英雄回収局 作:自給自足
朝は、静かに冷えていた。
封鎖区域の外れにある廃ビルは、夜の雨をまだ内部へ閉じ込めたままだった。湿ったコンクリートの匂いと、古い木材の腐りかけた臭いが薄暗い室内へ沈んでいる。
割れた窓から風が吹き込み、床へ散らばった紙切れをゆっくり揺らした。
遠くで警報音が鳴っている。
低く、長い音だった。
街全体が眠れなくなっているみたいに、その音はずっと止まらなかった。
ナギは壁へ背を預けたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
身体が重い。
肺の奥が焼けるように熱いのに、指先だけが妙に冷えている。右腕を這う黒線は鎖骨を越え、首筋近くまで侵食を広げていた。
脈打つたび、皮膚の下で何かが蠢く。
気持ち悪い。
視界も時々遅れた。
半拍遅れて、部屋の輪郭が追いついてくる。
耳鳴りが止まらない。
――キィン。
細い金属音が頭の奥を削り続け、その奥に別の音が混ざり始めていた。
雨。
誰かの泣き声。
『聖女様』
ナギは額を押さえる。
その瞬間。
胸の奥へ、突然感情が流れ込んできた。
寒い。
寂しい。
でも。
助けたい。
ナギの呼吸が止まりかける。
違う。
これは、自分の感情じゃない。
視界の端が揺れる。
赤い瞳。
白い髪。
フィア。
彼女の感情が、直接頭の中へ流れ込んできていた。
「……っ」
ナギは壁へ手をつく。
胸が苦しい。
息が浅くなる。
孤独。
疲労。
それなのに。
その奥に、微かに温かい感情が混ざっていた。
フィアは少し離れた壁際へ座り込んでいた。
膝を抱え、小さく身体を丸めている。白い髪が肩へ落ち、黒変した右腕は静かに脈打っていた。
首筋近くまで侵食した黒い線が、白い肌との境界を曖昧にしている。
それでも。
今のフィアは、どこにでもいる小さな少女みたいに見えた。
彼女はぼんやり窓の外を見ていた。
その横顔が、妙に遠い。
「……フィア」
ナギが呼ぶ。
フィアはゆっくり顔を上げた。
少し遅れて。
「……ナギ」
名前を呼ぶ声が、微かに揺れる。
一瞬、思い出そうとするみたいな“間”があった。
その空白が、胸へ小さく刺さる。
フィアは視線を落とした。
「……おぼえてる」
掠れた声だった。
「……いっぱい、ひとがいた」
その瞬間。
感情が、濁流みたいに流れ込んできた。
石造りの広場。
冷たい雨。
濡れた石畳。
膝をつく人々。
白い服を着た少女。
まだ幼い。
それなのに、周囲の視線は全部その子へ集まっていた。
『聖女様』
『お願いします』
『助けてください』
『うちの子を』
祈り。
期待。
縋るような感情。
その全部が、一人の少女へ押し寄せている。
ナギは息を呑んだ。
胸が苦しい。
これは記憶じゃない。
感情だ。
押し潰されそうなほどの“願い”。
フィアは静かに続ける。
「……みんな、ないてた」
声は穏やかだった。
「……だから、たすけたかった」
また感情が流れ込む。
熱。
疲労。
痛み。
それでも。
人へ手を伸ばす感覚。
泥だらけの小さな子供を抱き上げる。
軽い。
熱があった。
震えていた。
その子が泣きながら笑う。
『あったかい』
その声が、胸の奥へ広がる。
嬉しい。
その感情が、ナギへ直接流れ込んできた。
ナギは目を見開く。
フィアは。
救われたかったわけじゃない。
救いたかった。
その感情が、痛いほど真っ直ぐ伝わってくる。
フィアは小さく呟いた。
「……たすけるの、すきだった」
窓の外で風が鳴る。
遠くの警報音が、低く響いていた。
感情はまだ流れ続ける。
泣いていた人が笑う。
抱きしめられる。
感謝される。
『ありがとうございます』
『聖女様』
少女は笑う。
少し疲れていた。
でも。
嬉しかった。
だから。
また立ち上がる。
また誰かを助ける。
また呼ばれる。
ナギは頭を押さえた。
胸の奥が軋む。
苦しい。
でも。
それ以上に、痛かった。
誰も、この子を止めなかった。
救えるから。
救ってくれるから。
優しいから。
だから。
ずっと、“聖女”でいさせた。
フィアは膝を抱える力を少し強める。
赤い瞳が揺れた。
「……でも」
小さな声だった。
「……ちょっと、つかれてた」
その言葉だけで。
ナギの胸が、ゆっくり冷えていった。
雨が、また降り始めていた。
割れた窓の向こうで、細い雨粒が灰色の空から静かに落ちている。崩れかけたビル群は濡れた輪郭を滲ませ、遠くで赤色灯だけがぼんやり揺れていた。
封鎖区域の警報音は、まだ止まらない。
低く、長い音だった。
まるで街そのものが、ゆっくり眠れなくなっているみたいだった。
ナギは床へ片膝をついたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
身体が重い。
右腕の黒線は首筋を越え、頬近くまで侵食を広げている。脈打つたび、皮膚の下で黒い熱が蠢く感覚がした。
視界の端が滲む。
耳鳴りも酷い。
――キィン。
その奥で、誰かの声が響く。
『聖女様』
ナギは額を押さえた。
するとまた、感情が流れ込んでくる。
疲れた。
眠い。
寒い。
でも。
まだ行かなきゃ。
ナギの呼吸が止まりかける。
その感情は、あまりにも自然だった。
誰かに命令されている感覚じゃない。
自分から立ち上がろうとしている。
それが、余計に苦しかった。
フィアは壁際へ座り込んだまま、膝を抱えていた。
白い髪が肩へ落ちている。
黒変した右腕は静かに脈打ち、その侵食は頬の近くまで広がっていた。
赤い瞳はぼんやり宙を見ている。
焦点が少し曖昧だった。
ナギは掠れた声で呼ぶ。
「……フィア」
フィアはゆっくり顔を上げた。
少し遅れて。
「……ナギ」
その“間”だけで、胸が痛む。
フィアは小さく眉を寄せた。
「……わたし」
声が止まる。
困ったみたいに目を伏せる。
「……なんか、へん」
小さな声だった。
「……いっぱい、ねたかった」
その瞬間。
感情が流れ込んでくる。
暗い部屋。
濡れた服。
冷たい床。
小さな少女が壁へ背を預けて座り込んでいる。
息が浅い。
指先が震えている。
本当は、もう立てない。
でも。
扉の向こうから声が聞こえる。
『聖女様』
少女は顔を上げる。
疲れていた。
眠かった。
身体も痛かった。
それでも。
立ち上がる。
ナギの胸が軋む。
苦しい。
感情が直接流れ込んでくる。
足が重い。
頭が痛い。
それでも。
“行かなきゃ”。
少女は扉を開ける。
その向こうには、大勢の人がいた。
怪我人。
泣いている子供。
崩れた街。
血の匂い。
雨の匂い。
『まだ大丈夫ですよね?』
『お願いします』
『聖女様なら』
期待が向けられる。
少女は笑う。
少し無理やりみたいな笑顔だった。
でも。
嫌じゃなかった。
誰かを救えることが、嬉しかった。
ナギは息を呑む。
胸の奥が、重く沈んでいく。
フィアは。
壊れるまで使われたわけじゃない。
自分から、そこへ立ち続けた。
救いたかった。
救えることが、嬉しかった。
だから。
止まれなかった。
フィアは膝を抱える力を強めた。
「……でも」
掠れた声。
「……だんだん、わらえなくなった」
また感情が流れ込んでくる。
眠れない夜。
震える手。
血の混じった咳。
それでも。
『聖女様』
呼ばれる。
少女は立ち上がる。
誰も止めない。
『休んでください』
その言葉が、一度もない。
あるのは。
『まだ助けられますよね?』
『この子だけでも』
『お願いします』
祈り。
期待。
依存。
それが少女の身体へ、少しずつ積み重なっていく。
ナギは頭を押さえた。
「……っ」
呼吸が乱れる。
胃が捩れる。
苦しい。
そして。
怖かった。
誰も悪くない。
助けてほしかっただけだ。
救ってほしかっただけだ。
でも。
その“正しさ”が。
少女を、壊していく。
フィアは小さく呟く。
「……わたし」
赤い瞳が揺れる。
「……まだ、いかなきゃって、おもってた」
その声が、ひどく弱い。
ナギはゆっくり顔を上げる。
フィアは震えていた。
小さな肩を抱くみたいに、膝を強く抱えている。
怖い。
苦しい。
それでも。
まだ誰かを助けなきゃと思っている。
その感情が、流れ込んでくる。
ナギはそこで、ようやく理解する。
自分は、置いてしまった。
閉まる扉の向こうへ。
伸ばされた手を。
でも。
フィアは違う。
この子は。
誰にも、置いてもらえなかった。
壊れるまで。
“聖女”のまま立たされ続けた。
雨が窓を叩く。
警報音が低く響いている。
フィアは俯いたまま、小さく呟いた。
「……ちょっとだけ」
声が震える。
「……だれかに、とめてほしかった」
夜が近づいていた。
灰色だった空はゆっくり暗く沈み、割れた窓の向こうでは雨が細く降り続いている。濡れた街並みの向こうで、赤色灯だけがぼんやりと滲んでいた。
封鎖区域の警報音は、まだ止まらない。
低く、長い音だった。
世界が、少しずつ壊れていく音みたいだった。
ナギは壁へ背を預けたまま、乱れた呼吸を整えようとしていた。
身体が重い。
右腕を侵食する黒線は頬近くまで広がり、脈打つたび皮膚の下で熱が蠢く。視界の端は黒く滲み、耳鳴りの奥では無数の声が反響していた。
『助けて』
『聖女様』
『返して』
『化け物』
感情が流れ込んでくる。
苦しい。
胸が焼けるみたいに痛い。
でも。
今、一番苦しいのは、自分じゃなかった。
ナギはゆっくり顔を上げる。
フィアは窓際へ座り込んだまま、小さく膝を抱えていた。
白い髪が肩へ落ちている。
黒変した右腕は静かに脈打ち、その侵食はもう頬近くまで達していた。
赤い瞳が、ぼんやり宙を見ている。
焦点が少し曖昧だった。
壊れていく。
その感覚だけが、静かに胸へ沈んでいく。
「……フィア」
ナギが呼ぶ。
フィアはゆっくり顔を上げた。
少し遅れて。
「……ナギ」
その“間”だけで、息が止まりそうになる。
フィアは小さく眉を寄せた。
「……わたし」
声が止まる。
視線が揺れる。
何かを探すみたいに。
「……いっぱい、なくなる」
掠れた声だった。
ナギの胸が軋む。
フィアは胸元を押さえる。
「……だいじだったのに」
小さな声。
「……うまく、おもいだせない」
雨音が響く。
風が吹き込む。
遠くで赤色灯が滲んでいた。
フィアは俯いたまま、静かに呟く。
「……ナギのことも」
その瞬間。
ナギの呼吸が止まる。
フィアは震える指を握り締めた。
「……わすれるかもしれない」
部屋が静かになる。
警報音だけが遠く響いていた。
ナギは何も言えなかった。
言葉が出ない。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
間に合わない。
その予感だけが、静かに沈んでいく。
フィアは小さく笑おうとした。
でも、上手く笑えなかった。
「……ごめんなさい」
その声が、ひどく弱い。
ナギは奥歯を噛む。
頭の奥で、感情がまた漏れ出す。
黒い炎。
崩れる街。
泣き叫ぶ声。
『聖女様』
違う。
今度は。
『化け物』
『返して』
『なんで救えなかった』
期待が裏返る。
祈りが憎悪へ変わる。
その絶望が、直接胸へ流れ込んできた。
「……っ」
息が詰まる。
肺が痛い。
フィアは耳を塞ぐみたいに頭を抱えた。
小さな肩が震えている。
「……やだ」
掠れた声。
「……もう、こわくしたくない」
ナギはゆっくり立ち上がる。
膝が震える。
視界も滲む。
それでも。
フィアの前へ歩いた。
フィアは怯えていた。
今までで、一番。
赤い瞳が、不安定に揺れている。
「……フィア」
呼ぶ。
フィアは顔を上げた。
その目が、一瞬だけ空白になる。
「……あなた」
ナギの呼吸が止まる。
フィアは苦しそうに眉を寄せる。
違う。
思い出そうとしている。
必死に。
「……ナ」
震える唇。
「……ナギ」
やっと名前を呼ぶ。
その数秒だけで、胸が冷たくなる。
間に合わない。
その現実だけが、静かに積み重なっていく。
ナギはフィアの前へ膝をついた。
そして。
震える手を伸ばす。
フィアの手を掴んだ。
冷たい。
壊れそうなくらい細い指だった。
フィアは小さく肩を震わせる。
「……なんで」
掠れた声。
「……そこまで、するの」
ナギは少し黙る。
雨音だけが響いていた。
上手く言葉にできない。
ただ。
胸の奥に残り続けている感情だけは、はっきりしていた。
閉まる扉。
伸ばされた手。
届かなかった声。
置いてしまった後悔。
腐るみたいに、ずっと残っていた痛み。
ナギはゆっくり息を吐く。
「……俺は」
掠れた声だった。
「……置いてしまったから」
胸の奥が軋む。
苦しい。
でも。
今だけは、目を逸らしたくなかった。
ナギはフィアを見る。
赤い瞳が、静かに揺れている。
「……でも、お前は違う」
フィアが小さく瞬きをする。
ナギは震える声で続けた。
「お前、誰にも止めてもらえなかったんだな」
その瞬間。
フィアの呼吸が止まったみたいに見えた。
赤い瞳が大きく揺れる。
まるで。
初めて気づいたみたいに。
フィアは唇を震わせる。
何かを言おうとして。
でも、声にならない。
ナギはフィアの手を握り直した。
冷たい。
それでも、確かな温度だった。
「……だから」
掠れた声。
「今度は、俺が止める」
風が吹き込む。
遠くで警報音が鳴り続けていた。
フィアはナギを見つめる。
赤い瞳が揺れる。
怖い。
苦しい。
壊れそう。
その感情が流れ込んでくる。
でも、その奥に。
小さく。
泣きそうなくらい弱い安堵が混ざっていた。
フィアは唇を震わせる。
「……ナギ」
呼ぶ。
今度は、少しだけ早かった。
ナギは息を呑む。
胸の奥が痛い。
苦しい。
間に合わないかもしれない。
その予感は、まだ消えない。
それでも。
今だけは。
その名前が、まだ残っていた。