Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く 作:りー037
【記録:1998年2月某日 14時00分 / 場所:英国・ロンドン 魔術協会本部『時計塔』】
霧に沈む街、ロンドン。
その地下深くに根を張る魔術協会の最高学府『時計塔』の内部は、常にカビと古い羊皮紙、そして何百年も積み重なった魔術師たちの執念と陰謀の匂いが立ち込めている。
しかし、ここ数ヶ月、時計塔の上層部を支配していたのは、学術的な熱狂でも政治的な駆け引きでもなく、ひどく得体の知れない「薄気味の悪さ」であった。
極東の島国、日本の冬木市。
かつてマキリと呼ばれた名門魔術家系『間桐』。
彼らからの定期連絡が完全に途絶え、当主である間桐臓硯の生死すら不明となる異常事態が発生していたのである。
本来であれば、一魔術家系の没落など時計塔にとって些末な出来事に過ぎない。だが、冬木は『聖杯戦争』という特大の神秘が根付く地であり、間桐はその御三家の一つであった。
事態を重く見た時計塔は、水面下で数名の調査員――下位の魔術師や、武闘派である『執行者』数名を冬木へと派遣した。間桐家の遺産(魔術刻印や研究資料)を回収し、可能であれば失踪の謎を解明するためである。
だが、その結果は時計塔の常識を根底から覆すものであった。
派遣された者たちは皆、命こそ奪われなかったものの、完全に「精神を破壊されて」帰還したのだ。
魔術回路は無事。外傷もなし。精神干渉の魔術を受けた痕跡すら見当たらない。
しかし、彼らは一様に震え上がり、うわ言のように荒唐無稽な証言を繰り返した。
『……あれは、魔獣などではない……』
『純白の、怪物……いや、神だ……人の理に収まる存在ではない……!』
『影から現れた……近づいてはならない、あれは、世界そのものを……』
到底、魔術の深淵を探求する者たちの言葉とは思えなかった。
恐怖に屈し、論理的な報告すらできない彼らの姿は、時計塔の貴族主義者たちからすれば「恥晒し」以外の何物でもない。暗示か、あるいは未知の幻術か。
だが、複数回にわたって派遣された別々の部隊が、全く同じように戦意を喪失して逃げ帰ってくるという事実は、放置できるものではなかった。
「……極東の地で、何者かが我々時計塔をコケにしている。これは看過できん」
上層部の一部で、秘密裏の会議が開かれた。
決定されたのは、徹底的な武力による制圧と謎の解明。
選出されたのは、時計塔においても一握りの天才にのみ与えられる階位の一つ『色位(ブランド)』を冠する大魔術師一名。さらに、その後塵を拝する『典位(プライド)』の魔術師が三名。そして、彼らに師事する優秀な弟子たちが十数名。
一つの没落した魔術家系を調査するには、あまりにも異常で、大げさすぎるほどの過剰戦力。
「上位の死徒を、相手にしても無傷で勝利できる」と豪語する彼ら一流の魔術師たちは、絶対的な自信と傲慢さを胸に秘め、極東の冬木へと旅立った。
彼らは微塵も疑っていなかった。自分たちが持ち帰るのは、輝かしい戦果と、間桐の隠し持っていた新たな神秘の叡智であると。
【記録:1998年3月某日 22時30分 / 場所:日本・冬木市 間桐邸跡地】
生温かい夜風が、木々を不気味に揺らしている。
かつて間桐邸と呼ばれたその屋敷は、わずか数年の間に完全に荒れ果て、異様な静けさに包まれていた。強固な結界が張られているわけでもなく、ただ「誰も寄り付かない呪われた廃屋」としてそこにある。
「……ふん。結界の修復すらされていない。やはり間桐はとうに滅びているか」
色位の魔術師――豪奢なローブを纏った初老の男が、鼻で笑いながら錆びついた鉄門を蹴り開けた。その後ろに、三名の典位の魔術師と、緊張した面持ちの弟子たちが続く。
彼らの手には、それぞれが何代にもわたって研鑽を積んできた強力な魔術礼装が握られ、体内では最高純度の魔力がいつでも行使できる状態に高められていた。
敷地内は草木が伸び放題になり、枯れ葉が腐敗する匂いが漂っている。
一行が玄関の扉に手を掛けようとした、その時だった。
「こんばんは。おじさんたち、だぁれ?」
静寂に包まれた庭の暗がりから、ふわりと、鈴の転がるような声が響いた。
魔術師たちが一斉に足を止め、殺気を孕んだ視線を声の方向へ向ける。
そこにいたのは、年の頃は十歳にも満たないであろう、一人の少女だった。
色褪せた簡素なワンピースを着て、裸足のまま枯れ葉の上に立っている。
だが、その姿を見た魔術師たちは、誰一人として油断しなかった。彼らの鋭敏な魔術的感性は、この少女の足元から滲み出ている「何か」を確かに感じ取っていたからだ。
(……なんだ、この少女は? 魔術回路の気配は微弱……いや、違う。この足元の影……空間の位相が歪んでいる……!?)
色位の魔術師が、片目を細めて少女を観察する。
その瞳は虚ろでありながら、どこか圧倒的な余裕――というよりは、自分たちを「路傍の石」としか認識していないような、不気味なほどの無関心さを湛えていた。
「お前が間桐の生き残りか。我々は時計塔の者だ。間桐臓硯の行方と、この屋敷に隠された魔術の成果を接収しに来た。大人しく案内――」
「だめだよ」
色位の魔術師の威圧的な言葉を、桜は首を傾げて遮った。
「ここは、わたしの神様のおうちだから。勝手に入ったら、神様が怒っちゃう」
「……神様、だと?」
「うん。だから、死にたくないなら、おうちへ帰って」
それは、純粋な警告だった。
一切の殺意も敵意もない、ただ「このまま進めば崖から落ちますよ」と事実を告げるだけの、無垢な親切心。
しかし、その言葉は、誇り高き時計塔の魔術師たちの逆鱗に触れるには十分すぎた。
「……たかが極東の小娘が。魔術の深淵を知らぬ者が、妄りに神を騙るな!!」
典位の魔術師の一人が、激昂と共に前に出た。
彼の右腕から、空気を焼き焦がすほどの灼熱の魔力が奔流となって溢れ出す。一工程(シングルアクション)による極大の火炎魔術。並の魔術師であれば、防壁ごと消し炭にされる一撃だ。
彼には少女を殺す気はなかった。ただ、四肢を焼き切り、痛みを以て己の立場を分からせようとしたのだ。
「あーあ。だから、言ったのに」
桜は逃げようともせず、ただ悲しそうに目を伏せた。
やっちゃえ、■■■■■
静寂。
圧倒的な暴力の嵐が過ぎ去った後、庭には血の匂いと、生き残った弟子たちの過呼吸の音だけが響いていた。
弟子たちは、地に這いつくばり、両手で頭を抱えながら、ただひたすらに殺されないことを祈っていた。一切の魔力行使を止め、敵意を完全に放棄した完全な「降伏」。
魔虚羅は、そんな彼らを一瞥した。
『神将戦闘本能(ディヴァイン・コンバット)』による絶対的な察知能力が、彼らから「桜に対する害意」が完全に消滅したことを確認する。
興味を失ったように、魔虚羅は身を翻した。
そして、泥沼のように広がる桜の影の中へ、音もなくズブズブと沈み込んでいく。
巨大な影が収縮し、元の小さな十歳の少女の影へと戻った。
桜は、地に伏して震える弟子たちを見下ろし、冷たい声で、しかし哀れむように言った。
「だから、言ったのに。……もう、二度と来ないでね」
【記録:1998年3月某日 10時00分 / 場所:英国・ロンドン 時計塔 上層部会議室】
重苦しい沈黙が、時計塔の円形会議室を支配していた。
円卓の周囲に座る、時計塔の重鎮たち。彼らの顔は一様に蒼白であり、ある者は冷や汗を拭い、ある者は信じられないものを見るような目で、中央に立つ報告者を見下ろしていた。
報告者――それは、先日冬木へと派遣された十数名の弟子たちの生き残りであった。
彼らの眼球は異常なまでに焦点が定まらず、服は乱れ、全身から恐怖の匂いが立ち上っている。彼らは帰還してから数日間、まともな食事も睡眠もとれず、ただ震えながら「あれは駄目だ」と繰り返すばかりであった。
「……報告を、もう一度頼む」
上座に座る老魔術師が、乾いた唇を舐めて言った。
「……全滅、です。色位の卿も、典位の三名も……一切の魔術が通じませんでした。炎も、呪詛も、空間圧縮の大魔術すら……直撃したはずなのに、あの背中の『輪』が回るたびに、全てが無効化されて……」
弟子の声は、泣き咽ぶように震えていた。
「あれは、人類の枠に収まる存在ではありません……魔術の理を、根底から否定するバグです……我々は、見逃されただけだ……抵抗する意志すら失ったから、ゴミのように見逃されただけなんだ……!」
「落ち着け! 発狂するな!」
別の魔術師が怒鳴りつける。だが、その声も微かに震えていた。
色位の魔術師が、瞬きする間に肉片に変えられたという事実。それは時計塔の根本的なプライドを粉砕するに等しい事象である。
「……その、怪物を従えていたという間桐の少女は、何と呼んでいたのだ。その異形を、なんと呼称した」
静まり返った会議室で、一人の魔術師が核心を突く質問を投げかけた。
やっちゃえ、■■■■■■
生き残りの弟子は、虚ろな目をさらに見開き、自分の両腕をきつく抱きしめながら、振り絞るようにその単語を口にした。
「……バー、サーカー……」
「!」
「少女は、あの怪物を……狂戦士(バーサーカー)と、呼んでいました……」
会議室の空気が、完全に凍りついた。
バーサーカー。
魔術協会に属する者であれば、その単語が意味するものを知らない者はいない。
「……馬鹿な。聖杯戦争は数年前に終結したはずだ。なぜ、サーヴァントが現界し続けている? 聖杯の基盤もないはずの現世に、なぜ英霊が……!」
「英霊などという神聖なものではない! あれはもっと、原初的な……」
議論は紛糾し、会議室は恐怖と混乱の坩堝と化した。
公にはできない。だが、放置することもできない。聖堂教会に知られれば、異端審問官が冬木に大挙して押し寄せる事態になりかねない。
時計塔が未知の恐怖に震える中。
会議室の隅の暗がりで、その報告を静かに聞いていた一人の若きロードがいた。
黒い長髪に、不機嫌そうな眉間。常に胃痛を抱えているかのような渋面を作った男。
ロード・エルメロイⅡ世。
かつて『ウェイバー・ベルベット』として、第四次聖杯戦争を生き延びた数少ない魔術師。
彼は、震える手で葉巻に火をつけながら、大きく紫煙を吐き出した。
(……バーサーカー。間桐。第四次聖杯戦争の、生き残り……)
彼の脳裏に、あの狂気と血に塗れた冬木の記憶が蘇る。
時計塔の誰もが、あの怪物を「圧倒的な力で制圧する方法」ばかりを考えて議論している。馬鹿げている。そんなことをすれば、さらに死人の山が築かれるだけだ。色位の魔術師すら瞬殺されたという事実を、彼らは根本的に理解していない。
(……力で抑え込もうとするから殺される。あれは、理不尽そのものだ)
エルメロイⅡ世は、静かに立ち上がった。
周囲の制止や驚きの声を完全に無視して、彼は会議室の扉へと歩みを進める。
「……私が行こう」
低く、しかし確かな意志を持った声が、騒然としていた会議室を静まらせた。
「あの地で起きた因縁は、あの地を知る者が片付けるべきだ。……極東への航空券を手配してくれ」
それが、どこからどう見ても自殺行為にしか見えない「三流の魔術師」の宣言であることを、この時の時計塔の誰もが疑わなかった。
だが――彼らのその予想は、数日後、完全に裏切られることになる。
冬木という死地に単身赴いたはずのロード・エルメロイⅡ世は、生還したのだ。
それも、外傷一つ負うことのない、完全な「無傷」の状態で。
そして、固唾を呑んで見守る上層部の魔術師たちを前に、極度の胃痛に耐えるような渋面を作りながら、彼は淡々と、その決定的な報告を告げたのである。
『――何も、いなかった』と。
それは、魔術協会の最高学府全体を欺く、あまりにも大胆で、極上の「嘘」の始まり。
理外の怪物と、その影に潜む少女の存在を、世界の底へと秘匿し続けるための――エルメロイⅡ世がたった一人で挑む、孤独な戦いの幕開けであった。