アズール図書館の司書 ― その青年は全ての魔法を発動できる。ただし人生で一度だけ ― 作:藤崎次郎
「フレイヤ……フレイヤ……」
「……う、ん……?」
遠くから名を呼ばれている気がする。
優しくて暖かい、知っている声。
第四極長『妃人』フレイヤ・クラメンヌは、徐々に意識を取り戻し目を開けた。視界には自分の名を呼び続けてくれていた友がいて。美しくも気高い王女は、ホッとした様子でこちらを見ていた。
「シェリナ……?」
「よかった。貴殿も無事のようだな」
「ここは……ッ! 奴は!?」
「今、我々の味方が戦ってくれている」
「味方……?」
「蒼髪の青年だ」
「……」
「起きて早々悪いが……立てるか」
「えぇ、えぇ、もちろんよ」
鳥から人の姿になり、改めて王女を見る。目を背けたくなるほどだったシェリナの顔面は……綺麗に治癒していた。自分の背骨もいつの間にか治っている。
こんなことが出来るのは魔法しかない、彼がやったのでしょうねとフレイヤは悟った。そして今も……三傑と戦っている。
「行こう」
「えぇ」
互いに頷いて二人は駆けた。
迷いのない瞳で、かの場所へ。
* * *
レイヴンにとって、今まで「危機」と呼べる事象は存在しなかった。
どんな事象が起ころうと、自分は無傷だからだ。一つの怪我も負ったことがない人生により、こと痛みという概念そのものを知らない。痛覚を感じたことが無い。
そのため、戦闘の際に相手が奥義を出したのならば喜んで受け、無傷な姿を見せつけてから殺すことを悦びとしていた。先の圧巻たる魔法の連続を全て受けたのもそのためである。命の危険? 痛み? 一生縁のない言葉であろう。
「……」
三傑は、初めて心の内に生まれたそれに支配されていた。
ただ、その正体が何なのか、わかる方法を持ち合わせてもいなかった。今の彼がわかることは、どう考えても異常としか思えない不可解な魔力が、青年の「持っている本」から生まれているということだけだった。
何かが起こる。
あの隕石ですら想像を超えた魔法技であったというのに、あれ以上のことを……起こす……!
「……」
シルディッド・アシュランの持つ“ビブリオテカ”は青く光っている。緑や赤ではなく……青。
第三の魔法習得条件を満たした証。魔法書を読み習得したのではなく、実際に目視して習得したわけでもない。三つ目の方法で習得したのだ。では、その第三の条件とは。
シルドはクロネア王国へ来る前に、一人の老人と再開を果たしている。姉妹が王都を訪れ、案内している最中のことだった。いつも寄っている行きつけの店「食の天井」へ足を運ぶと、待っていたのは店長のピュアーラではなく、初老の男性。
ややいざこざはあったものの、店内で彼と軽い問答を終えた末に、一冊の本を渡される。タイトルは「魔法の入門」。本の内容には魔法書の定義を書いた項目があり、たまに読んだりもしていた。改めて以下に抜粋する。
『魔法書の定義。魔法書とは、魔法を記した書物を指す。
それぞれ初級魔法なら一冊、中級魔法なら三冊、上級魔法なら十五冊、特級魔法なら三十冊が平均的な冊数とされている。一つの魔法につき一冊ではない。魔法の質や度合によって冊数が変化する。つまり、初級魔法ならば一冊の書物に収まる程度の質であるが、特級魔法ならば三十冊の冊数でないと収まらない。書かれる内容としては魔法名、発現した者の名前、発現するまでに至った経緯、想い、会得するための心構え、要所など様々である。
しかし、これらのどれもが魔法書にとって必要事項であるか、と問われれば否となる。
魔法書とは、魔法を記した書物にすぎない。
特級魔法であっても一冊に収まる場合もある。
魔法名が書かれていない書物もある。
ただ魔法について自分の見解を書き殴っただけの論文が、魔法書として化けることも過去にあった。大切なのは、魔法書に対し魔法を会得するための道具として捉えるのではなく、魔法を知るため、学ぶための書物とすることだ。
魔法は、クローデリア大陸を生きてきた我らの結晶である。
忘れてはならない。魔法書は、読む人間によって無限の可能性があることを。
忘れてはならない。魔法書は、読む人間によって只の本でも魔法書になりうることを。
忘れてはならない。魔法書は……読んだ貴方の人生と、一生関わり続けるということを』
「認識する」
シルドが短く告げた。呼応して、どこに隠れていたのか彼のすぐ隣で一冊の本が浮遊する。
タイトルは「ブロウザの大冒険」。
“ビブリオテカ”は、この世に存在する魔法なら一度だけ発動することができる魔法だ。当然扱う魔法は「この世に存在する」ことが前提である。存在しない場合“ビブリオテカ”の管轄外となり、発動することはできない。
ブロウザの大冒険は絵本だ。
只の本である。
……魔法の入門にはこう書かれている。“忘れてはならない。魔法書は、読む人間によって只の本でも魔法書になりうることを”、と。どんな本であろうとも、時として、読む人間によって、魔法書へと変わる可能性がある。それがこの世界における魔法書の在り方でもあるのだ。
そう、仮に何の変哲もない絵本であったとしても。
“シルディッド・アシュランがその絵本を魔法書だと認識”した今……。
見た目は何一つ変わっていないけれど、絵本は魔法書となった。
一つ、次元が上がった。
魔法書とは魔法を記した書物。つまりは、魔法を生んだ書物。生まれた以上、それまで「存在しなかった魔法」が、この世に「存在する」に至ったということだ。
“ビブリオテカ”の青色に光った意味は、「只の本を魔法書として認識」し、「本から魔法書へと格上げ」させ、「この世に新たな魔法として誕生させた」という条件を全て満たした証である!
シルドは魔法書を読み、理解することで一度だけその魔法を発動することを可能とするが、今まで彼は既存の魔法書しか読んだことがなかった。
彼が魔法書を、ましてや魔法そのものをこの世に生み出したことなどなかった。性格的にそんな大それたことなど出来る気はしなかったからだ。ゆえに青色である第三の発動条件を満たしたことは一度もなかった。ある意味、当然といえる。只の本から魔法書へと進化することは確かにある……が、多々あるものでは断じてないからだ。
しかし彼はブロウザの大冒険を目を皿にして読み込んできた。
暗唱できるほど熟読した。
理解した。把握した。共感した。想いを馳せた。この絵本と共に歩んできた。
その熱意・情熱・意志はクロネア永年図書館の謎を解く突破口として最大の真価を発揮した。彼のブロウザの大冒険に対する情念は遥か高みにある。誰よりもこの絵本を読み、ありとあらゆる角度から考察し、絵本以上の価値を謎解きの核として昇華させた。そこまでに辿り着くほどの苦しみと、そして勇気を前へ踏み出してきたのだ。
ならば────!
絵本を魔法書として認識できたとしても、何ら不思議ではない!
彼は、そこまでの努力と結果を出してきて、ここにいるのだから。シルドにとって一生あるかないかの瞬間であったのかもしれないが、第二試練を突破した青年の底力は、“ビブリオテカ”第三の発動条件を開眼するまでに至り、そして今、自ら生み出した魔法を発動する瞬間を……迎えた。
この世に誕生させた──
「自然・陣形・創造・癒呪・付属、複合魔法」
魔法の名は。
* * *
魔法書として昇華させた以上、その魔法書を「〇〇魔法の“~~”を記した書物だ」と認識する必要がある。どういう箇所からそれを読み取り、把握し、認識するか。
読み手に全てが委ねられており、だからこそ自由な発想や解釈を可能とする。アズール人の専売特許といえよう。では、シルディッド・アシュランにとって、只の絵本であるブロウザの大冒険はどのような魔法書だと認識されたのか。
第二試練の課題である「謎の真相」を知った前提とするなら、読み手次第では、この絵本は“不死”を司る魔法書だと認識するだろう。ただ、シルドは不死の魔法書とは考えなかった。ブロウザ自身の最も伝えたかったことは何なのか、その一点のみに思考を集中させ、認識へと至ったのだから。
シルドはブロウザへ想いを馳せた。
ブロウザは、冥界の王から“不死”の秘術を貰った際に苦慮したはずだ、と。
この秘術を魔法を通して使えば不治の病から救うことは可能だ。しかし、代償として永遠に死ぬことのない身体にしてしまう。病だけを治す秘術へ換えてもらおうか。……いや、差別を受け追手が迫っている中、鯨は単身大園都へ向かった。仮に病を治せても殺されるだけではないか。ならやはり……!
そう考えて不死の秘術を受け取った。
けれど、後悔の念は残る。
どうしても残る。
現世に帰り、不死として病を救うことは叶ったものの、ブロウザはアズールへの帰国を与儀なくされた。さらには鯨のために「生きている証明としてブロウザしか描けない絵本」を執筆しろと命令された。鯨との接点を持つ、最後の方法だった。
彼が絵本を描く時に思い描いた相手はきっと……鯨だったに違いない。鯨のことだけを考えて執筆したはずだ。百年余りしか生きられない自分のためではなく、鯨にとって繋がるものを作ろうとしたはずだ。
何か絵本の中で「不審な点」はないだろうか。絵本の内容としてはごく一般的なれど、「鯨のことを視野に入れて考えた際、疑問に思う点」があるとすれば……。
『では、────の秘術をお与えくださいませ!』
やはりここだ。ここしかない。
何故、秘術を書かなかったのか。不死と書いても、何ら問題はないではないか。読者に想像させる余地を与えたかったから? 違う、そんな安易なことではない。不死と書いてしまえば自分がクロネアに殺される可能性があったから? それも違う。自分の身を守りたかったのなら、冥界の話は書かず鯨と話した小話を書くだけでいい。
秘術の部分だけ書かなかった理由こそに、ブロウザの意志が込められているはずだ。思慮を巡らし欠片を集め、シルド独自のある解答を見い出した。
鯨がブロウザに想いを託したように。
ブロウザも、想いを“未来に託した”のではないか。
絵本として出版する際、間違いなく双子の王族の検閲がかかる。間違いなくチェックするだろう。あの双子にとって最も恐れている単語は「不死」のはず。不死となった鯨に結び付きそうな単語は必ず消すだろう。……だから“あえて書かなかった”のだ。書かないことでそれ以外の絵本の内容を余さず後世に伝えるため、意図的に伏せた。
不死なる図書の謎。一千年も解かれていない謎。
魔術で解明できない謎であるのなら、候補として挙げられるのは「魔法」か「魔具」だ。鯨のどこにも魔具は付いていない以上、魔法と考える者が出てくる。
ただ、この考えはクロネア人には中々出てこない案でもあろう。彼らは自分たちの国こそ世界一だというプライドが尋常ではない。歴史を何よりも重んじる彼らはある種、歴史に囚われているともいえる。そんな彼らが、クロネア最大の謎の答えが魔法だなんて認めるだろうか。ありえない。仮に案として浮かんだとしても、特に理由はなく潜在意識の中で消されるだけであろう。
だがアズール人なら話は別だ。彼らは自由な発想を得意とする。それは魔法と非常に相性がいい。
ブロウザの時は不可能だったアズールとクロネアの交流も、可能になる未来が訪れるかもしれない。その際、不死なる図書の謎に直面したアズール人の中に、魔法かもしれないと思う者がきっと現れるだろう。そして、「当時のアズール人が書いた、クロネアとの交流を示唆するような本はないか」と探すだろう。
結果として……、この絵本に巡り合ってくれるかもしれない。不死の魔法ではないかと念頭に置いている以上、あえて書かなかった秘術の描写に目が留まるはず。そして、これは本当に只の絵本なのかと考えながらもう一度読んでくれれば、真相の鍵に辿り着いてくれるかもしれない。
双子の王族は、自分たちの保身と現時点での脅威にしか目を向けていなかった。
それをブロウザは逆手にとり、あえて書かないことで双子からの介入を阻止した。未来へ託したのだ。自分は死ぬ。けれど未来の魔法師が鯨のもとへ辿り着くもしれない僅かな、砂粒程度の希望だけを頼りに、絵本を描いたのだ。不死となって孤高を歩んでいるであろう友への……想いを込めて。そうシルドは考えた。
はっきり言えば、この考察。
シルドが鯨へハリボテ説を話したときと同様に。
──確証がない。
微塵も。
失笑ものだ。
妄想力が豊かな人だと思われるだけの案件である。何を言っているのだと、意味不明だと揶揄されること間違いない。これらは全て想像であり、ブロウザが本当にそう思っていたのか確かめる術は一切ないのだ。あくまでもシルドの考察である。
ただし、アズール人にとって確証がないことは“何ら問題ない”ことなのだ。彼らにとって本を魔法書と認識する際、事実がどうこうなどは露とも問題にならない。どうでもいい。魔法の入門にも“魔法書は、読む人間によって無限の可能性がある”と記されている。ただの論文が魔法書に化けることだって過去にあった。
読んだ魔法師の考え、解釈こそが重要なのだ。
そうして彼らは長い歴史の中で、魔法を作り続けてきたのだから。シルドは絵本を、ブロウザが未来へ託した本だと独自に考えた。
託した以上、託されたアズール人に危険があるかもしれない。
全くわからない未来だからこそ、何が起こるかわからない。
ブロウザがクロネアから差別を受け、追手を差し向けられたように。鯨のもとへ辿り着く前に殺されてしまうかもしれない。または辿り着いた後に、殺されるかもしれない。そんな彼らを、まず無理な話かもしれないが、何とか助けることはできないだろうか。
……もしかしたら。
……読んでいるのがアズール人ならば、この絵本を、魔法書として認識してくれるかもしれない。時を越えて、魔法を贈ることができるかもしれない。けれど、そんな実に都合のいい、読んだ魔法師に認識してもらえるような描写などあったか。つまりは、「鯨のもとへ辿り着いたアズール人の危機を助けてくれるような描写」など……絵本にあっただろうか。
あった。
冥界の王より秘術を受け取った際、ブロウザは苦悩した。不死にしていいのかと。苦悩しながらも元の世界へ帰るため、貰ったもう一つの秘術を使い帰還した。その直前、彼は用心棒と会話をしている。
将来、鯨のもとへ辿り着く際に、命の危機に迫られた受託者を助けてくれるように。
用心棒と会話した。……託した。
『今まで本当にありがとう。とっても楽しかったよ!』
『礼を言うのはこちらさ、友よ』
『ううん、違うよ。キミがいたからこそ、僕は元の世界へ帰れるんだ!』
『そうか。なら二人で協力した結果なのだな』
『そうさ!』
『では、最後に問いたい。友は俺にしてほしいことはあるか?』
『そうだね。うん、なら、一つだけ』
『聞こう。如何なるものであろうとも、必ず叶えてみせよう』
用心棒は誇らしげに胸を張ります。ブロウザは嬉しそうに、けれど切なそうに言いました。
『いつの日か、そう、いつの日か……。キミを心から必要とする者が現れるかもしれない。どんな方法であろうとも、キミの力がどうしても必要で、命を懸けてでも必要とする者が現れるかもしれない。その時、どうか、お願いだ。その者を……助けてほしいんだ』
『友よ。すまないがもう少しわかりやすく言ってくれ』
『うん。御免ね。これは起こるのかどうか非常に難しいものなんだ。稀有なことなんだ。でも、もし……もしも起こったら、きっとキミの力が必要になる。だから』
『わかったよ。誓おう友よ。この先、俺の力を心から求める者が現れたなら、必ず助けてしんぜよう』
『あぁ、ありがとう! これで僕は、元の世界へ帰れるよ!』
絵本の最後はこう締められている。
“ブロウザは信じています。
これからどんなことが起ころうとも、異世界の友は約束を守ってくれると。
だから大丈夫。
きっと友なら、たとえ世界が異なろうとも、世界を渡れる門を繋ぎ、約束を守ってくれるだろう。
おやすみブロウザ。
きっとその想いは、運命の名の下に、この世界へ紡がれるだろう”
──この絵本は未来へ託された本だ。同時に、魔法書だ。
──用心棒を心から必要とする者が現れるかもしれない。
どんな方法であろうとも、用心棒の力がどうしても必要で、命を懸けてでも必要とする者が現れるかもしれない。その時、かの者を助けてあげる魔法を……授けたい。
ブロウザは信じる。これからどんなことが起ころうとも、異世界の友は約束を守ってくれると。たとえ世界が異なろうとも、門を繋ぎ約束を果たしてくれると。そしてその想いは魔法となって……世界へ紡がれる。
この魔法書は、ブロウザとの約束を守るため、たとえ世界が違おうと運命の名の下に現れる──
彼の友を召喚する魔法を記した書物だ。
シルディッド・アシュランはそう認識した。
認識し、確信し、想い、願い、彼もまた託す。
新たな魔法がこの世に生まれた。
只の本を魔法書として認識し、本から魔法書へと格上げさせ、この世に新たな魔法として誕生させた。
第三の魔法習得条件を満たした。本来なら認識した後も練習に練習を重ねて会得するのだが、かの古代魔法はその過程を全て省略する。この世にある魔法で、それを書いた魔法書であるのなら、理解すれば等しく“ビブリオテカ”の力となる。
一千年の時を超え、世界すら越え、ブロウザから今より結ばれし、彼の友を呼び寄せる…………かの魔法の名は。
「“異世渡り”」
* * *
始まりは、小さな黒い点であった。
黒点が宙に浮き、徐々に大きくなっていく。グルグルと回転しながら勢いを増して、両手に乗る程度の球体へと成長していく。
とぷん、と黒い液体が球体より漏れ、地面を侵食していく。その液体は辺り一面に広がり、液体に触れた樹木や草も黒へ染まる。人間以外は黒になっていく。黒、黒、黒、黒……。侵食が止まったのは直径20メートルほど広がった時だった。球体は役目を終えたかのか、消えてしまう。
中央より、縦長の壁が出現。格子状の黒白線が引かれており、壁全体に陣が刻まれている。高さは5メートル、横幅は3メートルほどである。
加えて、上空に大きな白雲が発生し光を発しながらゆっくりと降下。縦長の壁を優しく通過して地面へと着地し、そこだけ「純白な地面」を形成した。さらに白き地面の全範囲より線が伸びて、計70本が壁と接続。まるで風に飛ばされないよう固定するかのようであった。
接続を終えると、待っていたかのように一帯に広がっていた黒が中央へ集束する。二秒に満たない速さである。
黒は中央の壁へ集まろうとするも、壁の下には白い地面が守っていて、黒の侵入を阻害する。小刻みに震えながら、黒は白の外で待機する形となった。さらに壁全体から金色の光が発せられ、静まれば、地震でも起きたかのように揺れ始める。揺れは数秒続いた後に収まって……再び静寂した。
そして。
壁の中央に縦一直線の切れ目が入ると、左右の壁は観音開きのようにゆっくりと開いた……。中は闇そのものであって、真っ暗な空間になっている。触れば引きずり込まれそうな……黒一色の世界。
ぬっ、と。
何の前触れもなく。
──“それ”は現れた。
身長は2メートル弱、紅色のシャツに焦げ茶色のコート、黒の長ズボンと靴をしていた。あちらの世界でも服と呼べるものがあるようで、華麗に着こなしている。
ただこちらの世界と違うのは、どの服も燃えていた。火の粉を複数の箇所から発生させており、全体から感じる熱量は強い。不思議なのは燃え広がることはなく、その場に火が留まっていることであって。冥界の住人にとっては、これが当たり前なのかもしれない。
ただ、それ以上にシルドを驚かせることがあった。
用心棒の性別である。
女性であった。
てっきり用心棒という単語や絵本の中では自分のことを「俺」と言っていたので男性と思っていた。しかし、その姿は真逆である。鼻は高く、口は小さい。妖艶な眼差しをしながら表情はどこか優しい。髪色は橙色、見た目二十代後半の美しい女性であった。
実際のところ、冥界には人間以外にも様々な種族がいるのだが、当然ながら冥界事情に詳しくないシルドにとって「この世界とあまり変わらないのかもしれない」と思えた。異界を繋ぐ門を抜けた後、軽く辺りを見渡し、シルドの方へ顔を向ける。慈愛に満ちた顔をしていて。
「“同音電糸”」
中級・陣形魔法“同音電糸”を発動する。アズール人とクロネア人が会話する際に使う魔法である。シルドはその魔法を異界より現れし用心棒にも使った。
こちらの世界の住人ならともかく、別の世界の住人にも使えるのかと問われれば聊か不安でもあったが、彼なりの自信があった。
「僕の言葉が、通じますか」
「……」
相手は数秒沈黙の後、コクリと頷く。
微笑みは変わらぬまま、その小さな口を初めて開いた。
「ブロウザも使っていた魔法だ。懐かしい」
麗しい美声。一度でも聞けば、思わず振り返ってしまうほどの綺麗な声をしていて。彼女の言葉に安堵しながら、言葉を返す。
「良かった。ブロウザが異世界の住人と話をしている以上、この魔法しかありえないと思っていました」
「キミが、俺をここへ呼んだのだね?」
「そうです。お初にお目にかかります。そして突然のお呼び出し、大変」
「あぁ、いい。謝罪は一切いらないよ」
手を差し出して、顔を左右に振る用心棒。彼女の指の長さはシルドの二倍以上あった。
やっぱり異世界の住人なんだなぁと素直に感じる。
「ところで、質問をもう一ついいかな」
「はい」
「ブロウザはここにいるのかい?」
「いいえ、彼は一千年前に亡くなっています。ここは、彼のいた時代から千年の時を経過した時代です」
「……そうか。そうか。あぁ、そうだろうね。もう会えないのはわかっていたから。それでもまた会えるのではと期待していた。ふふっ、参ったね」
「その、ブロウザは」
「いや、大丈夫だ。それについても言わなくていいよ。彼のいた時代から一千年の時が流れたというだけで、大体のことは把握した。ブロウザはしきりに自分が帰った後の未来を話していたからね。彼がここに残してきた友人のこともそうだ。きっと『今も』いるのだろう?」
「はい」
「ふふっ、やはり。どうにもブロウザの想像通りになったようだ。と、いうことはやはり、キミが俺を呼んだのか。素晴らしい。一応彼の言葉を借りておくと『用心棒をここへ呼んだ時点で、奇跡を起こしている』そうだ。誇っていい」
「……ありがとう、ございます」
「では早速、俺は友との約束を果たそう」
数回頷いた後、用心棒は視線を前へ向けた。シルドもまた同じようにする。
その先には、自身の身体をギュゥウウウと抱きしめたまま固まっている男がいて。はぁ、はぁと涎を垂らしながら悦に浸っていた。顔は高揚し、喘ぎに近い声を発している。たまらねぇと何度も言った後、狂ったように絶叫した。
「最っ高だ! ガキ、俺はなぁ、お前を愛している! もう本当に大大大好きだぞガキィ! あぁ!? まさかこの世ならざる者を呼び寄せるとは! そいつは明らかに異常だ、見ればわかる! 最初はアズールかカイゼンの三傑かと思ったが違うな、絶対に違う、もっと上の生き物だ! 間違いない、あぁ間違いねぇ! 俺は今最高に興奮している! 愛してるぞガキ、これが終わったらお前を無茶苦茶ぁ愛してやるからな!」
「あの者が敵とみて、間違いないのかな」
「そうです」
「叫び癖があるようだ。中々に興味深い」
ふむ、と頷いてから用心棒は一歩前へ出る……も、その直後にレイヴンが声高々に吠える。
「待て女ぁ!」
「……何だね?」
「名も知らない奴を殺すわけにはいかん。お前の名を教えろ」
「断る」
即答であった。シルドと同様、彼女もまた名乗りを拒否した。
「知っている。この世界では名乗りは大事だそうだね。だが俺の世界では名など価値はない。そいつはそこにいるのだから、名に意味などない。大事なのはそいつが何をしたかだ。ゆえに俺の世界では名を持たぬ者も大勢いる。そして俺もまた、その一人だ」
「名がねぇだと?」
「そうだ。悪いが時間が惜しい。始めるよ」
「……ハッハァ、まぁいい。殺した後に俺が名を決めてやろう」
────キィン……、と。
音が鳴った。
改めて用心棒を見れば彼女は丸腰。特に動きはない。
対する三傑クロネア代表、レイヴン・バザードも丸腰。ただし魔術は常時発動で、常に無傷。
両者は武器もなくその場に立っていて。
音が鳴ってからも、動きはない。
「特に理由はないけれど、あれから一千年の時が流れたそうだね」
「あ?」
「だから彼に因んで、俺なりの遊び心をやったつもりだ」
「……?」
焦げ茶色の燃えるコートを軽く叩いてから。
「んー」と小さく唸って。
冥界の住人は。
そっと告げる。
「千回斬ったよ」
刹那──。
レイヴンの全身が。
肉体が。
一度たりとも怪我を負ったことがない彼が。
鮮血に染まった。
顔、首、胴体、腕、股、足。
耳、目、鼻、口、鎖骨、指、爪、胸、脇、肘、臍、膝。
身体のありとあらゆる全ての部位が……斬られた。
一瞬で。
レイヴンからして見れば、女が斬ったと言った瞬間に、視界の全てが赤に染まる。何が起こったのか丸でわからなかった。前へ勝手に倒れる身体に、理解できない思考。疑惑・驚愕・戦慄の感情が爆発し即座に滅殺された。何もかもがわからず、理解できず、ただただ呆然と今の状況を受け入れられない自分がいて。
いや、彼にとってみればその程度のことは無に等しい。
何故なら。
「……あ」
彼にとって初めての。
「あ、あ、ああ」
痛みという概念が。
「ああ、ああああ」
頭の中の全てを、埋め尽くしたのだから。
痛い。
痛い。
痛い……。痛い……! 痛い……!!
身体が痛い全てが痛い何だこれはあああ痛い何だこれは何なんだああああこれは痛い痛い痛い目が痛い手が痛いあああ足も指も痛い口もあああ何もかもが痛いどうって俺の身体ああああが痛い何がどうなって痛い痛いああ、ああああ痛い痛い身体中が痛い何もかもが痛い動けない痛い苦しいのかどうなってわけが俺の魔術が痛いこれはどうなって見えない痛いあああああ痛いぃいいいいい!!!
「何をぉ、しやがっ、たぁあああ痛い痛い痛いぃいいい!」
「俺は『因果律を反転させる力』を持っていてね。説明はまぁ……面倒だからいいかな、うん」
涼しい顔で話す彼女の前で、大の男が絶叫しながら地面をのた打ち回る。全身から血を噴き出し、転がりながら周囲へ拡散していく。その様は、はたから見れば異様でしかなかった。あの三傑クロネア代表が苦しんでいるのだ。生涯一度も怪我を負ったことがない彼が叫びまくっている……。背の高い異世界の女性に、一瞬でねじ伏せられた。
ひとしきり転がり回った後、荒い息を繰り返し、眼前の敵を睨む。目が見えないためどこにいるかわからないが、それでも憤怒の表情で睨み。
咆哮しながら突進した。次の攻撃に移ろうと用心棒がスッ……と手を出すも、その前へシルドが出る。用心棒に感謝の意を示すように優しく微笑んでから、左手に持つ本を緑色に光らせた。
「“ランジュ ── 海水”」
下級・自然魔法を発動。海水を相手に浴びせるという程度の魔法である。
直後、レイヴンの悲痛なる絶叫が周囲に木霊して。その様を見て、ジン、ミュウ、モモの三人は「……魔法が効いている?」と思う。用心棒の攻撃は異世界のものだから“通った”としても、シルドの魔法は“通らない”はずだ。今までずっとそうだった。
しかし、現に海水を傷口に浴びせられたレイヴンは悲鳴を上げていて。三傑自身もまた、同じ気持ちであった。理解の範囲外である。そんな相手を静かに見据えながら、青年は口を開いた。
「貴様も魔術師である以上、精神に異常をきたせば魔術は解除される。ただ、今まで『精神を揺らがせることがなかっただけ』だ。どんなに恐ろしいことが起ころうと、どんなにありえないことが起ころうと、貴様は自分の魔術に絶対的な自信を持っていたから。生まれた時から一度たりとも傷を負ったことがないんだ。天変地異が起ころうと自分だけは無傷だと確信している。だからどんな魔法が眼前で起ころうが対岸の火事ぐらいにしか思えなかったんだ。しかし今は違う」
レイヴン・バザードの唯一の強みである魔術を突破した攻撃。
生まれて初めて味わう、痛み。
激痛。
痛いという誰もが知っているあの感覚を、この歳になってようやく体験したのだ。
その衝撃は、彼の精神を揺らすのに……充分すぎるものだった。
「はぁ、はぁ……! ……待て」
「特級」
「待て」
「自然魔法」
「待ってくれ!」
「“雲帝の粉砕判”」
上空より、雲という雲が展開される。
天空を覆う雲は渦を巻き、速度も増す。
見る者は等しく驚嘆の顔をして、見上げる他ない。
そして、巨大な雲が……、こちらへ下りてくる。
「待て、待て、待って!」
雲は徐々に姿を、大槌を握っている巨人へ変えていき。
狙うは、口をあんぐりと開け、絶望の表情をしながら叫び続ける一人の男。
「待て、お、おい、待て待て、待って!」
大槌を大きく振りかぶり。
圧巻たる風圧を持って。
敵を。
「待ってぇええぇぇええぁぁああぁあぁぁぁああぁあぁあぁぁあああぁああ」
粉砕した。
* * *
これまで起きたどの音とも違う、奇妙な轟音が辺りに響いた。
轟音というよりも、あえて表現するのなら「ぶほぉおん」というべきか。なんとも奇妙な音であった。それもそのはず、この音は何かを破壊した音ではなかったからだ。
天空の雲巨人より振り下ろされた大槌は、一切の攻撃を持たなかった。発動した魔法師が、あえて「ただの雲」にしたからである。攻撃力はゼロ。当たっても雲が通過するだけというそれだけのこと。……ただ、攻撃を喰らう側からすれば、超巨大な“判”に押し潰されたと思うだろう。見えなくてもわかる。わかってしまう。それほどの恐怖だった。
「……」
三傑、クロネア代表レイヴン・バザードは口から泡を吹いて大の字に倒れていた。
失神。
魔術を発動できなくなっていた彼を倒すのに、もはや物理攻撃をする必要はなかった。ありったけの精神攻撃で充分であって。
「ふぅ」
一息つき、失神している敵を確認して、改めて横を見る。
用心棒がこちらを見ながら、「おぉー」と拍手をしていた。どうやら向こうの世界でも称賛する際は拍手をするようだ。何とも小恥ずかしい気持ちになりながらも、軽く会釈して感謝の意を示す。相手に伝わったようで、笑顔で返された。そしてもう一度視線を敵に送って。戦っている際に、奴が言った言葉を思い出す。
『わかりやすく言ってやろう。格が違うんだよ。圧倒的な格がな』
シルドは、用心棒と三傑を見比べる。
……お前の言った通りだったよ三傑。
確かに、あちらの異世界人と比べれば、僕とお前なんか。
「あぁ、格が違ったよ。圧倒的にね」
赤子も同然だ。