喫茶店と猫好きな少女 作:喜助
フェンスの向こうでは
誰かが笑っていた
同じ空の下なのに
そこはまだ
私の知らない世界だった
翌日
昼休み前の来禅高校には、いつも通りのざわめきが満ちていた。
教師の声にノートへ走るシャープペンの音。
窓の外から聞こえる、運動部の掛け声。
五河士道は授業を聞いているふりをしながら、どこか上の空だった。
脳裏に浮かぶのは、昨日の十香の顔。
バロンの扉を開けた瞬間、少しだけ安心したように肩の力を抜いた姿。クロに足元へ寄られて、どこか誇らしげにしていた顔。
そして、自分を見た時にぱっと明るくなった表情。
「……」
胸の奥が、妙に落ち着かない。
その時。ピリ、とイヤホンに小さなノイズが走った。
『士道』
琴里の声だった。
士道は周囲を見回し、そっと席を立つ。
「すみません、ちょっとトイレ」
教師にそう告げ、廊下へ出る。
階段の踊り場まで移動してから、士道は小声で応えた。
「聞こえてる」
『プリンセスの霊波反応を確認したわ』
士道の表情が変わる。
「空間震は?」
『なし』
「……なし?」
『ええ。反応はある。でも空間震の予兆は出てない』
琴里の声には、少しだけ困惑が混じっていた。
『現界状態は不安定じゃない。むしろ、昨日より落ち着いてる』
「……そっか」
士道は小さく息を吐いた。ほっとしている自分がいた。
『安心するのは早いわよ。封印できたわけじゃないんだから』
「わかってる」
『でも、接触するなら今。場所は駅前から少し離れた歩道橋付近』
「わかった。行く」
『士道』
「ん?」
少しだけ、琴里の声が柔らかくなる。
『焦らないこと。今のあの子に必要なのは、急に距離を詰めることじゃない』
士道は少し黙ってから頷いた。
「……うん」
『ちゃんと、隣を歩いてあげなさい』
通信が切れ、士道は窓の外を見た。
空は青く、街は何事もないように動いている。
その中に、十香がいる。
「……待ってろよ」
士道は小さく呟き、階段を駆け下りた。
天宮市駅前
歩道橋の上で、十香は一人街を見下ろしていた。今日の十香は、霊装ではなかった。
黒を基調にしたワンピースに、薄いカーディガン。
本人はまだ慣れていないのか、時々袖を摘まんでは、不思議そうに見下ろしている。
「……軽い」
ぽつりと呟く。
戦うための衣ではなく、守るための鎧でもない。ただ、街を歩くための服。
それが不思議だった。
眼下では、制服姿の学生たちが笑いながら歩いている。同じ服、同じ鞄、同じ方向。
十香はじっとそれを見つめた。
「……あれは、どこへ向かうのだ」
その時。
「十香!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、士道が階段を駆け上がってくるところだった。
「……シドウ」
十香の表情が少しだけ明るくなる。
士道は息を切らしながら歩道橋へ上がった。
「はぁ……見つけた」
「何故走る?」
「探してたからだよ」
「私はここにいたぞ」
「だから、それを探してたんだって」
十香は少し考え、やがて小さく頷く。
「そうか」
士道はそんな十香を見て、ふっと笑う。
そして、彼女の服に目を向けた。
「その服、似合ってるな」
十香は袖を摘まんだまま、目を瞬かせる。
「……そうか?」
「ああ。普通の女の子みたいだ」
「普通……」
十香はその言葉を口の中で転がすように呟いた。
「私は、普通に見えるのか?」
士道は少しだけ真面目な顔で頷く。
「見えるよ」
その答えに、十香はほんの少しだけ目を伏せた。
嬉しいのか、怖いのか。自分でもよくわからない。
ただ、胸の奥が少し温かくなった。
「……シドウ」
「ん?」
「普通とは、何だ?」
士道は言葉に詰まる。
「難しいこと聞くなぁ……」
「難しいのか?」
「多分な。俺もちゃんとは説明できない」
「そうなのか」
「でも」
士道は眼下の街を見る。
「怖がらずに歩けることとか、誰かと話せることとか、そういうのも普通なんじゃないか」
十香はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……なら、私は少しだけ普通に近づいたのか」
士道は笑った。
「そうかもな」
十香は少しだけ満足そうに頷いた。
その視線が、ふと学校へ向く。
「シドウ」
「何?」
「あそこは何だ」
士道が視線を追う。
来禅高校の校門。昼休みを迎えた生徒たちが、校庭や中庭へ出てきている。
「学校だよ」
「修行場か?」
「違うって」
士道は思わず笑う。
「勉強したり、友達と話したりする場所」
「友達」
十香はその言葉に反応した。
「楽しいのか?」
「楽しい時もあるよ。面倒な時もあるけど」
「面倒なのに行くのか」
「それが学校なんだよ」
「人間は不思議だ」
十香は真顔だった。
けれど、その瞳には好奇心が宿っている。
「……見てみたい」
小さな声だった。
士道は少し困ったように頭を掻く。
「中には入れないぞ」
「何故だ」
「部外者だから」
その言葉に、十香の指先が一瞬止まる。
部外者。その響きは胸の奥に小さな影を落とした。士道はすぐに慌てて
「あ、悪い意味じゃないぞ! ただ、学校って勝手に入っちゃ駄目なんだ」
「……決まりか」
「そう。だから、外から見るだけなら」
十香はしばらく校門を見つめていた。
そして、小さく頷く。
「見る」
昼休み、来禅高校の外壁沿い。
フェンス越しに、十香は校庭を見つめていた。
サッカーボールを追う男子生徒にベンチで弁当を広げる女子生徒、窓から身を乗り出して友人を呼ぶ生徒。
たくさんの声が重なっている。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「……騒がしい」
「学校だからな」
士道は購買で買ってきたパンの袋を開けながら言う。
「食べるか?」
「食べる」
即答だった。
士道は焼きそばパンを差し出すと、十香は両手で受け取り慎重に口をつけた。
一口。
「……!」
瞳がわずかに見開かれる。
「うまい」
「よかった」
「人間は、食べ物を作るのが上手いな」
「それ、紬さんにも言ってた気がするな」
「ツムギのコーヒーとは違う」
「そりゃそうだろ」
士道が笑い、十香はパンを食べながら再び校庭へ目を向けた。
ちょうどその時、男子生徒がボールを空振りして転んだ。周囲の友人たちが一斉に笑う。
転んだ本人も、照れたように笑っていた。
十香は首を傾げる。
「……倒れたのに、何故笑う」
「怪我してないからじゃないか?」
「怪我していなければ、笑うのか」
「友達同士なら、そういうこともある」
「友達とは、転んだ相手を笑うものなのか?」
「説明だけ聞くと最悪だな……」
士道は苦笑しながら、少し考えた。
「多分さ」
「うむ」
「痛いとか怖いとかより、一緒にいるのが楽しいんだと思う」
十香は黙り、フェンスの向こうの笑い声を聞く。
あちら側とこちら側、薄い金網一枚の筈なのに
ーー それなのに、ひどく遠い。
「……シドウ」
「ん?」
「私は、あちら側へ行けないのか」
士道はすぐに答えられなかった。
十香は士道を責めているわけではない。ただ、本当に疑問なのだ。
だからこそ、士道は嘘をつけなかった。
「今は、まだ難しいと思う」
「今は?」
「ああ」
士道はフェンス越しに校舎を見た。
「でも、いつか行けるようにしよう」
十香が士道を見る。
「本当か?」
「約束する」
その言葉に、十香は少しだけ目を丸くした。
約束。
知らない言葉ではない。
けれど、今初めて意味が胸へ落ちた気がした。
「……なら、待つ」
士道は少しだけ目を細める。
「うん」
その時、校舎三階の窓際に一人の少女が立っていた。
鳶一折紙
無表情のまま、フェンスの外にいる十香を見下ろしている。
士道はその視線に気づき、ほんの少し肩を強張らせた。
「……折紙」
十香も顔を上げるが折紙は何も言わない。
ただ、十香を見ていた。
黒いワンピースの少女、普通の人間に見える。
そして ーー 士道が、あんな風に自然に笑っている相手を、折紙はあまり知らなかった。
その時、チャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン。
「っ!?」
十香が肩を跳ねさせる。
「敵襲か!?」
「違う違う! 授業の合図!」
士道が慌てて説明する。
十香は不満そうに眉を寄せた。
「紛らわしい音だ」
「慣れれば平気だよ」
「人間は、あの音に従うのか」
「まあ、だいたい」
「やはり修行場ではないか」
「違うって」
士道が笑い、十香もほんの少しだけ口元を緩めた。窓際から、折紙の姿は消えていた。
夕方、喫茶店“バロン”。
カラン――。
扉のベルが鳴る。
「……来たか」
カウンターの奥で、紬が顔を上げる。
十香は少し疲れた顔をしていた。
「人間の世界は、音が多い」
「お疲れさん」
紬は短く返し、カップを取り出した。
士道も苦笑しながらカウンター席へ座る。
「今日は学校を外から見せてたんだ」
「学校?」
紬が少し眉を上げた。
「そりゃまた大胆だな」
「中には入れてないよ」
「ならまだマシか」
紬はそう言うと、コーヒーミルへ手を伸ばした。
ガリ、ガリ、と豆を挽く音が店内へ響く。
十香の肩から、ゆっくり力が抜けていく。
「……この音は、静かだ」
「うるさくないのか?」
「うるさくない」
十香はカウンターに座りながら答える。
「落ち着く」
紬は何も言わず湯を注ぐ。ふわりと香りが広がった。
窓際で丸くなっていたクロが顔を上げ、ゆっくり十香の足元へ寄ってくる。
「クロ」
十香が少し嬉しそうに呼ぶと、クロは短く鳴いた。
「にゃ」
士道はその光景を見て笑う。
「十香、完全に覚えられてるな」
「私はクロに認められているからな」
「それはすごい」
「うむ」
十香は少し誇らしげだった。
紬は十香の前へカップを置く。
「今日は少し甘め」
「私は子供ではない」
「じゃあ苦い方にするか?」
「……甘めでいい」
「素直でよろしい」
「む」
十香は少し不満そうにしながらも、カップを両手で包み込む。
温かい。
学校の笑い声。
フェンス越しの景色。
士道の隣で食べたパン。
そして、また見に行こうという約束。
全部が、胸の中でゆっくり混ざっていく。
「……シドウ」
「ん?」
「また、見に行きたい」
「学校を?」
十香は頷く。
「中には入れなくてもいい」
少しだけ間を置き、続ける。
「外からでも、見たい」
士道は目を丸くした後、優しく笑った。
「ああ。また行こう」
十香は小さく頷いた。
「うむ」
店内には静かなジャズが流れている。
猫たちは思い思いの場所で眠り、夕暮れの光が木目の床へ落ちていた。
空間震に精霊、戦い。
まだ何も解決していない。
それでも士道は、こういう時間が続けばいいと思った。
十香はコーヒーを一口飲み、少しだけ眉を寄せる。
「……苦い」
「甘めにしたぞ」
「だが、苦い」
「じゃあ飲むな」
「飲む」
十香はそう言って、もう一口飲んだ。
そして、小さく息を吐く。
「でも、嫌ではない」
その言葉に、紬はほんの少しだけ目を細める。
「そうか」
短い返事。けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
十香はまだ、フェンスの向こう側にいる。
けれど、その向こうを見たいと思い始めている。それだけで、きっと十分だった。
向こう側には
笑う人たちがいた
私はまだ
そこへ行けない
けれど
「また見に行こう」と君は言った