Fate/hollow adaptation――異戒の華は冬木に咲く​   作:りー037

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【第六章 :凍てつく夜の帰路から日常への帰還、奈落の決意】

【記録:2004年1月某日 19時20分 / 場所:冬木市 新都・繁華街の裏路地】

 

 

 圧倒的な暴力の顕現によって、路地裏を覆っていた隠蔽と呪詛の結界は完全に粉砕された。

 

 空気を支配していた異界の重圧はとうに霧散し、冬木新都の冷たい夜風が、再びこの狭い空間へと流れ込んでくる。大通りを行き交う人々の喧騒、遠くで鳴る車のクラクション、そしてチカチカと瞬くネオンサインの人工的な光。

 

 

 それらが、間桐桜という少女が本来属している「日常」の風景であった。

 

 彼女の足元に伸びる影は、すでに何の変哲もない、ただの女子高生のそれへと戻っている。

 

 その奥底で、世界の理すら喰い破る白き神将が再び深い微睡みについたことを確認すると、桜は小さく息を吐き出した。

 

 

 冷たい空気に触れ、その吐息が白く染まって夜闇に溶けていく。

 

 路地裏のゴミ溜めに埋もれるようにして倒れ伏しているのは、時計塔の魔術師。

 

 物理的な打撃による肉体の損傷と、魔虚羅という理外の存在を直視したことによる精神の崩壊。彼は、もはや指先一つ動かす気力すら残されておらず、ただ白目を剥いて気絶していた。

 

 

(……この男の処遇は、後で先生に報告して指示を仰ぎましょう。今は、それよりも)

 

 

 桜は、埃一つ付いていないコートの裾を軽く払い、冷たいアスファルトの上へと視線を向けた。

 

 

 そこに横たわっているのは、同じクラスの生徒会役員、角隈白野。

 

 魔術師によって「魔力結晶」として利用される寸前だった彼は、結界の呪詛にあてられた影響で、血の気を失った青白い顔のまま、深い昏睡状態に陥っている。

 

 

 だが、呼吸は乱れながらも確実に続いており、命に別状はないことは桜の目から見ても明らかだった。

 

 

 

 コツ、コツ、と。

 

 

 ヒールの音を響かせて、桜は彼の傍らへと歩み寄る。

 

 膝を折り、冷たい地面に横たわる少年の顔を覗き込んだ。

 

 普段、教室の窓際でうたた寝をしている時の、どこか間の抜けた、しかし温和な寝顔とは違う。苦痛に眉をひそめ、冷や汗を滲ませているその表情は、魔術という理不尽な暴力に巻き込まれた「無力な一般人」の象徴そのものであった。

 

 

「……まったく。こんなところで寝ていてはダメですよ、白野くん」

 

 

 桜は、まるで手のかかる弟を嗜めるかのように、呆れたような、それでいてひどく優しい声でポツリと呟いた。

 

 そして、手袋を外した白く細い指先を、彼の額へとそっと這わせる。

 

 

 

 ――スゥッ、と。

 

 桜の指先から、極めて微弱で精巧な魔力が、角隈の脳髄へと流し込まれた。

 

 

 記憶の処理。

 

 彼がこの路地裏で見たであろう異常な光景、魔術師の姿、そして結界の気配。それらを全て、日常の範疇にある「貧血によるめまいと昏倒」という無害な記憶へとすり替えていく。

 

(……これで、大丈夫ですね)

 

 

 処理を終え、桜はゆっくりと立ち上がった。

 

 そして、彼の片腕を自身の肩に回し、もう片方の手で彼の腰をしっかりと支えながら、ゆっくりと持ち上げる。

 

 同年代の男子高校生の肉体は、決して軽くはない。だが、魔力によって身体能力を最適化している桜にとって、その重量はさほどの負担にはならなかった。むしろ、肩越しに伝わってくる彼の規則正しい心音と、人間としての確かな温もりが、桜の心に不思議な安堵感をもたらしていた。

 

 

 気絶した彼に肩を貸し、桜は暗い路地裏から、ネオンの瞬く表通りへと歩みを進める。

 

 魔術師たちの泥臭い権力闘争や、命のやり取りとは無縁の、純度百パーセントの善意。

 

 その眩しいほどの「日常の光」が、今、完全に無防備な状態で自分の肩に寄りかかっている。

 

「……少しだけ、我慢してくださいね」

 

 

 桜は、人目につかないよう大通りの裏側や人通りの少ない道を選びながら、新都にある総合病院へと歩を進めた。

 

 冬の夜風はひどく冷たかったが、肩越しに伝わる少年の体温だけが、彼女の冷え切った魔術回路を優しく温めているような気がした。

 

     

 

 

 

 

【記録:2004年1月某日 20時45分 / 場所:冬木市 新都・総合病院 一般病室】

 

 

 鼻を突く、消毒液の冷たい匂い。

 

 規則的で無機質な、電子機器の微かな駆動音。

 

 そして、蛍光灯の白々しい光が、薄い瞼の裏をチカチカと刺激する。

 

「……ん、ぁ……」

 

 

 角隈白野は、泥のような昏睡の底から、ゆっくりと意識を浮上させた。

 

 ひどく重い目蓋をこじ開けるようにして見上げた先には、規則的な模様が並ぶ、真っ白で殺風景な天井があった。

 

 

(……知らない、天井だ)

 

 

 まだ覚醒しきっていない曖昧な脳みそが、最初にそんな陳腐な感想を紡ぎ出す。

 

 ここはどこだろうか。自分の部屋ではない。学校の保健室とも違う。

 

 シーツの固い感触と、腕に繋がれた点滴の管の冷たさから、ここが病院のベッドの上であることは辛うじて理解できた。

 

 

 だが、なぜ自分は病院にいるのだろうか。

 

 記憶を遡ろうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走る。

 

 夕方、学校の仕事を終えて、新都の街を歩いていたはずだ。その途中、ひどいめまいに襲われて、視界がぐにゃりと歪み……そのまま、冷たい地面に倒れ込んだところまでは、なんとか思い出すことができた。

 

 

(倒れて……誰かが、助けてくれたのか……?)

 

 

 ぼんやりとそんなことを考えながら、重い首をゆっくりと横に向けた。

 

 その瞬間、彼の心臓が、ドクンッと大きく跳ねた。

 

 病室の窓際に置かれた、丸いパイプ椅子。

 

 

 そこに、一人の少女が腰掛けていた。

 

 病室の白々しい蛍光灯の光を受けて、彼女の艶やかな紫の髪が、まるで絹糸のように美しく輝いている。

 

 手には文庫本が開かれていたが、彼女の視線は文字を追うのをやめ、ベッドの上で目を覚ました白野の方へと真っ直ぐに向けられていた。

 

 

「……桜?」

 

 

 掠れた声が、喉の奥から自然とこぼれ落ちる。

 

 

 同級生の間桐桜。

 

 なぜ自分の病室の傍らに座っているのか。

 

 現実感の欠落した頭で、白野は呆然と彼女を見つめ返した。

 

 桜は、本をパタンと閉じると、ホッと胸を撫で下ろすように、この上なく穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

 

「よかった。目が覚めたんですね、白野くん」

 

 

 鈴を転がすような、涼やかで心地よい声。

 

 その声を聞いた瞬間、白野の心に巣食っていた不安や混乱が、春の雪解けのようにスッと溶けて消えていくのを感じた。

 

「えっと……ここは。俺、どうして……」

 

「新都の総合病院ですよ。白野くん、帰り道で倒れていたんです。ひどい貧血だったみたいですね」

 

 

 状況を飲み込めず、ベッドから身を起こそうとする白野。

 

 しかし、桜はすぐに椅子から立ち上がり、ベッドの脇まで歩み寄ると、彼の肩にそっと両手を添えて、それを優しく制止した。

 

「だめですよ、無理をしては。まだ体調は万全じゃないんですから。しっかり寝てなきゃダメですからね」

 

 

 至近距離から注がれる、少しだけ心配そうな、潤んだ瞳。

 

 ふわりと漂う、上質な紅茶のような、あるいは冬の澄んだ空気のような彼女特有の香りが、白野の鼻腔をくすぐる。

 

 肩に添えられた彼女の手の温もりに、白野は思わずドギマギとしてしまい、大人しくベッドに背中を預け直した。彼の身体は、本人が思っている以上に鉛のように重く、けだるげであった。

 

「……ごめん。その、俺が倒れてるところを、君が見つけてくれたのか?」

 

「ええ。たまたま通りかかったんです。そうしたら、見知った顔が道の真ん中で青い顔をして倒れていたので、本当にびっくりしましたよ?」

 

 

 桜は、クスッと小さく笑いながら、用意されていたパイプ椅子に再び腰を下ろした。

 

 その仕草はあまりにも自然で、一切の嘘を感じさせない。彼女が施した精巧な記憶の隠蔽術式は、白野の脳内に「ひどい貧血で倒れた自分を、偶然通りかかったクラスメイトが助けてくれた」という完璧な筋書きを、違和感なく定着させていた。

 

「そうか……。俺、そんなところで。……桜に、すごく迷惑をかけちゃったな。ここまで運んでくれたんだろ? 重かっただろ、ごめん」

 

 

 白野は、恥ずかしさと申し訳なさで顔を赤くしながら、布団の中で小さく身を縮めた。

 

 同年代の、しかもこんなに綺麗な女の子に倒れたところを見られ、あろうことか病院まで運ばせてしまった。男としての情けなさと、彼女への多大な感謝がない交ぜになり、どう言葉を紡げばいいのか分からない。

 

 

 そんな彼の反応を見て、桜は、まるでいたずらが成功した子猫のような、少しだけからかうような笑みを浮かべた。

 

「ふふっ。本当に、重かったですよ? わたし、か弱い女の子なんですから、明日にはきっと筋肉痛になってしまいますね」

 

「うっ……本当、ごめん……。なんかお詫びするよ……」

 

「冗談です」

 

 

 項垂れる白野を見て、桜はさらに声を立てて笑った。

 

 ロンドンで培った冷徹な魔術師としての顔は、今ここには微塵も存在しない。あるのは、一人の善良な少年をからかい、その反応を楽しむ、年相応の無邪気な少女の顔だけだった。

 

「でも、本当に危ないですよ? 街の外では、あんな風に無防備に寝てはいけませんよ。冬木の夜は冷えますし、風邪を引いてしまいますからね」

 

 

 それは、学校でうたた寝ばかりしている彼に向けた、ちょっとした皮肉交じりの冗談。

 

「……うん。気をつけるよ。桜が見つけてくれなかったら、俺、凍死してたかもしれないしな。……本当に、ありがとう」

 

 

 白野は、少し恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、心からの感謝を込めてそう言った。

 

「どういたしまして、白野くん。……お医者様のお話だと、今日一日ゆっくり休んで、明日の朝に問題がなければ退院できるそうです。念のための、様子見ということらしいですよ」

 

「そっか。よかった、大したことなくて。……桜、ずっと付き添ってくれてたんだな。時間、大丈夫か?」

 

 

 病室の壁掛け時計に目をやると、時刻はすでに二十一時を回ろうとしていた。

 

 冬の夜、女子高生が一人で帰宅するには、少し遅すぎる時間帯だ。

 

「ええ。もうこんな時間ですから、わたしはこの辺りで失礼しますね。あまり長居しては、白野くんの休息の邪魔になってしまいますし」

 

 

 桜は静かに立ち上がり、コートを手に取った。

 

 マフラーを丁寧に巻き、身だしなみを整える。その一つ一つの動作が、絵画のように美しく、気品に満ちていた。

 

「帰りの道、気をつけて。暗いし……」

 

「ふふっ、心配性ですね。大丈夫ですよ、わたしは。白野くんこそ、今日は絶対にベッドから出ずに、大人しく寝ていること。約束ですよ?」

 

「わかってるよ。……今日は、本当にありがとう」

 

 

 白野が小さく手を振ると、桜もまた、病室のドアノブに手をかけながら、振り返って完璧な笑みを咲かせた。

 

「また明日、お見舞いに来ますね。おやすみなさい、白野くん」

 

 

 

 カチャリ、と。

 

 静かな音を立てて、病室のドアが閉まる。

 

 桜の姿が消え、彼女が纏っていたふわりとした残り香だけが、病室の空気に微かに漂っていた。

 

 一人残された白野は、点滴の管が繋がれた自分の手を見つめながら、大きく息を吐き出した。

 

 

(……また明日、か)

 

 

 その言葉の響きが、病み上がりの体に不思議な熱をもたらす。

 

 彼女の優しさ、間近で見た柔らかな微笑み。それらが脳裏に焼き付いて離れない。

 

 白野は、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、彼女の言いつけ通りに大人しく目を閉じ、静かな眠りへと落ちていった。

 

     

 

 

 

 

 

 

【記録:2005年1月某日 21時00分 / 場所:同病院・廊下】

 

 

 病室を出た桜は、静まり返った夜の病院の廊下を、ヒールの音を立てないようにゆっくりと歩いていた。

 

 先ほどまでの、温かく柔和な少女の顔は、すでに彼女の表層から消え去っている。

 

 代わりに浮かび上がっているのは、ロンドンで培われた、氷のように冷徹で合理的な「魔術師」としての横顔であった。

 

(……白野くんの記憶処理と肉体の保護は、これで完了。彼に後遺症が残ることはないでしょう)

 

 

 エレベーターのボタンを押し、無機質な金属の扉に自身の姿を映す。

 

 完璧な偽装。完璧な日常の維持。

 

 だが、桜の心の中には、微かな、しかし確かな「怒り」の炎が燻り始めていた。

 

 

(時計塔の魔術師が、なぜこの極東の地に工房を構え、一般人を巻き込もうとしたのか。)

 

 

 桜は、自身の足元へと視線を落とす。

 

 病院の白い蛍光灯に照らされて、彼女の影がくっきりと床に伸びている。

 

 その影の奥底で、先ほど圧倒的な蹂躙劇を演じたばかりの白き神将が、主の静かな怒りに呼応するように、微かに、しかし確かな重みを持って脈動しているのを感じた。

 

 

 帰宅したら、すぐにロンドンの恩師――ロード・エルメロイⅡ世に通信を繋がなくてはならない。

 

 

 事態は、桜が想定していたよりもずっと早く、転がり始めている。

 

 その予感を確信へと変えるための対話が、今夜、彼女には必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

【記録:2005年1月某日 22時00分 / 場所:冬木市 新都の高層マンション・自室】

 

 

 冬木の夜は、しんしんと冷え込んでいた。

 

 暖房の効いたマンションの一室に帰り着いた間桐桜は、コートとマフラーをハンガーに掛け、手早く自身の身支度を整えた。

 

 キッチンでお湯を沸かし、濃いめの紅茶を淹れる。漂うベルガモットの香りが、路地裏での戦闘と、病院での隠蔽工作によって微かに張り詰めていた彼女の神経をゆっくりと解きほぐしていった。

 

 

 だが、安堵の息を吐くのはまだ早い。

 

 桜はティーカップをサイドテーブルに置くと、リビングの片隅に鎮座する旧式の黒電話へと向かった。

 

 時計塔との暗号通信用に、恩師であるロード・エルメロイⅡ世が自ら調整を施した特殊な魔術礼装。ダイヤルを回し、受話器を耳に当てる。数回の無機質なコール音の後、ガチャリと通話が繋がった。

 

 

『……私だ』

 

 

 受話器の向こうから、疲労の色が濃く滲んだ、低く気難しい声が響いた。

 

 ロンドンは現在、昼下がりの時間帯だろう。書類仕事の合間なのか、背後で羊皮紙の擦れる音が微かに聞こえる。

 

「ご無沙汰しております、先生。夜分遅くに申し訳ありません」

 

『……桜か。次の定期連絡にはまだ早いはずだが。お前のことだ、よもや冬木の霊脈を虚数に沈めたわけではあるまい』

 

 

 電話口の向こうで、エルメロイⅡ世が胃の辺りを押さえているであろう様子が目に浮かび、桜は小さく苦笑した。

 

「ふふっ。ご安心ください、霊脈は無事です。ただ、少しだけイレギュラーな事態が起きまして。……報告をしなければと思い、急遽ご連絡しました」

 

『イレギュラーだと? ……言ってみろ』

 

 

 恩師の声色が、保護者のそれから、時計塔の君主としての鋭いものへと切り替わる。

 

 桜は、感情を完全に交えない、冷徹な事務作業のような口調で事の顛末を語り始めた。

 

 

 魔術師が冬木に工房を構えようとしていたこと。

 

 彼が結界を張り、一般人を「電池」として拉致しようとしていたこと。

 

 それが、偶然にも自身の同級生であったため、介入してアトラムを無力化したこと。

 

 

「対象の魔術師については、完全に戦意を喪失させ、魔術回路にも深刻なダメージを与えて路地裏に放置してきました。巻き込まれた一般人の肉体の保護と、記憶の隠蔽処理も完璧に済ませています。魔術の秘匿は守られました」

 

『 すでに極東にまで出向いていたのか……。いや、それよりもだ、桜』

 

 

 エルメロイⅡ世の声が、微かに震えていた。

 

『お前、対象を無力化するために……まさか、アレを出したのか?』

 

「……はい」

 

 

 桜は、悪びれる様子もなく淡々と答える。

 

「ほんの一瞬だけ、部分的に顕現させました。対象の魔力を影で解析し、適応のプロセスを済ませた上で、一撃で結界ごと粉砕するために。……申し訳ありません。ですが、それが最も安全で、隠密性に優れた手段でしたので」

 

『……っ、この馬鹿弟子が。一瞬とはいえ、あんなバグを現実の位相に引っ張り出したんだぞ。感知されていなければいいが……ああ痛む、胃が……』

 

 

 電話越しに、エルメロイⅡ世が深々とため息をつき、引き出しから胃薬の瓶を取り出す音が聞こえた。

 

 彼にとって、桜の影に潜む魔虚羅は、まさに世界の理を根底から破壊しかねない時限爆弾である。それを「最も安全な手段」と称して平然と行使する弟子の豪胆さに、彼は頭を抱えるしかなかった。

 

「……先生」

 

 

 桜は、胃痛に苦しむ恩師の様子を察しつつも、声のトーンを一段階下げ、今日最も聞きたかった「核心」へと踏み込んだ。

 

「最近、この街がおかしいんです。魔術師のような存在の影が、新都にも深山町にも、日に日に増えているような気がして。街の空気そのものが、焦燥しているような……。先生は、この冬木で何か異常なことが起こっているのではないか、ご存知ありませんか?」

 

 

 桜の鋭い問いかけに、電話線の向こう側が、ふっと重い沈黙に包まれた。

 

 

 

 数秒間の空白。

 

 やがて、エルメロイⅡ世は何かを諦めたように、重々しい口を開いた。

 

『……お前の言う通りだ、桜』

 

「と、言いますと?」

 

『次の聖杯戦争が、もうじき始まろうとしている』

 

 

 その言葉は、冷や水のように桜の耳に飛び込んできた。

 

『本来であれば、前回の第四次から五十年のインターバルが必要なはずだ。だが、どういうわけか大聖杯の魔力蓄積が異常に早い。その魔術師の動きも、おそらくその戦いに備えての事前準備だ。……時計塔の上層部も、すでに何人かのマスター候補を送り込もうという動きもある』

 

「……」

 

 

 桜は、沈黙したまま恩師の言葉を咀嚼した。

 

 聖杯戦争。七人の魔術師が、七騎の英霊を召喚し、最後の生き残りになるまで殺し合う凄惨な儀式。

 

 間桐の家がかつて執着し、自身の人生を狂わせた元凶。それが、あと数十年は起きないはずのそれが、今まさにこの冬木の地で幕を開けようとしているというのだ。

 

 

『……桜。提案がある』

 

 

 エルメロイⅡ世の声は、魔術師としてではなく、一人の不器用な親代わりの男としての、切実な響きを帯びていた。

 

『一時的に、ロンドンへ帰還しろ。冬木の儀式が終わり、完全に事態が落ち着くまでの間、私が、お前を匿ってやる。数ヶ月もすれば、街は元の平穏を取り戻すはずだ。こんな極東の血みどろの儀式に、お前が関わる必要はどこにもない』

 

 

 

 それは、彼女の身を心から案じる恩師からの、最も安全で確実な提案であった。

 

 桜の心も、一瞬だけその提案に揺らいだ。ロンドンへ帰れば、ルヴィアもいる。温かいエルメロイ教室の仲間たちがいる。危険な闘争から身を隠し、安全な場所で嵐が過ぎ去るのを待つことができる。

 

 

 だが。

 

 その時、桜の脳裏に、一つの光景が鮮明にフラッシュバックした。

 

 暗く冷たい路地裏のアスファルトの上で、青白い顔をして倒れていた少年の姿。

 

 そして、病院の白いベッドの上で目を覚まし、自分に向けて「ありがとう」と無邪気に微笑んでくれた、彼の顔。

 

 

(……もし、わたしがこの街を離れたら)

 

 

 この冬木の地に、彼らのような無力で善良な人々を残したまま、自分だけが安全圏へと逃げ出したら。

 

 あの聖杯戦争という狂気の儀式は、魔術師たちは、間違いなく自身の愛する『日常』を、無差別に巻き込み、蹂躙し、食い荒らすだろう。あの魔術師が白野を電池にしようとしたように。

 

 その可能性に思い至った瞬間、桜の心は、絶対零度の氷のように冷たく、そして硬く固まった。

 

「……お気遣いはとても嬉しいです、先生。ですが、お断りします」

 

『何故だ』

 

「もうすぐ進級の時期ですし、学業をおろそかにして数ヶ月も休学するのは、あまり良くないと思うんです。わたし、こう見えて学校生活をとても楽しんでいるんですよ?」

 

 

 桜は、電話口でフフッと可憐に微笑みながら、いけしゃあしゃあと優等生の建前を口にした。

 

 その言葉の裏にある「絶対に退かない」という確固たる意志を悟ったのか、エルメロイⅡ世はこれ以上の説得を諦めたように、短く息を吐いた。

 

『……そうか。お前がそう決めたのなら、これ以上は言わん。だが、何かあればすぐに私に言え。それから……』

 

 

 恩師の声が、かつてなく厳格な響きを帯びる。

 

『儀式には、絶対に関わるな。いいな』

 

「ふふっ。わかっていますよ、先生。わたしはただの、女子高生ですから」

 

 

 桜は穏やかな声でそう答えると、受話器をゆっくりと置いた。

 

 

 

 ガチャリ、と。

 

 通信が切れた瞬間、リビングから一切の生活音が消え失せた。

 

 

 静寂。

 

 冷めかけた紅茶の表面が、微かに揺れている。

 

「……ええ。学業なんて、ただの言い訳ですけれど」

 

 

 桜は一人ごつと、ソファーに深く身体を沈めた。

 

 優等生としての、あるいはエルメロイ教室の優秀な教え子としての仮面が、彼女の顔から音もなく剥がれ落ちる。

 

 後に残されたのは、ひどく暗く、底知れない執着に満ちた、一人の狂信の瞳であった。

 

 

(この街で、わたしの日常を崩すことは許さない。わたしの周囲を巻き込むことは、絶対に許さない)

 

 

 ロンドンから冬木へと帰還し、ようやく手に入れた、穏やかで退屈な日常。

 

 白野のように、純粋な善意で自分に接してくれる人たちがいる、温かい世界。

 

 今、自分がこの地を離れれば、彼らは魔術師たちの勝手な都合で、いとも容易く命を奪われてしまうだろう。

 

 それは、このささやかな平穏を何よりも愛する間桐桜にとって、それは許容できない、「万死に値する罪」であった。

 

 

 彼女の瞳に、暗く濁った影が落ちる。

 

 その激しくも冷徹な感情の波に呼応するように、桜の足元のフローリングから、ズズ……と、タールのように黒い影が這い出し、不気味に蠢く音が部屋の中に響いた。

 

(わたしの望みは単純です。聖杯にかけるような大きな欲望も、根源への到達という理想もありません。ただ、この緩やかで穏やかな日常を継続すること。ただ、それだけ)

 

 

 桜は、自身の足元で主の怒りに共鳴して脈打つ影を、見下ろした。

 

 彼女の魂の奥底に、絶対的な行動指針が定まる。

 

 この街で起きるであろう、聖杯戦争というくだらない闘争。自身の愛する日常を脅かす、七人の魔術師と七騎の英霊たち。

 

 

(それを崩す者は、誰であろうと、どんな理由があろうと、絶対に許さない)

 

 

 ならば、答えは一つしかない。

 

 自らの日常を守るために、第五次聖杯戦争という儀式そのものを、盤面ごと完全に破壊し尽くすこと。

 

 

「……手伝ってくれますか、バーサーカー?」

 

 

 桜は、薄く冷ややかな笑みを浮かべながら、自身の影に向かってそう呼びかけた。

 

 

 それは、聞くまでもない問いだった。

 

 彼女の影に潜む怪物は、主の障害となるあらゆる事象に適応し、いかなる絶望をも喰らい尽くす、絶対的な破滅の象徴なのだから。

 

 

 

 ――ガコンッ。

 

 

 夜の静寂に包まれたリビングの奥底で、重々しく、大いなる歯車が躍動する音が響き渡った。

 

 

 夜は更けていく。

 

 窓の外には、明日も変わらず続くはずだった冬木市の煌びやかな夜景が広がっている。

 

 穏やかで退屈な『日常』の裏側で、一人の少女の狂信的な決意によって、すでに凄惨な『非日常』の幕が、静かに、そして決定的に切って落とされようとしていた。

 

 




日常編は、終了っと
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