喫茶店と猫好きな少女 作:喜助
世界を知るほど
わからないことが増えていく
だけど
わからないままでも
少しだけ前へ進める気がした
夕方になると、天宮市の街は穏やかな茜色に染まっていた。
帰宅する学生たちに買い物帰りの主婦。信号待ちをする会社員。
人間たちは忙しそうに歩いている。
十香はそんな光景を眺めながら歩いていた。
以前なら理解できなかった。
なぜ皆、同じように毎日動いているのか。
なぜ疲れた顔をしながらも歩き続けるのか。
だが最近は少しだけ違う。
わからないなりに、知りたいと思うようになっていた。
「……」
ふと立ち止まる。
ガラス越しに見える花屋では店主が花へ水をやっている。
誰に言われたわけでもない。当たり前のように。
丁寧に。
十香は少しだけ見つめ、そして再び歩き出す。
向かう先は決まっている。
喫茶店“バロン”。
今では自然と足が向く場所だった。
⸻
カラン――。
ベルが鳴る。
「来たぞ」
「見りゃわかる」
いつもの返事、紬はコーヒーを淹れながら顔も上げない。
「今日は迷わなかった」
「本当か?」
「二回しか間違えていない」
「減っただけで迷ってるな」
「む……」
十香が少し不満そうに頬を膨らませる。
すると、窓際で寝ていたクロが立ち上がった。
「にゃ」
「クロ!」
十香の表情が明るくなる。
クロは当然のように足元へ寄り、身体を擦り寄せた。
その感触に十香は少しだけ笑う。
落ち着く。理由はわからない。
だが、ここへ来ると胸の奥のざわつきが静かになる。
コーヒーの香りにジャズの音、木の温もり。
猫たちの気配。
この店には、戦いとは無縁の時間が流れていた。
⸻
カウンター席へ腰を下ろす。店内には数人の客がいた。
本を読む老人に勉強中らしい学生、パソコンへ向かう会社員。
十香はその姿を眺める。
誰も剣を持っていないし誰も戦っていない。
なのに皆、何かをしている。
何かへ向かっている。
そのことが少し気になった。
「ツムギ」
「何だ」
「人間は何故働く」
紬の手が止まる。
「また難しいこと聞くな」
「気になる」
紬は少し考えた後、答えた。
「生きるためだな」
「それは知っている」
十香は頷く。
以前にも聞いた答えだ。
だが。
「それだけではないだろう」
紬は少しだけ目を細めた。
そして静かに言う。
「好きだから続けてる奴もいる」
「好きだから?」
「ああ」
コーヒーをカップへ注ぎ、香りが広がる。
「仕事でも趣味でも同じだ」
「……」
「好きな場所を守りたい奴もいる」
十香は紬を見るが、紬はそれ以上何も言わない。
だが、その言葉の意味は何となくわかった。
この店のことなのだろう。
⸻
その時。
カラン――。
再びベルが鳴る。
「お、いたいた」
聞き慣れた声、士道だった。
「シドウ」
十香の表情が少し明るくなる。
士道は苦笑しながら隣へ座った。
「何話してたんだ?」
「人間は何故働くのか」
「重いな」
「重いのか?」
「高校生にはな」
士道が笑う。
その言葉に、十香は少し考え込んだ。
そして、ぽつりと呟いた。
「皆、何かをしている」
「うん」
「学校へ行く者もいる」
「そうだな」
「働く者もいる」
「うん」
「ならば」
十香は窓の外を見る。
夕焼けの街に行き交う人々。
それから。
小さな声で言った。
「私は何をすればいい?」
店内が少し静かになる。
十香は自分の手を見る。
剣を握っていた手だ。戦うためだけに存在していたと思っていた手。
だが最近は違う。コーヒーカップを持ち猫を撫で、皿を運んだ。
そして
『ありがとう』
と言われた。
その時のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「私は戦うことしか知らない」
十香は言う。
「でも」
言葉を探す。
「皿を運ぶのは嫌ではなかった」
士道は黙って聞いていた。
「役に立てた気がした」
それが本音だった。
士道は少しだけ考え、それから笑った。
「別に急がなくていいんじゃないか?」
「急がなくていい?」
「うん」
十香は首を傾げ、その様子に士道は肩を竦めた。
「俺だって将来何するか完全には決まってないし」
「そうなのか」
「そうだよ」
「人間は曖昧だな」
「よく言われる」
「ツムギも曖昧だった」
「巻き込むな」
紬が即座に返したその言葉に、十香は少し笑う。
士道も笑いそのやり取りを見ていた常連客まで小さく笑った。
店内へ柔らかな空気が流れる。
⸻
焦らなくていい。
士道はそう言った。答えを今すぐ決めなくてもいいと。
十香はその考え方を知らなかった。
戦いには正解がある。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。
だが、人間の世界は違うらしい。
わからないまま進んでもいい。迷ってもいい。
それは不思議だった。
けれど嫌な考えではなかった。
その時だった。
窓際のクロがふいに顔を上げる。
「?」
十香が視線を向けるとクロは外を見ていた。
じっと、動かずに。
まるで何かを探るように。
「クロ?」
呼んでも反応はない。
紬もそちらを見る。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
店の向かいのビルの屋上、夕闇へ溶け込むように。白い仮面が見えた。
人影。
だが次の瞬間には消えている。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
「……」
紬の目が僅かに細くなる。だが何も言わない。
十香も士道も気付いていなかった。
気付いたのは。
クロと紬だけだった。
店内では十香がまだ考えていた。
「シドウ」
「ん?」
「私はまだ決められない」
「それでいいよ」
士道は即答した。
「でも」
十香は続ける。
「もっと知りたい」
その言葉に士道は優しく笑った。
「ああ」
迷いはなかった。
「だったら探せばいい」
十香は目を瞬かせる。
探す。知らないことを知り見たことのないものを見る。
やったことのないことをやる。
それが。
今の自分のやりたいことなのかもしれない。
「……うむ」
十香は小さく頷く。
「探してみる」
コーヒーの香りが漂いジャズが流れ、猫たちは眠っている。窓の外では街の灯りが増えていた。
世界はまだ広く知らないものばかりだ。
けれどーーー十香はもう、その世界を恐れるだけではなかった。
いつか、自分のやりたいことを見つけるために。
少女は少しずつ前へ進み始めていた。
答えはまだない
だけど、探したいと思えた
それだけで
昨日より少しだけ前へ進めた気がした