アズール図書館の司書 ― その青年は全ての魔法を発動できる。ただし人生で一度だけ ― 作:藤崎次郎
……うん。
リリィは自分の気持ちを確認する。
……大丈夫。
今の自分は、心から本当の気持ちと向き合えている。だから、もう怖くない。寂しくない。今自分がなすべきことに、迷いはない。残り五分強だろうか、血が流れ出し足元まで到達している。そんな身体を見ても、不思議と彼女は落ち着いていた。己の軸を一本の線ではっきりと引いたような……強い確信があるからだ。高らかに宣言しよう。負ける気がしないと──。
「何、調子乗ってんの?」
空気に混ざり込んだ、どこともなく気配のない声が後ろからした。リリィの腹を噛み千切れる位置に黄龍の牙があり、答えを聞くまでもなく上下の歯を残酷に合わせる。挟まる肉。千切れる腹。抉れる内臓。“不殺”の取り決めであるはずなのに、アニーは敵の命を食い破った。ただし……それらは全て、氷となって砕け散る。
もはや秒と瞬の世界。
リリィが氷となった直後、アニーは四方より生じた風圧に叩き落とされる。いや、落とされはしない。下からも爆発的な風圧が生まれたからだ。上からも、後ろからも、前からも……。龍の全身を軋ませすり潰そうとする程の、有無を言わさぬ破壊の爆圧。
「ガ、ギ、ゲ!?」
龍は思う。
動けない。
動けないだと!?
この黄龍の姿となった自分が、身動きできていない。動こうと思っても動けない。不動を強制された……!? 馬鹿な、と自分自身にアニーは問うた。この姿になってから自分を止められた者など一人もいなかった。ただの一人もいなかったのだ。しかし今、自分は止められている。たかが風如きの圧力で、自分の自由を止められた……?
「ふっざけるなよ貴様ぁ!!」
現実を憎悪を込めて否定する。アニー・キトス・ウーヌは拒否する。
この、自分を、止めていいなどと、人間風情の弱小生物が、許されていると思っているのかと。一度噛み砕けば終わるような華奢な生き物が……図に乗るなと。文字通り、風はアニーの逆鱗に触れた。
「うっぜぇ!」
空気を爆発させ、風圧の陣を消し飛ばす。
やはり所詮は風。造作もない。龍の口元がニタァと笑う。
ただ、何故か視界が暗かった。
アニーの上と下に、大きな雪玉があった。
「“雪吻”」
まるで巨大な惑星と惑星が宇宙で衝突したかのように、雪星の二つがアニーのいる場所で激突した。
衝撃の波が龍を直撃する。
尋常ではない破壊の圧であった。先の風とは比べ物にならない圧である……! たかが雪で、と思われるかもしれないが、元は大気中の水蒸気から生成される氷の結晶。積雪は雪の種類にもよるが、1メートルの積雪であれば1㎡あたり400キログラムの重さが生じるとされる。
しかも今回の雪を扱う魔法師はリリィ・サランティス。
こと自然界を操るのなら天下無双。雪玉の積雪がどれほどのものなのか……もはや、計算などできうるはずもなかろうて。
「ギギギギギギギィギギギギギィィギギギギィギギ!?」
今度は空気の爆発では弾き切れない圧。しかも物理的な量と質を併せ持った大自然の結晶だ。
しかし、“魔術科・歴代一位”の名は伊達ではない。破壊できないのなら、自分が喰い潜って行けばいいだけのこと。雪と雪が自分を潰している衝撃を受け続けている中、口をあんぐりと大きく開けて、獣の雄叫びをあげるかの如く、黄龍は雪の洞窟を喰い破る。
グシャグシャ、カシャカシャと、のた打ち回る蛇のように、蛇行を繰り返しながら当てもなく雪の世界をひたすら進む。どこまでも続く銀世界なれど、空気の衝撃波を口から弾き飛ばしながら、龍は白なる小堂を爆走する。そして──
「ラァ!」
出た。
そして即座に赤髪の少女を視界に捉える。敵は上空で何かの準備をしているようだった。間髪入れず、龍は咆哮した。空気を響かせ、振動させ、思わず耳を塞ぎたくなるほどの雄叫び。空気の波はリリィの精神を大きく揺らし、集中力を削ぎ落とす。
その間に黄龍は神速の勢いで彼女に迫った。爆発力のある初速に身体を乗せて、一気に征服少女まで飛翔する。突如、眼前に水の塊が出現した。構わず突っ切る。水を抜けた先には敵がいて、未だに何かを呟いているように見えた。
「終わりにしようやぁ!」
本当ならもっと遊んでいたかったが状況が変わった。本能が、危険だと判断したのだ。このまま奴と戦えば、何か不吉なことが起こると。普段の彼女なら笑って流すところであるが、今回ばかりは直感を信じ、すぐさま行動を起こした。まだアズール代表者は八人いる。充分遊べる。だからこいつはもういい。
消えろ。
失せろ。
果てろ。
空気の刃を作り出し、今度こそ余計な行動を起こさないよう無作為に赤髪へ飛ばす。刃は少女の身体を斬り、刻み、血の飛沫が宙を舞った。それでも彼女は口を動かす。魔法を発動させる気配はないのに、口だけを必死に動かす。
畏怖が──全身を疾走した。駆け巡った。……逃げろと。
「喰ウ!」
口を開け、絶対に今度こそ逃さないよう──突撃する!
リリィが手を突き出した。直後、“嘶きの断罪”がアニーに直撃する。その風の強さに、速度に乗せて突っ込んだ黄龍の動きが、止まり、しかし小刻みに震えながらも、グググッと、敵の下へ。行く。行く! 黒き龍眼が充血し、鱗が何枚も剥げ、髭が抜け落ちるも、その牙を敵の腹に喰い込ませるために……咆哮をあげながら龍は昇った。
そして……両者の間隔がゼロになる。
アニーは勝利を確信した。勝てると直感した。だが彼女は聞いたのだ。目の前の少女が何を先から口ずさんでいたのかを。一体、何をその小さな口から放っていたのかを。
「其、戦利なる豪鳴を轟かせ、神髄たる一閃を大地に咲かす……」
詠唱であった。
この時、アニー・キトス・ウーヌは事の重大さを理解できなかった。リリィ・サランティスが詠唱をしているという驚愕の事実を、クロネア人ゆえ、わからなかったのだ。詠唱とは言霊だ。魔法師が魔力を使い摩訶不思議な現象をこの世に具現化するために必要な言葉の魂だ。特に自然魔法・創造魔法・癒呪魔法は必須とされ、多くの魔法師は詠唱と常に共にある。
“魔法科・歴代二位”は、詠唱とは無縁の存在だった。
生まれた時から詠唱破棄をやってのけ、生涯一度たりとも詠唱などというものはやったことがなかった。必要がそもそもないのだ。当たり前ともいえる。そのため、彼女の魔法はこの今に至るまで、全てリリィ自身が作り出したオリジナルの魔法だ。いや、──魔法だった。
その彼女が……詠唱をしている。
自分の魔法ではなく、既に存在する魔法を発動するために。
それはどんな魔法なのか。
魔法の総本山と呼ばれたジックマで生活していた頃、両親にせがんで読んでもらっていた本があった。一人の魔法師が天空の楽園へ向かうため、悪神と戦いながら己の信念を貫く冒険譚である。何てことはない、ただの絵本……。
絵本はリリィにとって、魔法書となった。
魔法書とは、魔法を記した書物を指す。しかしながら、魔法を記していない書物が時として魔法書に化けることも過去に何度もあった。ただ魔法について自分の見解を書き殴っただけの論文が、魔法書として変化することすらあった。大切なのは、魔法書に対し魔法を会得するための道具として捉えるのではなく、魔法を知るため、学ぶための書物とすること。魔法の定義を記したものは数あるが、おおよそが最後こう書かれている。
忘れてはならない。魔法書は、読む人間によって無限の可能性があることを。
忘れてはならない。魔法書は、読む人間によって只の本でも魔法書になりうることを。
忘れてはならない。魔法書は……読んだ貴方の人生と、一生関わり続けるということを。
それは、シルドがクロネアへ来る前に持ってきた『魔法の入門』にも書かれている。魔法の全てを解明することは、アズール人にとって生涯を懸けて挑んでも差し支えない難題であろう。
「この一撃に、私の命を懸けようぞ」
リリィが口にしていた詠唱は、彼女が全文を記憶している絵本の物語である。
彼女は幼い頃、絵本の主人公に憧れた。どんな困難があろうとも、絶対に諦めず悪と戦う。自分が描く理想のそれだった。主人公は最後、楽園を牛耳り我が物としていた最後の敵に神の一撃を喰らわせる。命を懸けて。
「キ、ヒ!」
両者の距離はゼロになったはずなのに、どうしてこんなにも奴の言葉を聞けるのか。もはやアニーにとって理解できない現象しか起きていないけれど、それでも進むしか彼女は考えない。神速に自身の身を重ねた超突貫……、貫けば終わるのだ!
────視界の上が、妙に暗かった。
どうしてだろう。
いや、今はそんなこと考えるな。行け。それでも、何故だろう。暗い意味がわからない。夜空なのだから暗いのは当たり前のに。おかしくないか? 行けと思う自分と、疑問に思う自分がいた。不気味なほどに、冷静だった。だから少しだけ、目線を上にして……黄龍は見た。雲ひとつなかった天空に、どす黒い暗雲が生まれているのを。
「受けろ、この命。咲け、世界の花」
大きかったが暗雲が、ぎゅぅっ、と一点に集中し。
「誰よりも何よりも美しく、大地に信念の大輪を刻め」
弾け。
「それこそが、生きた証となるのだから!」
とある雷撃が、龍に降下した。
落ちた雷は龍に直撃し、さらに地面へ落下して、学園啓都を支える陸雲をも貫き、そのまま尚も真下へ向かい、本物の大地にまで落ちていき……直径20キロにも及ぶ“雷紋”を咲かせた。雷紋とは人体、又は大地に雷が落ちた際、直撃した箇所に生じる特有の紋章であり、まず表現できない形をしているものの、大変美しく、自然界が描く花のようでもある。
雷撃は黒かった。
されど雷鳴の音は一切ない、暗黙の一撃だった。リリィ・サランティスは目の前でそれを喰らった龍を静かに見つめながら、生まれて初めて自身のオリジナルではない……魔法名を告げる。
「“黒霆(こくてい)”」
黄龍は何を思うのか。
征服少女にはわからない。
ただ、気絶し、力なく落ちていく敵の姿を視界に映しながら……血を吐く。横に電子版が出現した。リリィは己の役目を果たしたのだ。しかし彼女は倒れない。自分が倒れることがどういうことを意味するか、充分にわかっているから。
最低でもあと一人。
あと一人だけでも──倒さねば。
「……」
意識が朦朧とする中、赤髪の少女は敵を探す。ふらふらと、夜空を舞いながら。
* * *
リリィがアニーを倒す数分前。
森の中を駆ける青年がいた。リュネ・ゴーゴンを抱き上げながら、肩で息をしながら走る。
血まみれだった。
特に背中から太もも辺りが酷い。後方から狙撃され、リュネに当てまいと自身を使っての防御。敵のことだ、あのまま戦えば確実に退場者のリュネを狙うだろう。だからまずは移動する必要がある。そんな彼をよそに……『怪人』は楽しそうに逃げる敵をいたぶる。
「レノンくん……!」
「そんな顔をしないでください。貴方に泣かれてしまったら、俺は俺を殺しますよ」
「ハッハッハ、まぁ今キミらを半殺しにしているのは小生だがね」
キッと後ろを睨むリュネ。敵の男はワカメのような髪に、片方には眼鏡をかけている。ニキビが頬にびっしりとあり、身長は低い。相手を見下す目つきを常にしていて、大根役者のような身振りをする。これだけでは醜男のそれであるが、奴は強かった。しかも、今は人間の姿ではない。本来の姿をしていた。魔物としての、真実の姿。
「全てが気色悪いわ……!」
「お褒めにあずかり光栄だよ、下女」
超特大の爬虫類。
カメレオン。
ウネウネと柔軟に動きながら、異様に大きい眼球をギョロギョロと動かす。皮膚は鰐のように固く、舌は細く長い。そして奴の神然魔術により司る『光彩』は、人間である二人に自らの姿を目視できない状態にできる。
口の中で舌を複雑に絡ませ発射される唾液は、威力精度ともに恐ろしいものであった。今もやろうと思えばレノンを倒せるもののそれをしないのは、仲間の下へ行こうとする敵を道案内として使うためと、純粋にいたぶることを楽しむためである。
「しかし飽きてきたな。何かないのかね、魔法の一つでも出したらどうだ」
唾液をリュネの頭に狙って吐き出す。咄嗟に身体を右へ移動させ、背中で受けるレノン。血はあちこちで噴き出し、流れ、痛みを全身に走らせる。それでも女性を抱える男は走るのを止めない。止めるわけには、絶対にいかない。
「もう少しだ」
小さくポツリと言ったレノンの言葉を、第三極長ワンラー・ミュンヘンは聞き逃さなかった。舌をべロリと出し醜く笑う。怪人は樹木を軽やかに飛びながら喜びを噛みしめる。
この唾液による攻撃と、一切相手には見えないだろう色彩の神然魔術を使えば、恐れる者などいない。あの男をすぐさま潰すのもいいが、それではまた敵を探す必要がある。面倒だ。既に敵側の一人を自分が倒し、先ほどさらにアズール側で退場者が出た。しかもユミリアーナ・アシュランである。この勢いで自分が退場者を何人も出せば、敵の戦意は大幅に落ち、そして戦果として申し分ないほどのものを手に入れることができる。
やはり天才だ小生は。
王都へ行けば、今以上の待遇を手に入れることができるだろう。裏でクロネアを操ることもできるはずだ。涎がボタボタと舌から流れる。たまらんぞ、これはぁ!
「さぁ、逃げるだけかアズール人!」
挑発を重ねる。一刻も早く仲間の下へ行かせるため、途中で倒れてもらっては困る。挑発し意地でも向かってもらう必要がある。
だからギリギリのところで生かしているのだ。執念と身体が動く微妙なラインに敵を追いやり、手の平で踊らせる。これが最も楽しくやめられない。相手の人生を鷲掴みにしている気持ちになれる。全ては小生の思いのままだと感じられる。欲情を形にできるのだ。最高だろう。これ以上の快感がどこにあるというのか!?
「妄想は絶賛進行中か? 下等生物」
前で走っている男の声がした。
「……あ?」
「ま、所詮は三流の脳みそで考えたものだろう。聞く意味すらないがな」
「舐めた口を吐き出すな。何様だ?」
唾液を左肩に命中させた。グラリと倒れ込むも、力強く踏ん張り、逃走を継続するレノン。
「俺は絶対にお前を許さない。どれだけ懺悔し謝罪しようとも、必ずお前を地獄に落とす」
「ボロボロの姿になってまで吐く言葉がそれか? 何なら諦めてもいいのだぞ。小生としてはどちらでもいい」
「だからお前はカスなんだ」
「……貴様」
「俺が何の策もなしに、走っているとでも思ったのか?」
バチリと、ワンラーの足元で弾ける音がした。
咄嗟に顔を下に向ける。
移動するために跳んでいたはずの樹木が、薄く光って消えた。
「ッ!?」
ワンラーは逃げるレノンを高い位置から狙撃していた。また、彼に空を飛ぶ能力はない。そのためか、為すすべなく地面に降下してしまう。敵は策という言葉を口にした。ならばこのまま落ちて地面に激突すれば、敵の狙い通りになってしまうだろう。瞬時にそう判断し、長い舌を近くの大樹へ伸ばし、移動する──も、今度は舌を伸ばした樹木が爆発し、中から大量の紙切れがこちらへ飛んで来た。一枚いちまいに、陣が描かれている。
まずい!
アレに当たったら、まずい。魔物としての直感が警告する。どうにして回避するしかない。左右にある特大の眼球に全神経を集中させ、近辺にある樹木以外の樹木を探す。そして向かってくる紙切れにも注意しながら、自身が伸ばせる最長距離にある樹木へ舌を弾丸のように飛ばした。掴んだ。今度は消えない。よし、やったぞ!
「“機械仕掛けの虚偽世界”」
視界に映っていた全ての樹木が、陣の描かれている紙切れとなった。
「……な」
紙切れは全方位に存在し、方向を一匹のカメレオンへと向け。
「────待っ」
爬虫類の言葉が最後まで言われる間すらなく、一点集中・突撃し、光爆する。
“機械仕掛けの虚偽世界”。中級・陣形魔法の一つであり、たいそうな魔法名であるが、実際は一時的な偽物を作り出して触れば軽く光って小爆するという一般的な魔法である。相手を驚かせるために作られた魔法で、祝い事や引っかけに使われることが大半だ。
が、それを何百と複雑に合わせ、高度な計算と大量の陣を用いれば、強力な攻撃魔法として変貌する。ただし、どこに陣を描いた媒体を隠すかにより連鎖の度合いが変化するといった短所と、それほど強力な魔法を必要とするならば、上級魔法を会得すれば事足りることから無下にされることが多い。
レノン・オグワルトは上級・陣形魔法を数えるほどしか会得できていない。
執事なのだから魔法師としての高い技量は必要ない。仕事に問題ない程度の魔法を知っていれば充分であり、彼に上位の魔法を要求する者などいない。また、魔法師としての才能もそれほどなく、魔法を勉強しているのは単純な彼の趣味である。
だから、レノンは此度の戦争では戦闘力として低い。しかし素直に頷けるものでもなかった。男だからかもしれない。性分だからなのかもしれない。ただ、それ以上に、彼は目の前の敵を許せなかった。
リュネが負けたと聞いた直後、必死に彼女を探し、見つけた。
ガンガンと樹木や岩に身体をぶつけられながら引きずられている彼女を。
襲い掛かりたい衝動を死ぬ気で抑えながら、レノンは敵を倒す策を必死に模索した。既に仲間は各自行動を開始しており、探すにも時間がかかる。また、仮に味方を見つけて応援に呼んだとしても、リュネを人質にとられれば最悪こちらの退場者を増やすことになる。
自分が倒すしかない。
しかしどうやって?
弱者である自分が所有する魔法の中から、敵を仕留められる魔法を探した。そして“機械仕掛けの虚偽世界”を思い出し、遠くから聞こえてくる衝撃音に耐えながら……完成させたのだ。もう一度同じ魔法を作り出せ、と言われても彼には無理だろう。極限の状態へと追い込まれた人間だからこそ可能だった、奇跡に近い魔法だったのだ。
「ガ……ァ」
無様な声を出して、地面に落下したカメレオンを、レノンは見つめる。電子版は現れない。敵はまだ意識があるのだ。遠くからできる攻撃魔法を放つため、リュネを降ろし一歩前へ出た。
眼前に舌があり。
顔面に直撃する。
そのまま鞭のように舌がレノンを襲い、人形のようにズタボロに叩きのめした。彼の名を叫ぶリュネを前に、怒号を喚き散らすカメレオンが立ち上がる。
「貴様、貴様! よくもよくもよくもぉおおおおおおおおお!!」
舌を縦横無尽に繰り出し、ボロ雑巾の如く青年を潰した。数秒後、レノンは力なく地面に倒れる。もはや虫の息である彼は、視界がおぼつかなく呼吸もおかしいものの、震える右手を空へ掲げ、呟く。
「“魔炎”」
空へ一つの炎が飛んで行った。誰でも使える、初級・自然魔法である。
炎が空へ消えていった直後に、舌がレノンを真上から襲い、ひしゃげる。もう止めて、と泣き叫ぶリュネの声など聞くはずもなく、何度も何度も執拗に舌を下ろした。そして、二十回を超えたぐらいに、殴打は止まった。
電子版が出現する。しかし、それを見る者はいない。
レノンの下へ走り彼を抱きかかえるリュネと、怒りが未だに収まらないカメレオンがゆっくりと二人の前へ近づく。涙を流し、想い人の息がまだあることを確認する。よかった、と心から思うも、のっそりと巨大な影が二人を見下ろした。
「許さんぞ、許さんぞ。まだ終わらん。四肢の全ての骨を粉状になるまですり潰してやる」
「最低なクズが! 恥を知れ! これ以上私たちに」
舌がリュネの右頬を殴打する。あまりの強さに吹っ飛ぶも、必死に彼女はレノンを抱きかかえ、守る。
「黙れ。貴様も後で道連れにしてやる。小生をここまで愚弄した罪、全身で後悔させてやる!」
「……すまなかった」
怒り狂うカメレオンを前にして、レノンが口を開いた。すまなかった、と。
しかし口を開いただけであり、顔や目は動くこともなく、死に体であった。それでも、淡々と彼は言葉を続けた。
「俺は絶対にこいつを許せなかった。だから、何としてでも倒したかった。けれど、できなかった」
「ハハハハハハ! 何だ、あぁ!? 懺悔か? 笑わせるなよゴミが!」
「自らの手で倒せなかった自分を、心から恥じる。だが、それでもこいつだけは、許せなかったんだ」
「許す許さないでダラダラ言ってんじゃねーよ! 何様だ貴様は!」
「だから……頼む」
「もういい。後は粉になってから言え」
二人一緒に潰すため、舌を振り上げ一気に降ろすワンラーの前で────。
“魔炎”で呼んだ仲間に、レノン・オグワルトは想いを託す。
「こいつを倒してくれ。リリィ」
カメレオンと二人の前に少女が現れた。
トン、と自身の手をカメレオンの前にかざす。全身を真っ赤に染めた、征服少女が右手を突き出す。
爬虫類が、蛇に呑まれた。
炎蛇は森の中を凄まじい勢いで駆け抜けていき、空を飛ぶ。その間も中にいるカメレオンには灼熱の苦しみがあった。逃げられない。逃げられるはずもない。カメレオン如きが、蛇に勝とうなど、笑止千万である。
先ほど浮かんだ電子版は、レノンの退場を知らせるものではなかった。
第一極長『魔人』、アニー・キトス・ウーヌの退場を知らせるものだったのだ。
「アッギャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」
もはや為すすべもない魔物は、ただただ悲鳴をあげながら蛇と共に空を飛び、ある場所へ到着した。
蛇ごとそこへ突っ込み、プスプスと燃えるカメレオンを見下ろしながら、炎蛇は消えていく。ワンラーはまだ意識があった。凄まじいほどの生命力であり、彼の執着心の表れでもある。絶対に自分をこんな目に遭わせたあいつらを許さないという憎しみと、自分が戦争で退場してたまるかという執心が、怪人を動かす。
「ん?」
ただ、それとは別に不思議な感覚が彼にあった。
身体が動かないのだ。
正確に言えば、床と密着しているような気がする。どこはここだ、と眼球を動かすと、見知らぬ建物が視界に映る。建物である。館である。魔法の……館である。
「ま、さか」
この館にはある仕掛けが施されている。咄嗟に数日前に聞いたルェンの言葉を思い出た。「あの館には、侵入者に対してこの世の苦しみを如実に味わわせる魔法の数々が、何十も張り巡らされている」と。だから絶対に近づいてはならない。近づくだけならまだしも、万が一館内に入ってでもしまえば……もはや、生きては帰ってこれない。
「や、め」
全身の爪と肉の間に針を突き刺す痛みが走る。
絶叫。
“病魔の軍勢”が天井からボトボトと降ってくる。壁の至る所から拷問器具がぞろりと出現し、こちらに向かってくる。館が地響きと共に動き出した。侵入者に対し館全体で拷問するため、その準備に取り掛かったのだ。どこからか赤ん坊の泣き声と、子供の笑い声が聞こえてきた。神経を六十箇所ほど切断する予言書が目の前に現れた。歴史ある拷問魔法の数々が一つずつ、丁寧に、待望のお客様を前に、やって来る。
「────」
電子版が出現する。ワンラーの意識が消えたからだ。
しかしすぐに叩き起こされた。意識が戻るも、既に意識が途絶えた事実は変わらないので、電子版からは彼の名前は消えることになる。ただ、仮に戻ったとしても戻らなかったとしても、怪人が戦争に復帰できるということは……もうない。
地獄の世界へ誘われた彼に、救いの手を差し伸べてくれる存在は一人もいなかった。それでも彼は叫ぶが、心からの叫びを最後に、もう言葉すら出なくなる。仮に出したとしても、かき消されるだけであろう。
第三極長、ワンラー・ミュンヘンが最後に叫んだ……言葉とは。
「小生が、何か悪いことをしたか!?」
クロネア側、残り十一。