Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第十二章:冬木の影、あるいは脅威の波紋】

【記録:2004年2月2日 23時15分 / 場所:冬木市・衛宮邸 居間】

 

 

 冬の夜は、ひどく静かで、そして底冷えがする。

 

 木造の古い日本家屋である衛宮邸の居間には、ストーブの低く唸るような稼働音だけが、単調に響き続けていた。

 

 

 しかし、部屋を暖めているはずのその熱気すらも、今この空間に充満している重く冷たい緊張感を溶かすには、全く至っていない。

 

 卓袱台を挟んで、衛宮士郎と遠坂凛が向かい合って座っている。

 

 士郎の背後には、彼が召喚したばかりの剣士の英霊――セイバーが、目を閉じて静かに正座をしており、部屋の隅の壁際では、赤い外套を纏った弓兵の英霊――アーチャーが、腕を組んで目を光らせていた。

 

 

 

 二人のマスターと、二人のサーヴァント。

 

 本来であれば、出会った瞬間に殺し合いを始めてもおかしくない敵同士。だが、彼は今、冬木教会で言峰綺礼から「聖杯戦争」の凄惨なルールを聞かされた帰りであり、一時的な休戦状態のまま、この場に集まっていた。

 

「……それで。教会での神父の話を聞いて、どうする気になったの、衛宮くん」

 

 

 凛が、出された温かい緑茶の入った湯呑みを両手で包み込みながら、探るような視線を士郎へと向けた。

 

 彼女の声音は、学校で見せる優等生のそれではなく、魔術師としての冷徹な響きを帯びていた。

 

「どうするって……。俺は、聖杯なんて欲しくない。でも、このまま放っておけば、十年前の火災みたいな惨劇がまた起きるかもしれないんだろ。だったら、俺はマスターとして戦う。あんな悲劇を、二度と繰り返させないために」

 

 

 士郎は、真っ直ぐな瞳で凛を見返した。

 

 そのひどく不器用で、しかし強靭な意志の光に、凛は小さくため息をつく。

 

「そう。やっぱり、貴方はそういう人間なのね」

 

 

 凛は湯呑みを卓袱台に置き、姿勢を正した。

 

 そして、傍らに控える自身のサーヴァント、アーチャーと一度視線を交わし、極めて真剣な表情で本題へと切り出した。

 

「単刀直入に言うわ。衛宮くん、私と同盟を結びなさい」

 

「……同盟?」

 

「ええ。互いの利害が一致するまでの間、敵対を避けて協力し合うの。……理由はわかるわね?」

 

 

 凛の言葉に、士郎は息を呑み、そして深く頷いた。

 

 同盟を結ばなければならない理由。それは、今夜彼らが遭遇した、あまりにも規格外で、常軌を逸した『二つの絶望』の記憶に他ならなかった。

 

 一つは、アインツベルンの少女、イリヤスフィールが従えていた巨大な黒い狂戦士――バーサーカー、ヘラクレス。

 

 セイバーの渾身の一撃すらも弾き返す、岩山のような肉体と、理不尽なまでの圧倒的暴力。あれは、通常の英霊が単独で挑んで勝てるような相手ではなかった。

 

 

 

 だが。

 

 彼らの脳裏にさらに深く、黒い染みのようにこびりついている恐怖は、もう一つの『未知の怪物』の存在だった。

 

「……あの、空から降ってきた『白いバケモノ』か」

 

 

 

 教会から帰る道中。彼らがヘラクレスの絶望的な暴力に追い詰められていた、まさにその時。

 

 

 突如として、上空から隕石のように降ってきた、もう一体の狂戦士。

 

 純白の大理石のような筋肉。眼球のない顔から伸びる、不気味な羽。そして、頭上に浮かぶ黄金の法輪。

 

「あれは……英霊なんて呼べる代物じゃなかったわ。狂化しているとか、そういう次元じゃない。人間の意思や歴史の匂いが、一切しなかった」

 

 

 凛が、自身の腕を抱き抱えるようにして身震いをした。

 

 彼女の優れた魔術回路が、あの怪物が放っていた異質なプレッシャーを、未だに幻肢痛のように記憶しているのだ。

 

「ヘラクレスだけでも規格外だっていうのに。突然現れて、周囲を理不尽に破壊し尽くしたと思ったら、唐突に黒い『影』の中へ沈んで消えたわ。……あの白い怪物を従えているマスターが、この冬木のどこかに潜んでいる。あれが聖杯戦争の参加者だとするなら、通常の戦術なんて通用しない」

 

「彼女の言う通りです、シロウ」

 

 

 それまで目を閉じていたセイバーが、静かに目を開き、厳粛な面持ちで口を開いた。

 

 彼女の碧色の瞳には、あの白い怪物と剣を交えた時の、戦慄の記憶が焼き付いている。

 

「あの白い怪物……一合、二合と剣を交えた時、私ははっきりと感じ取りました。奴は、ただ暴れているのではない。戦闘の最中に、私の剣筋を、呼吸を、そして魔力の波長を『学習』し、リアルタイムで動きを最適化していました」

 

「学習、だと……?」

 

 

 アーチャーが、壁際で鋭い声を上げた。

 

「ええ。もしあのまま戦闘が長引いていれば、私の剣技は完全に見切られ、対応されていたでしょう。さらに、あの怪物の背後で『輪』が回った瞬間、奴の傷が瞬時に塞がるのを見ました。……あれは、治癒魔術の類ではありません。傷を受けたという事象そのものが消えたような、常識外の機構です」

 

 

 セイバーの証言に、居間の空気がさらに数度、凍りついたように冷え込んだ。

 

「戦うたびに敵の能力を解析し、傷を治す……。ふざけているな。そんなものが野放しになっていれば、いずれ手がつけられなくなるぞ」

 

「だからこそ、同盟よ」

 

 

 凛は、卓袱台を指先でトントンと叩いた。

 

「あの白い怪物と、アインツベルンのヘラクレス。この二体の『バケモノ』が犇めき合っている今の状況で、単独行動を取るのは自殺行為に等しいわ。まずは、あの異常な存在をどうにかするまで、私たちで手を組む。……どう、衛宮くん?」

 

「……わかった。俺も、あの白いバケモノを放っておくのは危険だと思う。遠坂、よろしく頼む」

 

 

 士郎は、迷うことなく頷き、凛へと右手を差し出した。

 

 凛は少し驚いたように目を瞬かせた後、小さく微笑んでその手を握り返す。

 

 こうして、表の主人公による、理外の脅威に対抗するための強固な同盟が結ばれた。

 

 

 だが、彼らはまだ知らない。

 

 その彼らが危惧する白い怪物が、つい先ほど、新都の摩天楼の麓において、すでに一人の神代の英雄を完全に蹂躙し、絶対的な適応を果たし、さらに上の領域へと足を踏み入れてしまったという、あまりにも残酷な事実を。

 

     

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月2日 23時45分 / 場所:冬木市・言峰教会 礼拝堂】

 

 

 ステンドグラスから差し込む冷たい月明かりが、長椅子が整然と並ぶ無人の礼拝堂を、青白く照らし出していた。

 

 冬木教会の神父であり、この第五次聖杯戦争の監督役である言峰綺礼は、祭壇の前に一人立ち、その暗い双眸を虚空へと向けていた。

 

 

 彼の脳裏には、以前、遭遇した『ある少女』の姿が、鮮烈な印象となって焼き付いている。

 

(……間桐桜、か)

 

 

 言峰の薄い唇が、三日月のように歪み、ひどく愉悦に満ちた笑みを形作る。

 

 間桐家。すでに衰退の一途を辿っていたはずの魔術の家系。当主である間桐臓硯の姿が忽然と消え、後継者を既にいない。かの家は既に没落していると、言峰はそう思っていた。

 

 

 だが、以前すれ違ったあの少女。

 

 彼女の纏っていた空気は、魔術を知らない一般人のそれではなく、極限まで研ぎ澄まされた『異常者』のそれであった。

 

 そして何より、言峰の背筋を凍らせ、同時に彼の中に眠る昏い欲望を激しく刺激したのは、彼女の足元に広がる『影』の底に潜んでいた、圧倒的な暴力の気配。

 

(私が向けた微かな殺気に対し、あの少女は怯えるどころか、影の中から怪物を呼び覚ましかけた。……『いつでも殺せる』という、強者からの無邪気な宣告。あれは、紛れもなく魔術師の姿だ)

 

 

 あの時、影の中から感じた殺気は、常識の枠に収まるような存在ではない、次元の違う『何か』。

 

 

 言峰の感覚が、歓喜の悲鳴を上げている。

 

 あの少女は、何かとてつもないものを隠し持っている。そして、完全に一般人を装いながら、この冬木の街で静かに、そして確実に盤面を支配しようとしているのだ。

 

「フッ……ハハハハハ……」

 

 

 言峰の喉の奥から、低く、湿った笑い声が漏れた。

 

 

 冬木は再び、血に染まる。

 

 前回の第四次聖杯戦争を遥かに凌ぐ、予測不能の絶望と惨劇が、この街を覆い尽くす。

 

 

 

 その確信が、彼に無上の喜悦をもたらしていた。

 

「……随分と楽しそうだな、綺礼」

 

 

 不意に、礼拝堂の暗がりから、ひどく傲慢で、しかし王としての絶対的な威厳に満ちた声が響いた。

 

「一人で何を笑っている」

 

 

 つまらなそうに目を細めながら、長椅子の一つにどっかと腰を下ろした。

 

「失礼。少しばかり、面白い『役者』の存在を確認できたものでな。……どうやら、今次の聖杯戦争は、退屈しない余興になりそうだ」

 

 

 

 「ほう?」と片眉を上げ、赤い瞳に僅かな興味の光を宿す。

 

「ふん、雑種どもが泥の中で争う様など、とうに見飽きているがな……。まあ良い。で、あの『犬』はどうした? 偵察に向かわせたはずだが、随分と帰りが遅いではないか」

 

 

 ギルガメッシュの言う『犬』とは、言峰が本来のマスターから令呪を奪い取って使役しているサーヴァント――ランサー、クー・フーリンのことである。

 

「ああ。ランサーには、いま捜……」

 

 

 言峰が口を開いた、まさにその瞬間だった。

 

「……ん?」

 

 

 彼の右腕に刻まれた令呪、すなわちランサーとの繋がりを示す魔力パスに、突如として奇妙なノイズが混じり始めたのだ。

 

「……どうした、綺礼」

 

「いや……妙な現象が起きていてな。ランサーとの繋がりが、極端に希薄になっている。……存在していることはパスを通じて理解できるのだが、彼の『位置』が全く認識できない」

 

 

 言峰は、自身の右腕を見つめながら、眉間にシワを寄せた。

 

 サーヴァントとのパスが、ここまで曖昧になることはあり得ない。まるで、ランサーの存在する空間そのものが、この現実世界から切り離され、隔離されてしまったかのような、異常な感覚。

 

(……位置が掴めない? いや、それどころか、念話すら繋がらない。どういうことだ……?)

 

 

 先ほど、ランサーからは「新都で異常な気配を持つ女を見つけた」という短い断片的な報告が入っていた。

 

 

 その女の特徴は、間違いなく間桐桜のもの。

 

(あの少女が、空間そのものに干渉し、ランサーを完全に隔離したというのか……?)

 

 

 言峰の心の中に、歓喜とは別の、得体の知れない薄ら寒さが這い上がってくる。

 

 もしそれが事実だとするならば、彼女の魔術師としての技量は、もはや規格外という言葉すら生易しい。

 

「……面白い。実にお――」

 

 

 言峰が、再び歓喜の笑みを浮かべようとした、その時。

 

 

 ブツンッ。

 

 令呪が刻まれている右腕に、痛みがはしる。

 

 それは、サーヴァントの霊核が完全に破壊され、座へと還ったことを意味する、絶対的な断絶のサイン。

 

「…………」

 

 

 

 言峰綺礼の動きが、完全に停止した。

 

 

 数秒間の、重苦しい沈黙。

 

 彼の瞳が見開かれ、驚愕と、そしてそれを上回る『極限の愉悦』が入り混じった、ひどく歪で悍ましい表情が、その顔面に浮かび上がった。

 

「……どうした、綺礼。お前のその顔、よほど滑稽なことでも起きたと見えるが」

 

 

 ギルガメッシュが、面白そうに身を乗り出して尋ねる。

 

 

 言峰は、自らの右腕を見つめながら。

 

 まるで、極上の演劇のクライマックスを目撃した観客のように、歓喜に打ち震える声で、その事実を告げた。

 

「……ランサーが、消滅した」

 

「……ほう」

 

 

 ギルガメッシュの赤い瞳が、微かに細められた。

 

 あの、神域の敏捷性と、死んでもなお戦い続ける戦闘続行のスキルを持つ、しぶとさにおいては右に出る者のいないケルトの英雄が。

 

「あの犬が逝ったか。……一体、どこのどいつの仕業だ?」

 

 

 

 ギルガメッシュの問いに対し。

 

 言峰綺礼は、窓の外の冬木の暗い夜空を見上げながら、狂気を孕んだ笑みを深々と刻み込んだ。

 

「さて……。だが、これだけは確実だ。この冬木の街には今、私たちの常識を根底から覆す、『ナニか』が放たれている。」

 

 

 言峰は、修道服の袖を下ろし、ゆっくりと腕を組んだ。

 

「……優秀な猟犬を失ったのは痛手だが、まあいい。彼が散ったのであれば、別の『手札』を切るまでだ。この盤面を引っ掻き回すための次の駒をな」

 

 

 神殺しの英霊すらも無慈悲に刈り取る、理外の死神。

 

 その存在の波紋は、確実に、そして致命的な速度で、聖杯戦争の裏側を侵食し始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月2日 18時45分(グリニッジ標準時) / 場所:英国ロンドン・時計塔 現代魔術科(ノリッジ) 学部長室】

 

 

 分厚い灰色の雲が、ロンドンの空を重く覆い尽くしている。

 

 窓ガラスを打ち付ける冷たい雨の音をBGMに、時計塔の現代魔術科(ノリッジ)学部長であるロード・エルメロイⅡ世は、執務机の上で一本の葉巻に火を点けた。

 

 

 紫煙が、薄暗い部屋の空気にゆっくりと溶けていく。

 

 だが、その香りを嗜む余裕など、今の彼には一ミリも存在しなかった。彼の両手には、法制科(バルトメロイ)および伝承科(ブリシサン)の観測所から回されてきた、一枚の極秘報告書が握りしめられていたからだ。

 

「……バカな。これは異常すぎる」

 

 

 エルメロイⅡ世の眉間には、これ以上ないほど深いシワが刻み込まれていた。

 

 報告書に記載されていたのは、極東の地方都市・冬木――彼自身もかつて身を投じ、生涯忘れ得ぬ王と出会った、あの呪われた第四次聖杯戦争の舞台――その地下霊脈における、異常な観測データの数々であった。

 

 通常、聖杯戦争の開催時期になれば、大聖杯が起動し、七騎の英霊を召喚し使役するための莫大な魔力が霊脈に集束する。魔力の異常な高まり自体は、時計塔の観測網からすれば想定の範囲内だ。

 

 

 だが、今回提出されたデータは、魔力の『量』の問題ではなかった。

 

 

「……空間の、位相(テクスチャ)への直接的な干渉……?」

 

 

 報告書には、冬木の一部の空間において、現実の空間の物理法則が一時的に『消失』し、全く異なる次元の法則を持った空間――すなわち、現実の裏側にへばりつくような『異常な領域』の反応が確認されたと記されていた。

 

 

 固有結界のような、一時的な世界の上書きではない。

 

(……空間の位相をズラし、現実を侵食するような事象……?)

 

 

 時計塔の上層部たちは、これを「聖杯戦争で召喚された、強大な陣地作成能力を持つキャスター、あるいは未知の規格外の英霊による仕業」として身構え、騒ぎ立てている。

 

 

 

 だが。

 

 エルメロイⅡ世の優れた分析能力と、長年の教師としての『勘』は、別の可能性を導き出していた。

 

(空間の位相をズラす。……虚数空間の深淵への接続と、その領域の強制的な展開。……まさか)

 

 

 彼の脳裏に、かつて教室で机を並べていた、一人の教え子の姿がフラッシュバックした。

 

 紫色の髪。誰に対しても礼儀正しく、おっとりとした笑顔を絶やさない、表向き非の打ち所のない優等生。

 

 そして、その足元の影に、理不尽な暴力を飼い慣らしている、魔術師。

 

 

 

 ――間桐桜。

 

「……ッ!!」

 

 

 その名を頭の中で反芻した瞬間。

 

 エルメロイⅡ世の胃袋を、鋭い錐で直接抉り回されるような、強烈な痛みが襲う。

 

「ぐっ……、あ……」

 

 

 彼は葉巻を灰皿に叩きつけ、両手で自身の胃のあたりを強く押さえた。

 

 ただのストレス性の胃痛ではない。これは、彼の教師としての本能が発する、最大級の危険信号(アラート)であった。

 

 

 もし、この空間の異常が聖杯戦争による英霊の余波、ただの宝具であるのなら、まだマシだ。いや、全く良くはないが、時計塔の管轄外の極東の儀式で済む。

 

 彼女が、その呪われた儀式に巻き込まれていないのであれば、何よりだ。

 

 

 

 だが。

 

 もし、万が一。億が一。

 

 自身の優秀で、最も恐ろしい弟子が、この異常事態の『原因』であるとしたら?

 

 

「……確認、しなければ」

 

 

 エルメロイⅡ世は、脂汗を滲ませながら立ち上がった。

 

 書類仕事の途中であったが、今はそれどころではない。急いで自室の安全な回線から、冬木の桜のマンションへと直接電話をかけ、彼女の無事と、事の真相を確かめなければならない。不安が、黒いインクのように彼の思考を塗り潰していく。

 

 

 バンッ! と乱暴に扉を開け、廊下へと飛び出す。

 

「あっ……師匠!?」

 

 

 ちょうどお茶を淹れたティーカップをトレイに乗せて歩いてきた、灰色のローブを纏った少女――彼の内弟子であるグレイが、慌てて足を止めた。

 

 彼女は、エルメロイⅡ世の顔面が蒼白になっているのを見て、瞳を大きく見開く。

 

「どうされたのですか、師匠? 顔色が悪いですが……」

 

 

 グレイが、心配そうにトレイを持ったまま小走りで後ろをついてくる。

 

 エルメロイⅡ世は、胃を押さえ、長い髪を振り乱しながら、早歩きで廊下を進む。

 

「……いや、少し懸念があってな。急いで部屋に戻って、連絡を取らなければならない。桜についてだ」

 

「桜さんが……? 桜さんが、どうかされたのですか?」

 

 

 桜の名前を聞いた瞬間、グレイの表情に、明確な不安が浮かんだ。

 

「話は後だ。今は一刻を争う……!」

 

 

 エルメロイⅡ世が、焦りのままに廊下の角を曲がろうとした、その時だった。

 

「わわっ!?」

 

 

 

 ドンッ!!

 

 角の向こうから、ものすごい勢いで駆け込んできた人影と、エルメロイⅡ世は見事に正面衝突を果たした。

 

「ぐはっ……!?」

 

「あいたた……っ! す、すみません教授! 角を曲がる時は、ベクトル計算をもっと緻密にやるべきでした!?」

 

 

 勢いよく尻餅をついたエルメロイⅡ世の前に、これまた派手に転んだ金髪の少年が、屈託のない明るい声を上げた。

 

 エルメロイ教室における最古参にして、天才的な才能と致命的なまでの常識の欠如を併せ持つ究極の問題児。

 

 

 フラット・エスカルドス。

 

「……っ、フラット、貴様……廊下は走るなと何度言えば……」

 

 

 エルメロイⅡ世は、打った腰をさすりながら、ギリギリと歯軋りをした。

 

 フラットは慌てて立ち上がると、無邪気な笑顔で教授の手を引き、強引に引っ張り起こす。

 

「ごめんなさい教授! お怪我はありませんか?」

 

「……いたた。ああ、それどころではない。悪いがフラット、今は急いでいるんだ。どいてくれ」

 

 

 エルメロイⅡ世が、フラットを軽く払いのけて先を急ごうとしたが、フラットの鋭い聴覚が、先ほどの教授とグレイの会話の断片を、しっかりと拾い上げてしまっていた。

 

「そういえば教授。さっき『桜』って聞こえましたけど、桜ちゃんについてですか? もしかして、また何か、すっごく面白いイベントでも起きてるんですか!?」

 

 

 フラットの瞳が、少年のような好奇心でキラキラと輝き、エルメロイⅡ世にグイグイと詰め寄ってくる。

 

(……しまった)

 

 

 エルメロイⅡ世の胃痛が、さらに一段階、跳ね上がった。

 

 

 フラット・エスカルドスと、間桐桜。

 

 この二人は、エルメロイ教室において付き合いが長く、そして……彼にとって、思い出すだけで胃壁が溶けそうになるほどの『最恐にして最狂のトラブルメーカーコンビ』であったのだ。

 

 

 フラットの、魔術の常識を無視した果てしない天才性と好奇心。

 

 そして桜の、底知れぬ虚数空間の絶対的な受容力と、倫理観のズレからくる『躊躇のなさ』。

 

 この二人が手を組んだ時、時計塔では幾度となく大惨事が引き起こされてきた。

 

 

 フラットが「この呪われた古代遺物、ちょっと分解して術式を書き換えてみようよ!」と無邪気に提案すれば。

 

 桜は「まあ、面白そうですね。万が一爆発しそうになったら、私が影で『処理』しますから、遠慮なくやってくださいな」と、にっこり微笑んで許可を出す。

 

 

 結果、解き放たれた致死性の呪いや、制御不能になった魔力の暴走を、桜が全て自身の足元の『影』へとポイポイと放り込んで喰わせて事なきを得るという、地獄のような光景。

 

 

 

 こいつに、今の冬木の異常事態を知られれば、更なる面倒が引き起こされることは火を見るより明らかだ。「桜ちゃんが面白いことやってるなら、僕も極東に遊びに行きます!」などと言い出しかねない。

 

「うるさい! なんでもない、貴様の聞き間違いだ! この件については、一切詮索してくるな!」

 

 

 エルメロイⅡ世は、フラットを雑に突き放すと、逃げるようにして自室へと駆け出していった。グレイも、「し、失礼しますっ」とフラットに一礼し、慌ててその後を追う。

 

 

 残されたフラットは、ぽつんと廊下に取り残され、興味深そうに首を捻った。

 

「ええー? 絶対に桜ちゃんの名前、言ってたのになあ。どうしたんだろう、教授」

 

 

 フラットは、ロンドンの曇り空を見上げながら、かつてのクラスメイトの姿を脳裏に思い浮かべた。

 

 

 子供の頃から、教授のそばで共に育った、気品と狂気を併せ持つ少女。

 

「それにしても、桜ちゃん……元気にしてるかなぁ。日本に帰ってから、色々と実験できなくて退屈してるんじゃないかな。スヴィンくんは、いつも桜ちゃんの影を見ては、怯えてたけど……最高にエキサイティングな遊び相手だったのに。楽しかったなぁぁ」

 

 

 能天気に、時計塔での破壊的で楽しい思い出に浸りながら、フラットは再び軽やかな足取りで廊下を歩き出す。

 

「今頃、向こうで何してるんだろう? まあ、桜ちゃんなら、どんな状況でも優雅にお茶でも飲んでるんだろうけどね!」

 

     

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月2日 19時00分(グリニッジ標準時) / 場所:エルメロイⅡ世 自室】

 

 

 バタンッ! と扉を閉め、鍵をかけると、エルメロイⅡ世は執務机の通信機(黒電話)を引っ掴み、震える指で目的の番号――極東の冬木市にある、桜のマンションの部屋へと国際電話をかけた。

 

 

 

 ジリリリリッ。ジリリリリッ。

 

 機械的なコール音が、静まり返った部屋に虚しく響き渡る。

 

「……師匠」

 

 

 グレイが、ティーカップを机の端にそっと置き、祈るように両手を握り合わせながら、控えめに問いかけた。

 

「一体、何があったのですか……? 桜さんの住んでいる街で、何か……」

 

 

 エルメロイⅡ世は、受話器を耳に押し当てたまま、忌々しそうに事のあらましを説明した。

 

「……冬木の霊脈の乱れと、観測された空間の位相のズレだ。前者の魔力変動だけなら、あの街で始まった儀式のせいだと片付けられる。……問題はない。いや、問題ではあるが、そこに桜が積極的に関与しているとは疑わん。彼女は日常を愛しているからな」

 

 

 

 ジリリリリッ。

 

 コール音はすでに五回を超えたが、出る気配はない。

 

「だが、後者の『空間の位相のズレ』に関しては別だ。現実を捻じ曲げ、世界を剥離するような事象。……虚数魔術の使い手である彼女を、どうしても連想してしまう。万が一、彼女が巻き込まれ、身を守るためにあの『術式』を行使したとするならば……」

 

 

 桜が本気で命の危機に陥り、あの絶対的な力を持つ魔虚羅を解き放ったのだとすれば。冬木の街は、聖杯戦争どころではなく、物理的に消滅しかねない。

 

 

 

 ジリリリリッ。

 

 コール音はすでに十回を超えた。

 

 出ない。

 

 

(……何かあったか? いや、日本時間を考えれば、すでに向こうは深夜だ。眠っていても、おかしくはない時間帯だが……)

 

 

 論理的に考えれば、就寝中である確率が高い。

 

 だが、彼の長年の勘と、絶え間なく続く胃の激痛が、最悪の想像を次々と掻き立てる。

 

 

 このレベルの胃の痛みは、そう何度もあるものではない。

 

 

 ロンドン時代、桜が、時計塔でも手を焼くようなかなり上位の『死徒』とトラブルを起こした時以来だ。

 

 あの時。報告を受けた彼が顔面蒼白で現場に駆けつけると、そこには完全に虚数の影に沈められ、魔虚羅の剣によって存在ごと消し飛ばされた死徒の残骸と、「あら教授。不審な方がいたので、掃除ついでに少し処理しておきました」と、紅茶を飲みながら微笑む桜の姿があった。

 

 

 

 あの時、彼は胃薬の瓶を丸ごと飲み干した記憶がある。

 

 感じたくもない既視感を、エルメロイⅡ世は必死に頭を振って振り払った。

 

 

『――おかけになった電話は、現在出ることができません。ピーッという発信音の後に、ご用件を……』

 

 

 無機質な、機械音声が、虚しく部屋に響いた。

 

「……クソッ。留守番電話か」

 

 

 エルメロイⅡ世は、乱暴に受話器を叩きつけるようにして置いた。

 

 不安が、さらに重く、黒く、胃にのしかかる。

 

「師匠……」

 

 

 エルメロイⅡ世は、深く息を吐き、両手で顔を覆った後、極めて鋭い、真剣な眼差しでグレイを見据えた。

 

「グレイ。念を押しておく。……この件、冬木で異常が起きているかもしれないということは、絶対に、ルヴィアには伝えるなよ」

 

「ルヴィアさんに、ですか?」

 

「そうだ。まだ何も確定していない段階ではある。……それに、エーデルフェルトの令嬢にとって、『冬木の聖杯戦争』の話は、ただでさえ特大の地雷だ」

 

 

 

 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。

 

 聖杯戦争については、屈辱の歴史を持つ一族の令嬢だ。そして何より、彼女は個人的に、間桐桜という少女を妹のように溺愛し、気に入っている。

 

「……それに、もし、桜が冬木で聖杯戦争という儀式に巻き込まれ、危機に陥っている、可能性を示唆すれば。あのルヴィアが、黙ってロンドンに留まっていると思うか?」

 

 

 グレイは、想像して、ブルッと身震いをした。

 

「……間違いなく、自家用ジェットで極東に単身乗り込むと言い出しますね」

 

「その通りだ。ただでさえ化け物じみた英霊たちが争う戦場に、あのプロレスラー令嬢が乱入してみろ。事態は輪をかけて、手がつけられないほど面倒なことになる。……それだけは、何としても、絶対に阻止しなくてはならない」

 

 

 エルメロイⅡ世は、胃を押さえながら、極めて強めに釘を刺した。

 

 グレイは、コクリと深く頷き、了承する。

 

(……頼むから。頼むから、何も起きないでくれ)

 

 

 彼は、執務椅子の背もたれに深く寄りかかり、遠く離れた極東の空に向かって祈るように目を閉じた。

 

 

 教え子を案じる教師としての純粋な心配と、世界を巻き込む大惨事になることへの恐怖。

 

 そう祈りつつも、彼の胃の激痛は全く治まる気配がない。

 

 今日は一日、書類仕事に集中することなど、到底不可能だろう。重い溜息と共に、長い長い午後を迎えるのであった。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月4日 3時15分(日本標準時) / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 遥か遠く、ロンドンの地で、恩師が胃に穴を開けんばかりの心労を抱えている、その時。

 

 

 間桐桜の住む高層マンションの一室は。

 

 まるで、世界で最も安全で、優しく、穏やかな結界に守られているかのように、静謐で暖かな空気に包まれていた。

 

 部屋の暖房は適温に設定され、間接照明の柔らかなオレンジ色の光が、フローリングの床を照らしている。

 

 ダイニングテーブルの上には、先ほど彼女が帰宅した直後に温め直して食べた、クリームシチューの鍋と、綺麗に洗われた食器が伏せて置かれていた。鶏肉と野菜の優しい香りが、まだ微かに部屋の中に漂っている。

 

 

 ランサーとの、世界を消し飛ばすかのような絶望的な死闘。

 

 神代の英雄の命を冷徹に奪い去り、理外の神将を新たなる進化のステージへと押し上げた、狂気と血に塗れた夜。

 

 

 その直後に帰宅した彼女の行動は、あまりにも『日常』そのものであった。

 

 冷えた身体を温めるために、最高級のバスソルトを入れた湯船にゆっくりと浸かり、その日の疲れを癒す。

 

 丁寧にお肌の手入れをし、お気に入りの、肌触りの良いもこもことしたパジャマに袖を通す。

 

 

 

 そして。

 

 明日の学校の準備をカバンに詰め終えると、彼女はふかふかのベッドへと潜り込んだ。

 

「……すぅ、すぅ……」

 

 

 厚手の、ふんわりとした羽毛布団に包まれながら。

 

 間桐桜は、今まさに、深い夢の世界へと旅立っていた。

 

 

 その寝顔は、ひどく穏やかで、あどけなく、天使のように無防備な姿。

 

 ほんの数時間前、絶対零度の瞳で英霊に死を宣告した、あの完成された魔術師と同一人物であるとは、世界中の誰が見ても信じられないだろう。

 

 

 彼女の目的は、聖杯でも、根源への到達でも、世界征服でもない。

 

 ただ、この暖かなベッドで眠り、明日も学校へ行き、友人たちと談笑し、美味しいご飯を食べる。

 

 その『ささやかで穏やかな日常』を継続すること。ただそれだけなのだ。

 

 

 そのためであれば、彼女はいかなる神代の英雄をも殺し、世界を隔離し、怪物を神の領域へと押し上げることに、一ミリの躊躇いも抱かない。

 

 日常を守るために、絶対的な暴力を容赦なく振るう。

 

 

 

 規則正しい、安らかな寝息。

 

 彼女の足元の影の奥底では、魔虚羅がランサーから奪い取った膨大な情報を咀嚼し、力を蓄え続けているというのに。

 

 主である少女は、ただ幸せそうに、毛布に顔を埋めている。

 

 スヤスヤと眠る彼女は、一体、どんな夢を見ているのだろうか。

 

 

 学校の友人との会話か。

 

 それとも、朝食の献立か。

 

 聖杯戦争という血塗られた狂宴が幕を開けた冬木の夜。

 

 

 その中心で、最も恐ろしく、最も底知れぬ簒奪者は、誰よりも安らかな寝息を立てながら、静かに、そして完璧な平和の中で朝を待っていた。

 

 

五条先生の赫とFateの対軍宝具って、どちらが威力上だろうか。何となくで投票してほしいです。

  • 術式反転・赫
  • 対軍宝具
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