喫茶店と猫好きな少女 作:喜助
人はきっと
名前を知る前から
誰かを探している
喫茶店“バロン”の夜は、ゆっくりと閉じていった。
最後のカップを洗い終えた紬が、布巾で手を拭う。店内にはまだコーヒーの香りが残っていた。
猫たちの小さな寝息。その中で、少女はカップを両手で持ったまま、じっと中を見つめていた。
「……もう、苦くない」
小さく呟いたその言葉に、紬が少しだけ眉を上げた。
「慣れるの早いな」
「慣れたわけではない」
少女は真剣な顔で言う。
「苦い。でも、嫌ではない」
「それを慣れたって言うんだよ」
「そうなのか?」
「多分な」
紬が肩を竦める。
そのやり取りに、狂三がくすりと笑った。
「十香さんは、素直ですわね」
少女――まだ確かな名として定着したわけではないその響きに、彼女は少しだけ目を伏せた。
「……十香」
その響きは、まだ不思議だった。
胸の奥が少し温かくなる。けれど、同時に少し怖い。
名前を持つということは、自分が“何か”になることのような気がした。
怪物ではなく精霊でもなく。
ただ、誰かに呼ばれる存在に。
「……」
少女はカップを置く。
その指先が、ほんの僅かに透けた。
「……?」
最初に気づいたのはクロだった。
黒猫が窓際から顔を上げ、少女を見る。
次に紬が気づく。
「おい」
少女は自分の手を見る。
指先が淡い光にほどけている。
「……なんだ、これは」
不安そうな声に、狂三の笑みが薄くなる。
「……薄くなっていますわね」
「ロストか」
紬が低く呟き、少女が顔を上げる。
「ロスト?」
「現界を維持できなくなってるんだろ」
紬は説明しながらも、確信があったわけではない。だが、身体が理解していた。
魂が、この世界から離れようとしている感覚を
少女はカウンターへ手をつく。
「私は……消えるのか?」
「死ぬわけじゃねぇ」
紬は短く言った。
「多分、戻るだけだ」
「どこへ?」
その問いに、紬は答えられなかった。
彼女自身にもわからない場所。
人間の世界ではなく、この店でもなく...別のどこか。
少女は少しだけ唇を噛む。
不安なのだろう。
だが、泣きはしなかった。ただ視線だけを店内へ向ける。
カウンターにコーヒーカップ、眠る猫たち。
狂三 ーー そして紬
「……ここは」
少女が小さく言う。
「暖かかった」
紬は何も言わなかった。
狂三もまた、静かに少女を見つめていた。
「また来ればいい」
紬が言った言葉に、少女の瞳が揺れる。
「……いいのか?」
「腹減ってるならな」
「それだけか?」
「それだけで十分だろ」
紬はいつものように、少し面倒そうに言う。
だがその声は、驚くほど穏やかだった。
少女はしばらく紬を見つめ
やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……変な奴だ」
「よく言われる」
光が強くなる。
少女の輪郭が、夜の空気へ溶けていく。
「ツムギ」
「ん」
「クルミ」
狂三が少しだけ目を見開く。
「はい」
少女は二人を見た。
「また、来る」
その言葉を最後に、少女の姿は淡い光となって消えた。
カップだけが、カウンターの上に残る。
店内には静寂が落ちた。
「……行きましたわね」
狂三が静かに呟く。
「ああ」
紬は少女が座っていた席を見る。
そこにはもう誰もいない。
ただ、微かに残った霊力の気配だけが漂っていた。
狂三はカップを見つめ、やがて席を立つ。
「では、わたくしもそろそろ失礼いたしますわ」
紬が顔を向ける。
「帰るのか」
「あら」
狂三は微笑む。
「まさかわたくしまで泊めてくださるおつもりでした?」
「言ってねぇよ」
「ふふ。残念ですわ」
軽口
けれど、その一線は明確だった。
狂三はまだ、この場所へ踏み込みきってはいない。常連でありアルバイトであり、猫を愛でる少女。
だが同時に.....自分の影を決して明かさない存在
「猫たちの朝ご飯、忘れないでくださいまし」
「俺が忘れるわけないだろ」
「紬さんはご自分の食事を忘れそうですもの」
「余計なお世話だ」
狂三は楽しそうに笑うと、入口へ向かった。
カラン――。
ベルが鳴る。
夜の空気が店内へ入り込む。
「おやすみなさいませ、紬さん」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「ええ」
狂三は振り返らず、夜の街へ出て行った。
扉が閉まる。店内には紬と猫たちだけが残された。
クロがカウンターへ飛び乗り、少女が使っていたカップの匂いを嗅ぐ。
「……また来るってよ」
紬が呟く。
クロは短く鳴いた。
「にゃ」
まるで、知っていると言うみたいに。
翌朝
五河士道は、喫茶店“バロン”の前に立っていた。
昨夜から、どうにも落ち着かなかった。
〈フラクシナス〉で聞かされた話。
精霊に空間震、そして少女を救う方法。
どれも現実離れしていて、頭が追いつかない。
けれど、士道の脳裏に残っていたのは理屈ではなかった。
『私には、名前がない』
あの少女の声。
そして。
『なんか安心する』
自分が昨日、この店で呟いた言葉。
扉の前で深呼吸する。
カラン――。
ベルが鳴る。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、紬の声がした。
士道は少しだけ肩を揺らす。店内には朝の光が差し込んでいた。
昨日と同じコーヒーの香りに同じ木目のカウンター。
同じ猫たち。
ただ、少女の姿はなかった。
「……またお前か」
紬が呆れたように言う。
その言い方は、初対面のものではない。
昨日、同じ異常の中へ足を踏み入れた者同士の距離感だった。
士道は少しだけ苦笑する。
「すみません」
「今日は何だ。コーヒーか?」
「いや、その……」
士道は店内を見回す。
「昨日の、あの子……来てませんか?」
紬の手が一瞬だけ止まる。
だがすぐに、何事もなかったようにカップを拭き続けた。
「今は来てねぇよ」
「今は?」
士道が反応し、紬は視線だけを向ける。
「昨夜、来た」
「えっ!?」
士道が思わずカウンターへ身を乗り出す。
「本当ですか!?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「どこに行ったんですか!?」
「消えた」
「消えた!?」
「ロストした、って言えばいいのか?」
士道の表情が変わる。
イヤホン越しに、琴里の声が小さく響いた。
『士道、落ち着きなさい』
士道は唇を噛む。
「……無事なんですか?」
紬は少しだけ黙り、そして短く答える。
「死んではねぇ」
「どうしてわかるんですか」
「なんとなく」
「なんとなくって……」
士道は困惑する。
だが、紬の声には妙な確信があった。
嘘ではない。
この人は本当に、感覚で理解している。
「それで」
紬がカップを置く。
「お前はあいつをどうしたいんだ」
士道が顔を上げる。
「……救いたいです」
言葉は、自然に出た。
自分でも驚くくらいに。
「まだ何も知らないけど、あの子は……怖がってた」
士道は拳を握る。
「だから、放っておけない」
紬はじっと士道を見る。
弱く、戦う力もない。虚も見えなかった。
それでも昨日、彼は少女の前へ出た。紬とは違う形で、“護る側”の人間。
「……阿呆だな」
「またそれですか!?」
「でも嫌いじゃねぇよ」
士道は少しだけ目を丸くする。
紬は顔を逸らした。
「コーヒー飲むか」
「え?」
「立ち話もなんだろ」
「あ……はい」
士道はカウンター席へ座る。
その足元へトトが近づき、靴の匂いを嗅いだ。
「うわ、猫」
「嫌いか?」
「い、いや。可愛いですけど」
トトは士道の足元で丸くなる。
紬はそれを見て少しだけ眉を上げた。
「珍しいな」
「何がですか?」
「そいつ、初対面にはわりと図々しいけど、気に入らない奴の足元では寝ない」
「それ褒められてるんですか?」
「多分」
「多分!?」
士道が突っ込むと、紬が小さく笑った。
その笑い方は昨日と同じだった。無愛想なのに、どこか温かい。
士道は改めて店内を見る。ここは、不思議な場所だ。
精霊が来て猫が懐いて、得体の知れない店主がコーヒーを淹れている。
普通ではない。
でも、怖くない。
むしろ。
「……やっぱり、ここ」
士道は小さく呟いた。
「安心しますね」
紬の手が僅かに止まる。
「……そうか」
それだけだった。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
同時刻
〈フラクシナス〉艦橋
モニターには、バロン店内の映像と霊波データが並んで表示されていた。
「士道、対象店内に到達」
「プリンセスの反応は?」
「現在、ロスト状態。現界反応はありません」
琴里は司令席で棒付きキャンディを咥え直す。
「昨日、プリンセスはその店にいたのよね?」
「はい。短時間ですが、霊力反応が確認されています」
オペレーターが数値を表示する。
そのグラフを見て、琴里の眉が寄った。
「……何これ」
令音が眠たげに目を細める。
「安定してる」
「ええ。異常なほどにね」
琴里はモニターを睨む。
プリンセスの霊力は、昨日バロンに滞在していた間だけ極端に安定していた。
空間震の前兆もなく、暴走もない。
まるで、眠っている子供のような波形。
「……あの店、何なの?」
令音は答えない。
代わりに、別のデータを開く。映し出されたのは、紬の映像。
コーヒーを淹れる白髪の青年。
「問題はこっち」
「例の男ね」
「霊波パターンが取れない」
「取れない?」
「観測できる瞬間と、できない瞬間がある」
令音は淡々と続ける。
「人間として観測される時もあれば、全く別の反応が重なる時もある」
琴里が眉を寄せる。
「精霊?」
「違う」
「AST?」
「違う」
「じゃあ何?」
令音は少しだけ沈黙した。
そして
「……境界が曖昧」
そう呟いた。
艦橋が静まり返る。
「存在そのものが、こちら側に固定されていないように見える」
琴里はモニターの中の紬を見る。
猫へ餌をやりながら、士道にコーヒーを出しているだけの青年。だがその輪郭は、データ上では微かに乱れていた。
「……調査続行」
琴里が低く言う。
「ただし、手出しはしない。士道が店内にいる間は特に」
「了解」
モニターの隅では、士道がコーヒーを飲んで顔をしかめていた。
琴里は小さくため息を吐く。
「……何よ、その平和な絵面」
だが.....その平和さが、逆に不気味だった。
「苦っ……!」
士道がカップを置き、その反応に紬が半目になる。
「お前もか」
「お前も?」
「昨日のあいつも同じ反応してた」
「……あの子も」
士道の表情が少し柔らかくなる。
紬はそれを見逃さなかった。
「気になるか」
「そりゃ、気になりますよ」
士道はカップを見つめる。
「名前も、まだ知らないし」
紬は何も言わなかった。
“十香”
昨夜、少女が呟いた響き。
それを士道へ伝えるべきか、一瞬迷う。
だが、やめた。
それはまだ、彼女自身も掴みきれていないものだ。誰かが勝手に渡すものではない。
「じゃあ、次会ったらまた聞け」
紬はそう言った。
その言葉に疑問を浮かべながらも、士道は顔を上げた。
「はい」
短い返事、けれど真っ直ぐだった。
その時、クロが窓際でふいに顔を上げた。
金色の瞳が、外へ向く。
紬も同時に視線を動かした。
「……」
何もいない朝の街、通り過ぎる自転車や信号待ちの人々。
だが、視線を感じる。
昨日のような露骨な気配ではない。
もっと遠く薄く、気味の悪いもの。
士道も何かを感じたのか、窓の外を見る。
「……どうかしました?」
「いや」
紬は短く答えた。
「面倒なのが、近ぇ気がしただけだ」
士道の表情が強張る。
「それって……昨日の?」
「さあな」
紬はカップを拭きながら、何でもないように言う。だが、その目は笑っていなかった。
遠くのビルの屋上。
誰にも見えない場所で、白い仮面が一瞬だけ朝日に浮かんだ。
それは襲わない。吠えもしない。
ただ見ていた、喫茶店“バロン”を。
そこに集まり始めた者たちを。
そして.....カウンターの奥に立つ、白髪の青年を。
次の瞬間、その姿は陽炎のように消えた。
店内では、コーヒーの香りが変わらず漂っている。士道がカップを両手で持ち、少しだけ真剣な顔で呟いた。
「……また、来ます」
紬は視線を向ける。
「好きにしろ」
「はい」
士道は立ち上がり
店を出る直前、振り返った。
「あの子が来たら……」
紬は言葉を遮るように言った。
「自分で会いに来い」
士道は一瞬だけ驚き、それから少し笑った。
「……そうします」
カラン――。
ベルが鳴り、士道が朝の街へ出ていく。
紬はその背中を見送った後、窓の外へ視線を向けた。
「……交わり始めたな」
誰に言うでもなく、呟く。
クロがカウンターへ飛び乗り、短く鳴いた。
「にゃ」
まるで、警告するように。
紬は静かに目を細める。
精霊に虚、AST.....そして、この店。
本来なら交わるはずのなかったものが、少しずつ一点へ集まり始めている。
その中心に自分がいることを。
紬はまだ、認めたくなかった。
温もりは
失う時になって初めて
名前を持つ