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その夜、銀鯉香蓮は夜の闇に染まりつつある街で帰路についていた。
足取りは早く、見るからに急いでいる。それは最近街中も物騒なので一刻も早く帰りたい……からではなく、仕事中に閃いた天才的なイメージを一刻も早く形にしたいという創作魂故の話だった。
「ああ、早く帰って絵にしたい……忘れてしまう……」
ブツブツ呟きながら帰り道を急ぐ銀鯉。
ただ、彼女はヲタクである以前に善良な大人であり、困っている人を見過ごせない質であった。それ故に、彼女は急いでいた脚を不意に止めて振り返った。
「……何?」
『ひぃん……ひぃぃん……』
彼女の振り返ったビルの裏路地。そちらから、何か小さな子供のすすり泣くような声が聞こえてくる。銀鯉は周囲を見渡して、自分以外に人が居ない事を理解すると、仕方なく路地裏に足を踏み入れた。
「まあ最近、色々物騒だしね……」
なんだかんだで麻痺しつつあるが、魔法少女の出番が多いという事はそれだけ事件が多いという事でもある。それ故に、人心は乱れつつあり、だからこそ立派な大人はしゃんとしないと、という気構えが彼女にはあった。
まあ本当に立派な大人は、貴重な情報に興奮するあまり見ず知らずの小学生を自宅に招いたりしないのだが、それはそれ。人は基本的に自分の事を客観視できていない生き物である。
「どうしたの、おじょうちゃん?」
『ひいん……ひぃいん……』
薄暗い路地裏に踏み込むと、室外機の陰に蹲って声を上げる少女らしき姿があった。硬い作り笑いを浮かべつつ、銀鯉は刺激しないようにその影に語り掛けた。
「お母さんと逸れちゃった? お姉さんが一緒に交番まで連れて行ってあげるから、出ておいで」
年のころは小学二年生くらいかな、と見て取って、銀鯉は自然と脳裏に最近知り合った子供の事を思い返した。年齢を考えると異様にバイタリティがあってしっかりした子だが、あれは例外中の例外だろう。普通の子供は、夜に買い物で出歩いたりもしないし、親と逸れたら不安になってべそべそしたりするものだ。
と、銀鯉の声が聞こえたのか、もそもそ、と人影が動き始める。
よかった、と思いつつ、銀鯉は脳裏で「でもこの時間帯に交番ってまだやってたっけ?」などと考える。
その時だ。
「……え?」
蹲っていた少女の体。それが、銀鯉が見ている前で“バラけた”。
かがみこんでいた少女の細い手足、それがほつれて大きく広がっていく。いや、違う。それは最初から人影などではなかった。ただ長く細い脚をぎゅっと縮めた姿が、ちょうどしゃがみ込んだ子供のように見えていただけだ。顔に見えていたのは皺のよった灰色の腹。しわくちゃになったスカートに見えていたのは、ずらりと並んだ触肢であり、そこにはずらり、と歪んだビー玉のような目が並んでいる。
それは、人間ほどもある大きな蜘蛛だった。するする、と室外機の陰から糸を伝って動き出す巨大な影に、銀鯉は悲鳴を飲み込んで後退ろうとした。
その体が、つっぱったように動かない。見れば、いつの間にかその手足は銀色に煌めく糸に絡めとられていた。
「ひ……っ!?」
ぐ、と糸が銀鯉の体を持ち上げる。引っ張られる先、見上げた先には、一体いつから潜んでいたのだろう。ビルの間に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣。そこに潜むのは人間サイズの巨大蜘蛛が何匹も。それらの無機質な視線が、じっと銀鯉を見つめている。
にちゃあ、とその牙が、粘ついた毒液を垂らす様を見て、状況を理解した彼女の口から悲鳴が上がった。
「きゃああ!? だ、誰か助けむぐっ!?」
しかし上がった声は、途中で飛ばされてきた糸によって封じられてしまう。べとべとした不快な糸の塊が銀鯉の口を塞ぎ、巣まで引き上げられた彼女の四肢を糸が戒める。
もがく彼女に、四方から巨大蜘蛛達がにじり寄る。
「~~~~~!?」
恐怖と絶望が、銀鯉の心を瞬く間に埋め尽くす。それはやがて狂気となり、彼女から正気を奪うだろう。それは最後の慈悲だ。生きたまま、大蜘蛛に体を溶かされて喰われるなど、人間の精神が耐えられる仕打ちではない。命に与えられた最後の尊厳が働き、銀鯉の心が打ち砕かれる、その瞬間……。
それを上回る悪意と狂気が、しとり、と蜘蛛達の頭上に滴った。
「ふん。最近の蜘蛛は巣の張り方も知らぬと見える」
『……?!』
銀鯉も、そして人食い蜘蛛も揃って頭上を見上げる。
その先、蜘蛛の巣が張られたビルの屋上から、赤い三日月を背景にヒラヒラしたシルエットが彼女らを見下ろしていた。影の中で、ギラリ、とその赤い瞳が怪しく輝く。
「飛んで火に入る夏の虫、というならば、光の元に巣を張るが道理。このような闇に巣を張っても、潜む獣に引き千切られるが末路よ。……こんな風にな!」
ひゅいん、と空気を引き裂く音と共に、不可視の何かが蜘蛛の巣を切り裂く。崩壊する巣から慌ててビルに這い上がって逃げる蜘蛛達とは別に、四肢を戒められた銀鯉はなすすべもない。
そのまま地面に落下し、叩きつけられて絶命するかに思われたが、その寸前でふわりと小さな腕が彼女の体を横抱きに救い上げた。
「はぁい、お姉さん。今日は良い夜ね?」
「もがもがもご?!」
「あら、お喋りは苦手? ふふ、構わないわ、私が勝手に喋るもの」
それは銀鯉の知らない、魔法少女と思わしき存在。フリフリのゴシックパンクのドレスに身を包み、右目は赤、左目は黒のオッドアイ。挑発的な笑みを人形のように整った口元に浮かべ、その少女は銀鯉の体を優しく地面に横たえる。
『ひぃん……ひぃいん……』
「弱者を真似るだけあって随分と意気地無しだな。まあ、所詮は人の良識を蝕むだけの蟲らしいといえばそうだが」
頭上から威嚇のつもりか、細い声を投げかけてくる蜘蛛達に、少女はフリフリの甘え袖で口元を隠す愛らしい仕草のまま、ドスの効いた重い口調で言い返す。
それにしても香ばしい言い回し。銀鯉は己の黒歴史を掘り返されるような思いにびくんびくんと背筋を震わせて恍惚に頬を紅潮させた。
「こんな言葉を知っているか? 朝の蜘蛛は仇に似ていても逃がせ。だが……夜の蜘蛛は親に似ていても殺せ、とな」
『ヒィイイイン……!!』
嘶きを上げて、一斉に蜘蛛が飛び掛かってくる。それに対し、少女は己の前髪をかき上げて、赤く光る瞳を露にする事で応えた。
「馬鹿が。巣を張らぬ蜘蛛などただの餌よ。闇こそ我らが居城、我らが神殿、そして我らが食卓。666の刑罰が一つ、割殺刑。……エクスターミネーション!」
その瞬間、確かに銀鯉は見た。
まるで罅の入ったガラスのように、パリンと空間が砕けたのを。それは一瞬の事で空間はすぐに復元されたが、復元されたのは空間だけ。諸共に砕かれた蜘蛛の群れは、その躰を千々に切り裂かれ、ぼとぼとと雨のように路地裏に血と肉を降り注がせた。
しかしそれらはまるで見えない傘を差しているように少女と銀鯉の周りには降り注がない。俄かに路地には腐臭が立ち込め……それは差し込んだ風によって吹き払われた。
「ふん、まあこんなものか。……さて。供物の新鮮な悲鳴を聞かせてもらおうか」
「もがが」
振り返った少女が、ぺいっ、と銀鯉の口から糸を引きはがす。自由になった口で、銀鯉は新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。空気が美味しい。少女の周りだけ空間が浄化されているようだ。
「さて、何か言う事はないか、夜を彷徨う社会人という名の死人よ」
「あ……あなた、魔法少女なんですか?」
「然り。だが、世間で言われるそれとは違う。私は闇の……」
「写真!! 撮らせてください!!」
いついかなる時も鞄に忍ばせているカメラを取り出して、銀鯉は少女の足元に跪いて懇願した。
「……ん? え? い、いや私は……」
「やっぱり貴方最近ちょっと噂になっていた新人の魔法少女ですよねでもその貫禄から見るに本当に新人じゃなくて別の場所で経験積んでた歴戦の戦士って感じがしますよねでもそれなら私が知らないはずもないしもしかして魔法少女の世界から応援でかけつけた凄腕魔法少女って感じなんですかああでも他の子と雰囲気大分違うみたいだし系統が違ったりするんですかあとそれとさっきのすごかったですね一瞬で怪物がぱりーんってああいうのが得意なんですか666の刑罰が一つっておっしゃってましたけど他にああいう技が本当に666個あったりするとかいえいえ数がたくさんあるって例えっていうのもわかるんですけどやっぱりそういう設定とか気になってしまってああそういえばまだ名前をお伺いしておりませんでしたね私は銀鯉香蓮と申します貴方の名前はなんですが麗しき暗黒の魔法少女さまああいえそれよりも命を助けてもらったお礼をしないといけませんねしつれいしました助けていただきありがとうございましたこの御恩は一生忘れませんそれはそれとして写真一枚よろしいでしょうかパシャリ!!!」
後に魔法少女……ダークネス・ルーシィは、目がキマってて凄く怖かったとこの時の事を述懐したという。