アズール図書館の司書 ― その青年は全ての魔法を発動できる。ただし人生で一度だけ ―   作:藤崎次郎

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真実の開示<上>

 

 

 

「最後を語る前に、鯨よ、確認事項のことを覚えていますか」

 

 少し前のこと。選抜集団代理戦争が行われている最中、シルドは鯨のもとへ降り立ち、謎解きの場所へ案内された。そしていよいよ開始しようとする前に、ある確認事項が交わされた。

 

『確認があります』

『何かな?』

『これから始まる問答は、先に言った四つの謎に対し貴方が答えを持っているということでよろしいですか』

『あぁ、余が答えを持っているよ。それは間違いない』

『では、答えが合っていた場合、貴方は認めてくれるのですね』

『ふふん、勿論だとも。合っているのにそれは違う、などと野暮なことはしないさ』

 

 この時はまだ、解答について何も述べていなかった。

 つまり、鯨にとっては、謎の答えを「古代魔術」としてくるだろうと見越しての発言になる。余裕があったのだ。存分に掌で踊ってきたアズール人の最後のダンスを、目の前で見られる喜びがあった。それまでずっと鯨の計画通りに事が運んでいた手前、解答もまた同じだと考えていた。

 しかし、実際は違った……。相手はこちらの思惑を看破し、さらには今日に至るまでの鯨の思考や行動を言い当てた。そして、いよいよ最後の時が迫る。正体が魔法である解答。

 

 同時にそれは、シルドが考えた「ハリボテ説」である。

 確かな根拠や理論などない、しかし彼の直感が真実だと判断した脆く繊細な答え。そしてこれの最も恐ろしいところは、相手側の返答にある。

 仮に、百歩譲ってハリボテ説が合っていたとしても、鯨が「違う」と言えば謎解きは不正解となってしまう。真相の全容を知っているのは、かの存在だけなのだ。

 確かにそんな不義理なことをしてしまえば鯨の評価は最低となるが、できないわけではない。ある種、気分で変えることもできる。不条理で曖昧で、弱い立ち位置に……シルドはいる。これを防ぐ手段は、一つしかない。

 

 確認事項を明白にし、厳守させること。

 問答戦において重要なことは、相手を負かすことでも、こちらの意見を押し通すことでもない。

 ルールを堅い鎖で結ばせることだ。これが堅実なものであればあるほど、問答戦が斜め上にいくことなく、基盤上で平等に戦うことが可能となる。

 

「この確認事項は今も継続しているということでよろしいですね」

「……」

「僕の話した解答が『合っている』ならば、認めていただけるのですね」

 

 正面で向かい合い、瞳を交差させながらシルドは告げる。

 相手は軽く息を吸い、ゆっくりと鼻で吐いてから、表情変えることなく淡々と返す。

 

「あぁ、間違いないよ。どんな荒唐無稽な解答であろうとも、『合っている』ならば余は認めよう。ただし、僅かでも外したならば────、即刻不正解とさせてもらう。訂正は認めない。言い直しも認めない」

「わかりました」

 

 互いに静かな口調であった。これで最終確認が終わった。

 さぁ、いよいよだ。蒼髪の青年は心に一つの気持ちを置いた。

 唾を飲み、グッと両手に力を入れて放す。緊張を和らげ、話す内容を今一度脳内で整理してから……、最後を始める。

 

「ある一つの真実があった。しかしその真実を隠そうと思った場合、虚偽で覆う必要がある。少しの嘘で覆い隠せない場合なら、大きな嘘で覆うしかない。けれど、嘘が大きければ大きいほど、矛盾や綻びが生じるものです」

「何が言いたい」

「貴方が用意した古代魔術も、矛盾点があった」

 

 それは、シルドが先刻語った「古代魔術を答えとする際に生じる矛盾点」であった。

 難病であろうとも、頭の中で思い浮かべた獣に姿かたちを変えることが可能な魔術“想念なる幻獣”を使って、難病でも治る身体を想像すればよかったのにしなかった。死ぬ前に、“魂交”によって別の肉体と入れ替えればいいはずなのにしなかった。古代魔術は同時に使えないはずなのに一千年前は使っている……等、他にもあるが真実を古代魔術とするのなら、どうしても説明できない点が出てくる。

 

「それら全てが魔法と関係していると言いたいのか、クロネアの敵」

「違います。これらはただの例示に過ぎない。嘘で塗り固めた場合に出てくる綻びの一片です。僕が貴方の正体を魔法ではないかと思うきっかけになったのは、そのうちの一つにあったと言いたいのです」

 

 ……きっかけの始まりは、何てことはない一冊の本。

 ルーゼン・バッハに古代魔術の三つを教えてもらい、翌日鯨のもとへ行くも、ほんの少しの会話だけで終わらされたあの日。シルドは魔法の館に戻ってジンと会話をした。その際、朝食を作ってもらうため二人で部屋を出ようとした時、二冊の書物が足元に落ちた。一冊は「魔法の入門」。魔法の定義や七大魔法の詳細図、簡単な魔法に魔法師としての心構えといった、どこにでもある普通の本。

 そしてもう一冊が……「ブロウザの大冒険」。

 この本を選んだことで、シルドは「他国の図書館の謎を一つ解明せよ」という第二試練を言い渡された。第二試練の課題は、この絵本から生まれたのだ。シルドがクロネアに降り立つ前から、肌身離さず持っていた本である。

 

「貴方は自らの名をブロウザと言った」

 

 何故、鯨はシルドに自らの名をブロウザと言ったのか。それは、主人公ブロウザが冥界に渡り、用心棒と共に冒険し、最後は冥界の王からもらった秘術を「古代魔術の入手方法」として間接的に教えたかったからだ。古代魔術を答えとする中で重要な位置づけであったといえよう。だが、これは偽の解答へ誘導するための嘘だった。

 嘘には矛盾が生じる。

 幾つかの嘘がある中で、この嘘から見いだせる不可解な点があるとするならば……。

 

「どうして、絵本の内容を知っていたのですか」

 

 ……。

 冷静に考えてみれば、鯨の不信な点が見え隠れする。

 ごく小さな疑問点なれど、確かにおかしな点だ。

 この絵本をシルドが大事に持っていることは、鯨がルーゼンを使い知ることは容易である。ただ……その絵本の中身まで知ることは容易であろうか。

 

 題名を知ることはできよう。しかし、肌身離さず持っているシルドからルーゼンが奪い取り、それを鯨まで送り届けることは極めて難しいことだ。ルーゼンは「鯨の目」の役目しか契約していない。尾行と言伝しかしていない。

 持ち運ぶなんてリスクのある行為、するはずがないのだ。仮にルーゼンがアズール語を読めたとしても、本を読むためにわざわざ館に降り立ちシルドたちの目を盗んで読みふけることは難しい。罪悪感に囚われている彼の心情を考慮しても、現実的ではないだろう。

 何より……。

 たかが一冊の絵本のために、そこまでする意味がない。

 大事に持っているとあっても、誰かの形見かお気に入りの本だと考えるのが自然だ。リスクを冒してまで内容を入手するのは愚策に相違ない。

 

「しかし貴方は知っていた。中身をしっかりと把握していた。けれど、これはアズールの本だ。アズールで出版されアズール人が主人公の、アズールだけにある本。前も言ったかもしれませんが、長らく不仲であった両国で絵本だけ独自に流通しているはずがない」

 

 知っているはずがない内容を知っている矛盾。

 この矛盾が真実へ至る第一歩だった。

 何故、鯨は絵本の内容を知っていたのか。

 

「貴方はルーゼンさんから僕が『ブロウザの大冒険』を持っていると知った時。心臓が止まりそうなほど驚いたはずだ。どうして持っているのだと……、焦り狼狽した。何故なら、この絵本こそが、真実に至る手がかりであると知っていたからだ」

 

 もし「ブロウザの大冒険が謎に関係しているかもしれない」とシルドたちが考え、そこから思慮を巡らせば。

 僅かながらでも。

 真実へ至ってしまう可能性がある。

 それだけは、避けねばならない。

 真実を知っている鯨だからこそ直感した危惧。

 鯨は熟考の末、こちらから「古代魔術の入手方法」という「絵本の使い道」を指定すれば、余計なことを考える余地は生まれないと考えた。先手を打ったのだ。だから鯨は自らをブロウザと言った。冥界に渡り、秘術を手に入れたのは自分であると。──しかし、その考えは看破される。真実へと至るため、絵本の本当の意味をシルドは考える。

 判断材料は三つ。

 鯨は絵本の中身を知っている。

 クロネアでは存在しない絵本。

 主人公ブロウザは鯨ではない。

 

「中身を知っているのに、クロネアでは出回っていないとすれば、『書かれる前から中身を知っていた』ということだ。作者と深い関わりがあるということ。また、不死の身体は『外』からもたらされた。魔術で説明できない以上、外部からもたらすことができる『魔法』が有力になる。けれど、いかに魔法であっても相手を不死にするなんて大それたことはできない。────秘術でもない限り」

 

 シルドの右手には、絵本があり。

 表紙が見えるよう、そっと上にあげて。

 

「今でもありえないと思うし、ハリボテの考えだと自分でも思う。けれど、これが答えだと僕は言います。これしか説明できる方法がないからだ……! 偽の解答である古代魔術を話した時と同様、この絵本は『実話』をもとに書かれている。ただ、『貴方が主人公ではなく、アズール人が主人公の物語』だ」

「……」

「では貴方はどうして絵本の中身を知っていたのか。それは、実話の物語に書かれている『別の登場人物として当時その場にいた』からだ。主人公ブロウザを取り巻く実話の中に貴方はいて、全てを目の当たりにしていたからだ」

 

 絵本を、捲(めく)り始める。 

 

「だから何もかも知っている。貴方は、『当事者』だったのだから」

 

 

 

   * * *

 

 

 

 とある世界に、ブロウザという青年がいました。

 ブロウザは好奇心旺盛で毎日元気に駆け回ります。素直で正直な優しい心の青年でした。

 彼の優しさは大地を越え、海を越え、種族を越え、自分よりも何百倍の大きさを誇る生き物であろうとも通じました。ブロウザは本当に優しくて強い、思いやりのある青年でした。

 

 ある日、ブロウザがある想いを託されて、森を懸命に走っていると大きな黒い物体を見つけました。

 ……これは何だろう?

 そう思いながらブロウザは黒い物体に触れました。すると突如として、ブロウザは黒い物体に呑み込まれてしまったのです。目が覚めると、そこには見たこともない不思議な世界が広がっていました。さぁ、ブロウザの大冒険が始まります!

 

 ブロウザは見たことも聞いたこともない世界で一生懸命頑張りました。

 頑張って頑張って、ついに運命的な出会いを果たします。その世界における、最強の用心棒と親友になれたのです。ブロウザと用心棒は長い道のりの末、その世界の王と謁見することができました。王は言いました。

 ……我が命を狙っている悪の大王を倒すことができれば、汝を元の世界へ返してやろう。

 ブロウザと用心棒は、悪の大王を打ち破るため、新たな旅に出かけます。さぁ、ブロウザの大冒険は新展開を迎えます!

 

 壮絶な戦いを終え、ようやくブロウザと用心棒は悪の大王を倒すことができました。王は二人に感謝して、恩赦を与えます。

 ……よくぞ倒した! 褒美に汝を元の世界へ渡る秘術を授けようぞ。また、もう一つ汝が望む秘術を授けよう。望むが良い。汝はどのような秘術が欲しいのか。

 

「では、────の秘術をお与えくださいませ!」

 

 ……ふぅむ、よかろう。難しいが、汝の世界では叶うかもしれぬ。

 そぉれ受け取れい。これが異世界を渡れる秘術と、────の秘術ぞ!

 

「ありがとうございます!」

 

 ついに、ブロウザは元の世界へ帰れる方法を見出したのです! いよいよブロウザの大冒険も終わりを迎えようとしています。ブロウザは異世界へ帰る前、用心棒と最後の言葉を交わします。

 

「今まで本当にありがとう。とっても楽しかったよ!」

「礼を言うのはこちらさ、友よ」

「ううん、違うよ。キミがいたからこそ、僕は元の世界へ帰れるんだ!」

「そうか。なら二人で協力した結果なのだな」

「そうさ!」

「では、最後に問いたい。友は俺にしてほしいことはあるか?」

「そうだね。うん、なら、一つだけ」

「聞こう。如何なるものであろうとも、必ず叶えてみせよう」

 

 用心棒は誇らしげに胸を張ります。ブロウザは嬉しそうに、けれど切なそうに言いました。

 

「いつの日か、そう、いつの日か……。キミを心から必要とする者が現れるかもしれない。どんな方法であろうとも、キミの力がどうしても必要で、命を懸けてでも必要とする者が現れるかもしれない。その時、どうか、お願いだ。その者を……助けてほしいんだ」

「友よ。すまないがもう少しわかりやすく言ってくれ」

「うん。御免ね。これは起こるのかどうか非常に難しいものなんだ。稀有なことなんだ。でも、もし……もしも起こったら、きっとキミの力が必要になる。だから」

「わかったよ。誓おう友よ。この先、俺の力を心から求める者が現れたなら、必ず助けてしんぜよう」

「あぁ、ありがとう! これで僕は、元の世界へ帰れるよ!」

 

 ブロウザは、王から授かった秘術を使い元の世界へ帰ることができました。そして帰った直後に、異世界へ渡る前に託されていたある想いも無事成し遂げて、彼は生涯を終えたのです。こうして、ブロウザの大冒険は終わりました。

 ブロウザは信じています。

 これからどんなことが起ころうとも、異世界の友は約束を守ってくれると。

 だから大丈夫。

 きっと友なら、たとえ世界が異なろうとも、世界を渡れる門を繋ぎ、約束を守ってくれるだろう。

 おやすみブロウザ。

 きっとその想いは、運命の名の下に、この世界へ紡がれるだろう。

 

 

 

   * * *

 

 

 

「今から約一千年前。主人公ブロウザは海を越え、クロネアが統治するセルロー大陸へ渡った。その際に、ある魔物と知り合うことになった。これらは冒頭から読み取れます」

 

 “彼の優しさは大地を越え、海を越え、種族を越え、自分よりも何百倍の大きさを誇る生き物であろうとも通じました。”

 アズールが統治するクローデリア大陸に「何百倍の大きさを誇る生き物」など存在しない。また、海を越えたとあることからも、ブロウザがセルロー大陸に渡り何かしらの魔物と知り合ったと解釈するのが妥当であろう。

 

「次の文では、“ある日、ブロウザがある想いを託されて、森を懸命に走っている”とあります。ブロウザがクロネア人の何者かによって託された願いを聞き入れ、成し遂げるために走っていたのでしょう。しかし、その途中、彼は黒い物体に触れたことにより異世界へ飛ばされてしまいます」

「待ちたまえ。当たり前のように異世界へ飛ばすと言ったが、そんな絵空事が簡単に可能なわけがない」

「簡単ではありませんが、記述としてあるのなら実際に起こったのです。……そうですね、異世界へ渡った答えに関しては、今言うのではなく少し後に話します。そちらの方がより説明がしやすくなりますから」

 

 優しい笑みを浮かべるシルドに、鯨はそれ以上何を言わなかった。

 説明がしやすくなる、という文言に思うところがあったからだ。……小さかった不安が、鯨の中で渦を巻く。「心の海」に落とされていた、不安や焦燥という名のインクの量が増していく。もはや……ポタ、ポタと滴る程度ではなくなっている。鼓動がひと際大きく鳴った。自分が追い詰められている実感を、徐々に感じつつあるのがわかる。

 

「ブロウザは異世界、絵本では冥界と表現されていますので冥界と言い換えますね。冥界で用心棒と出会います。そして用心棒と共に冒険の末、悪の大王を倒し、冥王から二つの秘術を受け賜わりました。一つは元の世界へ戻れる秘術を、そしてもう一つは……書かれていません」

 

 “では、────の秘術をお与えくださいませ!”

 

「ここが、この絵本における最も難解な場面です。二つ目の秘術が何なのか、書かれていない。読者の想像に任せる作者からの粋な計らいとも解釈できますが、実際はそうではない。これこそが不死の秘術であり、作者ブロウザの込めた想いでもあった」

 

 鼓動が、さらに大きく鳴った。

 二者だけがいる空間に、静寂が訪れる。シルドが口を閉じると、無音が闇へ溶け込むように辺りへ広がっていく。鯨の表情は音と同じ「無」であるが、少しずつ、歪んでいくのが見て取れた。シルドが先と変わらない口調で、静かに言葉を続ける。

 

「最後にブロウザは用心棒と言葉を交わし、元の世界へ戻っていく。そのすぐ後の文に、短いながらもハッキリとこう書かれています。“そして帰った直後は、異世界へ渡る前に託されていたある想いも無事成し遂げて、彼は生涯を終えたのです”、と」

 

 絵本のタイトルからもわかる通り、内容はブロウザの冒険話を端的にわかりやすく書いている。冥界で友となった用心棒との会話を入れていることからも、大半が彼の冒険に関する話だ。しかし、変な箇所もあった。

 託されたある想い、とは何だ?

 冒頭でブロウザはある想いを託され懸命に走っているとある。また、冥界から戻ってきた直後にその想いを無事成し遂げたともある。

 

 ……直後に、である。言葉や手紙を送り届けるために走っていたのなら相手に届けるための時間がいる。直後になど無理だ。また、冥界に行く前のブロウザで託された想いを達成できたのなら、絵本の冒頭で走っている必要などない。冥界に行く前では、彼は託された想いを叶えられなかった。

 となれば、「冥界から帰還したブロウザだからこそ起こせた事柄」であったと考えるべきだ。彼はクローデリア大陸からやって来た魔法師である。当然ながら……

 

「魔法が使える。ブロウザは秘術を魔法として、託された想いを成就させた。その相手こそが──」

 

 ある想いを託したのはセルロー大陸に住むクロネア人。

 ブロウザ自身は魔法を介して不死の秘術を手に入れた。

 ブロウザは元の世界へ戻った直後に託された想いを成就させた。冥界に行ったからこそ成就できた。つまり、不死の秘術を使った。この世界で不死の状態である生き物は──

 

 一体しかいない。

 

「貴方だ。鯨」

「……」

「偽の解答では秘術を古代魔術としましたがそれは違う。秘術は不死だった。また冥王から秘術を『受け賜わった者』も違っていた。偽の解答では貴方が。真実ではブロウザが。一見大した違いではないと思われるかもしれないが、本質が全く異なってきます」

 

 鯨の目は、シルドを見ているも彼を見てはいなかった。頭の中では別のことが鯨を支配していて、とても視界に映る青年を見ている余裕がなかったからだ。……心のどこかで生まれた小さな焦りと不安が、徐々に渦巻いていき、大きくなっていく。インクの色が、否応にも心の海を染め上げていく。

 

「貴方にとって、これこそが最も危惧していた点だった。ひとたび気付かれてしまえば、他の部分もなし崩し的に見えてくるからだ」

 

 ブロウザへ想いを託したのは、鯨だった。

 確かに多少驚くべきことではある。ただ、そこまで大きな驚きだろうか。単に想いを託したのが鯨だった……だけのことではないか。そう思うのが普通だ。

 

 しかし鯨は何としてもこれを回避したかった。

 つまりは、“想いを託した者が鯨である”ことを、シルドに知られたくなかったのだ。

 知られたらどうなるのか。

 鯨が託したのなら、そこから生まれる次の疑問点はないかと思慮を巡らせると、一つの疑問を思いつく。鯨にとって絶対に思いついてほしくない疑問が生まれる……! それは──

 

「何故、鯨から“想いを託された相手がブロウザだったのか”、ということです」

 

 一千年前の時代。クローデリア大陸からやって来た異国の者など、クロネア人からすれば野蛮人である。仮に知り合ったとしても、話す程度の間柄だ。会って間もない相手に、想いを託すことなどありえようか。託すべき相手なら、他のクロネア人でよいではないか。異国から来たブロウザである必要は皆無のはずだ。

 

「にも関わらず貴方はブロウザに想いを託した。理由があったはずです。彼にしか頼めなかった理由がそこにあった」

「……」

「僕は最初、この疑問の答えとして『ブロウザがアズール人であったから』だと思いました」

 

 絵本では、託された想いは無事成就されたと記されている。不死となった鯨が存在する以上、託された想いとは「自分を不死にしてくれ」であったはずだ。発見時に不治の病に侵され、死に体であったのだから、そう願うのも頷けるものだ。

 死にたくない鯨は、相手が異国の者であろうとも助けを求めたのだろう。アズール人だから何とか出来ないか、瀕死状態でそう思うのもわからないでもない。冒頭でブロウザが走っていたのもまた、何とか生きたいと懇願する鯨の願いを叶えたいと思っての行動と考えるなら、辻褄が合う。

 

「しかし実際は違った」 

 

 鋭く重い言葉が周囲を満たす。

 

「貴方は、想いをブロウザに託したとありますが、正確には『ブロウザにしか託せなかった』のです。それ以外の選択肢は、なかったから」

「……ッ」

「何故か。答えを導き出せた要因は、貴方の魔術にありました」

 

 鯨は魔物である。クロネア人だ。

 魔物である以上、使える魔術は二つに絞られる。魔物の姿から人の姿になれる人叉魔術と、大自然に干渉できる神然魔術だ。鯨が今、シルドの前に現れている姿は人の姿であるから、人叉魔術であると考えられる。神然魔術で幻影を作っているとも考えらえるが、それだと椅子に座ったり触れたりはできないだろう。

 人叉魔術でシルドの前に現れている。

 だとするならば、この魔術は異常・異質・異形だ。

 今までシルドが見てきた中で、「身体の一部分だけ」を人に変える魔術など、見たことがない。まるで……「中途半端にしか魔術を行使できていない」ようではないか。

 

「てっきり僕は、身体そのものを人の姿に変えたならば、体内にある無数の本を危険に晒してしまうという貴方の優しい配慮だと思っていた。けれど、ルェンさんは以前こう言っていました。『残念ながら不死となった今では目をパチパチさせるだけで、意思伝達ができないのが悔しいところです』と」

 

 ルェンは、魔術そのものが使えないと言っていた。

 魔物であるはずなのに、魔術が使えないのはおかしい。現にシルドの前では魔術を使っているではないか。……ただ、これはおかしいわけではなかった。

 魔術が使えないのではない。

 使えるけども、未熟な形でしか行使できなかったのだ。

 鯨の未熟な魔術を隠すため、あえて何の意思伝達もできないと後世に伝えたのである。──双子の王族が。

 

 

「双子の王族は貴方が半端な魔術しか使えない魔物だと知っていた。時は一千年前。ある問題がクロネアで跋扈していた。そして、貴方はその被害を全身で受けていた」

 

 

 声を強めることなく、静かにシルドは告げる。

 対し、鯨もまた。

 静かにシルドの言葉に耳を傾けながら……目を閉じて、唇を噛む。

 一千年前、鯨は──

 

 

 

「人魔差別の被害者だった」

 

 

 

 差別を受けていた。

 

 

 

 

 

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