英雄回収局 作:自給自足
最初に止まったのは、信号だった。
窓の外で、赤と青の光が何度か不規則に点滅したあと、ふっと消える。少し遅れて、遠くからクラクションの連続音が響いた。どこかで車同士がぶつかったのか、鈍い衝突音が夜気を震わせる。
そのあと。
街のあちこちで、一斉に“普通”が壊れ始めた。
シャッターが閉まる音。
ガラスの割れる音。
避難放送の歪んだ声。
『——落ち着いて避難してください』
『黒霧濃度上昇——繰り返します——』
ノイズが混じる。
途中で音声が途切れる。
また別の無線が割り込む。
『封鎖線維持!』
『西区画崩壊——!』
『感情汚染レベル上昇!』
サイレンが鳴っていた。
でも、それも長くは続かなかった。
途中で途切れ、街全体が息を止めたみたいな静寂が数秒落ちる。その空白のあとに、今度は子供の泣き声が遠くから聞こえた。
雨が降っている。
黒い雨だった。
廃ビル三階。
非常灯はほとんど死んでいた。
薄暗い緑色の光が断続的に点滅し、そのたび床を漂う黒霧の輪郭だけがぼんやり浮かび上がる。湿った空気の中には、焦げた臭いと鉄みたいな匂いが混ざっていた。
ナギは床へ膝をついていた。
もう、立てない。
侵食した黒線は首筋を越え、頬の近くまで浮き上がっている。熱いのに寒かった。皮膚の下で何かが脈打つたび、神経が焼けるみたいに痛む。
耳鳴りも酷い。
高い金属音が頭の奥を削り続け、その隙間へ街中の感情が流れ込んできた。
恐怖。
混乱。
怒号。
泣き声。
黒霧を通して漏れてくる感情は、もはや境界を持っていなかった。
「……っ」
ナギは呼吸を整えようとする。
でも無理だった。
胸が痛い。
頭が重い。
視界も少し遅れている。
それでも。
腕の中の身体だけは離せなかった。
フィアはナギへ寄りかかるように小さく縮こまっていた。
白い髪が濡れた頬へ張りつき、黒変した右腕は不規則に脈打っている。首筋近くまで這い上がった黒線が、白い肌との境界をゆっくり侵食していた。
呼吸が浅い。
細い肩が、ときどき小さく震える。
そのたび、黒霧が濃くなる。
「……たすけないと」
フィアが呟く。
夢の中の声みたいだった。
「……まだ」
「……みんな、まってる」
その瞬間。
感情が流れ込んできた。
冷たい石畳。
雨。
膝をつく人々。
白い服の少女。
『聖女様』
『お願いします』
『まだ助けられますよね』
『あなたしかいないんです』
期待。
懇願。
祈り。
その全部が、一人の少女へ押し寄せていた。
ナギは息を呑む。
胸の奥が軋んだ。
フィアは怪物なんかじゃない。
ただ。
ずっと“救わなければならない”を背負わされ続けていただけだ。
「……いっぱい」
フィアの声が震える。
「……がんばった」
ナギは何も言えなかった。
言葉が出ない。
フィアは苦しそうに呼吸を繰り返す。
黒霧が脈打つ。
窓の外で、またガラスの割れる音が響いた。
避難放送が完全に途切れる。
代わりに、どこか遠くで犬が吠えていた。
「……まだ、できるから」
フィアが小さく呟く。
「……たすけないと」
その声は、もう懇願に近かった。
自分自身へ言い聞かせるみたいに。
止まれば終わると信じ込んでいる人間の声だった。
ナギは歯を食いしばる。
胸の奥が痛い。
どうしようもなく。
苦しかった。
フィアはまだ、聖女をやめられていない。
救えと言われ続けた感情が、壊れた今でも身体へ染みついている。
だから。
限界なのに、まだ手を伸ばそうとしている。
その時。
フィアの身体が、小さく揺れた。
「……つかれた」
本当に小さな声だった。
でも。
その一言だけで、空気が変わる。
次の瞬間。
黒霧が爆発みたいに膨れ上がった。
窓ガラスが軋む。
遠くで一斉に警報が鳴り始める。
『黒霧濃度急上昇——!』
『退避!退避しろ!』
『封鎖線が——』
無線がノイズに潰れる。
非常灯が激しく点滅した。
そして。
街の明かりが、一斉に落ちる。
闇が来た。
雨音だけが、静かに響いていた。
停電した廃ビルの三階は、深い闇に沈んでいる。さっきまで街中を埋めていた警報や怒号は遠ざかり、世界そのものが力尽きてしまったみたいだった。
黒霧はまだ漂っている。
けれど、もう暴れてはいなかった。
窓の外から差し込むわずかな街明かりが、その輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。薄い霧は静かに流れ、行き場を失った呼吸みたいに頼りなく揺れていた。
ナギは床へ座り込んだまま、フィアを抱えていた。
身体の感覚が曖昧だった。
熱いのか寒いのかも分からない。
侵食した黒線は頬近くまで浮き上がり、耳鳴りはまだ頭の奥で鳴り続けている。それでも、さっきまでみたいな感情の濁流はもう流れ込んでこなかった。
代わりに残っているのは、酷い疲労だけだった。
フィアはナギの胸元へ額を押しつけ、小さく身体を縮こまらせていた。
呼吸が浅い。
細い肩が、ときどき震える。
黒変した右腕の脈動も、少しずつ弱くなっていた。
長い沈黙。
窓を叩く雨音だけが続く。
ナギは何も言わなかった。
ただ、腕に力を込めていた。
フィアの背中は細かった。
怖くなるくらい、小さい。
こんな身体で。
どれだけの人間に祈られ、縋られ、期待され続けてきたのか。
聖女。
救世主。
英雄。
人々が勝手につけた名前が、彼女を少しずつ削っていった。
助けたかった。
泣いている人を放っておけなかった。
だから、壊れるまで手を伸ばし続けた。
フィアはずっと、そういう人間だった。
ナギは目を閉じる。
胸の奥が痛かった。
フィアの苦しみは、自分の後悔とは違う。
でも、似ていた。
終われなかった感情が腐り続ける苦しさだけは、痛いほど分かった。
ずっと。
ずっと終われなかったのだ。
救えと言われ続けて。
期待され続けて。
限界なんて、とっくに壊れていたのに。
それでも、止まれなかった。
フィアの指が、ナギの服を弱く掴む。
小さな力だった。
沈みながら、最後に何かへ縋っているみたいだった。
長い時間が流れた気がした。
やがて。
フィアが小さく息を吸う。
「……つかれた」
その言葉は、ほとんど吐息みたいだった。
でも。
ナギの胸を抉るには十分だった。
フィアは続ける。
「……ずっと」
呼吸が乱れる。
「……たすけなきゃって」
そこで声が掠れる。
「……みんなが」
息が震える。
「……わたしなら、できるって……いうから」
怒りはなかった。
恨みもなかった。
ただ。
疲れ切った人間の空っぽな響きだけが残っていた。
「……がんばった」
その瞬間。
ナギの胸が激しく締めつけられる。
フィアは、本当に頑張ってしまったのだ。
逃げることも。
見捨てることも。
自分を優先することもできずに。
泣いている誰かを見るたび、傷ついている誰かを見るたび、壊れるまで手を伸ばしてしまった。
だから。
最後には、自分自身が空っぽになった。
ナギは唇を噛む。
喉が熱い。
でも涙は出なかった。
泣けなかった。
胸の奥が、ただ痛かった。
フィアは小さく震えながら、掠れた声を落とす。
「……もう、いいの?」
その声だけで。
ナギは息が詰まりそうになる。
それは、確認じゃなかった。
初めて。
終わってもいいのかを、誰かへ許してほしい声だった。
フィアはきっと、一度もそんなことを言われたことがない。
止まっていい。
逃げていい。
もう頑張らなくていい。
そんな言葉を。
誰からも。
ナギは目を閉じる。
喉が焼けるみたいに痛かった。
それでも。
震える息を吐きながら、ようやく声を落とす。
「……もういい」
フィアの肩が小さく跳ねる。
ナギは続けた。
「もう、頑張らなくていい」
その瞬間。
フィアの呼吸が崩れた。
嗚咽は漏らさない。
でも、小さな身体だけが壊れたみたいに震えていた。
ナギの胸へ顔を埋めたまま、声を殺して震え続ける。
まるで。
今まで押し込めていたものが、一気に崩れてしまったみたいに。
英雄をやめる。
救うことをやめる。
それはきっと、死ぬより怖かった。
だって。
それ以外の生き方を、知らなかったから。
でも同時に。
初めて許されたことだった。
黒霧が、ゆっくり薄れていく。
消えてはいない。
ただ。
止まっていた。
窓の外では、まだ雨が降っている。
さっきまで街を埋めていた感情の濁流も、今は遠かった。
ナギはフィアの背中を抱いたまま動かない。
もう何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
それだけだった。
フィアの震えが、少しずつ静まっていく。
長い時間が流れた。
やがて。
フィアがゆっくり顔を上げる。
赤い瞳が、ナギを見る。
焦点はまだ少し不安定だった。
それでも。
今だけは、迷わなかった。
「……ナギ」
その名前を。
遅れずに呼ぶ。
ナギの呼吸が、小さく止まる。
胸の奥が痛かった。
でも同時に。
少しだけ、救われた気がした。
雨音が続く。
階段入口では、鷺沢が何も言わず立っていた。
暗闇の中で、その姿はほとんど影みたいだった。
近づかない。
止めない。
ただ静かに、二人を見ている。
その沈黙だけが、この夜の終わりを見届けていた。
窓の外。
黒い空の向こうで。
ほんのわずかに、朝の色が滲み始めていた。
朝の光は、静かだった。
古いアパートの小さな部屋へ、薄い陽射しがゆっくり差し込んでいる。白く擦れた壁。軋む床。窓際に置かれた小さな机。その上には飲みかけの水と、開かれていない薬袋が置かれていた。
狭い部屋だった。
生活の匂いはまだ薄い。
ここへ逃げ込んでから、まだ数日しか経っていなかった。
窓の外では、人が歩いている。
信号機の電子音。
電車が通る振動。
コンビニの自動ドアが開閉する音。
世界は、何事もなかったみたいに朝を始めていた。
でも。
この部屋だけが、少し世界から置き去りにされているみたいだった。
ナギは窓際の椅子へ座り、ぼんやり外を見ていた。
侵食痕は残っている。
首筋近くまで浮かんだ黒線は以前より薄くなっていたが、完全には消えていない。耳鳴りも、ときどき思い出したみたいに頭の奥で鳴る。
人の多い音を聞くと、少しだけ胸がざわつく。
感情混線も、完全には消えていなかった。
それでも。
生きていた。
後ろで、小さな物音がする。
ナギが振り返る。
ベッドの端へ座ったフィアが、ゆっくり顔を上げていた。
白い髪が朝日に透けている。
黒変した右腕の痕は残ったままだ。首筋近くにも薄い黒線が浮かび、白かった肌へ静かに焼きついていた。
以前みたいには戻らない。
たぶん、もう。
フィアは少しぼんやりした目でナギを見る。
それから、一瞬だけ言葉を探すみたいに沈黙した。
「……ナギ」
少し遅れて。
でも、ちゃんと名前を呼ぶ。
ナギは小さく息を吐いた。
「起きたか」
フィアはゆっくり頷く。
動作が少し鈍い。
感情が途切れる瞬間みたいに、急に表情が空白になる時がある。記憶もところどころ欠けていた。
全部は戻らない。
きっと、これからも。
フィアはしばらく窓の外を見ていたが、不意に机の上の薬袋へ視線を向けた。
「……これ」
言葉が止まる。
少し考えるみたいに沈黙してから。
「……のむんだっけ」
ナギは目を伏せる。
「ああ。あとでな」
フィアは小さく頷く。
その反応も少し遅い。
ほんの小さなズレだった。
でも。
完全には戻れなかったことだけは、静かに残っていた。
部屋の隅で、小さく湯が沸く音が鳴る。
古い電気ケトルだった。
ナギは立ち上がろうとして、少し身体をふらつかせる。
その瞬間。
フィアが反射的に手を伸ばしかけた。
「あ——」
そこまで言って、動きが止まる。
何を言おうとしたのか、一瞬だけ分からなくなったみたいだった。
フィアは困ったように眉を寄せる。
ナギは苦笑した。
「……だいじょうぶ」
フィアは少し黙ってから、小さく頷いた。
窓の外では、人が流れている。
会社員。
学生。
買い物袋を提げた老人。
誰も、黒霧のことなんて知らないみたいに歩いている。
研究部は事件を封鎖した。
感情災害。
そういう名前だけが残り、真実はもうどこにも出ない。
壊れた街も。
泣き声も。
黒霧も。
全部、見えない場所へ押し込められて終わる。
部屋の入口で、小さく足音が止まった。
ナギが視線を向ける。
鷺沢だった。
黒いコート姿のまま、静かに立っている。
以前より少し疲れて見えた。
長い沈黙。
やがて、鷺沢が口を開く。
「あなたは間違っています」
責める声ではなかった。
ただ、確認するみたいに静かだった。
ナギは何も答えない。
鷺沢は二人を見る。
黒変痕の残るフィア。
侵食痕を抱えたナギ。
完全には戻れなかった人間たち。
そして。
ほんの少しだけ目を伏せた。
「……ですが」
短い沈黙。
「羨ましい」
その言葉だけ残して、鷺沢は静かに部屋を出ていく。
ドアが閉まる音が、小さく響いた。
また静寂が戻る。
フィアは窓の外を見ていた。
朝の光が白い髪へ落ちている。
長い時間。
何も言わない。
ただ、街を見ている。
信号。
人の流れ。
コンビニの明かり。
普通の朝。
やがて。
本当に小さな声で呟く。
「……燃えてない」
ナギは窓の外を見る。
その“普通”を、少し眩しいものを見るみたいに眺めた。
長い間を置いてから。
「……今日は、ですね」
そう返す。
フィアは少しだけ目を細める。
笑ったのかもしれない。
本当に小さな変化だった。
傷は消えない。
後悔も消えない。
世界だって、何も救われていない。
それでも。
ナギは、フィアの手を離さなかった。