喫茶店と猫好きな少女   作:喜助

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誰かのために伸ばした手は
ほんの少し震えていた

それでも温かかったのは
初めて自分のためではなかったから




第十四話 誰かの役に立ちたい

 

 

夕暮れの天宮市は、薄い茜色へ染まり始めていた。

ビルの窓へ反射する赤い光に遠くを走る電車の音。人々の話し声。

 

十香は、その全てを眺めながら歩いていた。

 

以前ほど怖くはない。

知らないものばかりなのは変わらない。けれど今は、“戻る場所”を知っている。

 

それだけで、世界は少し違って見えた。

 

「……」

 

視線の先に、木製の看板が見える。

 

喫茶店“バロン”。

 

十香の歩く速度が、ほんの少しだけ速くなった。

 

カラン――。

 

扉を開けるとジャズの音に猫たち、暖かなコーヒーの香りが迎えてくる。

 

「にゃ」

 

クロが顔を上げた。

 

「クロ」

 

十香の声が少し柔らかくなる。

カウンターの奥では紬がコーヒーカップを拭いていた。

 

「……来たか」

 

「来たぞ」

 

十香が頷くと、紬はそれ以上何も言わない。

けれど追い返すこともしない。それが、十香には少し心地良かった。

 

店内には他にも客がいた。

窓際で本を読む老人に静かに会話する学生。一人でコーヒーを飲む会社員。

 

誰も大きな声を出さない。不思議な空間だった。

 

「……何故、ここは静かなのだ」

 

十香がぽつりと呟くと紬は湯を注ぎながら答えた。

 

「喫茶店だからだ」

 

「喫茶店とは静かな場所なのか?」

 

「人による」

 

「曖昧だな」

 

「人間なんて大体曖昧だろ」

 

十香は少し考え込む。

 

「……なるほど」

 

納得したように頷いたその時、入口のベルが鳴った。

 

「お、もう来てたのか」

 

士道だった。

 

「シドウ」

 

十香の表情が少し明るくなる。

士道はその変化に気づきながら、苦笑した。

 

「最近ここ来るの早いな」

 

「落ち着くからな」

 

即答だった。

士道は少しだけ目を丸くする。以前の十香なら、こんな風に感情を言葉へしなかった。

 

紬も小さく視線を向ける。

 

「……随分慣れたな」

 

「うむ」

 

十香は頷く。

 

「ここは、嫌な感じがしない」

 

「そりゃどうも」

 

紬は興味なさそうに返した。

だが口調ほど冷たくないことを、十香はもう知っている。

 

その時、奥の席で客が小さく手を挙げた。

 

「すみません、ブレンドおかわり」

 

「あいよ」

 

紬が短く返事をする。

カップを温めてコーヒーを淹れ、静かに皿を置く。その動きには無駄がなかった。

 

十香はじっとそれを見つめている。

 

「……」

 

「何だ」

 

紬が気づく。

 

「ツムギは、ずっとそれをしているな」

 

「仕事だからな」

 

「仕事……」

 

十香はその言葉を繰り返した。

 

「人間は、皆こうして何かをしているのか?」

 

「大体はな」

 

「何故だ」

 

「生きるため」

 

その言葉を聞き、十香は考える。

生きるため ーー 戦うためではなく、壊すためでもない。

誰かへコーヒーを出し誰かと笑い、学校へ行く。

 

人間は、そうやって生きている。

 

「……」

 

十香は、カウンターへ並ぶカップを見つめた。

 

「私にもできるか?」

 

士道が瞬きをする。

 

「え?」

 

「仕事だ」

 

十香は真剣だった。

 

「私にも、何かできるのか?」

 

その問いに、士道は少し言葉を失う。

 

精霊・空間震・脅威

 

ずっと、そういうものとして見られてきた少女が今、“誰かの役に立ちたい”と言った。

 

紬は数秒黙ったあと、小さく息を吐く。

 

「皿運ぶくらいならできるんじゃねぇか」

 

十香の目が僅かに見開かれた。

 

「本当か?」

 

「割ったら弁償な」

 

「割らない」

 

「フラグっぽくて怖ぇな……」

 

士道が苦笑し、十香は真剣な顔で紬から皿を受け取った。

温かい。少しだけ緊張しながら奥の席へ向かい、客の前へ皿を置く。

 

「……どうぞ」

 

ぎこちない声だった。

だが、老人は少し驚いたあと柔らかく笑った。

 

「ありがとう」

 

その瞬間。十香は目を瞬かせた。

感謝された。ただ、それだけのことだった。

けれど胸の奥が、少しだけ熱くなる。

 

「シドウ」

 

「ん?」

 

戻ってきた十香を見て、士道が首を傾げる。

十香は少しだけ俯き――小さく呟いた。

 

「悪くない」

 

士道が小さく笑う。

 

「それは良かった」

 

十香はもう一度、自分の手を見る。

戦うための手ではなく誰かへ何かを渡すための手。それが、少しだけ嬉しかった。

 

窓の外では、夕焼けがゆっくり夜へ変わり始めている。

世界はまだ広く知らないものばかりだ。

けれど。十香はもう、その世界を少し知りたいと思い始めていた。

 

 

 

 

 

店内へ流れるジャズは静かだった。

カップの触れ合う小さな音にコーヒーミルの回る音。猫たちの寝息。

 

その全部が、十香には不思議と心地良い。

 

「……」

 

十香は、自分の手を見ていた。

さっきまで皿を持っていた手、誰かへコーヒーを運んだ手。

戦うためではなく、“誰かの役に立つため”に動いた手だった。

 

「何ぼーっとしてる」

 

紬の声で我へ返る。

 

「む」

 

十香は顔を上げると、紬はカウンターの奥でグラスを洗っていた。

 

「皿一枚運んだだけで止まるな。まだあるぞ」

 

そう言って、空いたカップを軽く顎で示した。

十香は数秒瞬きを繰り返し――。

 

「……まだやっていいのか?」

 

「嫌なら言わねぇ」

 

その返事に、十香の目が少しだけ明るくなる。

士道はその横顔を見ながら、小さく笑った。

 

「なんか、本当に店員みたいだな」

 

「店員」

 

十香はその単語を繰り返した。

 

「私は今、店員なのか?」

 

「見習いくらいじゃねぇか」

 

紬が即座に返す。

 

「見習い……!」

 

だが十香は妙に真剣だった。

その時、クロが十香の足元へ擦り寄る。

 

「にゃ」

 

「クロ、見ていたか」

 

十香がしゃがみ込む。

 

「私は今、見習いらしい」

 

「にゃー」

 

「うむ、そうだな」

 

「何で会話成立してんだよ……」

 

士道が苦笑する。だが、昨日まで空間震の中心にいた少女が猫へ報告している光景は、どこか可笑しくて――そして、穏やかだった。

 

その時、入口のベルが鳴る。

 

カラン――。

 

「いらっしゃいませ」

 

十香が反射的に言った。

 

店内が一瞬静まる。

 

入ってきた女性客も士道も、紬でさえ少し目を丸くした。

 

「……」

 

十香本人も固まっていた。

 

「……今の、合っていたか?」

 

恐る恐る紬を見る。

紬は数秒黙ったあと、小さく吹き出した。

 

「……まあ、合ってる」

 

「本当か!」

 

十香の顔が少し明るくなる。

女性客はくすりと笑いながら席へ座った。

 

「新人さん?」

 

「見習いだ」

 

十香は真剣に答える。

 

「そう。頑張ってね」

 

「うむ」

 

そのやり取りを見ながら、士道はどこか不思議な気持ちになっていた。

ほんの数日前まで、十香はこの世界を知らなかった。誰かに笑いかけられることも、“頑張って”と言われることもなかった。

 

けれど今は。こうして少しずつ世界へ触れ始めている。

 

「……変わったな」

 

士道がぽつりと呟く。

 

「ん?」

 

十香が振り返る。

 

「いや、何でもない」

 

士道は笑って誤魔化した。

その様子に、十香は少しだけ首を傾げたが深くは追及せず、再びカウンターへ向かった。

 

「次は何をすればいい」

 

「急にやる気出すな……」

 

紬が呆れたように言う。

 

「じゃあ水」

 

「水」

 

「運べ」

 

「任せろ」

 

その返事だけは妙に頼もしかった。

十香はグラスを慎重に持ち、一歩ずつテーブルへ向かう。

危なっかしい。だが落とさないよう真剣なのがわかる。

 

その背中を見ながら、紬は小さく目を細めた。

 

「……案外向いてるかもな」

 

「え?」

 

士道が聞き返すと紬は視線を逸らした。

 

「別に」

 

「今褒めましたよね」

 

「褒めてねぇ」

 

「絶対褒めた」

 

「うるせぇ」

 

その時。

 

「っ!?」

 

十香の肩が跳ね、グラスが傾く。

 

「あっ」

 

士道が立ち上がりかける。

だが。十香は咄嗟に両手で支え、何とか水を零さず耐えた。

 

やがて。

 

「……できた」

 

十香が呆然と呟く。

客席から、小さな拍手が起きた。

 

「おおー」

 

「頑張った頑張った」

 

「偉い偉い」

 

十香は完全に固まった。

 

「……何故、拍手されている」

 

「応援されてんだよ」

 

士道が笑いながら言う。

 

十香はぱちぱちと瞬きを繰り返し――。

やがて、小さく俯いた。

黒髪の隙間から見える耳が、少し赤い。

 

「……変な世界だ」

 

「今更だな」

 

士道が笑う。

十香は水を置き終えると、静かにカウンターへ戻ってきた。

その顔には、ほんの少しだけ照れ臭そうな色が浮かんでいる。

 

紬はそんな十香へ、新しいカップを差し出した。

 

「休憩」

 

「うむ」

 

十香はカップを両手で包み込む。

 

温かい。

 

「……ツムギ」

 

「何だ」

 

「仕事とは、疲れるのだな」

 

「そりゃそうだ」

 

「だが」

 

十香は湯気の向こうで、小さく目を細めた。

 

「楽しい」

 

紬は少しだけ黙ると、それから小さく息を吐いた。

 

「そうか」

 

短い返事。けれど、その声音はどこか柔らかかった。

 

窓の外では、夜の街へ灯りが点き始めている。

世界はまだ広い……知らないものばかりだ。

 

けれど十香はもう、その世界の中で“自分にもできることがあるのかもしれない”

と、思い始めていた。

 

 






戦うことしか知らなかった私へ

世界は今日

「ありがとう」

という言葉を教えてくれた

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