喫茶店と猫好きな少女 作:喜助
帰る場所とは
誰かが待っている場所のことを言うらしい
翌日。
天宮市の空は、薄く曇っていた。
放課後のチャイムが鳴り終わり、生徒たちが校門から溢れていく。笑い声に自転車の音、遠くで鳴る電車の走行音。
そんな日常の中を、五河士道はどこか落ち着かない様子で歩いていた。
「……」
脳裏へ浮かぶのは、昨夜の少女。
そして、不器用に笑った顔。
『嫌いじゃない』
あの言葉が、妙に耳へ残っていた。
「士道」
イヤホンから琴里の声が響く。
『聞こえてる?』
「聞こえてるよ」
士道は小さく返事をする。
『アンタ、今日妙にぼーっとしてるわね』
「そうか?」
『そうよ』
即答だった。
士道は苦笑する。
「……いや、何かさ」
『何?』
士道は少し空を見上げた。
「十香、昨日楽しそうだったなって」
数秒通信が沈黙し、やがて。
『……まあ、そうね』
琴里の声は少しだけ柔らかかった。
『霊波もかなり安定してたし』
「やっぱり変なのか?」
『普通じゃないわ』
琴里は司令席でモニターを見つめていた。
巨大スクリーンには、昨夜観測された十香の霊波データが表示されている。現界時としては異常なほど穏やかな波形。
空間震規模も低い。
まるで。
「安心してるみたいだった」
士道がぽつりと呟き、その言葉に琴里は少しだけ目を細めた。
『……安心できる場所があるって、大事なのかもね』
「安心できる場所?」
『バロン』
短い言葉に、士道は少しだけ納得したように息を吐いた。
「ああ……」
確かに、あの店にいる時の十香は落ち着いていた。
コーヒーの香りに猫たち。木の温もり。
あそこには、妙な安心感がある。士道自身も感じていた。
『でも』
琴里の声が少し真面目になる。
『忘れないで。アンタの役目は、精霊を救うことよ』
士道は少しだけ表情を引き締めた。
「わかってる」
『プリンセスはまだ不安定。今は落ち着いてても、何がきっかけで暴走するかわからない』
「……ああ」
『だから、ちゃんと向き合いなさい』
通信が切れ、士道は小さく息を吐いた。
向き合う。それは簡単な言葉じゃない。
精霊・空間震・人間ではない存在。
けれど。
「……放っておけないんだよな」
自然に呟いていた。
その頃、〈フラクシナス〉艦橋
琴里は司令席へ座ったまま、モニターを睨んでいた。
「プリンセスの現在位置は?」
「市街地北部を移動中です」
オペレーターが答える。
別モニターには十香の霊波反応が表示されていた。前回より安定している。
だが、完全に安心できる数値ではない。
令音が眠たげな目でデータを見つめる。
「……揺れてるな」
「ええ」
琴里が頷く。
「でも前みたいな暴発じゃない」
霊力は強大だ。だがその揺れは、“怒り”ではなく“迷い”に近かった。
「士道との接触で変化してる」
令音が静かに言う。
「人との関わりを覚え始めてる」
琴里は腕を組んだ。
「問題はここからよ」
「……封印か」
「そう」
「ええ」
琴里は小さく息を吐く。
「封印には、好意が必要」
けれど。
「まだ早いわね」
琴里が小さく呟く。
今の十香は、“世界”を知り始めた段階。いきなり恋愛感情へ踏み込めば、逆に壊れる。
「まずは、“この世界は怖くない”って教える」
令音は小さく頷いた。
「正しい順番」
琴里はキャンディを噛み砕く。
「……問題は」
モニターへ別ウィンドウが表示される。
そこに映っていたのは、喫茶店“バロン”。
「例の喫茶店ね」
令音が静かに目を細める。
「プリンセスの精神安定値が、あそこへ滞在した時間だけ極端に上昇してる」
「やっぱ異常よね」
琴里が眉を寄せた。
普通の店ではない。だが、危険とも違う。
むしろ逆だった。
“落ち着いてしまう”。
それが逆に、不気味だった。
「白髪の店主については?」
「依然不明」
オペレーターが困惑した顔で答える。
「店主の情報は?」
「現在調査中です」
「霊力反応は?」
「……ありません」
「ない?」
「ですが、プリンセスへの影響だけは確認されています」
だが、モニターに映る白髪の青年はただ猫へ餌をやっているだけだった。
それが余計に訳がわからない。
夕方、天宮市の街は少しずつ夜へ染まり始めていた。
十香は一人、街を歩いている。
昨日より、人間たちの世界が少しだけ怖くなかった。
信号機に店の看板、コンビニの自動ドア。
知らないものばかり。
けれど。
「……喋る扉だ」
十香が真顔で呟き、通りすがりのサラリーマンが不思議そうな顔をした。
十香は気にしない。
今日はちゃんと覚えている。“バロン”への道。
三回ほど曲がる場所を間違えたが、昨日よりは進歩していた。
「……あ」
やがて、見慣れた木製の看板が見える。
喫茶店“バロン”。
店の窓からは暖かな灯りが漏れていた。
十香の胸が、少しだけ軽くなる。
カラン――。
ベルが鳴る。
「いらっしゃ――」
紬が顔を上げる。
「……また来たのか」
「来たぞ!」
どこか誇らしげな十香に、紬は呆れたようにため息を吐く。
「見ればわかる」
「今日は迷わなかった」
「本当か?」
「三回しか間違えてない」
「迷ってんじゃねぇか」
十香は少し不満そうだった。
だが店内へ入った瞬間、その肩からふっと力が抜ける。
コーヒーの香りにジャズ、猫たちの気配。
クロが窓際から顔を上げ、十香を見る。
「にゃ」
「クロ!」
十香の表情が少し明るくなる。
クロは椅子から飛び降り、十香の足へ頭を擦り寄せた。
「……懐かれてんな」
紬が小さく呟く。
「私は認められたのか?」
「多分な」
十香は真剣に頷いた。
その様子に、紬が少しだけ肩を揺らす。
笑った。
ほんの僅かに。
十香はすぐ気づき
「ツムギ、今笑ったな」
「笑ってねぇ」
「笑った」
「気のせいだ」
「見たぞ」
「面倒くせぇ……」
その時。
カラン――。
再びベルが鳴った。
「お、いたいた」
聞き覚えのある声。
士道だった。
「シドウ!」
十香の顔がぱっと明るくなる。
その変化があまりにもわかりやすくて、士道は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「よう」
「遅いぞ」
「学校あったんだよ」
「学校……」
十香は少し考える。
「人間の修行場か?」
「そんな大層なもんじゃない」
士道が苦笑する。
紬はカウンター越しに二人を見る。
その空気は、昨日より自然だった。十香が士道へ向ける視線も、少し柔らかい。
「……変わったな」
小さく呟く。
「何がですか?」
士道が問いに、紬はカップを磨きながら答えた。
「昨日より、表情が増えた」
十香が少し眉を寄せる。
「私はずっと無表情だったのか?」
「そこまで言ってねぇよ」
「では何だ」
「……面倒くせぇな」
士道が思わず吹き出す。
その笑い声に、十香も少しだけ目を丸くした。
「……何だ」
「いや」
士道は笑いながら席へ座る。
「何か、普通だなって」
「普通?」
「うん」
士道は店内を見る。
「こうしてると、精霊とか空間震とか忘れそうになる」
十香は少し黙った。
やがて、小さく呟く。
「……嫌か?」
「え?」
「忘れるのは」
士道は少しだけ目を瞬かせ、そして、静かに首を振る。
「嫌じゃないよ」
その答えに.....十香はほんの少しだけ安心したみたいに目を伏せた。
その様子を、遠く離れた〈フラクシナス〉のモニターが、静かに映していた。
琴里は腕を組みながら、小さく呟く。
「……順調ね」
令音は眠たげな目でデータを見る。
プリンセスの霊波は、今また少しだけ安定していた。
まるで。
心を休める場所を、ようやく見つけたみたいに。
「また来る」
その言葉だけで
少女は少しだけ世界を信じられた