喫茶店と猫好きな少女 作:喜助
独りで立つには
この世界は少し暖かすぎた
あれから、一日。
喫茶店“バロン”には、どこか落ち着かない時間が流れていた。
カウンター席には、誰もいない。
苦い、と顔をしかめていた十香も、猫たちへ真っ直ぐ手を伸ばしていた狂三も、まだ戻ってきていなかった。
そして ーーー 夜の天宮市へ、再び警報が鳴り響いた。
『空間震警報。空間震警報。付近住民は速やかに――』
赤い警告灯に慌ただしく閉じていく店のシャッター、そして人々の悲鳴と足音。
けれど、その中心にいた少女は、前回ほど戸惑ってはいなかった。
砕ける空間の中、風が長い黒髪を揺らす。
「……」
胸の奥が、ほんの少しだけ暖かかった。
苦いコーヒーに木目のカウンター、猫たちの体温。
そして。
『また来ればいい』
白髪の青年の声。
少女は小さく目を伏せる。
「……バロン」
その名を呟くと、不思議と胸のざわつきが静まった。前回の現界は、ただ苦しかった。
知らない世界に向けられる恐怖。
独りで立つ夜。
けれど今は違う。帰る場所を、知っている。
その感覚だけで、少女は少しだけ呼吸をしやすくなっていた。
〈フラクシナス〉
「プリンセス、再現界確認!」
艦橋へ声が響く。
巨大モニターには、夜の天宮駅周辺が映し出されていた。
「空間震規模は!?」
「前回より大幅に低下しています!」
琴里が眉を寄せる。
「低下?」
「はい。霊力反応も安定傾向です」
オペレーターが困惑した顔で数値を見る。
普通ではない、現界直後の精霊は精神状態が最も不安定になる。だから空間震が発生する。
なのに、今回のプリンセスは異様なほど静かだった。
まるで....この世界へ来る理由を見つけたみたいに。
「……士道」
『聞こえてる!』
イヤホン越しに士道の声に、琴里はキャンディを咥え直す。
「接触しなさい。今回は戦闘より優先」
『わかってる!』
通信が切れ、令音は静かにモニターを見つめていた。
「……安定してるな」
「異常なくらいね」
琴里が小さく呟き、令音は眠たげな目を細めた。
「人は、帰る場所があると落ち着くらしい」
「……は?」
「さあ」
令音はそれ以上語らなかった。
駅前広場、避難警報で人の消えた街を、少女はゆっくり歩いていた。
巨大なモニターに消えかけのネオン、風に揺れる広告旗。何もかもが知らないものなのに。
不思議と怖くない。
「いた!」
声が聞こえ、少女が振り返る。
そこには、息を切らした士道が立っていた。
「……シドウ」
「はぁ……よかった……」
士道は膝へ手をつきながら息を整える。
「急にいなくなるから心配したんだぞ」
「私は消えただけだ」
「それが心配なんだって……」
少女は少し考える。
やがて、小さく呟いた。
「……そうか」
その反応が妙に素直で、士道は思わず苦笑した。
夜風が吹き、少女は周囲を見回し――。
「ツムギは?」
士道が少しだけ目を丸くする。
「え?」
「店にいるのか」
「……あー」
士道は少し考え
「この時間なら、閉店してるかもな」
その言葉を聞いて十香は黙り、ほんの少しだけ肩が落ちた。
「……?」
士道はそこで初めて、少し肩を落とした十香に気づく。
「......もしかして、会いたかったのか?」
「……あそこは落ち着く」
少女は静かに言った。
「暖かい」
その言葉に、士道は少しだけ安心する。
この少女はもう、“帰りたい場所”を知っている。
それが、少し嬉しかった。
「じゃあさ」
士道が笑う。
「店が開くまで、少し街歩かないか?」
「街?」
「色々あるぞ。人間の世界」
少女は周囲を見る。
光に音、建物。
知らないものだらけだった。
「……案内しろ」
「はいはい」
士道は苦笑しながら歩き出した。
少女も、その隣を歩く。
「……未来だな」
少女が真顔で呟いた。
「だから何がだよ」
士道が苦笑する。
少女の視線の先には、自動販売機があった。
明るく光るボタンに並んだ缶ジュース。
少女はじっとそれを見つめている。
「人間は、箱から飲み物を出せるのか」
「いや、機械だけど」
「未来だな」
「押し通すなよ!?」
士道が思わず笑うが、少女は真剣な顔のままだった。
だが、その瞳には僅かな好奇心が宿っている。
士道は小銭を入れた。
ガコン。
缶コーヒーが落ちる音に、少女がびくりと肩を揺らした。
「敵か!?」
「違う違う!」
士道は吹き出しながら缶を渡し、少女は恐る恐る受け取った。
「……暖かい」
「ホットだからな」
缶へ口をつけた次の瞬間。
「苦っ!?」
「ぶはっ!」
士道が盛大に吹き出した。
「なんでだ!? また苦い!」
「コーヒーだから!」
「ツムギのと違う!」
「比較そこなの!?」
少女は本気で不満そうだった。
だが、その顔はどこか楽しそうだった。
その横顔を見た士道は普通の女の子みたいだ、と思った。
空間震を起こす怪物ではなく。
ただ、知らない世界へ戸惑っているだけの少女。
「……そうだ」
士道がふと思い出したように言う。
「名前、聞いてなかったよな」
十香は少しだけ黙り、昨夜胸へ残った響き。
『十香』
その名前を、今度ははっきりと思い出す。
「……十香」
士道が目を瞬かせる。
「十香?」
「ああ」
十香は小さく頷いた。
「昨日、もらった名前だ」
夜風が吹き、士道は数秒黙り込み――士道がその名前を繰り返す。
「……十香、いい名前だな」
十香は少しだけ目を瞬かせた。
「……そうか?」
「ああ」
士道は笑う。
「君に似合ってる」
十香は何も言わなかった。
ただ....胸の奥が、どうしようもなく暖かかった。怖いくらいに。
けれど ーーー 嫌ではない。
士道が笑った。
「よろしくな、十香」
十香は少しだけ目を伏せ――。
ぎこちなく、小さく笑った。
初めてだった。誰かの前で、自然に笑えたのは。
街の灯りが黒髪へ落ちる。
遠くでは電車が走り、コンビニの自動ドアが開閉を繰り返していた。
知らない世界。けれど、もう少しだけ好きになり始めている。
夜風が静かに吹き抜け、遠く離れた場所。
喫茶店“バロン”では、白髪の青年が一人コーヒーカップを洗っていた。
精霊に人間、喫茶店。そして、“境界”に立つ青年。
本来交わるはずのなかったものたちが、
少しずつ、同じ場所へ集まり始めている。
まだ誰も知らない。
この世界の境界が、
静かに揺らぎ始めていることを。
「……変な世界だ」
十香がぽつりと呟く。
「今更だな」
士道が笑う。
十香は缶コーヒーを両手で持ったまま、小さく目を細めた。
「でも」
夜風が静かに吹き抜ける。
「嫌いじゃない」
士道は少しだけ目を丸くし――やがて、優しく笑った。
帰る場所を知った夜から
世界は少しだけ優しく見えた