英雄回収局   作:自給自足

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11話

夜の街は、赤く濡れていた。

封鎖区域を囲む規制灯が、雨上がりのアスファルトを鈍く染めている。遠くでは避難車両のサイレンが鳴り続け、断続的に流れる警報アナウンスが、湿った夜気を震わせていた。

『現在、黒霧濃度が上昇中——』

『住民の方は速やかに避難を——』

途中でノイズが混じる。

雑音の奥に、誰かの泣き声みたいな音が一瞬だけ重なって消えた。

ナギは半壊した雑居ビルの入口横へ背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。

身体が重い。

肺の奥が焼けるように熱いのに、皮膚だけが妙に冷えている。右腕から伸びた黒線は鎖骨を越え、首筋近くまで侵食していた。

脈打つたび、視界の端がわずかに滲む。

耳鳴りも止まらない。

——キィン。

細い金属音が頭蓋の奥を削り、その向こう側で別の感情が微かに混ざる。

怖い。

寒い。

消えたくない。

ナギは額を押さえた。

どこまでが自分の感覚なのか、もう曖昧だった。

少し遅れて、背後で小さな足音が止まる。

振り返る。

フィアがいた。

数歩後ろ。

割れた街灯の光が、白い髪をぼんやり照らしている。

黒変した右腕は静かに脈打ち、その侵食は頬近くまで広がっていた。赤い瞳だけが暗闇の中で不安定に揺れている。

フィアは何も言わない。

ただ、道路の向こうを見ていた。

避難誘導されている親子がいる。

まだ小さい女の子が、泣きながら母親の腕へしがみついていた。

「やだ……まだ帰りたい……」

「大丈夫。もうすぐ安全だから」

母親はそう言いながら、急ぐように封鎖線の外へ向かっていく。

その途中。

女の子がフィアを見る。

赤い瞳と目が合った。

ほんの数秒。

それだけで、子供の顔が強張った。

母親は反射的に息を呑み、フィアから庇うように娘を抱き寄せる。

何も言わない。

責めもしない。

でも。

それだけで十分だった。

ナギの胸の奥が、ゆっくり冷えていく。

自分たちは、もう普通の側へ戻れない。

フィアは少し俯いた。

濡れた白髪が頬へ張り付く。

「……こわがらせた」

掠れた声だった。

「……わたし」

ナギは返事ができない。

否定できなかった。

封鎖。

避難。

監視。

街はもう、二人を“災害”として扱い始めている。

ナギのスマホが震えた。

誰かが投稿した動画通知。

黒霧。

封鎖線。

泣いている人々。

短いコメントが流れていく。

『また広がってる』

『研究部なにしてんの』

『あれ本当に人間?』

『怖すぎる』

ナギは画面を伏せた。

息が苦しい。

胸の奥へ、また感情が流れ込んでくる。

怖い。

消えたくない。

忘れたくない。

フィアだ。

ナギはゆっくり目を閉じる。

その時。

遠くで無線音が響いた。

『反応確認』

『封鎖区域西側、対象追跡中』

『上層部より収容命令』

赤色灯が少しずつ近づいてくる。

研究部だ。

フィアが小さく肩を震わせた。

ナギは顔を上げる。

遠くの交差点。

規制車両のライトが雨粒を白く照らしていた。

時間がない。

本当に。

もう。

フィアはゆっくりナギを見る。

赤い瞳が、不安そうに揺れていた。

「……ナ」

声が止まる。

困ったみたいに眉を寄せる。

ナギの呼吸が止まりかけた。

フィアは小さく息を呑む。

探すみたいに。

確かめるみたいに。

そして。

ほんの少し遅れて。

「……ナギ」

名前を呼ぶ。

その数秒だけで十分だった。

ナギは、本気で理解する。

間に合わない。

フィアは、少しずつ壊れている。

記憶が。

感情が。

存在そのものが、ゆっくり崩れ始めていた。

遠くでサイレンが鳴る。

雨風が、壊れたビルの隙間を吹き抜けた。

ナギはゆっくりフィアへ近づく。

数歩。

それだけなのに、妙に長く感じた。

フィアは逃げない。

でも。

少しだけ後ろへ下がりそうになる。

ナギはその前で止まった。

「……行くぞ」

掠れた声だった。

フィアは黙って頷く。

二人は半壊した雑居ビルの中へ入っていく。

暗い廊下。

死んだ非常灯。

湿ったコンクリートの匂い。

外の赤色灯だけが、割れた窓から細く差し込んでいた。

その後ろで。

研究部のサイレンが、少しずつ近づいてくる。

 

廃ビルの中は、静まり返っていた。

崩れた天井から雨水が落ちる音だけが、暗い廊下へ断続的に響いている。割れた窓から吹き込む夜風は冷たく、湿ったコンクリートの匂いと薄い黒霧をゆっくり流していた。

非常灯が、弱く明滅する。

緑色の光が揺れるたび、長い廊下の景色が少しずつ歪んで見えた。

ナギは壁へ手をつき、浅い呼吸を繰り返していた。

身体が重い。

侵食した黒線は首筋近くまで広がり、脈打つたび皮膚の奥を熱が走る。耳鳴りも消えない。

でも。

今は、それ以上に。

数歩先にいるフィアの方が怖かった。

フィアは窓際に立っていた。

白い髪が夜風に揺れている。

黒変した右腕を、左手で押さえるみたいに抱いていた。赤い瞳は外の街を見ている。

封鎖線。

赤色灯。

避難車両。

黒霧。

少しずつ壊れていく夜。

「……いっぱい、いる」

掠れた声だった。

ナギは顔を上げる。

フィアは窓ガラスへ指先を触れる。

「……みんな、こわい」

その瞬間。

胸の奥へ感情が流れ込んできた。

不安。

恐怖。

泣き声。

混乱。

街中へ広がった感情が、黒霧を通してフィアへ流れ込み続けている。

ナギは息を呑む。

頭が痛い。

フィアは少し俯いた。

「……わたし、いると」

そこで言葉が止まる。

苦しそうに、小さく息を吸う。

「……もっと、こわくなる」

遠くでガラスが割れる音がした。

フィアは窓際から少し離れる。

でも。

ナギの方を見ない。

「……だから」

声が震えていた。

「……いないほうが、いい」

ナギの呼吸が止まりかける。

その言葉だけで。

胸の奥がゆっくり冷えていった。

フィアは無理に笑おうとした。

でも上手く笑えない。

口元が少し歪んで、それだけだった。

「……だいじょうぶ」

小さな声。

「……ナギ、やさしいから」

その優しさが、痛かった。

フィアは本気で離れようとしている。

ナギを守るために。

その時。

下の階から無線音が響いた。

『対象反応確認』

『三階へ移動中』

『封鎖班、包囲維持』

金属音。

足音。

研究部封鎖部隊だった。

フィアが小さく肩を震わせる。

ナギは目を閉じた。

苦しい。

正しいのは、きっと鷺沢たちだ。

このままなら街が壊れる。

人が死ぬ。

フィアも、自分も壊れる。

全部、分かっていた。

でも。

フィアが少し後ろへ下がる。

距離を取ろうとするみたいに。

その瞬間。

ナギは反射的に前へ出ていた。

フィアの前へ立つ。

「……ナギ」

赤い瞳が揺れる。

怖がっている。

消えそうになっている。

それでも。

まだ、自分のことを心配している。

ナギは少し黙った。

言葉を探す。

でも。

最後に残ったのは、もっと単純な感情だった。

「……助けるとか」

掠れた声。

「もう、分からない」

雨音が響く。

下の階から足音が近づいてくる。

ナギはフィアを見る。

白い髪。

震える肩。

壊れかけた赤い瞳。

その全部が、胸を締めつけた。

「でも」

喉が熱い。

声が少し震える。

「置いていくのだけは、嫌だ」

沈黙。

フィアの瞳が大きく揺れた。

その瞬間。

感情が流れ込んでくる。

驚き。

悲しみ。

怖さ。

そして。

泣きそうなくらい弱い安堵。

フィアは唇を震わせた。

「……なんで」

掠れた声。

ナギは少しだけ笑う。

上手く笑えていなかった。

「……分からない」

本当に分からなかった。

正しいのか。

間違っているのか。

もう判断できない。

それでも。

この手だけは離したくなかった。

その時。

階段側の暗がりで、足音が止まる。

ナギは振り返る。

非常灯の薄暗い光の下。

階段入口に、鷺沢が立っていた。

黒いコートが雨で濡れている。

後方では、封鎖部隊の無線がまだ飛び交っていた。

でも。

鷺沢自身は一歩も近づいてこない。

ただ静かに、二人を見ている。

疲れ切った目だった。

長い沈黙。

雨音だけが響く。

やがて。

鷺沢が静かに口を開いた。

「……もう終わりです」

怒りはない。

責める響きもない。

ただ、押し潰した疲労だけが残っていた。

「彼女は止まりません」

「あなたも壊れる」

「このままなら、街も壊れます」

ナギは黙って聞いていた。

鷺沢は少しだけ視線を落とす。

ほんの一瞬。

迷うみたいに。

それから、低い声で続けた。

「……俺も、救おうとした」

ナギの指が止まる。

「結果、147人死んだ」

短い沈黙。

「俺は、救えませんでした」

その声だけが妙に静かだった。

感情を押し潰したみたいに。

「だから分かるんです」

「英雄は、救えない」

フィアが小さく震える。

ナギは唇を噛んだ。

苦しかった。

鷺沢の言葉は全部正しい。

だから。

余計に痛かった。

長い沈黙。

やがて。

鷺沢は静かに目を伏せる。

「……愚かですね」

掠れた声だった。

その瞬間。

フィアの黒変が、小さく脈打つ。

——ドクン。

非常灯が一瞬だけ揺れる。

廊下へ薄く黒霧が滲み始めた。

下の階で、誰かが小さく悲鳴を上げる。

ナギは反射的にフィアの手を掴んだ。

冷たかった。

黒霧は、ゆっくり廊下を満たし始めている。

薄い靄みたいだったそれは、時間が経つごとに濃度を増し、非常灯の緑色を鈍く濁らせていく。割れた窓から吹き込む風が黒霧を揺らし、そのたび壁や床の影が不安定に歪んだ。

下の階では怒号が響いている。

『三階汚染濃度上昇——!』

『精神干渉確認!』

『封鎖線維持! 上階侵入禁止!』

無線音。

金属音。

誰かの悲鳴。

街そのものが、少しずつ壊れ始めていた。

ナギは床へ膝をついたまま、フィアの手を握っていた。

冷たい。

細い指だった。

でも、その震えだけははっきり伝わってくる。

フィアは俯いたまま、小さく息を繰り返していた。

黒変した右腕が脈打つたび、黒霧が微かに漏れ出す。頬近くまで侵食した黒い線は、白い肌との境界を少しずつ曖昧にしていた。

ナギは唇を噛む。

胸の奥が痛い。

侵食の熱。

耳鳴り。

感情流入。

全部まだ続いている。

それでも。

今は、自分の苦しさより。

フィアが消えていきそうなことの方が怖かった。

「……フィア」

掠れた声で呼ぶ。

フィアはゆっくり顔を上げた。

赤い瞳が揺れている。

焦点が少し合っていない。

「……こわい」

小さな声だった。

その瞬間。

感情が流れ込んでくる。

恐怖。

不安。

泣き声。

『助けて』

『聖女様』

『まだ救けて』

無数の祈り。

終わらない期待。

救えなかった絶望。

ナギは息を呑む。

胸が締めつけられる。

フィアは肩を震わせた。

「……また、こわくする」

遠くで何かが崩れる音がした。

下の階の怒号がさらに大きくなる。

感情災害は、もう封鎖区域の外側へ広がり始めている。

フィアは苦しそうに目を閉じた。

「……ナギまで」

声が震える。

「……こわれる」

その言葉だけで。

ナギの胸が大きく軋んだ。

フィアは、自分が消えることより。

ナギが壊れる方を怖がっている。

それが、苦しかった。

ナギは少し俯く。

怖かった。

鷺沢の言葉は正しい。

このままなら街が壊れる。

人が死ぬ。

全部、本当だった。

でも。

フィアの手だけは、離したくなかった。

長い沈黙。

雨音が響く。

非常灯が明滅する。

その時。

フィアがゆっくりナギを見る。

涙で滲んだ赤い瞳が、不安そうに揺れていた。

「……でも」

そこで言葉が止まる。

思い出そうとするみたいに、小さく息を呑む。

ナギは呼吸を止めた。

フィアは苦しそうに眉を寄せる。

怖かった。

名前を失うことが。

記憶が消えていくことが。

それでも。

フィアは唇を震わせる。

「……ナギだけは」

声が掠れる。

「……わすれたくない」

その瞬間。

ナギの胸が、激しく軋んだ。

涙が出そうになる。

でも。

まだ泣けなかった。

終わっていない。

まだ、この手を離していない。

ナギはフィアの身体を抱き寄せる。

細い身体だった。

壊れそうなくらい冷たい。

「……いる」

掠れた声だった。

「ちゃんと、いる」

フィアの呼吸が少しだけ揺れる。

階段入口では、鷺沢が何も言わず立ち尽くしていた。

黒いコートの裾が、風でわずかに揺れている。

説得はもうしない。

近づいてもこない。

ただ、二人を見ていた。

その沈黙だけが、この場の正しさみたいだった。

ナギはゆっくり顔を上げる。

怖い。

間違っているかもしれない。

街を壊すかもしれない。

全部失うかもしれない。

それでも。

フィアの手は、まだここにある。

ナギは強く握り返した。

「……離さない」

掠れた声だった。

その瞬間。

フィアの黒変が、限界みたいに大きく脈打つ。

——ドクン。

空気が震えた。

黒霧が一気に溢れ出し、三階フロアを飲み込んでいく。

非常灯が激しく点滅した。

下の階で悲鳴が上がる。

無線の怒号が重なる。

『黒霧濃度急上昇——!』

『封鎖区域拡大——!』

『研究部全班、緊急展開——!』

窓の外。

赤色灯が黒霧の向こうで滲んでいる。

フィアが苦しそうにナギの服を掴む。

「……ナギ」

少し遅れて。

それでも。

ちゃんと名前を呼ぶ。

ナギはその手を握り返した。

強く。

離さないように。

黒霧が、夜空を覆っていく。

そして。

街は静かに、怪物の夜へ沈み始めていた。

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