アズール図書館の司書 ― その青年は全ての魔法を発動できる。ただし人生で一度だけ ― 作:藤崎次郎
土を踏み、こちらへ近づく音が聞こえてくる。時折、小さな木々の破片を踏む音も交じる。歩を進める者は一人だけ。緑色に光る何かを携えて、ゆっくりと歩いて来る。
三傑にとって、どんな相手であろうと自分を倒せる者はいなかった。絶対防御の魔術を生まれた時から身に宿し、今に至るまで一度たりとも解除したこともされたこともなく、無傷のまま勝ちだけを手に入れてきた。当然ながら恐怖や不安など無縁であり、自分以外は等しく弱者に相違なかった。
そんな彼が「なんだ……お前は」と言った。
「誰だ」ではなく「なんだ」と言った。
こちらへ近づいて来る者が「人」であるのはわかっているのに、「誰だ」と言わず、もっと不気味で不明確なものに対する「なんだ」を使用した。自然と出た言葉だ。彼自身、気付いていない。その小さな異常を。
「アズール代表の残りか」
微かな異常に気付くことなく、レイヴンは嬉しそうにほくそ笑む。これでアズールの残り二名が揃った。さっさと殺しアズールの敗北を決めてから、退場したアズールどもを一人残らず消していこう……!
徐々に姿は露わとなっていく。
緑色に光る本を左手に持っていて、一人の女性を抱きかかえていた。一言も話さず静かに歩いて来て……止まる。周囲の暗さゆえ表情は読み取れない。唯一の明かりである本は、今も穏やかにそこにいて。
「貴方がこれをやったのか」
「あぁ? ハッハァ、まぁな」
「霊父と呼ばれている貴方は学生ではない。ならば、此度の戦いに参加できないのでないか」
「知らねーよ。俺はクロネアだ。クロネアとしてお前らアズールを潰すことにした、それだけだ。ただまぁ、感謝はしているぞ。憎き二流国家を滅ぼす口実が出来たのだからな。解釈はいくらでも後付け可能だ。お前たちはクロネアの勝利に納得できず王女を襲い殺された……。後は本当の戦争へ雪崩れ込むだけさ。ずっと待っていた。あぁ、クロネアはずっとこの機会を望んでいたのだ。そして今、訪れた。最高だ」
「……」
「お前も殺す。今から殺す。さて、名も知らないガキよ。最後に言い残す言葉はあるか」
「その問いに答える必要はない」
本の光が、増す。
「最後ではないからだ」
ペチャ……、と何かの音がする。
その音は、レイヴンの左肩から聞こえた。
反射的にそこを見ると、赤い手が置かれていて。
赤は……血であった。
「……? ッ!?」
振り返った先にいたのは──。
全身を真っ赤に染めた女。
足元には血だまりが広がっている。
髪はグチャグチャにねじれ、顔は痩せ干せ骸骨のようであり、服は所々が切れていて、下腹部のあたりからは内臓が出ていた。口を開けると歯はほとんど欠けており、舌は半分なく、唾液すら血である。そして、三傑クロネア代表、レイヴン・ハザードの両肩に手を回して、悦に浸る笑みをした瞬間。禁術、特級・癒呪魔法──。
「“産女(うぶめ)狂苦の血染め子宮”」
血だまりへ引きずり込んだ。
二メートルを超える巨体を易々と引きずり込む力。あまりの出来事に驚きを隠せない三傑。そのままレイヴンは「血の池」へ呑まれた。彼の魔術は身体全体を完璧に覆っているため、目に血が入ることなどない。また、魔術の力で視界も鮮明である。そのためか、異様な光景をハッキリと認識できた。
目玉、毛、指、爪、肉片などが……そこら中に沈んでいる。どれも大きさは限りなく小さく、成人のものでは断じてない。赤ん坊のものだ。赤ん坊の身体にあったであろうそれが、血池の中で……無数に広がっていた。
そして、自分を強制的に招いた女がこちらを向く。口を開けて顎を外し、ガパァと常人の開ける大きさとは比べ物にならないほどの開口をすると、その中から腐った赤ん坊を“にゅるぅ”と出した。
赤ん坊はレイヴンを見るや、何かを言おうとするも、女が閉口して見えなくなった。さすがの光景に言葉を失う彼に対し、これ以上ないほど嬉しそうな表情をした女が……迫る。
「子宮ヲ頂戴」
「ね゛ぇよ゛糞アマ゛ァ!」
先ほどレイヴンのいた場所は、今も血だまりが広がっていてポコポコと空気の泡が浮かんでいる。血の池を丁寧に避けながら、青年はジンとミュウのもとへ歩き二人の前で止まった。今もモモは抱きかかえられているも、青年が事前に発動した応急処置の癒呪魔法の効果で、命に別状はない。
ジンは樹木を背もたれにして、顔を下に向けている。ルカの感覚で誰が来たのか、いや、ルカを操作しなくても誰が来たのかわかる。少しだけ笑ってから、口を開いた。
「やっと来たか」
「……」
「まぁ、見ての通りだ。三傑クロネア代表の乱入で目をやられた。ミュウは足を。画麗姫は頭を。シェリナは顔面を。第四極長は背骨を。ここにいる全員、身体の至る所をやられた」
「……」
「今回の戦争は俺が引き起こしたものだからな。責任として俺が奴を討つ、って意気込んだはいいものの、この有り様でなぁ。笑えねーだろ?」
「……」
「情けないったらねーぜ。そしてルーゼンはもう手遅れだ。長くはない。あぁ、まったく、本当に、こんな結果になるとはなぁ」
呼吸すら激痛が走る状況で、ジンは流暢に話す。
そして、既に下を向いている顔を、できる限りさらに下へ向けて──、謝罪の意を示す。
「すまなかった。俺には、何もできなかった。命を懸けたが、その程度では奴を殺せなかった。……本当に、すまない」
「目をやられたって言ったけど、それについては後悔してるのか?」
「あー、いや。これについちゃ、まぁいいんじゃないか。ミュウもいるしな、案外悪くないぜ? 光なき世界だからこそ見えるものもあるって感じだ」
「そうかい。“祝福の輪廻”」
美しい半透明なリングが展開し、瞬く間に周囲へ広がっていく。リングは木々を通過し、アズールとクロネア代表者全員に触れていく。その速度は凄まじく、僅か数秒で戦争の舞台である森林全体を駆け抜けた。
そして──。
代表全員の外傷を一瞬で“治癒”した。
「…………。は?」
ジンの目、ミュウの足、モモの頭、シェリナの顔、フレイヤの背骨はもちろん、身体中の全ての傷を癒し……治す。
素っ頓狂な声をあげ、目をパチパチとするアズール王子。
数秒固まった。
暗闇だった世界に、光が戻る。
視界に映る光景をキョロキョロと見て、ポカンと口を開けたままのジン。そんな彼を前にして、これ以上ないほど嬉しそうな表情をする友がいた。こんな銀髪を見たのは、生まれて初めてだったからだ。
「悪いねジン。光なき世界もいいだろうけど、キミには光ある世界の方がいいと思うよ」
「お前……」
「ん?」
「馬鹿じゃねーのか」
驚くのも無理はない。何せ今発動した魔法は、癒呪魔法の「頂点」とされる魔法だからだ。
特級・癒呪魔法“祝福の輪廻”。発動時を起算点として、七時間前の間に生じた外傷であれば……、どんなものであろうと“完治”する。
ただ例外もあり、身体の一部分が切り離され、既に燃えていたり無に帰している場合のみ対象外となる。なれど例外を除けば、重症であろうと瀕死の状態であろうと死体一歩手前であろうとも、それが七時間前の間に生じた外傷であるのなら……。
等しく癒され、治る。
癒呪魔法・癒し系統の頂点にある魔法で、会得すれば未来永劫癒呪魔法史に名を残すことになる。
ジンの前にいる青年は、この世に存在する魔法なら、どんな魔法であろうとも一度だけ発動することが可能だ。ただし、二度と使えなくなる。
将来、結婚し妻や子供ができるも、大きな事故や災害に巻き込まれ大怪我を負い命が風前の灯火となった場合、救えるのはこの魔法ぐらいなものだ。そんな状況に遭遇せず、人生を終えるかもしれないが……ないとは言い切れない。保険はあるに越したことはない。癒しの魔法ならば特にそうだ。
……もう、“祝福の輪廻”は使えない。
もっと別の癒呪魔法があったのではないか。少なくとも、頂点の魔法を使用する必要はあったのか。ジンの驚きは、そこから来ていた。対して馬鹿じゃねーのかと言われた相手は、何をいまさらという顔をして。
「前から言ってるだろ。出し惜しみはしない主義なんだ」
意地悪く笑う。そして抱きかかえている女性の方を見た。
貴族の令嬢は今の状況に混乱している様子だった。意識は戻ったし、目の前に想い人がいるのもわかるけれど、それ以外のことを考える余裕は生まれなかった。とりあえずジッと彼を見つめていて……。そんな貴女の視線を受けながら、優しい表情で微笑んでから。
「あぁそうだ。館を出る前に言われたこと、やらないとね」
不意に変なことを言う。
そしてジン、ミュウ、モモの三人が頭上に疑問符を浮かべた時。青年は、モモの額(ひたい)に顔を近づけて。
「「「……ッ!」」」
キスをした。
「え、と。これでいいのかな」
──三人は思った。
こいつ誰だ!?
偽者だ!
と、同時に「館を出る前に言われた」という彼の言葉をきっかけに思い出せた。鯨のもとへ向かおうとする蒼髪の青年に対し、ジンはニヤニヤしながらこう言っていたのだった。
『第二試練に合格して帰ってきた際、普通に言うんじゃ面白くねーよな。普段“シルドが絶対にやらない行動”をしてくれや。そっちの方が、一発でわかるし面白そうだろ?』
絶対にやらない行動。
キス。
確かに、まずやらない行動だ。口づけをされたモモの顔は見事に真っ赤なれど、した本人も負けず劣らず真っ赤である。ぎこちなくモモをゆっくりと地面へ降ろして、恥ずかしそうに照れ笑い。
何キスしたぐらいで赤面してんだとジンは思った。いいなぁ、とミュウは思った。たかがキスされたぐらいで動揺しすぎね、とモモは思うもされた場所を指で触ってしっかり確認。デコフェチなのか後で確認しなければと、思考を間違った方向へ発進させる。各自がいろいろと思う中、三人は改めて何故キスをしたのかその原因を悟った。
普段、絶対にやらない行動をしたということは。
第二試練に、合格したということだ。
謎を、解き明かしてきたということだ。
「マジか」
「うん」
ジンが確認し、頷く青年。
途端に、後ろからくすぐられるような、愉快な感覚に襲われる王子。
「クク、ククク、ハハハハハハハッ、ヒヒヒヒッ!」
「笑いすぎだろ」
「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!」
「おい」
「悪い悪い。いやぁ、そうか。そうか、そうか。……よかったじゃねーか」
「あぁ」
「ならま、とりあえずは言っておくべきだろうな」
青年を除く三人は目で確認し合い、自分のことのように嬉しそうな表情をして。
おめでとう、と声を揃える。ありがとう、と当人も返す。四人の周囲にある空気は実に優しく、温かい。数分前に起こっていた空気とはまるで違うものであった。
……けれど、現実を見なければならない。
そろそろ、この雰囲気も限界である。終わりが近づいて来ている。アズールの王子は息を吐きながら、動くようになった右手を握って開く。
「なぁ」
「うん?」
「……」
「……」
「あのな」
「うん」
「敵は、三傑クロネア代表だ」
「みたいだね」
命を懸けた。全ては友が帰ってくる場所を用意するため。懸けたものの敵を討てず、帰ってくる場所の用意もできなかった。ただ、本来の目的は達成できたようだ。青年は帰って来た。今のところアズール陣営は皆、無事だ。魔法で傷も癒えた。これ以上奴と戦う意味はない。
一刻も早く逃げるべきだ。そう判断するのが妥当である。
「魔術は“絶不なる神体”と言ってな。簡単に言うと魔術で身体全体を完璧に覆っていてあらゆる攻撃を受け付けない。おまけに生まれてから今まで一度たりとも魔術を解除したこともされたこともないそうだ。絶対防御の魔術、無敵に近いな」
「そうか」
けれど、ジンは逃げようとは思えなかった。理由は二つ。
一つはここで逃げても、残ったクロネア代表者たちが三傑にどういう仕打ちを受けるかわからないから。クロネアに汚名をつけた罰として殺されるかもしれない。ならば、ここで奴を討ちアズールとクロネア双方を壊滅させようとした罪を公にした方が、互いの利益になる。
そしてもう一つが、目の前にいる男の瞳が。
ジンやミュウ、モモまでもが、今まで見たことのないほどの「情念」を感じさせたから。目の前にいるジンですら、上手く表現できない。強いて言うなら、あらゆる感情を凝縮し、押し殺し、練り固め、全身から爆発するのを耐えている様子だった。
……今のジンたちの惨状を見て、何も思わない彼ではない。烈火の如く沸き出る「それ」を、ギリギリ耐え我慢している。よく見ると青年の右手は……握り締められたまま震えていて。
「少なくとも、“この世界におけるセルロー大陸で、奴に勝てる者は存在しない”だろう」
「うん」
クローデリア大陸とヴォルティア大陸には、レイヴンと渡り合える三傑がいるであろう。しかし今、ここセルロー大陸で奴と渡り合える者は……残念ながら一人もいない。例外はない。絶対にない。
やはり逃げるべきだ。どう考えても、勝てる相手ではないのだから。──しかし。
「以上が俺の考えだ。何か質問はあるか」
「ない」
「……でな、それをわかった上で俺からの提案なんだがよ」
「あぁ」
理屈ではわかっていても、理性が平常通りであっても。
何故だろう。
もう、これ以外の案を思いつかない。
ジンの中で不思議な感覚がグルグルと回っている。きっと他人のために動いたからネジがぶっ飛んだのだと思った。今さら修復する余裕はない。ならばこの感覚に身を任せるしかない。普段なら断固反対するところだが、おかしいかな、任せることに何の拒否感もなかった。
「……」
「……」
もう一度、王子は彼を見た。
彼も王子を見ていた。
この数時間で随分と得難いものを経験した気がする。
怒涛の展開で足跡すら残らない速さだったと思う。
思い返すことが億劫になるほどの濃さだった。
彼もまた、同じに違いない。
ならば想いも同じはず。
自分がずっと図書館にいたから、何も出来なかったことを悔やんでいる。
だからこそ、もう耐える必要などないのだ。
皆をこんなに傷つけた者から逃げるなど、ありえぬことだ。
「要望は一つだ」
逃げるべきだ、必要ない、殺されるぞ、それはない、何故だ、彼がいるから、根拠はあるのか、ない、正気か、狂気かもしれない、異常だ、まっことその通りだ。
馬鹿だ。
ジンの脳内で繰り広げられる、自問自答の応酬。
なれど出すべき正しい選択は出来ず。
その原因はやはり彼がいるからだ。
だから言おう。
今の状況を唯一破ることができる眼前の男に想いを託そう。
ジンは笑った。相手も同じ反応をする。
こいつと出会えて良かったと少しだけ思いながら。
自分には出来なかった溢れ出る悔しさを言葉に換えて。
ジン・フォン・ティック・アズールは……告げる。
「あいつ、倒してくんね?」
「いいよ」
ペンを借りていいかと言われ、頷くように。どこまでも軽い口調で二人は言った。
言葉と同時、三傑レイヴン・ハザードが血沼から生還する。手には自分を引きずり込んだ女を握っているも、もはや原型はなかった。顔はなくなり、下腹部から出ていた内臓は全て出され、片方の乳房は引きちぎられていて。機能を停止した女は、無造作に横へ投げ捨てられる。その際、青年は小声で「足止めしてくれて、ありがとう」と言った。当然ながら聞こえていない三傑は、気怠そうに周囲を見渡し、ジンたちを視界に捉え。
目を見開く。
……傷が全て癒えている。完全な回復。
抉った両目すら治っている。あのガキがやったのかと視線を移せば、当人はこちらへ背を向けたまま動かない。パラパラと左手にある本が捲れているだけである。
「お前がやったのか、わざわざご苦労なこった。ハッハァ、まぁ、また同じことをしてやればいいだけのことだ」
青年は右手の指を鳴らす。
応えるように本が砕け散り、ルカの粒子となって上空へ高々と舞うと、大きな光を発して。
「“ビブリオテカ・総覧”」
1342枚のページが、一枚ずつ上空で展開された。
その枚数は彼の習得している魔法の数と同じである。かの光景は美しく、周囲を優しく照らした。一枚ずつ丁寧に並び、鮮やかな七色の光を発す。主の期待に応えるがため、今か今かと魔法の発動を待っているようであった。思わず見上げる一同を前にして、右手を大きく握る。
展開されたページは直ぐに彼の左手へ収束し、一冊の本となった。ジンやミュウ、モモですら今の光景は初見である。彼が何のためにそれをやったのかわからないけれど、一つだけわかるのが、心の奥底でずっと耐えて溜め込んできた情念を──、ようやく解放するということだった。
「ハッハァ、面白れぇことしやがる。せっかくだ、名を聞いてやろう」
「断る」
「……あ?」
「お前に名乗る価値などない。お前は無名の若造に今から敗北する。それだけだ。一切の傷を負わせることもできず、ただただ惨めに敗北を喫し、情けなく倒れるだけだ」
言い終わると同時、突如として地面が明るくなった。下を見れば陣が灯っていて、陣形魔法を発動した証拠である。陣は周囲全体に大きく展開し、直径200メートルにも及んだ。
そして巨大な陣の外輪全てから半透明の薄い氷のようなものが上空へ伸びていき……、ドーム状の結界を完成させた。
「“不可侵結界”」
特級・陣形魔法、“不可侵結界”。
陣形魔法・五本指が一つ。
読んで字の如く、不可侵の結界を生み出す。発動した魔法師に許可されたもの以外、如何なるものも出入り不可となる。絶対無敵の防壁魔法であり、誕生して六百年の時が流れるも、未だ突破された記録はない。
結界の中にいるのは、ルーゼンを含めアズール代表者五名、クロネア代表者二名、三傑クロネア代表の一名、計八名である。それ以外の代表者は結界の外にいて、発動した魔法師に許可されない限り、入ることは絶対にできない。空を見上げながらジンは破顔する。
「実物を見るのは初めてだな、ミュウ」
「うん。モモは?」
「初見よ。外でイヴが羨ましがって、その後に嫉妬してそうね」
「しかしまぁ、“不可侵結界”とはな。さっきの“祝福の輪廻”といい、本当、出し惜しみをしない奴だ」
三人は「“不可侵結界”を敵の周囲だけに展開させて身動きをとれないようにし、代表者全員で逃げるという選択肢もあったのでは」と思った。同時に、それを青年が選択しなかったのは、逃げるなどという行動を全く考えていないのだろうと理解する。
「逃げる」のではない。
「逃がさない」のだ。
本気。それも、尋常ならざる熱量を誇る、かつてないほどの意志。対して三傑は、眼前の光景に歓喜する。明らかに目の前のガキが普通でないことに気づいたからだ。
「ククク、こりゃ当たりか?」
「……」
「お前、普通じゃねーなぁ。楽しめそうだ。なぁ?」
チリ──と、音が鳴り。
青年の蒼髪が微かに光り、揺らめく。
同時にルカで構成された一凛の華が彼の後頭部で鮮やかに咲き、散る。
「“戦慄の脳華”」
禁術、上級・癒呪魔法“戦慄の脳華”。
発動した魔法師と同じ思念体を作り出す魔法。
戦争時代、主に軍師の十八番とされていた魔法。目まぐるしく動く戦争の最中、眼前で起きている出来事だけを注力している場合ではない。そこで、同じ思念体をもう一つ作り出し、そちらに大局や別の考え事を集中できるようにした。
つまりは、思考を二つに分離できる。
シルドに当てはめれば、一つは「目の前の敵」に集中するために。もう一つは「別の何か」を考えるために。ただし、この魔法は副作用がある。脳に負荷をかけるため、発動時間が長ければ長いほど、その後の昏睡状態も長くなるのだ。眠ったまま、二度と起きなかった魔法師もいたため、禁術指定を受けている。
一陣の風。それは大地を颯爽と走り抜けた。
風は蒼髪の男へ集まっていく。
服が羽ばたき、髪が揺らめく。青年からの魔力はそこまで強く感じないながらも、左手にある本からは異常としか思えないほどの圧を感じさせる。
瞳に灯る意志なる炎は燃えるように熱く、確固たる決意をその身に宿し、古代魔法の使い手は戦いの場へ参る。レイヴン・ハザードは愉快極まれりと高らかに笑い、雄たけびに近い声を張り上げた。
「もう一度だけ言うぞガキィ。名乗れ!」
「……」
青年は、一年前のリリィ・サランティスとの戦闘以降、魔法戦で“本気”を出したことはない。
正確には出せない。
今、彼の持つ魔法の質と量は、一般の魔法師とは大きく離れてしまっている。
シルドが戦闘において本気になるということは、“殺す気”でいくということだ。
下級も中級も上級も特級も、禁術すら使用するということだ。
一切の容赦を消す。
当然、禁術はアズール国内において使用不可である。発動すれば牢獄行きであり、彼自身としても殺戮・殺人の魔法など習得したいとは思わなかった。しかし青年は半年前、師匠であるステラ・マーカーソンから無理やり読まされている。ステラがやっていた本の整理を手伝っていると、禁術に関する魔法書を見つけてしまったためだ。
“産女狂苦の血染め子宮”も、その時に読んだ魔法書である。
一冊ではない。あの時に読んだ魔法書は複数ある。一生使うことなどないと思っていた魔法。けれど今、ここはクロネアである。発動してもアズールの法律は適用されない。また相手は絶対防御を誇る三傑。断じて許すわけにはいかない相手。そして何より……、ある作戦が彼の中で生まれていた。その作戦を成功させるためには、敵に禁術の類をぶつけておく必要がある。
シルドの本気を出せる条件がこの瞬間、満たされた。
それはもはや一生あるかないかの時。
されど満たされた今、拒否する必要もなく。
青年は全てを解き放つ。
「言え、小僧! 貴様の名は何だ!」
敵は三傑、クロネア代表。
この世界におけるセルロー大陸において、今現在、奴に勝てる者は存在しない。例外はない。一人もいない。
「先も言った」
だから何だというのだろう。
勝つのが不可能であろうとも、これまでの彼の道のりに比べれば──、軽微なものだ。
三傑レイヴン・バザードと相対するは。
「貴様を倒すのは、たまたまクロネアへやって来た」
田舎貴族の蒼髪青年。
「ただのアズール人さ」
名を、シルディッド・アシュラン。
アズール図書館の司書・第二試練を突破した、古代魔法の使い手である。