Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く 作:りー037
【記録:2004年1月某日 19時00分 / 場所:日本・冬木市 新都・繁華街の裏路地】
年が明け、極東の海風が肌を刺すように冷たい一月。
冬休みの真っ只中にある冬木市新都は、煌びやかなネオンサインと、吐く息を白く染めながら足早に行き交う人々の喧騒に包まれていた。
間桐桜は、人混みを縫うようにして、新都の舗道を歩いていた。
学校からの冬休みの課題は、年を越す前にとうの昔に終わらせている。エルメロイⅡ世から課されている魔術の定例報告も抜かりはない。故に、今の彼女は「華の女子高生」としての特権をフルに活用し、残りの休日を心ゆくまで謳歌していた。
今日は新都から少し離れた隣町まで足を延ばし、最近できたばかりのカフェで友人たちと談笑を楽しんできた帰りだった。
厚手のウールのコートに、上質なカシミアのマフラー。
冷たい風に紫の髪を揺らしながら、彼女の足取りはひどく軽やかだった。
(……少し、遅くなってしまいましたね)
腕時計の針は、すでに夜の十九時を回っている。
夕食の準備を手早く済ませる手順を脳内で組み立てながら、自宅のマンションへと続く近道の路地へと足を踏み入れようとした、その時だった。
ピタリ、と。
桜の足が、アスファルトに縫い付けられたように止まった。
(……これは? なに?)
彼女の極めて鋭敏な魔術的知覚が、冷たい冬の空気の中に混じる「異物」の匂いを嗅ぎ取っていた。
オドの燃焼臭。それも、この極東の霊地に馴染まない、中東の砂と香油のような、ひどく人工的で傲慢な魔力の残滓。
視線を向ける。ネオンの光が届かない、ビルとビルの間に挟まれた暗い路地裏。本来であれば、女子高生が一人で立ち入るような場所ではない。
だが、桜の網膜は、その暗がりの入り口に張られた不可視の膜をはっきりと捉えていた。
(結界ですね。認識阻害……『人払い』の効果に加えて、内側に何か別の呪詛のようなものが編み込まれている)
桜は、マフラーに口元を埋めたまま、冷徹な魔術師の瞳でその構造を瞬時に解析する。
物理的な侵入を阻むものではない。だが、一度足を踏み入れれば、中の異常を外に漏らさないための強固な隠蔽と、精神を刈り取る罠が作動する仕組みだ。
彼女の足元で、主の警戒に呼応するように影が僅かに濃さを増した。
(この程度の結界なら、《虚数海》を展開して、空間ごと虚数位相に飲み込んで解体することは造作もありません。ですが……)
周囲を見渡す。時刻は十九時。冬の夜とはいえ、大通りにはまだ多くの一般人が行き交っている。
ここで大規模な虚数魔術を行使すれば、空間の欠落という異常な現象が人目に触れるリスクがある。かつてロンドンで、手加減を誤って時計塔の一画を虚数に沈めかけ、エルメロイⅡ世に胃から血を吐くほど怒られた記憶が、彼女の脳裏をよぎった。
(先生にご迷惑をお掛けするわけにはいきません。それに、この『平穏』を乱すわけにもいかない)
女子高生としての温かな体温が急速に失われ、代わりに絶対零度の魔力(オド)が全身の血管を駆け巡る。
一切の躊躇いなく、桜はその薄暗い路地裏の結界の内側へと、優雅な足取りで踏み込んだ。
路地裏の奥は、表通りの喧騒が嘘のように切り取られた、完全な静寂と冷気に支配されていた。
結界の内部。そこには、二つの人影があった。
一つは、冷たいアスファルトの上に無造作に転がっている、制服姿の少年。
もう一つは、その少年を見下ろすように立つ、豪奢な装いの男だった。
「――ん? 貴様、どうやってこの結界に入り込んだ」
足音に気づいた男が、不快げに振り返る。
高級なスーツの上に、魔術礼装と思しきローブを羽織った男。その両手には、魔力を帯びた礼装が幾つも握り込まれている。
時計塔に籍を置く有力な一族の魔術師。
桜は、魔術師の威圧的な視線を完全に無視し、地面に倒れている少年の顔を確認した。
(……白野、くん)
同じクラスの生徒会役員、角隈白野。
いつもなら、授業中や廊下で間の抜けた顔をして居眠りをしている、純粋で人の良い少年。彼が今、顔面を蒼白にさせ、苦しげな呼吸を漏らしながら倒れ伏している。
「あぁ、なるほど。お前もこの辺りのガキか。迷い込んだ羊がもう一匹増えるとはな。……まあいい。極東の猿とはいえ、若い命なら魔力結晶として少しは保つだろう。我が工房の礎となることを名誉に思うがいい」
彼は、桜の整った顔立ちを見て、下劣な笑みを浮かべた。
彼の目的は単純明快だった。極東の地での魔術戦を見据え、自身の工房を稼働させるための使い捨ての魔力源(バッテリー)として、霊的素養のありそうな一般人を拉致していたのだ。
たまたまこの場を通りかかり、彼の結界の網に引っかかった角隈は、その「魔力源」として処理される寸前だったのである。
「……そうですか。彼を、あなたの工房の電池に」
桜の口から、ひどく平坦で、温度のない声がこぼれた。
彼女は、首に巻いていたマフラーをゆっくりと外し、傍らの室外機の上に丁寧に置いた。
この男の目的など、桜にとっては本当にどうでもいいことだった。
彼が時計塔の人間であろうと、どのような高尚な魔術の探求者であろうと、知ったことではない。
ただ一つ、彼女にとって絶対に許容できない事実。
それは、この男が、間桐桜の愛する『退屈で平穏な日常』に泥足で踏み込み――あろうことか、善良なクラスメイトを傷つけたということ。
「ふん、理解が遅い小娘だ。そのまま眠れ――」
苛立ち交じりに指先の礼装を弾こうとした、その瞬間。
「――適応の時間です」
冷徹な、しかし絶対的な死の宣告のような声が、路地裏の凍てつく空気を震わせた。
思わず動きを止める。
目の前の小娘の雰囲気が、一瞬にして変貌したからだ。
先程までの無力な女子高生の気配は完全に消失し、代わりに立ち現れたのは、何百、何千という死線を潜り抜けてきた、底知れぬ深淵を覗かせる一流の魔術師の姿。
「ハッ! 狂ったか小娘。適応だと? 猿が何を寝言を――」
魔術師が鼻で嗤い、桜を嘲笑しようとした直後。
――ギギギギギギ。
路地裏の空間そのものが「軋む」ような、不気味な音が響いた。
「な……!?」
魔術師の顔が、驚愕に引き攣る。
桜の背後の空間。何もないはずの虚空に、黄金の光の粒子が集束し、一つの巨大な「装飾」を形成したのだ。
それは、八つの持ち手を持つ、神々しくも禍々しい巨大な『法輪』。
桜は、あえて魔虚羅という巨体を顕現させることはしない。
エルメロイⅡ世との「無闇に神を出さない」という約束を守るため。そして何より、この程度の相手に、自身の愛おしい神を煩わせるまでもないと判断したためだ。
彼女は、魔虚羅の霊基を自身の影の奥底に留めたまま、その中核である『適応のシステム(法輪)』のみを、自身の背後へと部分顕現させたのである。
「なんだ、それは……! 幻術か、それとも魔術礼装か……ッ!」
言い知れぬ不気味さと、本能的な恐怖を感じ取った魔術師は、震えを振り払うように叫び、両手の礼装を桜に向けて一斉に放った。
「消し飛べ!!」
中東の魔術基盤による、高密度の魔力砲火。
炎と雷を束ねたような一撃が、桜の華奢な身体を消し炭にすべく殺到する。
だが、桜は焦ることもなく、ただ一歩だけ前に踏み出した。
「《虚数影(ホロウ・シェイド)》」
彼女の足元の影が、まるで意思を持った生物のように瞬時に立ち上がり、壁を形成した。
それは物理的な防壁ではない。現実世界と虚数位相の『境界』そのもの。
ボォォンッ!!
彼の放った魔術が、桜の影に激突する。
しかし、爆発は起きなかった。閃光も、熱波も、衝撃波すらも発生しない。
ただ、「ジュッ」という微かな音と共に、彼の魔術は文字通り『初めから何もなかったかのように』、桜の影の中へと綺麗に呑み込まれ、消失してしまったのだ。
「ば、馬鹿な……!? 私の魔術が、残滓ごと消えただと……!?」
「ええ。とても美味しくいただきました」
影を元の位置に戻し、桜は冷ややかに微笑んだ。
「この程度のレベルですか。……少し、期待外れですね」
「貴様ァッ!!」
完全にプライドを粉砕された魔術師が、血走った目で次の魔術を編み上げようとした。
その、刹那。
――ガコンッ!!
桜の背後に浮かぶ黄金の法輪が、重々しい金属音を立てて、時計回りにカチリと回転した。
「ヒッ……!?」
思わず数歩後退った。
魔術的な攻撃を受けたわけではない。だが、その音が鳴った瞬間、彼自身の魔術回路が、魂の奥底から「自分は今、致命的な何かを握り潰された」という絶望的なアラートを発したのだ。
法輪の回転。
それは、魔虚羅の『適応プロセス』が一歩進んだ証。
桜の戦術は、極めて冷酷にして完璧であった。
彼女自身の《虚数魔術》によって敵の魔術を呑み込む。そして、その解析情報を、影を通じて、奥底で眠る魔虚羅へとダイレクトに送り込み続けるのだ。
適応の肩代わり。
すなわち、桜が敵の魔術を喰らうことで、彼女自身も、そして彼女の神も傷つくことなく、相手の魔術を、そして最終的には魔力そのものに対する完全な『適応と無効化』が進行していくのである。
「さあ、まだ始まったばかりです」
桜は、背後の法輪を指差しながら、まるでお茶会で次の紅茶を待つかのような、穏やかで気品のある笑みを浮かべた。
「早く次を撃たないと、あなたという魔術師の『リミット』が過ぎてしまいますよ?」
煽り。いや、それはただの事実の通告。
だが、選民思想の塊である魔術師にとって、極東の小娘からのその見下したような言葉は、いかなる精神干渉魔術よりも効果的に彼の理性を焼き切った。
「舐めるなァアアアアッ!! 極東の小娘風情がァッ!!」
絶叫し、懐から次々と最高級の魔力結晶を取り出しては、周囲の空間ごと破壊しかねないほどの無差別な大魔術を展開し始めた。
路地裏の凍てつく空気が、怒り狂った魔力の嵐によって悲鳴を上げる。
その暴力の渦の中心で、間桐桜はただ静かに、そして美しく、背後の法輪と共に立ち尽くしていた。
次なる『回転』の音を、待ちわびるように。