『ミィー! ミミミィー!!』
自分を拾った、人間の子供との共同生活。
ルーシィと名付けられた■■■■■■■の一部にとって、それは得難い、幸福と呼べる生活だったと言える。
だが終わりの時は、突然やってきた。
幸福の絶頂から一転して、幸せの象徴は文字通り押しつぶされた。傍らには、今日の為に彼が用意してくれたケーキが瓦礫に潰され、目の前では他ならぬ彼自身がビルの破片に押しつぶされている。
助からない事はすぐに分かった。理解できてしまった。
人間は脆い。血袋のように、容易く破れるくせに、簡単には繕えない。
「ルーシィ……お前は、お逃げ……」
なのに彼は、自分の事よりも小さな友人の事を心配した。
「これまで……ありがとう。お前といられて……僕、幸せだった……」
自分の命が尽きようとしているのが分からぬはずがない。それなのに彼はあまつさえ、これまでの時間に感謝すら述べて見せた。
それはおおよそ、ルーシィと名付けられた個体にとって、あまりにも理解しがたい心の輝きだった。
失われてはならない。
失ってはならない。
この魂が、僅かにでも損なわれてはならない。無という虚空に、意味なく消えていく事を許容してはならない。
保存するべきだ。保存されるべきだ。
ああ、なのに、魂の色が消えていく。必死に伸ばす触手の間から、すり抜けるようにして消えていく。
奪わなければ。喰らわなければ。これ以上、その黄金のように輝く、蜜のように甘い魂が、その価値を知らぬ空虚に持っていかれてしまう前に。
記憶の欠片、心の一片に至るまで、扉の向こうに仕舞いこんでしまわなければ……!!
そうして、私は生まれた。
確信を得た。
私は。
僕は。
自分を人間だと思い込んだだけの、ただの怪物だった。
「は…………はは、ハハハ。ハハハハハハハハハ……!!!」
『ミ、ミミィ……』
気が触れたように笑う私を、ルーシィが心配そうに見ている。
ピンクの触手が伸びてきて、私に触れようとする。
「こないで!!」
『ミ……ッ』
私の拒絶に、ぴたりと触手が止まる。
自分で言っておいて、ずきりと心が痛んだ。
「……ごめん、ルーシィ。君の事が嫌いになった訳じゃないんだ。でも、今はもう、頭がぐちゃぐちゃで……頼む。しばらく、僕を一人にしてくれないか……」
『ミミィ……』
しょんぼりと縮こまるルーシィ。その姿に、ズキリと胸が痛む。私はその痛みから逃れるように、彼の横を通り過ぎてリビングを後にした。
バタン。
玄関から飛び出すと、むわっとした残暑の湿気た空気が纏わりついてくる。そのわずらわしさに顔をしかめながらも、私は足を止める事はなかった。
そのまま、一人。夜の街に繰り出す。
罪悪感を振り切るように、早歩きで道を歩く。こんな夜更けに出歩いている人は殆どいなくて、子供の一人歩きを咎められる事はない。
「…………っ」
そう、罪悪感だ。
自分で拒絶しておいて、それでも頭の中によぎていくのは、ルーシィと過ごした楽しい日々の事ばかりだ。
初めて焼いたパンケーキ。ちょっと半生の、へたくそなソレを、ルーシィは目を輝かせて美味しそうに食べてくれた。
寝床に困って、適当に出した段ボールの箱。それに文句ひとつ言わないどころか、今も大切に使って、夜になれば自分から収まって寝るルーシィ。
次から次に思い出が記憶の底から噴き出してきて、それが私の良心を苛んでいく。
歩いて、歩いて。
気が付けば私は、どこかのバイパスを見下ろす空き地に、一人腰かけていた。
下を見下ろせば無数の車が、風を切って次から次へと通り過ぎていく。ヘッドライトの光が尾を引く様は、まるで川の流れのようだ。
顔を上げれば、遠くに望むのは無数の街の光。ビルの灯、家の灯、店の灯。
まだ働いている人も居れば、飲みに繰り出している人もいるだろうし、あるいは家で夜なべして編み物している家があるかもしれない。
あの、照明の灯一つ一つに、それぞれの人生があって。
その一人一人が、代わりのないかけがえのない誰かの大切な人であって。
それが、あんなにも、たくさん。
しばしの間、私はその明かりをぼうっと眺めていた。夜が更けるにつれて、その明かりは一つ、また一つ、と消えていくけど、完全になくなる事はない。
「…………帰ったら、ルーシィに謝ろう」
ずいぶんと時間が立って、ぽつりと口をついたのはそんな呟きだった。
そうだ。酷い事を言ってしまった。
私だって分かっている。ルーシィは、ただ私を救おうとしただけだ。だけど他に手段がなくて、こんな事になってしまった。
そもそも、教団がらみの事がなければ、きっと意識すらしなかっただろう。仮に私がドッペルゲンガーだとして、本物がどこにもいなければ偽物だと証明しようもない。
私があの日々を宝物だと思う様に。ルーシィも、あの幸せな日々を失いたくなかった。
きっとそれだけの話なのだ。
「……帰ろう」
生暖かい夜風に吹かれて、随分と頭も冷えた。私はふらふらと立ち上がって、曖昧な記憶を頼りに帰路についた。
とにかく、家に戻ろう。そして謝ろう。ごめんね、気にしてないよって。
それだけで、明日からはいつも通りの日常が戻ってくる。
それでいいじゃないか。
「そうだ。それがいい」
そうと決めたら、脚が軽い。
私は帰り道を、小走りで急いだ。
その時だ。
「おや、曽良尼様。こんな夜更けに、何を?」
「……あ、セバスチャンさん」
不意に聞き覚えのある声で名前を呼ばれて脚を止める。背後からやってきたリムジンが、ゆるゆると速度を落として僕の横で停止する。その開け放たれた窓からは、温厚そうな紳士が顔を覗かせていた。
◆◆
「すいません、乗せてもらって」
「いえいえ。こんな夜遅くに、子供を一人で帰らせる訳にはいきませんから」
セバスチャンさんの運転するリムジンに乗せてもらい、私は家まで連れて行ってもらう事になった。
人が少ないとはいえ、夜は見通しが悪い。安全運転でゆっくりと走る車の中で、セバスチャンさんと語らい合う。
「しかし何があったのです?」
「えへへ。実は、ルーシィと喧嘩しちゃって……あ、でももう頭は冷えました! 悩みは解決してないけど、ルーシィに八つ当たりみたいになってしまって……。帰ったら謝らないと」
「それはよかった。しかし、どんな悩みだったのです?」
セバスチャンさんに尋ねられて、私はちょっと言葉に悩む。
実は自分は記憶を持っているだけの別人でした、なんていっても正気を疑われるだけだよねえ。かといって、あんまり露骨に煙に巻いても、エリザベートに報告がいったらややこしい事になりそう。
ここは曖昧に、真実半分嘘半分、ぐらいにいっておくか。
「いやまあ。変身した時の自分が何者なのか、ちょっとこう、不安になっちゃって。変身中、ほら、性別も変わるし、なんかテンション上がって言動が可笑しくなるじゃないですか、僕。その事が少し不安になっちゃって……えへへ、変ですよね、今更」
「ふふふ。アイデンティティに悩むのは若者の特権です。恥ずかしがる事はないかと。まあでも、確かに今更、と言えば今更ですな。なんせ……」
「貴方様は、そもそも曽良尼有樹という少年ですら無いのですから」
「……え?」
きょとん、としてセバスチャンさんに目を向ける。
運転席で振り返る事無くハンドルを握る姿はいつもと変わらない。だけど、なんだろう。バックミラーは変に暗くて、彼の顔が、どんな顔をしているのかよく見えない。
「そもそも、前世の記憶を持っていながら平然としている時点で、貴方にとって自己同一性など今さらの話。どこかの誰かであって、誰でもない。それが貴方という存在の有り様でしょう?」
「なん……で? それ、誰にも……」
「死も、永劫も、真なる宇宙の光景も、貴方という存在を揺らがせる事はない。真の狂気といいましょうか。生きている者は、死には耐えられないのですよ。もしそれを平然と乗り越える者がいたとしたら、それは果たして、生きているとすら言えるのか」
なんだ。
何を言っている。
「神々は囚われているのですよ。その、生と死の間の境界に。貴方は、そこに足を踏み入れた唯一の存在」
いや……これは誰だ? 今、この車を運転しているのは、本当にセバスチャンさんなのか?
彼は果たしてこんな声だったろうか。いや、そもそも……彼は、どんな声を、どんな顔をしていた?
男だったか。
女だったか。
わからない。
記憶の中で、そこだけぽっかりと穴が開いている。確かに覚えていたはずの彼の顔が、真っ黒に塗りつぶされているような違和感。
ああ、そもそも。
そんな人物が、居たのだろうか?
ひゅるり。
ひゅるりら。
笛の音が、聞こえる。
くらり、と意識が傾いでいく。夢うつつのような気分で、私は歌うように問いかけた。
「貴方は……誰だ?」
「セバスチャンですよ。しかし違う人物でもある。いくつもの顔を持ち、その誰でもない。個、という概念が、私を示すには適切ではない。ただ、人間の中には、私の事をこう呼ぶ者も居ます」
「這いよる混沌、と」
昏く閉ざされたバックミラーから、炎のように燃える三つ目が私を覗き込んでいた。
◆◆