英雄回収局   作:自給自足

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10話

朝は、静かに冷えていた。

封鎖区域の外れにある廃ビルは、夜の雨をまだ内部へ閉じ込めたままだった。湿ったコンクリートの匂いと、古い木材の腐りかけた臭いが薄暗い室内へ沈んでいる。

割れた窓から風が吹き込み、床へ散らばった紙切れをゆっくり揺らした。

遠くで警報音が鳴っている。

低く、長い音だった。

街全体が眠れなくなっているみたいに、その音はずっと止まらなかった。

ナギは壁へ背を預けたまま、浅い呼吸を繰り返していた。

身体が重い。

肺の奥が焼けるように熱いのに、指先だけが妙に冷えている。右腕を這う黒線は鎖骨を越え、首筋近くまで侵食を広げていた。

脈打つたび、皮膚の下で何かが蠢く。

気持ち悪い。

視界も時々遅れた。

半拍遅れて、部屋の輪郭が追いついてくる。

耳鳴りが止まらない。

――キィン。

細い金属音が頭の奥を削り続け、その奥に別の音が混ざり始めていた。

雨。

誰かの泣き声。

『聖女様』

ナギは額を押さえる。

その瞬間。

胸の奥へ、突然感情が流れ込んできた。

寒い。

寂しい。

でも。

助けたい。

ナギの呼吸が止まりかける。

違う。

これは、自分の感情じゃない。

視界の端が揺れる。

赤い瞳。

白い髪。

フィア。

彼女の感情が、直接頭の中へ流れ込んできていた。

「……っ」

ナギは壁へ手をつく。

胸が苦しい。

息が浅くなる。

孤独。

疲労。

それなのに。

その奥に、微かに温かい感情が混ざっていた。

フィアは少し離れた壁際へ座り込んでいた。

膝を抱え、小さく身体を丸めている。白い髪が肩へ落ち、黒変した右腕は静かに脈打っていた。

首筋近くまで侵食した黒い線が、白い肌との境界を曖昧にしている。

それでも。

今のフィアは、どこにでもいる小さな少女みたいに見えた。

彼女はぼんやり窓の外を見ていた。

その横顔が、妙に遠い。

「……フィア」

ナギが呼ぶ。

フィアはゆっくり顔を上げた。

少し遅れて。

「……ナギ」

名前を呼ぶ声が、微かに揺れる。

一瞬、思い出そうとするみたいな“間”があった。

その空白が、胸へ小さく刺さる。

フィアは視線を落とした。

「……おぼえてる」

掠れた声だった。

「……いっぱい、ひとがいた」

その瞬間。

感情が、濁流みたいに流れ込んできた。

石造りの広場。

冷たい雨。

濡れた石畳。

膝をつく人々。

白い服を着た少女。

まだ幼い。

それなのに、周囲の視線は全部その子へ集まっていた。

『聖女様』

『お願いします』

『助けてください』

『うちの子を』

祈り。

期待。

縋るような感情。

その全部が、一人の少女へ押し寄せている。

ナギは息を呑んだ。

胸が苦しい。

これは記憶じゃない。

感情だ。

押し潰されそうなほどの“願い”。

フィアは静かに続ける。

「……みんな、ないてた」

声は穏やかだった。

「……だから、たすけたかった」

また感情が流れ込む。

熱。

疲労。

痛み。

それでも。

人へ手を伸ばす感覚。

泥だらけの小さな子供を抱き上げる。

軽い。

熱があった。

震えていた。

その子が泣きながら笑う。

『あったかい』

その声が、胸の奥へ広がる。

嬉しい。

その感情が、ナギへ直接流れ込んできた。

ナギは目を見開く。

フィアは。

救われたかったわけじゃない。

救いたかった。

その感情が、痛いほど真っ直ぐ伝わってくる。

フィアは小さく呟いた。

「……たすけるの、すきだった」

窓の外で風が鳴る。

遠くの警報音が、低く響いていた。

感情はまだ流れ続ける。

泣いていた人が笑う。

抱きしめられる。

感謝される。

『ありがとうございます』

『聖女様』

少女は笑う。

少し疲れていた。

でも。

嬉しかった。

だから。

また立ち上がる。

また誰かを助ける。

また呼ばれる。

ナギは頭を押さえた。

胸の奥が軋む。

苦しい。

でも。

それ以上に、痛かった。

誰も、この子を止めなかった。

救えるから。

救ってくれるから。

優しいから。

だから。

ずっと、“聖女”でいさせた。

フィアは膝を抱える力を少し強める。

赤い瞳が揺れた。

「……でも」

小さな声だった。

「……ちょっと、つかれてた」

その言葉だけで。

ナギの胸が、ゆっくり冷えていった。

 

雨が、また降り始めていた。

割れた窓の向こうで、細い雨粒が灰色の空から静かに落ちている。崩れかけたビル群は濡れた輪郭を滲ませ、遠くで赤色灯だけがぼんやり揺れていた。

封鎖区域の警報音は、まだ止まらない。

低く、長い音だった。

まるで街そのものが、ゆっくり眠れなくなっているみたいだった。

ナギは床へ片膝をついたまま、浅い呼吸を繰り返していた。

身体が重い。

右腕の黒線は首筋を越え、頬近くまで侵食を広げている。脈打つたび、皮膚の下で黒い熱が蠢く感覚がした。

視界の端が滲む。

耳鳴りも酷い。

――キィン。

その奥で、誰かの声が響く。

『聖女様』

ナギは額を押さえた。

するとまた、感情が流れ込んでくる。

疲れた。

眠い。

寒い。

でも。

まだ行かなきゃ。

ナギの呼吸が止まりかける。

その感情は、あまりにも自然だった。

誰かに命令されている感覚じゃない。

自分から立ち上がろうとしている。

それが、余計に苦しかった。

フィアは壁際へ座り込んだまま、膝を抱えていた。

白い髪が肩へ落ちている。

黒変した右腕は静かに脈打ち、その侵食は頬の近くまで広がっていた。

赤い瞳はぼんやり宙を見ている。

焦点が少し曖昧だった。

ナギは掠れた声で呼ぶ。

「……フィア」

フィアはゆっくり顔を上げた。

少し遅れて。

「……ナギ」

その“間”だけで、胸が痛む。

フィアは小さく眉を寄せた。

「……わたし」

声が止まる。

困ったみたいに目を伏せる。

「……なんか、へん」

小さな声だった。

「……いっぱい、ねたかった」

その瞬間。

感情が流れ込んでくる。

暗い部屋。

濡れた服。

冷たい床。

小さな少女が壁へ背を預けて座り込んでいる。

息が浅い。

指先が震えている。

本当は、もう立てない。

でも。

扉の向こうから声が聞こえる。

『聖女様』

少女は顔を上げる。

疲れていた。

眠かった。

身体も痛かった。

それでも。

立ち上がる。

ナギの胸が軋む。

苦しい。

感情が直接流れ込んでくる。

足が重い。

頭が痛い。

それでも。

“行かなきゃ”。

少女は扉を開ける。

その向こうには、大勢の人がいた。

怪我人。

泣いている子供。

崩れた街。

血の匂い。

雨の匂い。

『まだ大丈夫ですよね?』

『お願いします』

『聖女様なら』

期待が向けられる。

少女は笑う。

少し無理やりみたいな笑顔だった。

でも。

嫌じゃなかった。

誰かを救えることが、嬉しかった。

ナギは息を呑む。

胸の奥が、重く沈んでいく。

フィアは。

壊れるまで使われたわけじゃない。

自分から、そこへ立ち続けた。

救いたかった。

救えることが、嬉しかった。

だから。

止まれなかった。

フィアは膝を抱える力を強めた。

「……でも」

掠れた声。

「……だんだん、わらえなくなった」

また感情が流れ込んでくる。

眠れない夜。

震える手。

血の混じった咳。

それでも。

『聖女様』

呼ばれる。

少女は立ち上がる。

誰も止めない。

『休んでください』

その言葉が、一度もない。

あるのは。

『まだ助けられますよね?』

『この子だけでも』

『お願いします』

祈り。

期待。

依存。

それが少女の身体へ、少しずつ積み重なっていく。

ナギは頭を押さえた。

「……っ」

呼吸が乱れる。

胃が捩れる。

苦しい。

そして。

怖かった。

誰も悪くない。

助けてほしかっただけだ。

救ってほしかっただけだ。

でも。

その“正しさ”が。

少女を、壊していく。

フィアは小さく呟く。

「……わたし」

赤い瞳が揺れる。

「……まだ、いかなきゃって、おもってた」

その声が、ひどく弱い。

ナギはゆっくり顔を上げる。

フィアは震えていた。

小さな肩を抱くみたいに、膝を強く抱えている。

怖い。

苦しい。

それでも。

まだ誰かを助けなきゃと思っている。

その感情が、流れ込んでくる。

ナギはそこで、ようやく理解する。

自分は、置いてしまった。

閉まる扉の向こうへ。

伸ばされた手を。

でも。

フィアは違う。

この子は。

誰にも、置いてもらえなかった。

壊れるまで。

“聖女”のまま立たされ続けた。

雨が窓を叩く。

警報音が低く響いている。

フィアは俯いたまま、小さく呟いた。

「……ちょっとだけ」

声が震える。

「……だれかに、とめてほしかった」

 

夜が近づいていた。

灰色だった空はゆっくり暗く沈み、割れた窓の向こうでは雨が細く降り続いている。濡れた街並みの向こうで、赤色灯だけがぼんやりと滲んでいた。

封鎖区域の警報音は、まだ止まらない。

低く、長い音だった。

世界が、少しずつ壊れていく音みたいだった。

ナギは壁へ背を預けたまま、乱れた呼吸を整えようとしていた。

身体が重い。

右腕を侵食する黒線は頬近くまで広がり、脈打つたび皮膚の下で熱が蠢く。視界の端は黒く滲み、耳鳴りの奥では無数の声が反響していた。

『助けて』

『聖女様』

『返して』

『化け物』

感情が流れ込んでくる。

苦しい。

胸が焼けるみたいに痛い。

でも。

今、一番苦しいのは、自分じゃなかった。

ナギはゆっくり顔を上げる。

フィアは窓際へ座り込んだまま、小さく膝を抱えていた。

白い髪が肩へ落ちている。

黒変した右腕は静かに脈打ち、その侵食はもう頬近くまで達していた。

赤い瞳が、ぼんやり宙を見ている。

焦点が少し曖昧だった。

壊れていく。

その感覚だけが、静かに胸へ沈んでいく。

「……フィア」

ナギが呼ぶ。

フィアはゆっくり顔を上げた。

少し遅れて。

「……ナギ」

その“間”だけで、息が止まりそうになる。

フィアは小さく眉を寄せた。

「……わたし」

声が止まる。

視線が揺れる。

何かを探すみたいに。

「……いっぱい、なくなる」

掠れた声だった。

ナギの胸が軋む。

フィアは胸元を押さえる。

「……だいじだったのに」

小さな声。

「……うまく、おもいだせない」

雨音が響く。

風が吹き込む。

遠くで赤色灯が滲んでいた。

フィアは俯いたまま、静かに呟く。

「……ナギのことも」

その瞬間。

ナギの呼吸が止まる。

フィアは震える指を握り締めた。

「……わすれるかもしれない」

部屋が静かになる。

警報音だけが遠く響いていた。

ナギは何も言えなかった。

言葉が出ない。

胸の奥が、ゆっくり冷えていく。

間に合わない。

その予感だけが、静かに沈んでいく。

フィアは小さく笑おうとした。

でも、上手く笑えなかった。

「……ごめんなさい」

その声が、ひどく弱い。

ナギは奥歯を噛む。

頭の奥で、感情がまた漏れ出す。

黒い炎。

崩れる街。

泣き叫ぶ声。

『聖女様』

違う。

今度は。

『化け物』

『返して』

『なんで救えなかった』

期待が裏返る。

祈りが憎悪へ変わる。

その絶望が、直接胸へ流れ込んできた。

「……っ」

息が詰まる。

肺が痛い。

フィアは耳を塞ぐみたいに頭を抱えた。

小さな肩が震えている。

「……やだ」

掠れた声。

「……もう、こわくしたくない」

ナギはゆっくり立ち上がる。

膝が震える。

視界も滲む。

それでも。

フィアの前へ歩いた。

フィアは怯えていた。

今までで、一番。

赤い瞳が、不安定に揺れている。

「……フィア」

呼ぶ。

フィアは顔を上げた。

その目が、一瞬だけ空白になる。

「……あなた」

ナギの呼吸が止まる。

フィアは苦しそうに眉を寄せる。

違う。

思い出そうとしている。

必死に。

「……ナ」

震える唇。

「……ナギ」

やっと名前を呼ぶ。

その数秒だけで、胸が冷たくなる。

間に合わない。

その現実だけが、静かに積み重なっていく。

ナギはフィアの前へ膝をついた。

そして。

震える手を伸ばす。

フィアの手を掴んだ。

冷たい。

壊れそうなくらい細い指だった。

フィアは小さく肩を震わせる。

「……なんで」

掠れた声。

「……そこまで、するの」

ナギは少し黙る。

雨音だけが響いていた。

上手く言葉にできない。

ただ。

胸の奥に残り続けている感情だけは、はっきりしていた。

閉まる扉。

伸ばされた手。

届かなかった声。

置いてしまった後悔。

腐るみたいに、ずっと残っていた痛み。

ナギはゆっくり息を吐く。

「……俺は」

掠れた声だった。

「……置いてしまったから」

胸の奥が軋む。

苦しい。

でも。

今だけは、目を逸らしたくなかった。

ナギはフィアを見る。

赤い瞳が、静かに揺れている。

「……でも、お前は違う」

フィアが小さく瞬きをする。

ナギは震える声で続けた。

「お前、誰にも止めてもらえなかったんだな」

その瞬間。

フィアの呼吸が止まったみたいに見えた。

赤い瞳が大きく揺れる。

まるで。

初めて気づいたみたいに。

フィアは唇を震わせる。

何かを言おうとして。

でも、声にならない。

ナギはフィアの手を握り直した。

冷たい。

それでも、確かな温度だった。

「……だから」

掠れた声。

「今度は、俺が止める」

風が吹き込む。

遠くで警報音が鳴り続けていた。

フィアはナギを見つめる。

赤い瞳が揺れる。

怖い。

苦しい。

壊れそう。

その感情が流れ込んでくる。

でも、その奥に。

小さく。

泣きそうなくらい弱い安堵が混ざっていた。

フィアは唇を震わせる。

「……ナギ」

呼ぶ。

今度は、少しだけ早かった。

ナギは息を呑む。

胸の奥が痛い。

苦しい。

間に合わないかもしれない。

その予感は、まだ消えない。

それでも。

今だけは。

その名前が、まだ残っていた。

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