Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第十三章:少女の寝室と、魔術師たちの評定、虚脱の熱に浮かされて】

【記録:2004年2月3日 10時00分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 極東の冷たく澄んだ冬の午前。

 

 分厚い遮光カーテンによって外界の光を完全に遮断された高層マンションの最上階は、まるで深海の底に沈んだかのような、重く、そして圧倒的な静寂に支配されていた。

 

 空調設備が室内の温度と湿度を極めて快適な数値に保ち続ける中、キングサイズの豪奢なベッドの中央で、間桐桜は微かに身じろぎをした。

 

 

 

 彼女は、重い鉛を乗せられたかのような目蓋をゆっくりと押し上げ、薄暗い天井の模様をぼんやりと見つめた。

 

 時刻は、すでに午前十時を回っている。本来であれば、とっくに穂群原学園の教室の自席に座り、授業を受けているはずの時間帯である。だが、今日の彼女の肉体は、ベッドから這い出すことすら億劫に感じるほどの、凄まじい疲労感と気怠さに支配されていた。

 

(……身体が、重いですね。魔術回路が、悲鳴を上げて熱を持っている)

 

 

 桜は、羽毛布団の縁を白魚のような細い指でギュッと握り締め、自身の体内を巡るオドの残量を静かに推し量る。

 

 昨夜の消耗は、彼女の事前の計算を遥かに凌駕する、規格外のスケールであった。

 

 

 

 桜の肉体は現在、彼女自身の生存のための活動よりも、影の奥底で今この瞬間も絶え間なく行われている『魔虚羅の適応データの再構築(アップデート)』のための冷却装置、フル稼働を強いられている状態なのだ。

 

(……英霊との正面からの殺し合い。そして、勝利。……得られた情報は、あまりにも大きい。バーサーカーの肉体が、かつてないほどの熱量で情報の咀嚼を行っているのがわかります)

 

 

 桜は、ベッドの中で小さく息を吐き出す。

 

 その疲労感は、決して不快なものではない。むしろ、自らの愛する無敵の神が、昨夜の供物を喰らい尽くし、さらなる絶対的な高みへと進化していくプロセスを肌で感じられるという、極上の陶酔感すら伴っていた。

 

 

 

 だが。

 

 桜の心を今、最も重く沈ませているのは、肉体的な疲労でも、聖杯戦争という血生臭い闘争への恐怖でもなかった。

 

 彼女の脳裏に、今朝方、目を覚ました直後に行った『一本の電話』の記憶が、黒い染みのように蘇ってくる。

 

 

 

 午前七時。

 

 本来の起床時刻に目を覚ました桜は、リビングのサイドテーブルに置かれた黒電話――ロンドンの時計塔と繋がる暗号通信機が、留守番電話のランプを激しく明滅させていることに気がついた。

 

 

 昨夜、彼女が帰宅し就寝していた時刻、恩師であるロード・エルメロイⅡ世からの緊急の着信が入っていたのだ。

 

 桜は即座に回線を繋ぎ、恩師へと、かけ直しを行った。

 

 

 

 先生からの剣幕は、通信機のスピーカーが割れんばかりの凄まじいものであった。

 

 桜は、電話口で背筋をピンと伸ばし、ただ「申し訳ありません」と、優等生としての謝罪を繰り返した。

 

 

 そして、事の顛末を、極めて論理的かつ事務的に報告した。

 

 全ては防衛と隠蔽のための不可抗力であり、結果として冬木の街の実数空間には、傷一つ、焦げ跡一つ残していないという、完璧な事後処理の報告。

 

 

 

 電話越しの恩師の息遣いは、荒く、そして微かに震えていた。

 

『……私は、貴様に「聖杯戦争には絶対に関わるな」と釘を刺したはずだ。日常を求めているのなら、なぜ逃げるという選択を取らなかった! 』

 

 

 その説教は、実に一時間以上にも及んだ。

 

 魔術師としての戦術の甘さに対する指摘ではない。ただひたすらに、「死ぬかもしれなかった」という事実に対する、純度百パーセントの心配と、彼自身の無力感への苛立ち。

 

 

 桜は、その一時間、一切の反論をすることなく、ただじっと恩師の言葉を受け止め続けていた。

 

 

(……夜遅くまで、本来の時計塔の業務や休息の時間を削って、ずっと通信機の前でわたしからの連絡を待っていてくださったのでしょう。時差を考えれば、ロンドンはまだ前日の夜の時間帯だったはず)

 

 

 桜は、羽毛布団を鼻の先まで引き上げ、自身の体温で温まったシーツの中に顔を埋めた。

 

 

 悲しいわけではない。自分が叱られたことに不満があるわけでもない。

 

 ただ、心の底から『申し訳ない』という思いだけが、彼女の精神をチクチクと苛んでいたのだ。

 

(先生は、時計塔のロードとして、ただでさえ休む暇もないほど忙しい方なのに。派閥の争いや、教室の運営、厄介な魔術犯罪の処理で、毎日胃を痛めていらっしゃるのに。……そんな先生の貴重な時間を、わたしの不始末のせいで、一時間も奪ってしまった。無駄な心配をかけて、心労を増やしてしまった)

 

 

 桜の価値観において、魔術師を殺すことや、神代の英雄をこの世から跡形もなく消し去ることは、息をするのと同じくらい「どうでもいい」作業に過ぎない。

 

 だが、自分に居場所を与えてくれた恩人であるエルメロイⅡ世の『時間と安寧を奪う』ことは、何よりも避けるべき事であった。

 

(……こんな、ちっぽけでくだらない殺し合いなんかのために。先生の時間を、これ以上割かせる分けには、いきません)

 

 

 桜の紫水晶の瞳に、極めて冷酷で、合理的な光が灯る。

 

 これ以上、恩師に心配をかけるわけにはいかない。時計塔の観測網に引っかかるような大規模な魔力行使も、極力控えるべきだ。

 

 

 ならば、結論は一つ。

 

(さっさと、この目障りな儀式を全て『処理』してしまおう)

 

 

 

 自身の日常を脅かし、恩師の胃を痛めさせる原因となっている、残る四騎の英霊とマスターたち。彼らを、影の底の神将の適応の餌として速やかに、かつ完璧に蹂躙し、この血塗られた盤面そのものを物理的に粉砕する。

 

(そして……この戦争が終わったら、一度、ロンドンへ帰還しましょう。ルヴィアさんたちにお願いして、先生の胃の負担を和らげる最高級の茶葉と、極東の珍しいお土産をたくさん買い込んで……先生に、直接お詫びをしに行かなくては)

 

 

 ロンドンの、あの分厚い雲に覆われた雨の街並み。

 

 

 自身が獲得した、もう一つの『日常』。

 

 その未来の風景を脳内で思い描くことだけが、今の桜にとって、重い疲労感を跳ね除けるための唯一の活力であった。

 

(ええ……そのためにも、まずはわたし自身が、完璧な状態(コンディション)を取り戻さなくてはなりません)

 

 

 今は、ただ休むことが先決だ。

 

 昨日の魔力消費は、決して侮れるものではない。初戦で得た「神代の神秘」という莫大な情報群。それを魔虚羅が完全に解析し、自身の霊基へと『適応』のパッチを当て終わるまで、彼女の肉体はサーバーとしての役割を全うしなければならない。

 

(情報の解析と、魔力の回復。……今日は一日、学校はお休みして、このベッドの中でゆっくりと過ごしましょう。明日から、残りのゴミ掃除を本格的に始めるために)

 

 

 間桐桜は、深い羽毛布団に完全に身を沈め、規則正しい寝息を立て始めた。

 

 彼女の足元の影の奥底では、魔槍の呪いと、対軍宝具の破壊の神秘を喰らい尽くした魔虚羅が、新たなる絶望の理を構築するための大いなる演算を、静かに、そして確実に回し続けていた。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月3日 12時45分 / 場所:冬木市 深山町 穂群原学園・屋上】

 

 

 冬の透き通るような青空の下、穂群原学園の屋上には、肌を刺すような冷たい北風が吹き荒れていた。

 

 昼休みの喧騒に沸く校舎内とは完全に切り離された、コンクリートの冷たい無人空間。フェンスの向こう側には、冬木市の穏やかな街並みがパノラマのように広がっている。

 

 

 その屋上の給水塔の陰に、二人の高校生の姿があった。

 

 赤いコートを羽織り、腕を組んで厳しい表情を浮かべる遠坂凛。

 

 そして、その向かい側で、少し居心地の悪そうに首の後ろを掻いている衛宮士郎。

 

 

 彼らは、この昼休みの時間を使い、今後の聖杯戦争を生き抜くための本格的な『軍議』の場を設けていたのだ。

 

「……さて。昨夜の今日で悪いけど、私たちには悠長に休んでいる暇はないわ。衛宮くん、現状の整理と、これからの『マスター捜索』の方針について、すり合わせをしておくわよ」

 

 

 彼女の視線の先、士郎の背後の少し離れた空間には、霊体化したアーチャーが、気配を完全に殺したまま、周囲への警戒を怠らずに無言で待機している。

 

 その圧倒的な実力を持つ英霊が同席しているという事実だけでも、ここがすでに『戦場』の延長線上にあることを否応なしに理解させられた。

 

「ああ、わかってる。……アインツベルンのバーサーカーもそうだが、やっぱり一番不気味なのは、あの『白いバケモノ』だ。あれを操ってるマスターがこの街のどこかにいる限り、俺たちはいつ首を撥ねられるかわからない」

 

 

 士郎の脳裏に、数十メートルの上空から落下してきて、無機質な法輪を回しながらセイバーを圧倒した、あの冒涜的な巨体のシルエットが蘇る。思い出しただけでも、右手の甲の令呪がヒリヒリと痛むような錯覚を覚えた。

 

「その通りよ。だからこそ、私たちから動いて、街に潜むマスターたちを、炙り出す必要がある。……そこで、衛宮くんに聞きたいのだけど」

 

 

 凛は、一歩だけ士郎へと距離を詰め、その鋭い双眸で彼を真っ直ぐに見つめた。

 

「あなた、この学校の生徒や、冬木の住人の中で、魔術に関わりがありそうな人間の『心当たり』はない? どんな些細な違和感でもいいわ。今回の聖杯戦争は、前回の第四次からたった十年しか経っていないイレギュラー。本来選ばれるはずのない人間が、令呪を宿している可能性は極めて高いのよ」

 

 

 士郎は、腕を組みながら空を見上げ、記憶の糸を必死に手繰り寄せた。

 

 養父であった衛宮切嗣は、魔術の世界のことはほとんど士郎に教えずにこの世を去ってしまった。だから、彼には「魔術社会」の繋がりなど皆無に等しい。

 

「心当たりって言われてもな……。俺が知ってる魔術師なんて、親父と、遠坂くらいなもんで……。」

 

 

 不意に、士郎の脳内にある一つの『名前』が、引っかかりを覚えた。

 

 それは、昨日の放課後、彼が廊下でストーブの修理をしていた際に、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべて声をかけてきた、あの美しい後輩の姿。

 

「……間桐。間桐桜は、どうなんだ?」

 

 

 士郎の口からその名前が出た瞬間。

 

 屋上を吹き抜ける風の音が、一瞬だけ止んだように感じられた。

 

「……」

 

 

 凛の表情が、ピクリと凍りついた。

 

 彼女の瞳の奥に、瞬時にして様々な感情――警戒、疑念、そして僅かな痛痒のようなものが複雑に絡み合い、そしてすぐに、氷のように冷たく分厚い『魔術師の仮面』の下へと覆い隠された。

 

「間桐桜……。あなたが、あの子の名前を挙げるのね」

 

 

 凛は、深く、冷たい溜息を吐き出した。

 

「……ええ。聖杯戦争という儀式を理解する上で、避けては通れない名前よ。少し、歴史の授業をしてあげるわ」

 

 

 屋上のフェンスに寄りかかり、遠く円蔵山の山頂――大聖杯が眠る霊脈の中枢へと視線を向けながら、重々しい口調で語り始めた。

 

「この冬木の地で行われる聖杯戦争。そのシステムを二百年前に構築したのは、『御三家』と呼ばれる三つの魔術家系なの。……一つは、この土地の霊脈を提供した管理者である、私の家、遠坂。もう一つが、聖杯の器となるホムンクルスを錬金術で作り上げる、アインツベルン。」

 

 

 士郎は無言で頷く。あの雪の妖精のような、しかし無慈悲な殺意を持った少女の姿は、深く記憶に刻まれている。

 

「そして、最後の一つ。英霊を縛り付けるための『令呪』のシステムを考案し、マスターの選別機構を作り上げた家系。……それが、マキリ。極東の地に渡り、名を改めた魔術の血族――『間桐』家よ」

 

「っ……! じゃあ、桜も、聖杯戦争に関わってるマスターなのか!?」

 

 

 だが、凛はゆっくりと首を横に振った。その顔には、隠しきれない渋い色が張り付いている。

 

「……それが、そう単純な話でもないのよ」

 

 

 凛は、腕を組み直し、眉間を深く寄せた。

 

「確かに、間桐は御三家の一つであり、生粋の魔術家系よ。だけど、その家系は、魔術の世界においては『とうの昔に終わった』血筋なの。魔術回路を持つ後継者が生まれなくなり、血は薄れ、衰退の一途を辿っていた。……そして何より、約十年前の前回の聖杯戦争の直後、当主が、跡形もなく消滅したのよ」

 

「当主が、消滅……?」

 

「ええ。後継者だった人も死に絶え、間桐の屋敷は放棄され、魔術の秘伝も全て失われた。時計塔という魔術協会の調査でも、間桐の魔術の痕跡は完全に『ゼロ』になったと結論付けられているわ。つまり、魔術の家系としての間桐は、すでに完全に滅亡しているの」

 

 

 凛の言葉は、冷徹な事実の羅列であった。

 

 だからこそ、士郎の混乱は深まるばかりだ。

 

「滅亡してるって……。でも、桜は現に間桐の人間として、この学校に通ってるじゃないか。あいつは魔術師じゃないのか?」

 

「……そこが、最大の『不明点』なのよ」

 

 

 凛は、忌々しそうに舌打ちをした。

 

 彼女自身、冬木の管理者として、かつて妹であった間桐桜の動向を調査しようと試みたことは何度もある。だが、その結果は常に不自然なまでの「空白」であった。

 

「間桐家が崩壊した後、彼女がどこで、誰に保護され、どうやって育ってきたのか。私の情報網を使っても、一切の痕跡を辿ることができなかった。……まるで、誰かが意図的に、彼女の過去数年間の存在を、『隠蔽』していたかのようにね」

 

 

 凛の脳裏に、夕暮れの交差点ですれ違った桜の姿が浮かぶ。

 

 あの、異常なまでの静寂。魔力の一切を感じさせない、完璧なまでの無害なオーラ。それが逆に、凛の魔術師としての直感に、底知れぬ気味の悪さを抱かせていた。

 

「彼女がこの冬木に姿を現し、新都のマンションに越してきたのは、去年の冬のことよ。表向きは『遠方の親戚の後見の下、一人暮らしをしている』ということになっているけれど……その親戚が誰なのか、資金源がどこから出ているのかも、全くの不明。彼女が一般人として真っ当に育ってきたのか、それとも、どこかの魔術家系の庇護下で魔術師としての教育を受けてきたのか。……全く、何も分からないのよ」

 

 

 凛の言葉の重みに、士郎は息を呑んだ。

 

 ただの一般人だと思っていた後輩が、実は底知れぬ闇を抱えたミステリーの中心にいる。

 

「だからこそ、調べてみる必要があるわ」

 

 

 凛は、決意を固めたように顔を上げた。その瞳には、遠坂の当主としての鋭い刃のような光が宿っている。

 

「彼女の住んでいる新都のマンションの住所は、すでに掴んであるわ。彼女は、聖杯戦争に関わっているのか。今の段階では、全てがただの推測に過ぎない。でも、手掛かりがない以上、不確定要素は一つ一つ、確実に潰していくしかないの」

 

「調べるって……どうやって?」

 

「今日の夜、アーチャーを単独で向かわせるわ。彼女のマンションに、ね」

 

 

 凛の爆弾発言に、士郎は弾かれたように身を乗り出した。

 

「なっ……!? ちょっと待て遠坂! アーチャーを向かわせるって、桜を襲うつもりか!? あいつが一般人だったらどうするんだ!」

 

「落ち着きなさい、馬鹿! 襲うわけないでしょ!」

 

 

 凛は、慌てて士郎の頭を小突いて黙らせた。

 

「あくまで『探りを入れる』だけよ。本格的に仕掛けるわけじゃない。サーヴァントであるアーチャーを霊体化させて潜入させるだけの、純粋な情報収集よ」

 

「……それなら、俺も行く。一人で行って何かあったら――」

 

「却下よ」

 

 

 士郎の提案を、凛は氷のように冷たく、一切の妥協を許さない声で切り捨てた。

 

「いい? 私たちが二人揃って、サーヴァントを二騎も引き連れてノコノコと出向いてみなさい。もし相手が本当にマスターで、罠を張っていた場合、それは完全な『宣戦布告』として受け取られるわ。乱戦になれば、一般人を巻き込む被害が出るかもしれない。……それに、アーチャー単体なら、気配を完全に断って自由に行動できるし、万が一の時も霊体化して即座に撤退できる。マスターがのこのこついて行くのは、ただの足手まといなのよ」

 

 

 論理的で、反論の余地のない正論。

 

 士郎は唇を噛み締め、不満そうに拳を握ったが、最後には渋々と頷くしかなかった。

 

「……わかった。気を付けてな。」

 

「大丈夫よ、何か異常があればすぐにアーチャーを撤退させるし、掴んだ情報はちゃんとあなたとも共有するから。……私たちは同盟相手なんだから、そこは信用しなさい」

 

 

 凛は、士郎を安心させるように、少しだけ口角を上げて微笑んだ。

 

 昼休みの終わりのチャイムが、学園に鳴り響く。

 

「さあ、じゃあここまで。完全に日が落ちてから行ってくるから」

 

 

 凛はコートの裾を翻し、屋上の扉へと向かって歩き出した。

 

 後に残された士郎は、冬木の澄んだ青空を見上げながら、自分の中に芽生えた小さな不安の種を、必死に押し殺そうとしていた。

 

(桜が、魔術師……。)

 

 

 聖杯戦争の狂気は、すでに彼らの日常の足元まで、音もなく忍び寄っていた。

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月3日 19時30分 / 場所:冬木市 新都・高層マンション周辺】

 

 

 冬木の夜は早い。

 

 午後七時を回る頃には、太陽はとうに西の稜線の向こうへと沈み切り、街は人工的なネオンの瞬きと、底冷えのする暗い夜の帳に完全に覆い尽くされていた。

 

 新都の繁華街から少し離れた、閑静な区画にそびえ立つ一棟の豪奢な高層マンション。

 

 

 その巨大な建造物を、数百メートル離れた別の雑居ビルの屋上から、獲物を狙う鷹のような鋭い視線で見下ろしている影があった。

 

「――あそこ、か」

 

 

 赤い外套を冷たい夜風に翻し、弓兵の英霊――アーチャーは、自身の卓越した千里眼を用いて、目標となるマンションの構造を舐め回すように観察していた。

 

 彼のマスターである遠坂凛は、ここからさらに数ブロック離れた路地裏の暗がりに身を潜め、彼と念話のパスを繋いで待機している。

 

『……どう、アーチャー。何か異常は感知できる? 結界の気配とか、使い魔が潜んでいる痕跡は?』

 

 

 脳内に直接響く、マスターの凛とした、しかし微かな緊張を孕んだ声。

 

「いや、今のところは特に何もない。魔力の漏出も、魔術師特有のオドの匂いも、何一つとして感知できない。……まるで、無菌室のように綺麗すぎるほどだ」

 

『そう。……でも、油断しないで。間桐の家は没落したとはいえ、あの子は正真正銘の魔術師の血筋よ。何も見えないからこそ、逆に警戒するべきだわ』

 

「分かっている。これより接近し、直接屋上へと降り立って解析を行う。……何かあれば、すぐに離脱する」

 

 

 アーチャーは短く念話を切ると、ビルの縁を蹴り、重力を無視したような跳躍で夜の虚空へと躍り出た。

 

 数回の跳躍の後、彼は目標である高層マンションの最上階、そのさらに上にある広大な屋上へと、枯れ葉が落ちるよりも静かに、一切の足音を立てることなく着地を果たした。

 

 コンクリートの平坦な屋上。貯水タンクや空調の室外機が等間隔に並んでいるだけの、どこにでもある現代の無機質な風景。

 

 

 だが、その屋上の床にブーツの底が触れた瞬間。

 

「…………ッ?」

 

 

 アーチャーの眉間が、微かにピクリと跳ねた。

 

 彼の英霊としての、幾多の死線を潜り抜けてきた本能――『直感』に近い危険察知能力が、首筋に冷たい刃を当てられたような、説明のつかない不快なアラートを鳴らし始めたのだ。

 

 

 邪悪な気配がするわけではない。

 

 強力な神秘の圧力が空間を支配しているわけでもない。

 

 

 だが、何かが、決定的におかしい。

 

(……この空間、現実感が希薄だ……? いや、違う。これは……)

 

 

 アーチャーは、その場に片膝をつき、コンクリートの床に手を当てた。

 

 材質はコンクリート。鉄筋の配置。経年劣化の度合い。

 

 返ってくる情報は、全て「正常な現代の建造物」であることを示している。

 

 

 だが、その「正常さ」こそが、逆に異常なのだ。

 

(……一流の魔術師が張る結界は、結界が張られていることすら対象に気づかせないというが。……これは、その極致か。空間に、全く異なる『法則』が働いているような、吐き気を催すほどの違和感。足元のコンクリートが、まるで薄っぺらい紙切れ一枚の『絵』でしかないような、底知れぬ空虚さだ)

 

 

 アーチャーの額に、一筋の冷たい汗が滲んだ。

 

 魔術的な防御壁があるわけではない。ただ、ここから一歩でも、このマンションの内部(深層)へと踏み込んでしまえば、二度と元の世界には戻ってこられないのではないかという、理屈を超えた強烈な忌避感。

 

 

 そこには、間違いなく『何か』が眠っている。

 

 静かに、そして絶対的な捕食者として、領域に踏み込む獲物を待ち構えている。

 

 (……これ以上、先に進むのはマズいな。ただの一般人では断じてない。ここは引き返すのが――)

 

 

 アーチャーが、これ以上の潜入は無意味かつ致命的なリスクを伴うと判断し、立ち上がろうとした、その時だった。

 

「――あら。こんなところで、何をしているんですか?」

 

 

「――――ッ!!」

 

 

 アーチャーの全身の筋肉が、鋼のように硬直する。

 

 声は、彼の『真横』から聞こえた。距離にして、わずか数メートル。

 

 

 あり得ない。

 

 英霊としての彼の探知能力は、全方位の気配を完全に補足していたはずだ。それなのに、彼が全く感知できないまま、いつの間にか屋上へと続く重い鉄の扉が開き、そこに『何者か』が立っていたのだ。

 

 扉が開く金属音も、蝶番の軋む音も、微かな衣擦れの音すらも、一切聞こえなかった。

 

 

 

 バッと音を立てて振り返る。

 

 月明かりに照らされた屋上の出入り口。

 

 そこに立っていたのは、紫色の髪を夜風に揺らし、部屋着の上に一枚カーディガンを羽織っただけの、一人の少女だった。

 

 

 間桐桜。

 

 昼間、凛が語っていた、このマンションの住人であり、没落した魔術家系の生き残り。

 

(いつから、そこにいた……? どうやって、私の気配察知を完全にすり抜けた……?)

 

 

 彼女の足元に伸びる影が、周囲の夜の闇よりもさらに暗く、まるで底なしの沼のようにドロリと歪んで見えたのは、果たして錯覚だろうか。

 

「いや、驚かせてすまない。夜風に当たっていたら、迷い込んでしまってね」

 

 

 アーチャーは、両手を軽く挙げて敵意がないことを示しながら、ひどく軽薄な、夜の散歩を楽しむ不審者のような口調で誤魔化した。

 

「……迷い込んだ、ですか」

 

 

 桜は、小首をこてんと傾げた。

 

 その瞳は、紫水晶のように美しく透き通っているが、アーチャーの言葉の真偽など最初からどうでもいいと言わんばかりの、静かで、底知れぬ凪いだ水面のような色をしていた。

 

「高層マンションの屋上に、下から迷い込んでくるなんて、随分と珍しいこともあるのですね。……それに、見慣れない顔ですが。このマンションの住人の方ではないですよね?」

 

「ああ、生憎と他所者でね。ただの通りすがりの、しがない外国人さ。……それより君のような可愛らしいお嬢さんが、こんな夜更けに屋上に一人でいるのは、不用心ではないかね?」

 

 

 アーチャーは、軽口を叩きながらも、彼女の魔術回路の動き、呼吸、視線の僅かな揺らぎまでを完璧に観測しようと努めた。

 

 

 だが、何も見えない。魔力の一滴すら感じ取れない。

 

 ただ、彼女がそこに立っているという『事実』だけが、周囲の空間を圧倒的な静謐で支配している。

 

 

 互いに、これ以上深く踏み込むことはしない。アーチャーは彼女が魔術師であることを確信し、桜もまた、目の前の男が不審者ではなく、サーヴァントであることを完全に理解した上での、白々しい腹の探り合い。

 

 

 やがて、桜はふわりと、愛らしい――しかし、どこか無機質な微笑みを浮かべた。

 

「そうですか。なら、よかったです。……最近、冬木の街はとても物騒ですからね。夜の散歩もほどほどにして、早くお帰りになった方がいいですよ」

 

 

 それは、親切な女子高生からの忠告のようであり。

 

 同時に、「これ以上踏み込めば、お前の命はない」という、無慈悲な警告のようでもあった。

 

「……ああ、そうさせてもらうよ。良い夜を、お嬢さん」

 

「ええ。……お気をつけて、お帰りくださいね」

 

 

 桜は、丁寧にお辞儀をし、静かに背を向けた。

 

 そして、屋上の扉の向こうの暗がりへと、音もなく消えていく。

 

 

 

 バタン、と。

 

 扉が閉まり、屋上には再び、アーチャーただ一人が取り残された。

 

(……間違いない。アレは、一般人などというチャチなものではない。……間違いなく、こちら側の、それも極北に位置するような、狂った住人だ)

 

 

 あの少女を、ただの没落した家系の生き残りなどと侮れば、間違いなく足元から全てを喰い殺される。

 

 アーチャーは、すぐさま念話のパスを開き、待機している凛へとこの事実を共有すべく、夜の闇へとその身を躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【記録:2004年2月3日 19時45分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 屋上の扉を閉め、冷たいコンクリートの階段をゆっくりと下りながら、間桐桜の表情からは先ほどの「穏やかな少女」の仮面が、音もなく剥がれ落ちていた。

 

(遠坂先輩。……ついに、こちらにも探りを入れてきましたね)

 

 

 桜は、自身の自室がある最上階の廊下を歩きながら、冷徹な思考の海へと沈み込んでいく。

 

(まあ、あくまでも偵察程度でしょう。こちらに気づかれないように、結界の有無や魔力の波長を探りに来た。……でも、その探りが私に完全にバレていると気づけば、……向こうも馬鹿ではない。今日のところは大人しく引くはずです)

 

 

 同盟相手であると思われる、もう一つの陣営――衛宮士郎やそのサーヴァントを連れてきていないということは、今すぐここで本格的な戦闘(ドンパチ)を始めるのが目的ではないという明確な証拠だ。

 

 それに、桜はすでに自身のマンションの周囲数キロメートルに渡って、虚数の鳥による完璧な警戒網を敷いている。その監視網の映像には、アーチャー以外に近づく者の姿は映っていなかった。

 

(同盟相手が近くに配置されていないのであれば、やはりあくまで探りが目的。……そして、アーチャーの反応を見る限り、ここから単独で本格戦闘を仕掛けてくるほど、敵は浅はかではないと理解できました)

 

 

 一種の評価。正確な戦力分析。

 

 相手が慎重な手合いであるからこそ、逆に桜にとっては好都合であった。

 

 

 ガチャリと鍵を開け、自室のリビングへと足を踏み入れる。

 

 暖房の効いた部屋の空気に触れた瞬間、桜の華奢な身体が、グラリと大きく傾いた。

 

「……っ、はぁ……」

 

 

 彼女は、壁に手をつき、何とか崩れ落ちるのを堪えながら、けだるげな身体をズルズルと引きずるようにして奥の寝室へと向かった。

 

(……身体が、熱い。魔力の消費の反動が、まだ抜けきっていませんね)

 

 

 彼女は一日中ベッドで休息を取っていた。

 

 だが、昨夜の戦闘において、実数空間を虚数の位相へと沈め、『未確定証明圏』を展開・維持したことによる絶大な魔力消費。そして、魔虚羅がランサーの宝具の概念を喰らい、現在進行形で新たな理を構築していることによる、自身の魂への強烈なフィードバック。

 

 

 それらの負荷が、桜の魔術回路を極度に飢餓状態に陥らせていた。

 

 枯渇した回路が、周囲の空間から微量なマナを強引に吸い上げようと稼働し続けることで、彼女の肉体には、高熱の風邪を引いたような、気怠く、そしてひどく熱を帯びた『虚脱感』が重くのしかかっていたのだ。

 

 

 ベッドの縁に腰掛け、大きく息を吐く。

 

 頬が異常に熱い。呼吸が浅く、肌が微かに汗ばんでいる。

 

(……今朝の先生との会話で、さっさとこの戦争を終わらせたいという思いが、私の中でずっと燻ってる。……それゆえに、先ほどアーチャーが屋上に現れた時……)

 

 

 あの時。屋上の扉を開け、アーチャーと対峙した瞬間。

 

 彼女の脳裏に、『今すぐここでバーサーカーを呼び出し、あのアーチャーを喰い殺してしまおうか』という、極めて暴力的で衝動的な思いが湧き上がっていた。

 

 

 敵である彼女のサーヴァントが、自身のテリトリーであるマンションに足を踏み入れた。

 

 使い魔の視界の共有を通じて、遠く離れた場所にいる遠坂凛の顔が、桜の脳内にチラつく。

 

 肉親であり、魔術師としての姉であり、そして自身の日常を脅かす敵。その彼女の存在が、桜の狂信と合理性の裏側に隠された、ドロドロとした感情の海を微かに揺さぶっていたのだ。

 

(……ダメ。感情が揺れてる。身体に、不快なほどの熱い刺激が走ってる)

 

 

 桜は、ベッドに倒れ込むようにして横たわり、荒い呼吸を繰り返した。

 

 

 だが、彼女は聡明な魔術師だ。

 

 今の自分が、万全のコンディションではないということを、誰よりも正確に理解している。

 

 魔力が回復しきっておらず、魔虚羅の適応のアップデートも完了していないこの状態で、英霊と戦闘を行うことが、いかに愚かなことか。

 

 

 もしここで感情に任せて仕掛ければ、隙を生み、逆に相手に致命的な反撃のチャンスを与えてしまうかもしれない。

 

(今は、休まなくては。……この身体の熱の高ぶりを、感情の揺らぎを、抑え込まなくては)

 

 

 彼女は、奥歯を噛み締め、その理不尽な衝動と熱を鎮めようと必死に堪えた。

 

 ベッドの冷たいシーツに身体を擦り付けるが、体内の奥底から湧き上がってくる熱は、一向に冷める気配がない。

 

 

 それは、敵意なのだろうか。殺意なのだろうか。あるいは、闘争本能がもたらす狂乱なのだろうか。自分でも、この感情の正体が分からない。

 

 だが、この熱に流されてしまえば、良くない結果を引き起こすということだけは、冷徹な理性が警告していた。

 

(……鎮め、なくては。早く、平常心に……)

 

 

 桜は、熱に浮かされたように虚ろな瞳を潤ませながら。

 

 その感情の暴走を強制的に排出し、理性を保つための『安全弁』を開くようにして。

 

 ゆっくりと、自らの部屋着のスカートの中へと、白く細い手を伸ばした。

 

「……ぁ……っ」

 

 

 暗い寝室に、甘く、そしてひどく熱を帯びた吐息が漏れる。

 

 彼女の指先が、自身の秘所へと触れ、ゆっくりと、しかし確かなリズムで動き始めた。

 

 

 それは、純粋な色欲からくる行為ではない。

 

 魔力枯渇による虚脱感が引き起こした生理的な発熱と、遠坂凛という存在がもたらした得体の知れない感情の揺らぎ。それらが混ざり合い、行き場を失って暴走しようとしているエネルギーを、最も原始的で、最も直接的な快楽の回路を通じて、体外へと強制的に放熱(パージ)するための、極めて機械的で、しかしどうしようもなく歪な『儀式』であった。

 

「……はぁっ……、ん、く……っ」

 

 

 シーツを握り締める左手に、力が籠る。

 

 下半身で動く指先の刺激が、脳髄に蓄積された魔術回路の熱を、ビリビリと溶かしていく。

 

 

 桜は、この熱に溺れまいと、無心で指を動かし続けた。

 

 敵への殺意、日常を脅かされることへの怒り、そして、絶対的な力を持つ魔虚羅への狂おしいほどの依存心。

 

 それらのどす黒い感情が、快楽という形に変換され、彼女の体内を駆け巡る。

 

「……あ、ぁあ……っ……」

 

 

 ただ、この熱を冷まさなければならない。

 

 彼らを完璧に蹂躙し、絶対的な勝利を手にするために。この完璧な日常を取り戻し、ロンドンの恩師の元へ帰るために。

 

 熱に浮かされたまま、彼女の指の動きは次第に激しさを増していく。

 

 暗闇の中で、甘い吐息と、シーツの擦れる音、そして水気を帯びた生々しい水音が、ひっそりと重なり合う。

 

「……んんっ……! ぁ、あ……ッ!!」

 

 

 やがて、極限まで張り詰めていた感情の糸が弾け飛び。

 

 

 桜の身体が大きく弓なりに跳ねた。

 

 脳が真っ白に焼き切れるような絶頂と共に、体内に鬱積していた魔力の熱と感情の暴走が、一気に体外へと放出される。

 

 熱い液体が、彼女の太ももを伝い、真っ白なベッドのシーツを濃い染みとなって濡らしていった。

 

「……はぁっ……、……はぁっ……」

 

 

 激しい呼吸を繰り返しながら、桜はベッドに倒れ込む。

 

 全身の力が抜け、心地よい疲労感と、強制的な放熱による冷たさが、彼女の肉体を包み込んでいく。

 

 

 ゆっくりと目を開ける。

 

 そこにあったのは、先ほどまでの熱に浮かされたような虚ろな瞳ではない。

 

 完全に熱を排出し、理性を、そして氷のように冷徹な『魔術師としての論理』を取り戻した、紫水晶の凪いだ双眸であった。

 

(……ええ。これで、大丈夫です)

 

 

 桜は、乱れた呼吸を整えながら、シーツの濡れた感触を不快に思うこともなく、冷たく笑った。

 

 余計な熱は、全て捨て去った。感情の揺らぎも、もうない。

 

 彼女の魂は再び、絶対零度の観測者として、完璧な状態へと研ぎ澄まされた。

 

 

 

 ここからだ。

 

 まだまだ、戦いは終わらない。

 

 自身の影の底で眠る無敵の神が、新たな適応のデータを完全に消化し終える時。

 

 

 彼女は明日を見据え、その冷徹な殺意と共に、さらに本格的に聖杯戦争の盤面へと動き出す。

 

 冬木の夜は深く、そして狂気に満ちた静寂の中で、確実に次の惨劇へのカウントダウンを刻んでいた。

 

 




評価と感想ありがとうございます。
やはり活力になるので、全て目を通してます!!

あと誤字報告も助かってます。
一応、二重でチェックはしてますけど、どうしても漏れてしまう部分があるので。


五条先生の赫とFateの対軍宝具って、どちらが威力上だろうか。何となくで投票してほしいです。

  • 術式反転・赫
  • 対軍宝具
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