英雄回収局   作:自給自足

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1話

午前二時四十七分。

閉鎖区画《西第四居住ブロック》は、雨に沈んでいた。

高層マンションの骨組みだけが闇に突き刺さっている。窓ガラスはほとんど割れ落ち、黒い空洞が等間隔に並んでいた。崩れた高架には蔦が絡み、信号機は赤のまま壊れている。何年も前に止まった街だ。

それでも、風は吹く。

濡れたコンクリートの匂いと、腐った水の臭気を巻き込みながら、細い路地を抜けていった。

人がいなくなった街ほど、妙に音が残る。

遠くで何かが軋む。

排水管から水が落ちる。

どこかで金属板が風に叩かれている。

そして、ときどき。

人の声みたいなものが聞こえる。

もちろん、人はいない。

「……最悪だ」

ナギは濡れた髪をかき上げ、空を見た。

防水ジャケットはもう半分ほど意味を失っている。肩から雨水が染み込み、首筋を冷たく伝った。靴の中も気持ち悪い。踏むたびに水が鳴る。

こんな夜に働く理由は単純だった。

金だ。

もっと正確に言えば、他にまともな仕事がない。

閉鎖区の残響回収。

死者の記憶が瘴気と混ざり、人の形を真似る怪異を処理する仕事。

危険で、嫌われていて、給料だけが少し高い。

普通の人間はやらない。

だから、ナギみたいな人間がやる。

スマホが震えた。

【案件情報更新】

対象:未登録残響

危険度:C

位置:西第四居住ブロック・十三番通り

備考:幼体反応あり

「幼体……?」

舌打ちが漏れた。

嫌な単語だった。

残響に年齢なんて関係ない。老人型もいれば赤子型もいる。

ただ。

子供型だけは、後味が悪い。

ナギは狭い路地へ入った。

崩れた外壁。積み上がった瓦礫。割れた自販機の中には、十年以上前の飲料缶が腐って沈んでいる。

ライトを向ける。

足跡があった。

裸足。

小さい。

しかも新しい。

雨の中なのに、消えていない。

喉の奥がわずかに硬くなる。

嫌な予感は、当たる時ほど静かだ。

「……おい」

声を落とす。

「いたら返事しろ。危険区域だ」

当然、返事はない。

代わりに。

かすかな音がした。

カラン。

金属が転がる音。

奥だった。

ナギは腰のホルスターに触れる。

支給武装《封錠杭》。

残響の瘴核を固定し、暴走を抑えるための処理器具だ。銃ほど派手ではないが、閉鎖区ではこっちの方が生存率が高い。

呼吸を整える。

一歩。

もう一歩。

暗い建物の中へ入った。

元はスーパーだったらしい。

天井は半分崩れている。雨が吹き込み、床には黒い水たまりが広がっていた。倒れた棚の隙間から雑草が伸び、壁には避難時の落書きが残っている。

『たすけて』

『ここにいる』

色褪せた文字。

見ないようにした。

見たところで、何も変わらない。

変えられなかったものなんて、嫌というほど見てきた。

また音がした。

今度は近い。

棚の向こう。

ナギがライトを向けた、その時だった。

少女がいた。

白かった。

服も、肌も、髪も。

床に座り込んでいる。年齢は十五、六くらいだろうか。髪は長く、ところどころ泥で汚れていた。

そして。

裸足だった。

右足首に黒い痣のようなものがある。

異様なのは、そこじゃない。

少女の周囲だけ、空気が冷えていた。

息が白い。

雨音まで遠い。

嫌な沈黙だった。

ナギの背中に、じわりと汗が滲む。

普通じゃない。

だが。

化け物にも見えなかった。

少女はナギを見た。

赤い目だった。

濁っている。

焦点が、合っていない。

「……死ぬ?」

不意に、少女が言った。

声は驚くほど静かだった。

ただ、その静けさが妙に怖い。

「誰が」

「みんな」

少女は空中を見つめていた。

「火が、落ちるから」

その瞬間。

ナギの背筋が冷えた。

視界の端。

床が黒く染まる。

水ではない。

瘴気だ。

音もなく広がっている。

少女の足元から。

嫌な予感が、今度ははっきり形を持った。

ナギはゆっくり距離を取る。

「……お前、名前は?」

反応はない。

「ここに何日いる?」

返事もない。

少女の視線は、ずっと別の場所を見ていた。

どこか遠く。

もう戻れない場所を。

「燃えてる」

少女が呟いた。

次の瞬間。

棚が吹き飛んだ。

轟音。

鉄がひしゃげる音が店内に響く。

ナギは反射で飛び退いた。

頬を何かが掠める。

遅れて熱い痛み。

指で触る。

血だった。

「――っ」

床が割れる。

空気が軋む。

少女の周囲だけ、世界が歪んで見えた。

赤い目。

でも、ナギを見ていない。

どこか別の戦場を見ている。

「逃げて」

少女が呟く。

「燃える。みんな」

危険度C?

冗談じゃない。

ナギは奥歯を噛んだ。

研究部の誤判定か。

それとも、未登録だから把握できていないのか。

どちらでも最悪だった。

スマホがまた震える。

【研究管理部】

『現地状況はどうですか?』

送信者名。

鷺沢。

ナギの顔が露骨に歪む。

嫌いな相手だった。

嫌いというより、信用していない。

あの部署は、残響を「保護対象」ではなく「資源」として扱う。

連れていけば終わりだ。

解体されるか、利用されるか、そのどちらか。

脳裏をよぎる。

雨の夜。

閉まる扉。

小さな手。

助けて、と泣く声。

そして。

後日届いた、死亡確認通知。

薄い紙一枚だった。

胃の奥が鈍く痛む。

「……最悪だ」

もう一度、同じ言葉が漏れた。

少女はまだ震えている。

違う。

震えているのは空気だ。

崩れた天井の鉄骨が軋み始めていた。

 

鉄骨が、嫌な音を立てた。

湿った天井の奥で金属が軋み、崩落寸前の建物全体がわずかに揺れる。積もった雨水が梁を伝い、ぽたり、ぽたりと床へ落ちた。

ナギは呼吸を殺した。

視線は少女から外さない。

外した瞬間に死ぬ。

そういう種類の危険だと、本能が理解していた。

少女は動かない。

ただ、虚ろな赤い目で、何もない空間を見つめている。

「火が……落ちてくる」

熱にうなされる病人みたいな声だった。

「逃げて。早く。みんな……燃える」

言葉と同時に、空気が歪む。

目に見えるほどではない。だが、確かに異常だった。床に散ったガラス片が小刻みに震え、倒れた棚の影がゆらぐ。耳の奥に、低い耳鳴りが張り付く。

瘴気濃度が上がっている。

危険域。

ナギは奥歯を噛んだ。

未登録残響。

危険度C。

笑わせる。

こんなものがCで済むなら、今頃この街はもっと死人が少ない。

スマホがまた震えた。

【研究管理部:鷺沢】

『応答願います』

『対象状態を報告してください』

『危険であれば回収班を向かわせます』

その文章を見た瞬間、胃の奥が重く沈んだ。

回収。

便利な言葉だ。

聞こえはいい。

だが実際は違う。

閉鎖病棟。

拘束。

投薬。

解体。

残響研究。

人型残響なら、なおさらだ。

過去に一度だけ見たことがある。

搬送車の中。

泣き叫ぶ少年型残響。

白衣の人間たち。

そして、数週間後。

>処理完了。

報告書には、その一文しかなかった。

ナギはスマホを伏せた。

「……ちっ」

舌打ちが漏れる。

面倒だ。

本当に。

危険だし、金にもならない。

普通なら、報告して終わりだった。

仕事は仕事。

情を挟まない。

それがこの街で生き延びるコツだ。

なのに。

少女の顔を見るたび、嫌な記憶が浮かぶ。

雨だった。

冷たい夜。

古い団地。

閉まる防護扉。

向こう側で、小さな手が叩いていた。

『待って!』

『やだ!』

『おいてかないで!』

あの時。

ナギは、止まれなかった。

止まらなかった。

結果がどうなったかは知っている。

紙一枚。

死亡確認。

名前だけが印刷された、軽い通知書。

胃の奥がきりりと痛んだ。

「……くそ」

呟いたところで、少女がふらりと立ち上がる。

裸足。

足首は細い。

だが、床へ落ちる影だけが妙に黒かった。

ナギは反射的に身構える。

「止まれ」

少女は聞こえていない。

歩く。

まっすぐ。

崩れたレジの向こうへ。

そして。

炎もないのに、突然しゃがみ込んだ。

「……燃えてる」

指先が震えている。

違う。

震えているのは床だった。

黒い瘴気が波打つ。

スーパーの壁に亀裂が走る。

ぱき、ぱき、と嫌な音。

ナギは舌打ちしながら駆け寄った。

「おい!」

肩を掴もうとした瞬間。

空気が裂けた。

轟音。

背後の棚が真っ二つに割れ、数メートル後ろへ吹き飛ぶ。鉄パイプがコンクリートに突き刺さり、粉塵が一気に舞った。

遅れて、風圧。

肺が押される。

ナギは咄嗟に少女を庇う形で床へ転がった。

鼓動がうるさい。

心臓が嫌な速さで鳴っている。

死にかけた。

今のは、本当に。

「っ、は……」

息を整える。

粉塵の向こう。

壁に、深い裂け目。

外の雨が見えていた。

危険度C?

ふざけるな。

A級だ。

下手をすればS寄り。

その時だった。

少女が、ナギの袖を掴んだ。

細い指。

冷たい。

驚くほど冷たい。

「……死ぬ?」

また、それだった。

ただ今度は。

赤い目が、ほんの少しだけナギを映していた。

助けを求めているようにも見えた。

いや。

違う。

怯えている。

自分自身に。

ナギは深く息を吐いた。

最悪だ。

本当に。

でも。

この顔を知っている。

帰れない人間の顔だ。

どこにも行けなくなった顔。

放っておけば、たぶん壊れる。

研究部へ渡せば、別の意味で終わる。

嫌な二択だった。

ナギは崩れた天井を見上げる。

長居はできない。

ここも、もう危ない。

スマホが震える。

【研究管理部】

『位置情報確認済み』

『対象保護のため現地へ向かいます』

『十分以内に到着予定』

血の気が引いた。

十分。

早すぎる。

最初から監視していたのか。

外。

遠くで、車のエンジン音がした。

ナギは舌打ちする。

思考が速くなる。

逃げるか。

置いていくか。

渡すか。

そして。

少女の指が、離れない。

「……こわい」

初めてだった。

感情らしい言葉。

ナギは目を閉じた。

数秒だけ。

それから、小さく息を吐く。

「……立てますか」

少女がゆっくり顔を上げる。

「今から、ここ出ます」

 

雨脚が強くなっていた。

閉鎖区を抜ける頃には、ナギの服は完全に濡れきっていた。ジャケットは重く、裾からぽたぽた水が落ちる。肩へ預けた少女の体温は異様に低く、冷えた金属を抱えているみたいだった。

軽い。

驚くほど。

まともに食べていないのか、それとも人間ではないからなのか。

どちらにしても、嫌な想像しか浮かばない。

「歩けますか」

返事はない。

少女はぼんやりした顔で、ナギの背中越しに雨を見ていた。焦点の定まらない赤い目。その視線が急に空を向くたび、ナギの肩に緊張が走る。

また暴走したら終わる。

住宅街まで巻き込めば、被害は閉鎖区では済まない。

スマホが震えた。

【研究管理部】

『対象位置を見失いました』

『速やかな連絡を要請します』

『保護対象は極めて危険です』

保護。

ナギは鼻で笑う。

あの部署が使う言葉ほど信用できないものはない。

危険だから隔離。

価値があるから管理。

そして、使えるなら利用。

閉鎖区で生きる人間なら、誰でも知っている。

研究部に渡ったものは、戻ってこない。

ナギは通知を消した。

その時。

交差点の向こう。

黒いセダンが停まっているのが見えた。

ライトは消えている。

エンジンも静かだ。

ただ。

嫌なほど、こちらを見ている気がした。

ナギは足を止める。

少女の身体を支えながら、視線だけを向けた。

運転席。

人影。

こちらを見ている。

動かない。

数秒。

やがて、車はゆっくり走り出し、暗い道へ消えた。

胃の奥が重くなる。

「……もう追ってきてるのか」

独り言だった。

返事の代わりに。

少女が小さく身を縮めた。

「寒い?」

首を横に振る。

「……燃えてる」

またそれだった。

ナギは息を吐く。

症状が続いている。

しかも悪化している気がした。

アパートへ着いた頃には、空がわずかに白み始めていた。

古い五階建て。

外壁はところどころ剥がれ、共用灯の半分は切れている。安い家賃なりの建物だ。だが、閉鎖区から徒歩で戻れる場所としては悪くない。

階段を上る。

三階。

廊下の蛍光灯がちかちか瞬いた。

誰も起きていない時間なのに、なぜか足音を立てるのが嫌だった。

部屋へ入る。

ワンルーム。

狭い。

キッチン。古いソファ。積み上がった書類。壁際には閉鎖区用の装備ケース。

生活感はある。

だが、人を招く部屋じゃない。

「……座ってください」

少女は部屋の真ん中で止まった。

きょろ、と辺りを見る。

初めて見るものばかりなのかもしれない。

いや。

覚えていないだけか。

ナギはタオルを投げる。

「髪、拭いて」

反応がない。

少女はタオルを見ている。

数秒。

ようやく受け取った。

使い方が分からないらしい。

ナギは眉を寄せた。

「……まじか」

仕方なく、しゃがむ。

タオルを取って、髪を軽く拭いた。

冷たい。

濡れた髪の隙間から、細い耳が覗く。

その時だった。

少女の肩がびくりと跳ねた。

視線が、キッチンへ向く。

コンロの上。

ナギが湯を沸かそうと点けていた火。

「……やだ」

声が変わった。

初めてだった。

恐怖が混じっている。

「燃えてる」

少女の呼吸が乱れる。

赤い目が見開かれた。

「人が……」

空気が軋む。

部屋の窓がびり、と震えた。

電灯が明滅する。

ナギの背筋が冷える。

「違う」

即座に火を止めた。

ガスを切る。

「ここは違う」

少女の肩を掴む。

「見ろ」

赤い目が揺れる。

「燃えてない」

少し間が空いた。

少女の呼吸が、ほんのわずかに落ち着く。

だが。

壁に細い亀裂が走っていた。

危ない。

かなり。

ナギはキッチンを見る。

料理は無理だ。

結局、棚から保存食を出した。

クラッカー。

パウチのシチュー。

冷たいままでも食べられるやつ。

「これ、食えます?」

少女はじっと見る。

警戒している。

それから、ゆっくり受け取った。

一口。

止まる。

また一口。

噛む速度が、少しだけ速くなる。

腹が減っていたらしい。

ナギはその様子を見ながら、ソファへ沈んだ。

疲れた。

本当に。

頭も身体も限界だった。

なのに。

スマホが震える。

【研究管理部:鷺沢】

『ご自宅へ伺いましたが不在でした』

血の気が引いた。

続く通知。

『管理義務違反の可能性があります』

『明朝8:00に再訪問予定』

『誠実な対応をお願いします』

ぞっとした。

自宅を知っている。

来ていた。

しかも。

“今は見逃してやる”と言われている気がする。

ナギはカーテンの隙間を見る。

外。

向かいの道路。

黒い車が停まっていた。

今度は、はっきり見えた。

エンジンはかかったまま。

ライトは点いていない。

動かない。

見ている。

間違いなく。

「……気持ち悪いな」

少女が、小さくナギの服を掴んだ。

視線を落とす。

赤い目。

さっきより焦点がある。

「……どこ」

「ここ?」

頷く。

言葉を探している顔だった。

「……帰る場所?」

ナギは言葉に詰まる。

自分の部屋を、そんな風に考えたことがなかった。

寝るだけ。

金を稼いで、生き延びるだけ。

そんな場所だ。

でも。

帰れない顔をした誰かに聞かれると、答えが変わる。

「……今日は、ここです」

少女は何も言わない。

ただ。

ナギの服を掴んだまま、少しだけ力を緩めた。

外では、黒い車がまだ停まっていた。

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