英雄回収局 作:自給自足
夜の街は、赤く濡れていた。
封鎖区域を囲む規制灯が、雨上がりのアスファルトを鈍く染めている。遠くでは避難車両のサイレンが鳴り続け、断続的に流れる警報アナウンスが、湿った夜気を震わせていた。
『現在、黒霧濃度が上昇中——』
『住民の方は速やかに避難を——』
途中でノイズが混じる。
雑音の奥に、誰かの泣き声みたいな音が一瞬だけ重なって消えた。
ナギは半壊した雑居ビルの入口横へ背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。
身体が重い。
肺の奥が焼けるように熱いのに、皮膚だけが妙に冷えている。右腕から伸びた黒線は鎖骨を越え、首筋近くまで侵食していた。
脈打つたび、視界の端がわずかに滲む。
耳鳴りも止まらない。
——キィン。
細い金属音が頭蓋の奥を削り、その向こう側で別の感情が微かに混ざる。
怖い。
寒い。
消えたくない。
ナギは額を押さえた。
どこまでが自分の感覚なのか、もう曖昧だった。
少し遅れて、背後で小さな足音が止まる。
振り返る。
フィアがいた。
数歩後ろ。
割れた街灯の光が、白い髪をぼんやり照らしている。
黒変した右腕は静かに脈打ち、その侵食は頬近くまで広がっていた。赤い瞳だけが暗闇の中で不安定に揺れている。
フィアは何も言わない。
ただ、道路の向こうを見ていた。
避難誘導されている親子がいる。
まだ小さい女の子が、泣きながら母親の腕へしがみついていた。
「やだ……まだ帰りたい……」
「大丈夫。もうすぐ安全だから」
母親はそう言いながら、急ぐように封鎖線の外へ向かっていく。
その途中。
女の子がフィアを見る。
赤い瞳と目が合った。
ほんの数秒。
それだけで、子供の顔が強張った。
母親は反射的に息を呑み、フィアから庇うように娘を抱き寄せる。
何も言わない。
責めもしない。
でも。
それだけで十分だった。
ナギの胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
自分たちは、もう普通の側へ戻れない。
フィアは少し俯いた。
濡れた白髪が頬へ張り付く。
「……こわがらせた」
掠れた声だった。
「……わたし」
ナギは返事ができない。
否定できなかった。
封鎖。
避難。
監視。
街はもう、二人を“災害”として扱い始めている。
ナギのスマホが震えた。
誰かが投稿した動画通知。
黒霧。
封鎖線。
泣いている人々。
短いコメントが流れていく。
『また広がってる』
『研究部なにしてんの』
『あれ本当に人間?』
『怖すぎる』
ナギは画面を伏せた。
息が苦しい。
胸の奥へ、また感情が流れ込んでくる。
怖い。
消えたくない。
忘れたくない。
フィアだ。
ナギはゆっくり目を閉じる。
その時。
遠くで無線音が響いた。
『反応確認』
『封鎖区域西側、対象追跡中』
『上層部より収容命令』
赤色灯が少しずつ近づいてくる。
研究部だ。
フィアが小さく肩を震わせた。
ナギは顔を上げる。
遠くの交差点。
規制車両のライトが雨粒を白く照らしていた。
時間がない。
本当に。
もう。
フィアはゆっくりナギを見る。
赤い瞳が、不安そうに揺れていた。
「……ナ」
声が止まる。
困ったみたいに眉を寄せる。
ナギの呼吸が止まりかけた。
フィアは小さく息を呑む。
探すみたいに。
確かめるみたいに。
そして。
ほんの少し遅れて。
「……ナギ」
名前を呼ぶ。
その数秒だけで十分だった。
ナギは、本気で理解する。
間に合わない。
フィアは、少しずつ壊れている。
記憶が。
感情が。
存在そのものが、ゆっくり崩れ始めていた。
遠くでサイレンが鳴る。
雨風が、壊れたビルの隙間を吹き抜けた。
ナギはゆっくりフィアへ近づく。
数歩。
それだけなのに、妙に長く感じた。
フィアは逃げない。
でも。
少しだけ後ろへ下がりそうになる。
ナギはその前で止まった。
「……行くぞ」
掠れた声だった。
フィアは黙って頷く。
二人は半壊した雑居ビルの中へ入っていく。
暗い廊下。
死んだ非常灯。
湿ったコンクリートの匂い。
外の赤色灯だけが、割れた窓から細く差し込んでいた。
その後ろで。
研究部のサイレンが、少しずつ近づいてくる。
廃ビルの中は、静まり返っていた。
崩れた天井から雨水が落ちる音だけが、暗い廊下へ断続的に響いている。割れた窓から吹き込む夜風は冷たく、湿ったコンクリートの匂いと薄い黒霧をゆっくり流していた。
非常灯が、弱く明滅する。
緑色の光が揺れるたび、長い廊下の景色が少しずつ歪んで見えた。
ナギは壁へ手をつき、浅い呼吸を繰り返していた。
身体が重い。
侵食した黒線は首筋近くまで広がり、脈打つたび皮膚の奥を熱が走る。耳鳴りも消えない。
でも。
今は、それ以上に。
数歩先にいるフィアの方が怖かった。
フィアは窓際に立っていた。
白い髪が夜風に揺れている。
黒変した右腕を、左手で押さえるみたいに抱いていた。赤い瞳は外の街を見ている。
封鎖線。
赤色灯。
避難車両。
黒霧。
少しずつ壊れていく夜。
「……いっぱい、いる」
掠れた声だった。
ナギは顔を上げる。
フィアは窓ガラスへ指先を触れる。
「……みんな、こわい」
その瞬間。
胸の奥へ感情が流れ込んできた。
不安。
恐怖。
泣き声。
混乱。
街中へ広がった感情が、黒霧を通してフィアへ流れ込み続けている。
ナギは息を呑む。
頭が痛い。
フィアは少し俯いた。
「……わたし、いると」
そこで言葉が止まる。
苦しそうに、小さく息を吸う。
「……もっと、こわくなる」
遠くでガラスが割れる音がした。
フィアは窓際から少し離れる。
でも。
ナギの方を見ない。
「……だから」
声が震えていた。
「……いないほうが、いい」
ナギの呼吸が止まりかける。
その言葉だけで。
胸の奥がゆっくり冷えていった。
フィアは無理に笑おうとした。
でも上手く笑えない。
口元が少し歪んで、それだけだった。
「……だいじょうぶ」
小さな声。
「……ナギ、やさしいから」
その優しさが、痛かった。
フィアは本気で離れようとしている。
ナギを守るために。
その時。
下の階から無線音が響いた。
『対象反応確認』
『三階へ移動中』
『封鎖班、包囲維持』
金属音。
足音。
研究部封鎖部隊だった。
フィアが小さく肩を震わせる。
ナギは目を閉じた。
苦しい。
正しいのは、きっと鷺沢たちだ。
このままなら街が壊れる。
人が死ぬ。
フィアも、自分も壊れる。
全部、分かっていた。
でも。
フィアが少し後ろへ下がる。
距離を取ろうとするみたいに。
その瞬間。
ナギは反射的に前へ出ていた。
フィアの前へ立つ。
「……ナギ」
赤い瞳が揺れる。
怖がっている。
消えそうになっている。
それでも。
まだ、自分のことを心配している。
ナギは少し黙った。
言葉を探す。
でも。
最後に残ったのは、もっと単純な感情だった。
「……助けるとか」
掠れた声。
「もう、分からない」
雨音が響く。
下の階から足音が近づいてくる。
ナギはフィアを見る。
白い髪。
震える肩。
壊れかけた赤い瞳。
その全部が、胸を締めつけた。
「でも」
喉が熱い。
声が少し震える。
「置いていくのだけは、嫌だ」
沈黙。
フィアの瞳が大きく揺れた。
その瞬間。
感情が流れ込んでくる。
驚き。
悲しみ。
怖さ。
そして。
泣きそうなくらい弱い安堵。
フィアは唇を震わせた。
「……なんで」
掠れた声。
ナギは少しだけ笑う。
上手く笑えていなかった。
「……分からない」
本当に分からなかった。
正しいのか。
間違っているのか。
もう判断できない。
それでも。
この手だけは離したくなかった。
その時。
階段側の暗がりで、足音が止まる。
ナギは振り返る。
非常灯の薄暗い光の下。
階段入口に、鷺沢が立っていた。
黒いコートが雨で濡れている。
後方では、封鎖部隊の無線がまだ飛び交っていた。
でも。
鷺沢自身は一歩も近づいてこない。
ただ静かに、二人を見ている。
疲れ切った目だった。
長い沈黙。
雨音だけが響く。
やがて。
鷺沢が静かに口を開いた。
「……もう終わりです」
怒りはない。
責める響きもない。
ただ、押し潰した疲労だけが残っていた。
「彼女は止まりません」
「あなたも壊れる」
「このままなら、街も壊れます」
ナギは黙って聞いていた。
鷺沢は少しだけ視線を落とす。
ほんの一瞬。
迷うみたいに。
それから、低い声で続けた。
「……俺も、救おうとした」
ナギの指が止まる。
「結果、147人死んだ」
短い沈黙。
「俺は、救えませんでした」
その声だけが妙に静かだった。
感情を押し潰したみたいに。
「だから分かるんです」
「英雄は、救えない」
フィアが小さく震える。
ナギは唇を噛んだ。
苦しかった。
鷺沢の言葉は全部正しい。
だから。
余計に痛かった。
長い沈黙。
やがて。
鷺沢は静かに目を伏せる。
「……愚かですね」
掠れた声だった。
その瞬間。
フィアの黒変が、小さく脈打つ。
——ドクン。
非常灯が一瞬だけ揺れる。
廊下へ薄く黒霧が滲み始めた。
下の階で、誰かが小さく悲鳴を上げる。
ナギは反射的にフィアの手を掴んだ。
冷たかった。
黒霧は、ゆっくり廊下を満たし始めている。
薄い靄みたいだったそれは、時間が経つごとに濃度を増し、非常灯の緑色を鈍く濁らせていく。割れた窓から吹き込む風が黒霧を揺らし、そのたび壁や床の影が不安定に歪んだ。
下の階では怒号が響いている。
『三階汚染濃度上昇——!』
『精神干渉確認!』
『封鎖線維持! 上階侵入禁止!』
無線音。
金属音。
誰かの悲鳴。
街そのものが、少しずつ壊れ始めていた。
ナギは床へ膝をついたまま、フィアの手を握っていた。
冷たい。
細い指だった。
でも、その震えだけははっきり伝わってくる。
フィアは俯いたまま、小さく息を繰り返していた。
黒変した右腕が脈打つたび、黒霧が微かに漏れ出す。頬近くまで侵食した黒い線は、白い肌との境界を少しずつ曖昧にしていた。
ナギは唇を噛む。
胸の奥が痛い。
侵食の熱。
耳鳴り。
感情流入。
全部まだ続いている。
それでも。
今は、自分の苦しさより。
フィアが消えていきそうなことの方が怖かった。
「……フィア」
掠れた声で呼ぶ。
フィアはゆっくり顔を上げた。
赤い瞳が揺れている。
焦点が少し合っていない。
「……こわい」
小さな声だった。
その瞬間。
感情が流れ込んでくる。
恐怖。
不安。
泣き声。
『助けて』
『聖女様』
『まだ救けて』
無数の祈り。
終わらない期待。
救えなかった絶望。
ナギは息を呑む。
胸が締めつけられる。
フィアは肩を震わせた。
「……また、こわくする」
遠くで何かが崩れる音がした。
下の階の怒号がさらに大きくなる。
感情災害は、もう封鎖区域の外側へ広がり始めている。
フィアは苦しそうに目を閉じた。
「……ナギまで」
声が震える。
「……こわれる」
その言葉だけで。
ナギの胸が大きく軋んだ。
フィアは、自分が消えることより。
ナギが壊れる方を怖がっている。
それが、苦しかった。
ナギは少し俯く。
怖かった。
鷺沢の言葉は正しい。
このままなら街が壊れる。
人が死ぬ。
全部、本当だった。
でも。
フィアの手だけは、離したくなかった。
長い沈黙。
雨音が響く。
非常灯が明滅する。
その時。
フィアがゆっくりナギを見る。
涙で滲んだ赤い瞳が、不安そうに揺れていた。
「……でも」
そこで言葉が止まる。
思い出そうとするみたいに、小さく息を呑む。
ナギは呼吸を止めた。
フィアは苦しそうに眉を寄せる。
怖かった。
名前を失うことが。
記憶が消えていくことが。
それでも。
フィアは唇を震わせる。
「……ナギだけは」
声が掠れる。
「……わすれたくない」
その瞬間。
ナギの胸が、激しく軋んだ。
涙が出そうになる。
でも。
まだ泣けなかった。
終わっていない。
まだ、この手を離していない。
ナギはフィアの身体を抱き寄せる。
細い身体だった。
壊れそうなくらい冷たい。
「……いる」
掠れた声だった。
「ちゃんと、いる」
フィアの呼吸が少しだけ揺れる。
階段入口では、鷺沢が何も言わず立ち尽くしていた。
黒いコートの裾が、風でわずかに揺れている。
説得はもうしない。
近づいてもこない。
ただ、二人を見ていた。
その沈黙だけが、この場の正しさみたいだった。
ナギはゆっくり顔を上げる。
怖い。
間違っているかもしれない。
街を壊すかもしれない。
全部失うかもしれない。
それでも。
フィアの手は、まだここにある。
ナギは強く握り返した。
「……離さない」
掠れた声だった。
その瞬間。
フィアの黒変が、限界みたいに大きく脈打つ。
——ドクン。
空気が震えた。
黒霧が一気に溢れ出し、三階フロアを飲み込んでいく。
非常灯が激しく点滅した。
下の階で悲鳴が上がる。
無線の怒号が重なる。
『黒霧濃度急上昇——!』
『封鎖区域拡大——!』
『研究部全班、緊急展開——!』
窓の外。
赤色灯が黒霧の向こうで滲んでいる。
フィアが苦しそうにナギの服を掴む。
「……ナギ」
少し遅れて。
それでも。
ちゃんと名前を呼ぶ。
ナギはその手を握り返した。
強く。
離さないように。
黒霧が、夜空を覆っていく。
そして。
街は静かに、怪物の夜へ沈み始めていた。