Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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日常編
【第一章 :新たなる日常、あるいは虚数の影に咲く花】


【記録:1998年〜2003年 / 場所:英国・ロンドン 魔術協会本部『時計塔』周辺】

 

 

 霧と雨の都、ロンドン。

 

 歴史の重みと魔術師たちの妄執が石畳の隙間にまで染み込んだこの街の片隅で、間桐桜の「空白の数年間」は静かに、そして密やかに紡がれていた。

 

 時計塔という巨大な権力機構の目を欺き、極東から「世界を滅ぼしかねない厄災」を密輸したロード・エルメロイⅡ世。彼が桜に与えたのは、ただの無償の同情や哀れみではなかった。

 

 魔術師の世界において、無償の保護など存在しない。ましてや、桜は遠坂の血を引き、間桐の術式を植え付けられた特異な存在である。理由なき善意は、かえって彼女の精神に「自分にはそれを受ける価値がない」という罪悪感と猜疑心を植え付けてしまう。エルメロイⅡ世はその機微を、誰よりも正確に理解していた。

 

 

 故に、彼は桜の前に一枚の羊皮紙を置き、あくまで「魔術師としての取引」を持ちかけた。

 

 

「――君への魔術指導、生活基盤の保障、そして君の影に潜む”アレ”を時計塔から秘匿し続けること。それらの代償として、君には将来的に『エルメロイ教室への貢献』を約束してもらう。これはビジネスであり、君という特異な才能に対する投資だ」

 

 

 気難しそうに眉間を寄せ、胃薬を水で流し込みながら語るその男の姿を、桜は今でも鮮明に覚えている。

 

 それは、遠坂の父から向けられたような「魔術師としての期待」でもなく、間桐臓硯から向けられた「醜悪な愉悦」でもなかった。

 

 不器用で、ひどく回りくどい、一人の人間としての「優しさ」。

 

 契約という絶対のルールがあるからこそ、桜はロンドンの地で「ここに居ていいのだ」という確かな居場所を得ることができたのである。

 

 

 エルメロイⅡ世の指導は、徹底的かつ論理的であった。

 

 桜が本来持っている稀有なる魔術属性――実数空間に存在しない「虚」。間桐の蟲によって無理やり水属性へと歪められかけていたその回路を、彼は膨大な知識と解読の才能をもって、本来の美しくも恐ろしい形へと再構築していった。

 

 

 暗く冷たい地下の修練場。

 

 桜は自身の足元に広がる泥沼のような影を見つめ、そこに潜む絶対的な神、魔虚羅の気配を感じながら、自身の魔力を編み上げていく。

 

 ただ本能のままに暴走させるのではない。エルメロイⅡ世が彼女に教え込んだのは、虚数位相への沈降を基盤とした複合術式体系、虚数魔術の論理の結晶であった。

 

 

「……いいか、桜。君の影は、世界に開いた底なしの穴だ。だが、穴に呑まれてはならない。君自身がその穴の縁に立ち、手綱を握るんだ」

 

 

 先生の厳しくも温かい声が、常に彼女の意識を現実世界へと繋ぎ止める。

 

 《ホロウ・シェイド》による事象の収納。《イマジナリ・シンク》による存在の透過。そして、対象の存在維持エネルギーそのものを奪う《イマジナリ・プレデター》。

 

 年月を重ねるごとに、桜は自身の内に眠る底知れない魔力を完全に掌握していった。それは、かつての蟲蔵で泣き叫ぶしかできなかった無力な少女の姿からは、想像もつかないほどの劇的な進化であった。

 

 魔虚羅という絶対の暴力が影の底で静かに微睡み続けることができるのも、桜自身の精神と魔術回路が、揺るぎない安定を獲得したからに他ならない。

 

 

 そして、ロンドンでの生活は、魔術の研鑽だけではなかった。

 

 エルメロイ教室という特異な環境は、桜に多くの「人間としての温もり」を与えてくれた。

 

 中でも、彼女にとって特別だったのは、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトという誇り高き金髪の少女との出会いである。

 

 

「まったく、先生も人が悪いですわ! こんなに可愛らしくて優秀な妹分を隠していたなんて!」

 

 

 初めて会った日、ルヴィアは高笑いと共に桜の手を取り、高級なティーセットの並ぶテーブルへと強引に引き合わせた。

 

 エーデルフェルト家の次期当主である彼女は、持ち前の面倒見の良さと貴族的なプライドで、桜を本当の妹のように可愛がった。最新のファッション、最高級の紅茶の淹れ方、そして魔術師としての誇り高き振る舞い。

 

 桜の表層に形成された、誰に対しても自然で愛想が良く、それでいて気品と余裕を崩さない、そんなパーソナリティは、ルヴィアからの影響と教育の賜物であった。

 

 

(ルヴィアさん……いつも少し強引だけれど、とても温かい人)

 

 

 今の彼女の心には、自己否定や卑屈さは存在しない。

 

 エルメロイⅡ世とルヴィア、そして教室の仲間たちから与えられた愛情が、彼女の本質である「他者への深い共感と優しさ」を、歪むことなく真っ直ぐに育て上げたのだ。

 

 

 だが、同時に彼女は魔術師でもある。

 

 目的のためならば手段を選ばず、命のやり取りにすら感情を乱さない。その「冷徹さ」は、エルメロイⅡ世の元で魔術の深淵を覗き込み続けた結果として、彼女の内に静かに、しかし確固たるものとして根を下ろしていた。

 

 

 人間としての善性と、魔術師としての冷徹な合理性。

 

 そんな二つの性質を同居させる、美しくも底知れない少女。それが、成長した間桐桜の完成形であった。

 

     

 

 

 

 

 

【記録:2004年春 某日 20時00分 / 場所:日本・冬木市 新都の高層マンションの一室】

 

 

 そして現在。桜は十五歳になっていた。

 

 中学の半ば、彼女は自らの意志でエルメロイⅡ世に一つの要望を出し、極東の地、冬木へと帰還を果たしていた。

 

 理由は単純である。彼女にとって冬木は、思い出したくもないトラウマの地ではなく、「自分を救ってくれた神が顕現した、奇跡の故郷」であったからだ。

 

 桜の精神的な安定と、魔術師としての十分な実力を認めたエルメロイⅡ世は、いくつかの厳重なルール――魔虚羅を無闇に顕現させないこと、異常があれば即座に報告すること――を課した上で、彼女の冬木帰還を許可した。

 

 

 夜の帳が下りた冬木市。

 

 新都の立ち並ぶビル群を望む、セキュリティの行き届いた高級マンションの一室。エルメロイⅡ世の資金援助によって用意されたその部屋は、生活感がありながらも無駄なものが一切なく、モデルルームのように整頓されていた。

 

 キッチンには、ほのかに甘いダージリンの香りが漂っている。

 

 桜は、ルヴィアから贈られたアンティークのティーカップに丁寧に紅茶を注ぎ、ふわりと立ち上る湯気を静かに見つめていた。

 

 彼女の服装は、白を基調としたゆったりとしたルームウェア。流れるような紫の髪は丁寧に梳かれ、照明の光を受けて艶やかに輝いている。その横顔は、十五歳という年齢からかけ離れた、どこか神聖さすら感じさせる静謐な美しさを湛えていた。

 

 

 明日から、高校生活が始まる。

 

 穂群原学園。冬木の地にある、ごく一般的な教育機関。魔術とは無縁の、眩しいほどの「日常」がそこには待っている。

 

 

(……高校生、か)

 

 

 カップを口元へ運び、一口だけ紅茶を含む。

 

 舌の上に広がる上品な渋みと香りを楽しみながら、桜はふと、自身の足元へと視線を落とした。

 

 リビングの暖かな照明に照らされて、フローリングの床には彼女自身の影がくっきりと伸びている。その影は、物理法則通りにそこにあるだけで、今は何の異常な脈動も見せてはいない。

 

 だが、桜には分かる。この薄皮一枚隔てた虚数の海の底で、純白の巨人が静かに、しかし確かな重力を持って自分を守護してくれていることが。

 

 

 

 その時だった。

 

 静寂に包まれたリビングに、電子的なコール音が鳴り響いた。

 

 サイドテーブルに置かれた、時計塔との暗号通信用に特別に調整された旧式の黒電話。それが、低く重々しい音を立てて震えている。

 

 桜はカップをソーサーに戻し、音もなく立ち上がって受話器を取った。

 

「はい。間桐です」

 

 

『……私だ。息災か、桜』

 

 

 受話器の向こうから聞こえてきたのは、ロンドンにいるはずの恩師の声だった。

 

 常に何かに急かされているような、低く、少しだけ不機嫌さを感じさせる声。だが、その根底にある気遣いを、桜が聞き逃すはずもなかった。

 

「はい、先生。こんばんは。そちらはまだ、お昼過ぎですね。ちゃんと胃薬は飲んでいますか?」

 

 

『余計な世話だ。私の胃の不調の七割は、お前の影にいる怪物のせいだからな』

 

 

 

 ふっ、と。

 

 桜の唇から、自然な笑みがこぼれる。

 

『……それで、そっちの状況はどうだ。霊脈に妙な乱れはないか? お前の魔力回路に負荷はかかっていないか? 何か少しでも異常があれば、すぐに……』

 

「大丈夫ですよ、先生。霊脈は静かですし、わたしの魔力も安定しています。バーサーカーも、影の奥底でとても大人しくしてくれていますから」

 

 

 桜の落ち着いた声に、電話口の向こうでエルメロイⅡ世が短く息を吐き出す音が聞こえた。それは、張り詰めていた緊張の糸を少しだけ緩めるような、安堵の吐息。

 

「わざわざ定期報告の日にちを早めてまでお電話をくださるなんて。……もしかして、先生、わたしのことが心配で夜も眠れなかったんですか?」

 

『莫迦を言え。明日からお前が高校という厄介な社会機構に組み込まれるにあたって、余計なトラブルを起こさないよう、念を押しておこうと思っただけだ。魔術師としての振る舞いと、一般人としての振る舞い。その境界線を見誤るなよ』

 

「ふふっ、はい。心得ています」

 

 エルメロイⅡ世の不器用な小言に、桜はくすくすと笑い声を立てた。

 

 彼はいつだってそうだ。絶対に素直に心配の言葉を口にしない。けれど、その行動の全てが、桜という一人の少女の未来を真剣に案じてくれているが故のものなのだ。

 

 

『……それと』

 

 

 エルメロイⅡ世が、少しだけ言葉を濁す。

 

「あー……なんだ。その。……入学、おめでとう」

 

「……!」

 

 

 予想外の、しかし何よりも欲しかったその一言に、桜の目は僅かに見開かれ、そして、ゆっくりと細められた。

 

 胸の奥に、温かいお茶を飲んだ時のような、じんわりとした熱が広がっていく。

 

「ありがとうございます、先生。……先生にそう言っていただけて、わたし、とても嬉しいです」

 

『ふん。……あ、おい、よせ。今は私が話して……こら、引っ張るな!』

 

 突然、電話の向こうからエルメロイⅡ世の慌てた声と、何かを争うような物音が聞こえてきた。

 

 そして、ガサガサというノイズの直後、受話器から全く別の、華やかで力強い声が飛び出してきた。

 

『サクラ! 聞こえますわね、サクラ!』

 

「あ……ルヴィアさん」

 

『まったく、あの朴念仁のロードったら、自分だけこっそりお祝いの電話をしようとするんですのよ! 私という絶対的なスポンサーを差し置いて、許されると思ってよろしくて!?』

 

 

 電話越しでもはっきりと分かる、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの豪快な身振り手振り。

 

 桜の脳裏に、金色の縦ロールを揺らして憤慨する彼女の姿が鮮明に浮かび上がり、たまらず吹き出してしまう。

 

「ふふ、ごめんなさい、ルヴィアさん。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 

『ええ、もちろんですわ! それより、明日からいよいよハイスクールですわね? 極東の学校なんて退屈かもしれませんけれど、エーデルフェルトの美学を学んだ貴女なら、間違いなくトップに君臨できますわ! 誰もが貴女の美しさと気品にひれ伏すはずですわ! オーッホッホッホ!』

 

「あはは……トップだなんて、そんな。わたしはただ、平穏に学生生活を送れればそれで十分です」

 

『謙遜は要りませんわ! もし何か少しでも気に入らない輩がいたら、遠慮なく叩き潰してやりなさい。私が全て揉み消してあげますわ!』

 

「……馬鹿なことを教えるんじゃない。彼女がその気になったら、冬木市が地図から消えるんだぞ」

 

 

 遠くの方で、エルメロイⅡ世の胃を押さえるような呻き声が聞こえ、桜はさらに声を立てて笑った。

 

 

(……ああ。わたしは本当に、恵まれている)

 

 

 かつて、蟲の這い回る暗闇の中で、全てを諦めていた少女。

 

 それが今、遠く離れた海を越えて、自分を心から案じ、祝福してくれる人たちの声を聞いている。

 

 それは、魔法よりも奇跡よりも尊い、彼女にとっての宝物だった。

 

「先生、ルヴィアさん。本当に、ありがとうございます。……明日から、頑張りますね」

 

 

 温かいやり取りは、さらに数分間続いた。

 

 ルヴィアからの過剰なアドバイスと、エルメロイⅡ世の胃の痛くなるような忠告。その全てを愛おしく受け止めながら、桜は電話を切った。

 

 

 

 ガチャリ、と。

 

 受話器を置くと、リビングには再び静かな夜の時間が戻ってきた。

 

 窓の外には、冬木新都の煌びやかな夜景が広がっている。

 

 かつて聖杯戦争という凄惨な殺し合いが行われ、そして数年後には再びその舞台となるであろうこの街。

 

 だが、今の桜には、そんな魔術師の血みどろの闘争など、どこか遠い国の出来事のように思えた。

 

 

 彼女は自分の影を見下ろす。

 

「……ねえ、バーサーカー。明日から、新しい毎日が始まるよ」

 

 誰に宛てるでもなく、ポツリと呟いた。

 

 影は何も答えない。

 

 ただ、絶対的な静寂と安心感をもって、彼女の足元に黒々と横たわっているだけだ。

 

 彼女はゆっくりと息を吸い込み、明日の準備をするためにキッチンへと戻っていった。

 

 

 夜は更けていく。

 

 明日から始まる、穂群原学園での新しい生活。

 

 本来交わるはずだった運命の糸たち。

 

 誰も知らない。この穏やかで気品に満ちた美しい少女の足元に、世界の理すらも破壊し尽くす「神将」が微睡んでいることを。

 

 そして、その神が目を覚ます時が、確実に近づいているということを――。

 

 

 

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