喫茶店と猫好きな少女 作:喜助
名前を呼ばれるたび
少しだけ
独りではなくなっていく
喫茶店“バロン”に、静かな夜が流れていた。
カウンター席では、少女が両手でカップを持ったまま、じっとコーヒーを見つめている。
「……苦い」
不満げに呟きながらも、カップを置こうとはしない。
その様子に、狂三が肩を震わせた。
「ふふっ……無理をなさらなくてもよろしいんですのよ?」
「む……」
少女は少しだけ眉を寄せる。
「だが、お前たちは普通に飲んでいる」
「大人だからな」
紬がカウンターの奥で食器を洗いながら言った。
「子供舌にはまだ早い」
「私は子供ではない!」
即座に返ってきた言葉に、紬は思わず吹き出す。
「はいはい」
「適当に流したな!?」
「流してねぇよ」
だがその顔は完全に笑っていた。
少女はむっと頬を膨らませ、再びコーヒーへ口をつける。
「……っ」
やはり苦い
けれど、不思議と嫌ではなかった。
温かかったからだ。胸の奥へ、じんわりと熱が広がっていく。
その感覚が妙に落ち着いた。
「……変な飲み物だ」
ぽつり、と少女が呟く。
「褒め言葉として受け取っとく」
紬が肩を竦め、狂三は静かにそのやり取りを眺めていた。
穏やかだった。まるで、本当に普通の喫茶店みたいに。
ほんの数時間前まで、怪物と戦っていたとは思えないほどに。
「……」
狂三はそっと視線を落とす。
胸の奥が少しだけざわついていた。
羨ましい、のかもしれない。
少女が今感じている“居場所”を、自分は知らない。誰かと食卓を囲み、笑われ、受け入れられる時間。
最悪の精霊と呼ばれる自分には、本来存在しないはずのものだった。
「狂三?」
紬の声に、狂三は顔を上げる。
「どうした?」
「……いえ」
狂三は微笑んだ。
「少し、羨ましいと思っただけですわ」
「羨ましい?」
少女が首を傾げる。
狂三は頷いた。
「貴女、今とても楽しそうですもの」
少女は数秒きょとんとしていたが、やがて視線を逸らした。
「……そう、なのか?」
「ええ」
狂三は柔らかく笑う。
「少なくとも、最初に入ってきた時よりずっと」
少女は黙り込む。
最初この店へ入る前、自分は帰るつもりだった。どうせここも同じだと思っていたのだ。
恐れられ、拒絶され、居場所などないのだと。
なのに。
「……変だ」
少女はぽつりと呟く。
「何が?」
紬が尋ねる。
少女は少しだけ迷ってから、静かに言った。
「お前たちは、私を怖がらない」
店内が少しだけ静かになり、ジャズの音だけが流れていた。
紬は食器を置き、少女を見る。
「怖がってほしいのか?」
「……わからない」
少女は小さく首を振る。
「だが、皆そうだった」
視線が揺れる。
「私を見ると、皆逃げる」
その声は、ひどく静かだった。
怒りでも悲しみでもない。諦めに近い響き。
紬は数秒だけ黙り込み――。
「そりゃまあ、空飛んで剣振り回してたら普通はビビる」
「おい!?」
少女が即座に睨む。
狂三が吹き出した。
「ふふっ……」
「笑うな!」
「だって」
狂三は肩を震わせる。
「紬さんの言う通りですもの」
「お前まで!?」
少女が本気で不満そうな顔をする。
その様子が可笑しくて、紬も笑った。
「ははっ」
少女は納得いかない顔をしていたが、やがて小さく息を吐く。
……嫌ではなかった。こうして騒がしいのは。
「……そういえば」
狂三がふと思い出したように口を開く。
「お名前、まだありませんでしたわね」
少女の動きが止まる。
名前
昼間も聞かれた言葉だった。
「……必要ない」
小さく答える。
「何故ですの?」
「怪物に名前はいらない」
その瞬間、空気が少しだけ冷えた。
狂三の笑みが薄くなり、紬は静かに少女を見つめていた。
その言葉は、どこか自分にも刺さるものがあった。怪物に名前はいらない。
かつての自分も、どこかでそう思っていた気がする。
「……馬鹿だな」
紬がぽつりと言った。
少女が顔を上げる。
「名前ってのは、自分のためだけにあるもんじゃねぇよ」
「……?」
「呼ぶためだ」
紬はコーヒーカップを拭きながら続ける。
「誰かが、お前を呼ぶためにある」
少女は呆然と紬を見る。
そんな考え方を、したことがなかった。
名前とは、自分を示す記号ではないのか。
「じゃあ……」
少女が小さく呟く。
「お前は、私を呼ぶのか?」
紬は少しだけ目を丸くし――やがて苦笑した。
「必要ならな」
その答えに、少女の胸が少しだけ熱くなる。
理解できない感覚だった。
「でしたら」
狂三が楽しそうに身を乗り出す。
「付けて差し上げればよろしいのでは?」
「は?」
「名前ですわ」
少女が目を瞬かせる。
狂三は微笑みながら言った。
「せっかくですもの」
「いや待て」
紬が突っ込む。
「名前ってそんな軽く決めるもんじゃ――」
「紬さん」
狂三がにっこり笑う。
「貴方、ネーミングセンスなさそうですわね」
「なんで喧嘩売られてんの俺」
「なんとなくですわ」
「理不尽すぎる……」
少女はそんな二人を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
笑っている。自分を前にして、普通に。
それが不思議だった。
その時だった。
ふと脳裏へ、知らない響きが過る。
「――と、か……」
小さな呟きに、紬と狂三が同時に少女を見る。
「ん?」
少女は自分でも驚いたように目を瞬かせた。
「……今、何故か」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
懐かしいような大切だったような、そんな不思議な感覚。
「“とか”……って、聞こえた気がした」
「とか?」
狂三が首を傾げ、少女は小さく首を振った。
「……わからない」
本当にわからない。
なのに、その響きだけが妙に残った。
「……十香」
小さな声に、紬と狂三が同時に少女を見る。
「ん?」
少女は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……なんとなく、浮かんだ」
「十香……」
狂三がその名を繰り返す。
少女――十香は、小さく頷いた。
「変、か?」
「いや」
紬は静かに笑った。
「いい名前じゃねぇか」
その瞬間、十香の胸の奥で何かが灯った。
初めてだった。
自分で選んだ名前を、誰かに肯定されたのは。
「……十香」
自分で呟く。
その響きが、少しだけ好きだと思った。
「ふふ」
狂三が柔らかく笑う。
「よろしくお願いいたしますわ、十香さん」
「……ああ」
十香は小さく頷いた。
その時だった。
ガタン。
突然、店の窓が小さく揺れた。
紬の目が細まり、空気が変わった。
粘つくような悪意。
「……っ」
クロが低く唸る。
狂三の笑みが消え、十香も立ち上がった。
「ツムギ」
「ああ」
紬は短く答える。
店の外、街灯の上に“それ”はいた。
白い仮面に細長い四肢、赤黒い眼。
昼間見た虚とは違う
小さい。
だが――
「……見てる」
十香が低く呟く。
虚は、じっとこちらを見つめていた。
特に ーーー 十香と、狂三を。
まるで獲物を値踏みするみたいに。
「チッ……」
紬が舌打ちする。
嫌な予感が当たり始めていた。
虚は精霊へ反応している。
しかも、ただ襲うだけじゃない。観察し学習している。
「紬さん」
狂三が静かに尋ねる。
「アレは……」
「虚だ」
紬は低く答える。
「人を喰う化け物」
その瞬間、虚の口がゆっくり裂けた。
笑ったように見えた。
ゾワリ、と嫌悪感が走る。
だが次の瞬間
ズズッ――
虚の姿が闇へ溶けるように消えた。
十香が眉を寄せる。
「……何だったんだ、今のは」
「……わからねぇ」
紬は窓の外を睨んだまま答える。
だが、一つだけ確かなことがある。
確実に近づいてきている。
何かが。
「……面倒なことになりそうですわね」
狂三が静かに呟く。
その声に、紬は小さく息を吐いた。
「違ぇねぇ」
けれど、振り返った先。
カウンターには、まだ温かなコーヒーがあった。
猫たちがいて十香がいて、狂三がいる
それだけで。
「……護らねぇとな」
紬は誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
羨ましいと思った時には
もう
その場所へ帰りたくなっていた