堂々とその野獣の瞳を見返した。
「こんばんは。随分と無作法なご登場ですね」
桜の口から紡がれたのは、令嬢のような気品と、氷のような冷酷さを併せ持った挨拶であった。
「わたしの隠蔽を破るだなんて、大した鼻と勘をお持ちのようです。……その野蛮な出で立ちと、血の匂い。ランサーのサーヴァント、でしょうか?」
「ああ、ご名答だ。こんな寒空の下で、一人寂しく星空観察たぁ感心しねえな。……派手にやってる『怪物』の糸を引いてるのが、まさかこんな優等生面した嬢ちゃんだとは、俺のマスターも思わなかっただろうぜ」
(……なるほど。単なる偶然の接触(エンカウント)ではない、というわけですか)
桜の氷のように冷徹な脳髄が、ランサーの言葉の裏にある「事実」を瞬時に読み解いていく。
(わたしの使い魔の監視網に一切引っかからず、ピンポイントでこの隠蔽の綻びを嗅ぎ当てた。……ただの斥候ではありませんね。非常に厄介で、優秀な猟犬です)
ランサーの瞳が、剣呑に細められる。
互いの距離は、わずか数歩。
英霊の瞬発力をもってすれば、瞬きをする間に心臓を貫ける距離。
だが、桜は一歩も引かない。彼女の足元に広がる深い影が、主の意思に呼応するように、ドクン、ドクンと重々しく脈打ち始めている。
「感心しませんね。他人の裏庭を覗き見するなんて、猟犬の躾がなっていないマスターのようです」
「口の減らねえ嬢ちゃんだ。……ま、そういう威勢のいい女は嫌いじゃねえよ。だがな」
ランサーの雰囲気が、一瞬にして『殺戮のそれ』へと切り替わる。深紅の槍の切っ先が、ゆっくりと桜の胸元へと向けられた。
冬木の夜を支配する、刃のように冷たい強風が屋上を吹き荒れている。
下界の喧騒から完全に切り離された、空に最も近いこの殺戮の舞台で、極限の緊張感が張り詰めていた。
「聖杯戦争に参加してて、背後を取られた。それがどういう意味か、頭のいいアンタなら分かるだろ?」
青き猟犬――ランサーのサーヴァントが放った言葉は、紛れもない『絶対的な死の宣告』であった。
彼の手に握られた深紅の槍の切っ先が、ゆっくりと、しかし一切のブレもなく、間桐桜の心臓の座標へとピタリと狙いを定めている。
彼我の距離は、わずか数歩。
英霊の瞬発力と、その手にある呪われた魔槍の神速をもってすれば、桜が瞬きを一つ終えるよりも早く、彼女の胸には風穴が空き、命の灯火は無慈悲に吹き消されるだろう。
ランサーの全身から立ち上る、むせ返るような血と鉄の匂い。数多の戦場を駆け抜け、無数の命を刈り取ってきた本物の英霊だけが放つ、濃密で暴力的な殺意。並の魔術師であれば、その圧倒的な重圧に当てられただけで膝から崩れ落ち、恐怖に顔を歪めて命乞いをするか、あるいは発狂して自滅の呪文を唱え始めるに違いない。
だが
その必殺の間合いに立たされ、致死の刃を突きつけられているというのに。
振り返った間桐桜の顔に浮かんでいたのは、恐怖でも、焦燥でも、絶望でもなかった。
「…………ふふっ」
三日月のように弧を描く、薄い唇。
それは、さらにもう一段階、深く、暗く、底知れぬ狂気的なものへと歪んでいった。
自身の足元、深淵の影の底で、絶対の守護者である白き巨人が、主の危機に際して今まさに蠢いている。その確かな『重み』が、彼女の魂に無敵の万能感をもたらす。
その狂信に裏打ちされた笑みが、ランサーの野獣のような瞳に微かな違和感を抱かせた。
(……なんだ、この女。虚勢じゃねえ。本気で自分が死ぬなんて、微塵も思ってやがらねえ)
ランサーが内心で舌打ちをし、さらに闘争心と殺意を限界まで引き上げ、いつ必殺の踏み込みを行おうかと筋肉を軋ませた――まさにその瞬間であった。
「……ふぁ」
ふっ、と。
桜の全身から、先ほどまで漂っていた「氷のような冷酷さ」と「底知れぬ狂気」が、まるで幻であったかのように、綺麗さっぱりと抜け落ちた。
代わりに彼女の顔に浮かんだのは、どこか間の抜けたような、毒の気配すら感じさせない、ただの『平凡な少女』の表情であった。
「ええっと……。ランサーさん、でしたっけ?」
首をこてんと傾げ、桜はひどく間のびした、場違いなほどに穏やかな声で口を開いた。
その態度があまりにも自然で、あまりにもこの血生臭い屋上の空気にそぐわなかったため、ランサーの切っ先がごく僅かに、ミリ単位で鈍る。
「あのですね、ランサーさん。わたしから一つ、ご提案があるのですが」
「……あァ? 提案だァ?」
「はい。今回は、互いに『見なかったこと』にしませんか?」
沈黙。
冬の夜風の音だけが、二人の間を虚しく通り抜けていく。
数秒の空白の後、ランサーの喉の奥から、低く、しかし明確な嘲笑が漏れ出した。
「ハッ……。ははははっ! おいおい嬢ちゃん。それはつまり、俺にテメェを見逃して背中を向けて帰れって言ってるのか? 聖杯戦争の真っ只中、敵のマスターの背後を完全に取ったっていう、この極上の盤面でか?」
ランサーは、心底馬鹿げた提案をする目の前の魔術師を、鼻で笑い飛ばす。
狂気から一転しての、命乞いともつかないふざけた交渉。恐怖で頭のネジでも飛んだのかと疑いたくなるほどの、滑稽なまでの緩やかさ。
だが、桜はそのランサーの嘲笑を受けても、一切悪びれる様子を見せなかった。
あの間の抜けた、ほんわかとした雰囲気を崩すことなく、いたって真面目だと言わんばかりに、そして本気で困り果てたような、眉尻を下げた表情で語り出しのだ。
「ええ、だって、困るんですよ。……本来、わたしの作戦というか、戦術の信条は、こんな風に真っ正面から敵のサーヴァントとやり合うことではないんです」
桜は、コートのポケットに両手を入れたまま、まるで友人との待ち合わせ場所を間違えてしまったかのように、はぁ、と小さく溜息をついた。
「安全圏から戦場を見下ろして、情報を集めて。敵の宝具、手札、弱点……そういう、自身の『勝ちが確定するためのピース』を全て綺麗に揃えきってから、最後にそっと蓋をするように戦うのが、わたしのやり方なんです。だから、準備もなしに、こんな正面戦闘をさせられるのは、あまり望んでいないんですよね」
彼女は、本気で迷っているように、そして本気で「引いてもらえないだろうか」と願うように、ランサーに向けて上目遣いで頼み込むような視線を向けた。
その瞳には、嘘偽りはない。
事実、ここでランサーが「ああ、そうかい。じゃあまたな」と背を向けて引いてくれるのであれば、桜にとってそれが一番の『最適解』。
追撃するつもりなど、今の彼女には毛頭ない。戦場でセイバーと打ち合い、極大の神秘をその身に刻み込んだ魔虚羅には、今は戦闘をさせるよりも、影の奥底でそのデータをじっくりと咀嚼し、『適応』の演算を回すための静かな時間が必要なのだから。
究極的に言えば、ここで戦闘が起きようと起きまいと、最終的な結末は、揺るがない。だが、無駄なリスクは犯したくない。できれば、また今度にしてほしい。それが、間桐桜の偽らざる本心であった。
「……はぁーっ」
そんな風に、自らの作戦の前提を堂々と語り、あまつさえ「だから引いてくれないか?」などと無茶苦茶な理屈をこねる少女に対し、ランサーは深紅の槍を構えたまま、ひどく呆れたような、深い溜息を夜空に吐き出した。
「お前なぁ……。頭がいいのか狂ってるのか、どっちかにしろ。魔術師の殺し合いの最中に『今日は準備不足だから帰ってくれ』って通ると思ってんのか?」
先ほどまでの、指先一つ動かせば首が飛ぶような堅牢でピリピリとした殺戮の雰囲気が、微かに、本当に微かにではあるが、緩む。
それは、相手を甘く見たというよりも、目の前の少女から放たれるあまりにも常識外れな『能天気さ』が、ランサーという豪快な英霊の毒気を、一時的に削いでしまったゆえの弛緩であった。
「それにだ。テメェ、『正面戦闘は望んでない』だの『安全圏から見下ろすのが信条』だのとのたまってるがなぁ……」
ランサーは、槍の石突きでコンクリートの床を軽くコツンと叩き、ジロリと鋭い三白眼で桜を睨み据えた。
「あのセイバーと真正面からバリバリに殺し合いをやってたじゃねえか。どの口が言ってやがる」
最もすぎる、的確なツッコミ。
ランサーのマスターは、眼下の森で繰り広げられた魔虚羅とセイバーの死闘を観測していたからこそ、その圧倒的な脅威を排除すべく、彼をここへ差し向けたのだ。
安全圏主義を謳いながら、その実、最も危険な戦場の中央に怪物を投下して正面から蹂躙を行っていたという明白な矛盾。
痛いところを突かれた、普通ならそう動揺する場面。
しかし。
「あははっ」
桜は、微塵も悪びれる様子を見せず、ころころと鈴を転がすように笑った。
「いえいえ、あれは例外ですよ。あの場にいたセイバーは、アインツベルンのサーヴァントとの戦闘で、すでに魔力を使い果たして弱り切っていましたからね。だから、今の状態なら安全に観察できる『チャンス』だと思って、心情を曲げて、臨機応変に対応しただけです」
これもまた、彼女にとっての完璧な真実(ホンネ)であった。
万全の相手とはやり合わないが、弱っている相手になら、適応のデータを稼ぐために喜んで怪物を嗾ける。極めて合理的で、極めて悪辣なハイエナの論理。
「だから、現時点で、万全のあなたとの正面戦闘を望んでいないというのは、本当ですよ? ランサーさん」
桜は、小首を可愛らしく傾げ、にっこりと微笑む。
その笑顔は、冬の夜の寒さを錯覚させるほどに愛らしく、そして、底知れぬほどに不気味であった。
「……数日後であれば、何の問題もないのですが。本日はお互いに見逃して、出直しませんか?」
今は、時間が欲しい。
あの戦場で獲得した、黄金の剣の魔力波長。無数の矢の神秘。それを完全に解析し、適応し、より高い次元の耐性データとして魔虚羅の霊核に定着させるための、絶対的な『時間』が。
まあ、桜自身、この提案については、半ば諦めてもいた。
目の前に立つのは、血の匂いを嗅ぎつけて現れた飢えた猟犬だ。明確な理由も、彼にとってのメリットもないまま、敵のマスターが「出直してくれ」と言って素直に引き下がるはずがない。この狂った交渉は、時間稼ぎ、そして相手の出方を伺うための些細な盤外戦術に過ぎない。
案の定、桜のその予想は、完璧に的中することとなる。
「……断る。ここでテメェを見逃す理由が、俺には一つもねえからな。それにだ」
ランサーの顔から、呆れの感情が消え失せた。
代わりに浮かび上がったのは、凄絶なまでの勘の良さ――歴戦の戦士だけが持つ、危険を嗅ぎ取る圧倒的な嗅覚の鋭さであった。
「『数日後』なら何の問題もない……ねえ。嬢ちゃん、それって裏を返せば、テメェに『数日の時間』をやっちまうと、俺たちにとって何か決定的に『厄介なこと』が完成するって言ってるのと同じだぜ?」
ニヤリ、と。
ランサーは、獲物の致命的な隙を見つけた肉食獣のように、凶悪に唇を歪めた。
「あそこで、暴れてた理不尽な化物。あれがさらに化けるのか、それとも別の罠でも張るつもりか知らねえが……。時間をやればやるほど手がつけられなくなるなら、なおのこと、今ここでテメェの首を落としておくのが大正解ってことだ」
深く、重い殺意が、再び屋上を満たしていく。
言葉の綾。ほんのわずかなニュアンス、桜の「適応のための時間稼ぎ」という意図の奥底にある『脅威』を、この英霊は手繰り寄せ、正確に看破してみせたのだ。
本当に、優秀で、ひどく厄介な猟犬。
だが、その致命的な看破を受けてなお、桜の表情に焦りはなかった。
彼女は、再び蠱惑的に笑い、自らの失言を可愛らしく誤魔化すように言った。
「ふふ……。少し口が過ぎましたね」
そう言って、桜は自身の薄い桜色の唇の前で、親指と人差し指を使って『チャックを閉める』ような、あまりにも場違いで可愛らしいジェスチャーをして見せた。
そして。
そのジェスチャーが終わった、次の瞬間。
――バチィィィィィンッ!!!!
先ほどまでの能天気で間の抜けた雰囲気が、文字通り『一変』した。
間桐桜の全身を駆け巡る魔術回路が、凄まじい発熱を伴って青白く発光し、大気中のエーテルを暴力的な速度で掻き集め始めたのだ。
空気中にオゾンに似た魔力の焦げる匂いが充満し、彼女の華奢な肉体が、強靭な鋼のバネへと変質していく。
「では、始めましょうか」
極寒の声音。
交渉決裂を悟るや否や、一切の躊躇もなく即座に実力行使へと移行する、魔術師としての恐るべき切り替えの早さ。
「……ッ、来るか!」
ランサーが、腰を深く落とし、必殺の迎撃態勢を取る。
相手は人間だが、未知の力を持ったイレギュラー。いかに英霊といえど、正面から放たれる大魔術を無防備に受けるわけにはいかない。
だが。
「夜は、まだ終わらない。……ええ、全く終わる気配がありませんね」
そう言い残し、爆発的な魔力を推進力に変えて『駆け出した』桜の向かう先は。
構えを取るランサーの正面では、ない。
「な……!?」
ランサーが驚愕に目を見開く。
強化魔術によって最高速に達した間桐桜の肉体は、ランサーから見て『真横』――すなわち、屋上の縁、何もない虚空を隔てるフェンスへと向かって、一直線に突進していたのだ。
タァァンッ!! と。
強化された両脚がコンクリートを砕くほどの勢いで踏み切られ、桜の身体は、軽々とフェンスを飛び越えた。
一切の迷いもなく。
高さ数十メートル、落ちれば間違いなくミンチになるであろう冬木の暗い夜の底へと、自らその身を投じたのだ。
「チッ……! 逃げる気か!!」
ランサーは瞬時に反応した。
マスターを逃せば、あの化物を相手にするハメになる。ここで確実に息の根を止めねばならない。
英霊としての圧倒的な身体能力、その跳躍力を爆発させ、ランサーもまた桜の軌道を追うようにして屋上のフェンスを蹴り飛ばし、虚空へとその身を躍らせた。
風が唸りを上げる。
重力に引かれ、暗闇の底へと猛烈な速度で落下していく二つの影。
しかし。
ランサーは、空中に躍り出て、自分より数メートル下を先行して落下していく桜の姿を視認した瞬間、全身の毛穴が総毛立つような、異常な違和感に襲われることとなる。
――逃走、ではない。
落下していく間桐桜の体勢。
それは、地面を見据え、着地のための魔術的処置を行うような姿勢ではない。
彼女は、空中でくるりと身体を反転させ、『仰向け』の状態で落下していたのだ。
吹き荒れる風の中で、黒いロングコートが翼のように羽ばたいている。
上を見ながら落ちていく桜。
そして、その彼女を追うようにして、上空から槍を構えて落下していくランサー。
上下。
完全な自由落下の最中、重力に縛られたまま、互いの視線が空中で激しく交差する。
ランサーを見上げる桜の顔。
そこに恐怖はない。焦りもない。
あったのは、先ほどの能天気な笑みでも、狂信の笑みでもない。
これから自らの手で巨大な獲物を狩り殺さんとするような、極めて冷酷で、暗い歓喜に満ちた『獰猛な笑み』であった。
(違う……! こいつ、逃げるために飛び降りたんじゃねえ!)
ランサーの英霊としての直感が、最大級の警鐘を鳴らす。
徐々に、下から冬木のアスファルトの地面が高速で迫ってくる。
当然、先に飛び降り、下にいる桜の方が先に地面へと激突する。
いくら強化魔術を施していようと、この高度からの落下に耐えられるはずがない。このままでは彼女は自滅する。
だが、その自滅を回避する手段が、そして自分を仕留めるための『牙』が、彼女にはあるのだ。
(何をするつもりだ……!?)
空中で体勢を変えることもできず、ランサーは深紅の槍を構えながら、眼下の少女の次の行動を凝視するしかない。
壁面に沿って続く、死の自由落下。
間桐桜という魔術師の、常軌を逸した戦略が、今まさに始まろうとしていた。
乱入者は、ランサーでした。
教会の近くで、ヘラクレスとのドンパチが終わったと思ったら次の戦闘がドッカンドッカン行われた。
これを解決すべく、マスターは
あの怪物の使役者を探せと、情報ゼロの状態からの無茶振り。
ランサーは街中をめっちゃ走り回った挙げ句のエンカウントでした!!
五条先生の赫とFateの対軍宝具って、どちらが威力上だろうか。何となくで投票してほしいです。
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術式反転・赫
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対軍宝具