喫茶店と猫好きな少女   作:喜助

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世界を知るほど
わからないことが増えていく

だけど

わからないままでも
少しだけ前へ進める気がした




第十五話 やりたいこと

 

 

夕方になると、天宮市の街は穏やかな茜色に染まっていた。

帰宅する学生たちに買い物帰りの主婦。信号待ちをする会社員。

人間たちは忙しそうに歩いている。

 

十香はそんな光景を眺めながら歩いていた。

 

以前なら理解できなかった。

なぜ皆、同じように毎日動いているのか。

なぜ疲れた顔をしながらも歩き続けるのか。

だが最近は少しだけ違う。

わからないなりに、知りたいと思うようになっていた。

 

「……」

 

ふと立ち止まる。

ガラス越しに見える花屋では店主が花へ水をやっている。

誰に言われたわけでもない。当たり前のように。

丁寧に。

 

十香は少しだけ見つめ、そして再び歩き出す。

向かう先は決まっている。

 

喫茶店“バロン”。

 

今では自然と足が向く場所だった。

 

 

カラン――。

 

ベルが鳴る。

 

「来たぞ」

 

「見りゃわかる」

 

いつもの返事、紬はコーヒーを淹れながら顔も上げない。

 

「今日は迷わなかった」

 

「本当か?」

 

「二回しか間違えていない」

 

「減っただけで迷ってるな」

 

「む……」

 

十香が少し不満そうに頬を膨らませる。

すると、窓際で寝ていたクロが立ち上がった。

 

「にゃ」

 

「クロ!」

 

十香の表情が明るくなる。

クロは当然のように足元へ寄り、身体を擦り寄せた。

その感触に十香は少しだけ笑う。

落ち着く。理由はわからない。

だが、ここへ来ると胸の奥のざわつきが静かになる。

 

コーヒーの香りにジャズの音、木の温もり。

猫たちの気配。

 

この店には、戦いとは無縁の時間が流れていた。

 

 

カウンター席へ腰を下ろす。店内には数人の客がいた。

本を読む老人に勉強中らしい学生、パソコンへ向かう会社員。

十香はその姿を眺める。

 

誰も剣を持っていないし誰も戦っていない。

なのに皆、何かをしている。

何かへ向かっている。

 

そのことが少し気になった。

 

「ツムギ」

 

「何だ」

 

「人間は何故働く」

 

紬の手が止まる。

 

「また難しいこと聞くな」

 

「気になる」

 

紬は少し考えた後、答えた。

 

「生きるためだな」

 

「それは知っている」

 

十香は頷く。

以前にも聞いた答えだ。

 

だが。

 

「それだけではないだろう」

 

紬は少しだけ目を細めた。

 

そして静かに言う。

 

「好きだから続けてる奴もいる」

 

「好きだから?」

 

「ああ」

 

コーヒーをカップへ注ぎ、香りが広がる。

 

「仕事でも趣味でも同じだ」

 

「……」

 

「好きな場所を守りたい奴もいる」

 

十香は紬を見るが、紬はそれ以上何も言わない。

だが、その言葉の意味は何となくわかった。

 

この店のことなのだろう。

 

 

その時。

 

カラン――。

 

再びベルが鳴る。

 

「お、いたいた」

 

聞き慣れた声、士道だった。

 

「シドウ」

 

十香の表情が少し明るくなる。

士道は苦笑しながら隣へ座った。

 

「何話してたんだ?」

 

「人間は何故働くのか」

 

「重いな」

 

「重いのか?」

 

「高校生にはな」

 

士道が笑う。

その言葉に、十香は少し考え込んだ。

 

そして、ぽつりと呟いた。

 

「皆、何かをしている」

 

「うん」

 

「学校へ行く者もいる」

 

「そうだな」

 

「働く者もいる」

 

「うん」

 

「ならば」

 

十香は窓の外を見る。

夕焼けの街に行き交う人々。

それから。

 

小さな声で言った。

 

「私は何をすればいい?」

 

店内が少し静かになる。

 

十香は自分の手を見る。

剣を握っていた手だ。戦うためだけに存在していたと思っていた手。

だが最近は違う。コーヒーカップを持ち猫を撫で、皿を運んだ。

そして

 

『ありがとう』

 

と言われた。

その時のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

「私は戦うことしか知らない」

 

十香は言う。

 

「でも」

 

言葉を探す。

 

「皿を運ぶのは嫌ではなかった」

 

士道は黙って聞いていた。

 

「役に立てた気がした」

 

それが本音だった。

 

士道は少しだけ考え、それから笑った。

 

「別に急がなくていいんじゃないか?」

 

「急がなくていい?」

 

「うん」

 

十香は首を傾げ、その様子に士道は肩を竦めた。

 

「俺だって将来何するか完全には決まってないし」

 

「そうなのか」

 

「そうだよ」

 

「人間は曖昧だな」

 

「よく言われる」

 

「ツムギも曖昧だった」

 

「巻き込むな」

 

紬が即座に返したその言葉に、十香は少し笑う。

士道も笑いそのやり取りを見ていた常連客まで小さく笑った。

 

店内へ柔らかな空気が流れる。

 

 

焦らなくていい。

士道はそう言った。答えを今すぐ決めなくてもいいと。

 

十香はその考え方を知らなかった。

戦いには正解がある。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。

だが、人間の世界は違うらしい。

わからないまま進んでもいい。迷ってもいい。

それは不思議だった。

 

けれど嫌な考えではなかった。

 

その時だった。

窓際のクロがふいに顔を上げる。

 

「?」

 

十香が視線を向けるとクロは外を見ていた。

 

じっと、動かずに。

まるで何かを探るように。

 

「クロ?」

 

呼んでも反応はない。

紬もそちらを見る。

 

一瞬だけ。

 

本当に一瞬だけだった。

店の向かいのビルの屋上、夕闇へ溶け込むように。白い仮面が見えた。

 

人影。

 

だが次の瞬間には消えている。

まるで最初から誰もいなかったかのように。

 

「……」

 

紬の目が僅かに細くなる。だが何も言わない。

十香も士道も気付いていなかった。

 

気付いたのは。

 

クロと紬だけだった。

 

 

 

 

 

店内では十香がまだ考えていた。

 

「シドウ」

 

「ん?」

 

「私はまだ決められない」

 

「それでいいよ」

 

士道は即答した。

 

「でも」

 

十香は続ける。

 

「もっと知りたい」

 

その言葉に士道は優しく笑った。

 

「ああ」

 

迷いはなかった。

 

「だったら探せばいい」

 

十香は目を瞬かせる。

探す。知らないことを知り見たことのないものを見る。

やったことのないことをやる。

 

それが。

今の自分のやりたいことなのかもしれない。

 

「……うむ」

 

十香は小さく頷く。

 

「探してみる」

 

コーヒーの香りが漂いジャズが流れ、猫たちは眠っている。窓の外では街の灯りが増えていた。

 

世界はまだ広く知らないものばかりだ。

けれどーーー十香はもう、その世界を恐れるだけではなかった。

 

いつか、自分のやりたいことを見つけるために。

 

少女は少しずつ前へ進み始めていた。

 

 






答えはまだない

だけど、探したいと思えた

それだけで
昨日より少しだけ前へ進めた気がした

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