英雄回収局   作:自給自足

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12話

最初に止まったのは、信号だった。

窓の外で、赤と青の光が何度か不規則に点滅したあと、ふっと消える。少し遅れて、遠くからクラクションの連続音が響いた。どこかで車同士がぶつかったのか、鈍い衝突音が夜気を震わせる。

そのあと。

街のあちこちで、一斉に“普通”が壊れ始めた。

シャッターが閉まる音。

ガラスの割れる音。

避難放送の歪んだ声。

『——落ち着いて避難してください』

『黒霧濃度上昇——繰り返します——』

ノイズが混じる。

途中で音声が途切れる。

また別の無線が割り込む。

『封鎖線維持!』

『西区画崩壊——!』

『感情汚染レベル上昇!』

サイレンが鳴っていた。

でも、それも長くは続かなかった。

途中で途切れ、街全体が息を止めたみたいな静寂が数秒落ちる。その空白のあとに、今度は子供の泣き声が遠くから聞こえた。

雨が降っている。

黒い雨だった。

廃ビル三階。

非常灯はほとんど死んでいた。

薄暗い緑色の光が断続的に点滅し、そのたび床を漂う黒霧の輪郭だけがぼんやり浮かび上がる。湿った空気の中には、焦げた臭いと鉄みたいな匂いが混ざっていた。

ナギは床へ膝をついていた。

もう、立てない。

侵食した黒線は首筋を越え、頬の近くまで浮き上がっている。熱いのに寒かった。皮膚の下で何かが脈打つたび、神経が焼けるみたいに痛む。

耳鳴りも酷い。

高い金属音が頭の奥を削り続け、その隙間へ街中の感情が流れ込んできた。

恐怖。

混乱。

怒号。

泣き声。

黒霧を通して漏れてくる感情は、もはや境界を持っていなかった。

「……っ」

ナギは呼吸を整えようとする。

でも無理だった。

胸が痛い。

頭が重い。

視界も少し遅れている。

それでも。

腕の中の身体だけは離せなかった。

フィアはナギへ寄りかかるように小さく縮こまっていた。

白い髪が濡れた頬へ張りつき、黒変した右腕は不規則に脈打っている。首筋近くまで這い上がった黒線が、白い肌との境界をゆっくり侵食していた。

呼吸が浅い。

細い肩が、ときどき小さく震える。

そのたび、黒霧が濃くなる。

「……たすけないと」

フィアが呟く。

夢の中の声みたいだった。

「……まだ」

「……みんな、まってる」

その瞬間。

感情が流れ込んできた。

冷たい石畳。

雨。

膝をつく人々。

白い服の少女。

『聖女様』

『お願いします』

『まだ助けられますよね』

『あなたしかいないんです』

期待。

懇願。

祈り。

その全部が、一人の少女へ押し寄せていた。

ナギは息を呑む。

胸の奥が軋んだ。

フィアは怪物なんかじゃない。

ただ。

ずっと“救わなければならない”を背負わされ続けていただけだ。

「……いっぱい」

フィアの声が震える。

「……がんばった」

ナギは何も言えなかった。

言葉が出ない。

フィアは苦しそうに呼吸を繰り返す。

黒霧が脈打つ。

窓の外で、またガラスの割れる音が響いた。

避難放送が完全に途切れる。

代わりに、どこか遠くで犬が吠えていた。

「……まだ、できるから」

フィアが小さく呟く。

「……たすけないと」

その声は、もう懇願に近かった。

自分自身へ言い聞かせるみたいに。

止まれば終わると信じ込んでいる人間の声だった。

ナギは歯を食いしばる。

胸の奥が痛い。

どうしようもなく。

苦しかった。

フィアはまだ、聖女をやめられていない。

救えと言われ続けた感情が、壊れた今でも身体へ染みついている。

だから。

限界なのに、まだ手を伸ばそうとしている。

その時。

フィアの身体が、小さく揺れた。

「……つかれた」

本当に小さな声だった。

でも。

その一言だけで、空気が変わる。

次の瞬間。

黒霧が爆発みたいに膨れ上がった。

窓ガラスが軋む。

遠くで一斉に警報が鳴り始める。

『黒霧濃度急上昇——!』

『退避!退避しろ!』

『封鎖線が——』

無線がノイズに潰れる。

非常灯が激しく点滅した。

そして。

街の明かりが、一斉に落ちる。

闇が来た。

雨音だけが、静かに響いていた。

 

停電した廃ビルの三階は、深い闇に沈んでいる。さっきまで街中を埋めていた警報や怒号は遠ざかり、世界そのものが力尽きてしまったみたいだった。

黒霧はまだ漂っている。

けれど、もう暴れてはいなかった。

窓の外から差し込むわずかな街明かりが、その輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。薄い霧は静かに流れ、行き場を失った呼吸みたいに頼りなく揺れていた。

ナギは床へ座り込んだまま、フィアを抱えていた。

身体の感覚が曖昧だった。

熱いのか寒いのかも分からない。

侵食した黒線は頬近くまで浮き上がり、耳鳴りはまだ頭の奥で鳴り続けている。それでも、さっきまでみたいな感情の濁流はもう流れ込んでこなかった。

代わりに残っているのは、酷い疲労だけだった。

フィアはナギの胸元へ額を押しつけ、小さく身体を縮こまらせていた。

呼吸が浅い。

細い肩が、ときどき震える。

黒変した右腕の脈動も、少しずつ弱くなっていた。

長い沈黙。

窓を叩く雨音だけが続く。

ナギは何も言わなかった。

ただ、腕に力を込めていた。

フィアの背中は細かった。

怖くなるくらい、小さい。

こんな身体で。

どれだけの人間に祈られ、縋られ、期待され続けてきたのか。

聖女。

救世主。

英雄。

人々が勝手につけた名前が、彼女を少しずつ削っていった。

助けたかった。

泣いている人を放っておけなかった。

だから、壊れるまで手を伸ばし続けた。

フィアはずっと、そういう人間だった。

ナギは目を閉じる。

胸の奥が痛かった。

フィアの苦しみは、自分の後悔とは違う。

でも、似ていた。

終われなかった感情が腐り続ける苦しさだけは、痛いほど分かった。

ずっと。

ずっと終われなかったのだ。

救えと言われ続けて。

期待され続けて。

限界なんて、とっくに壊れていたのに。

それでも、止まれなかった。

フィアの指が、ナギの服を弱く掴む。

小さな力だった。

沈みながら、最後に何かへ縋っているみたいだった。

長い時間が流れた気がした。

やがて。

フィアが小さく息を吸う。

「……つかれた」

その言葉は、ほとんど吐息みたいだった。

でも。

ナギの胸を抉るには十分だった。

フィアは続ける。

「……ずっと」

呼吸が乱れる。

「……たすけなきゃって」

そこで声が掠れる。

「……みんなが」

息が震える。

「……わたしなら、できるって……いうから」

怒りはなかった。

恨みもなかった。

ただ。

疲れ切った人間の空っぽな響きだけが残っていた。

「……がんばった」

その瞬間。

ナギの胸が激しく締めつけられる。

フィアは、本当に頑張ってしまったのだ。

逃げることも。

見捨てることも。

自分を優先することもできずに。

泣いている誰かを見るたび、傷ついている誰かを見るたび、壊れるまで手を伸ばしてしまった。

だから。

最後には、自分自身が空っぽになった。

ナギは唇を噛む。

喉が熱い。

でも涙は出なかった。

泣けなかった。

胸の奥が、ただ痛かった。

フィアは小さく震えながら、掠れた声を落とす。

「……もう、いいの?」

その声だけで。

ナギは息が詰まりそうになる。

それは、確認じゃなかった。

初めて。

終わってもいいのかを、誰かへ許してほしい声だった。

フィアはきっと、一度もそんなことを言われたことがない。

止まっていい。

逃げていい。

もう頑張らなくていい。

そんな言葉を。

誰からも。

ナギは目を閉じる。

喉が焼けるみたいに痛かった。

それでも。

震える息を吐きながら、ようやく声を落とす。

「……もういい」

フィアの肩が小さく跳ねる。

ナギは続けた。

「もう、頑張らなくていい」

その瞬間。

フィアの呼吸が崩れた。

嗚咽は漏らさない。

でも、小さな身体だけが壊れたみたいに震えていた。

ナギの胸へ顔を埋めたまま、声を殺して震え続ける。

まるで。

今まで押し込めていたものが、一気に崩れてしまったみたいに。

英雄をやめる。

救うことをやめる。

それはきっと、死ぬより怖かった。

だって。

それ以外の生き方を、知らなかったから。

でも同時に。

初めて許されたことだった。

黒霧が、ゆっくり薄れていく。

消えてはいない。

ただ。

止まっていた。

窓の外では、まだ雨が降っている。

さっきまで街を埋めていた感情の濁流も、今は遠かった。

ナギはフィアの背中を抱いたまま動かない。

もう何も言わなかった。

ただ、隣にいた。

それだけだった。

フィアの震えが、少しずつ静まっていく。

長い時間が流れた。

やがて。

フィアがゆっくり顔を上げる。

赤い瞳が、ナギを見る。

焦点はまだ少し不安定だった。

それでも。

今だけは、迷わなかった。

「……ナギ」

その名前を。

遅れずに呼ぶ。

ナギの呼吸が、小さく止まる。

胸の奥が痛かった。

でも同時に。

少しだけ、救われた気がした。

雨音が続く。

階段入口では、鷺沢が何も言わず立っていた。

暗闇の中で、その姿はほとんど影みたいだった。

近づかない。

止めない。

ただ静かに、二人を見ている。

その沈黙だけが、この夜の終わりを見届けていた。

窓の外。

黒い空の向こうで。

ほんのわずかに、朝の色が滲み始めていた。

 

 

朝の光は、静かだった。

古いアパートの小さな部屋へ、薄い陽射しがゆっくり差し込んでいる。白く擦れた壁。軋む床。窓際に置かれた小さな机。その上には飲みかけの水と、開かれていない薬袋が置かれていた。

狭い部屋だった。

生活の匂いはまだ薄い。

ここへ逃げ込んでから、まだ数日しか経っていなかった。

窓の外では、人が歩いている。

信号機の電子音。

電車が通る振動。

コンビニの自動ドアが開閉する音。

世界は、何事もなかったみたいに朝を始めていた。

でも。

この部屋だけが、少し世界から置き去りにされているみたいだった。

ナギは窓際の椅子へ座り、ぼんやり外を見ていた。

侵食痕は残っている。

首筋近くまで浮かんだ黒線は以前より薄くなっていたが、完全には消えていない。耳鳴りも、ときどき思い出したみたいに頭の奥で鳴る。

人の多い音を聞くと、少しだけ胸がざわつく。

感情混線も、完全には消えていなかった。

それでも。

生きていた。

後ろで、小さな物音がする。

ナギが振り返る。

ベッドの端へ座ったフィアが、ゆっくり顔を上げていた。

白い髪が朝日に透けている。

黒変した右腕の痕は残ったままだ。首筋近くにも薄い黒線が浮かび、白かった肌へ静かに焼きついていた。

以前みたいには戻らない。

たぶん、もう。

フィアは少しぼんやりした目でナギを見る。

それから、一瞬だけ言葉を探すみたいに沈黙した。

「……ナギ」

少し遅れて。

でも、ちゃんと名前を呼ぶ。

ナギは小さく息を吐いた。

「起きたか」

フィアはゆっくり頷く。

動作が少し鈍い。

感情が途切れる瞬間みたいに、急に表情が空白になる時がある。記憶もところどころ欠けていた。

全部は戻らない。

きっと、これからも。

フィアはしばらく窓の外を見ていたが、不意に机の上の薬袋へ視線を向けた。

「……これ」

言葉が止まる。

少し考えるみたいに沈黙してから。

「……のむんだっけ」

ナギは目を伏せる。

「ああ。あとでな」

フィアは小さく頷く。

その反応も少し遅い。

ほんの小さなズレだった。

でも。

完全には戻れなかったことだけは、静かに残っていた。

部屋の隅で、小さく湯が沸く音が鳴る。

古い電気ケトルだった。

ナギは立ち上がろうとして、少し身体をふらつかせる。

その瞬間。

フィアが反射的に手を伸ばしかけた。

「あ——」

そこまで言って、動きが止まる。

何を言おうとしたのか、一瞬だけ分からなくなったみたいだった。

フィアは困ったように眉を寄せる。

ナギは苦笑した。

「……だいじょうぶ」

フィアは少し黙ってから、小さく頷いた。

窓の外では、人が流れている。

会社員。

学生。

買い物袋を提げた老人。

誰も、黒霧のことなんて知らないみたいに歩いている。

研究部は事件を封鎖した。

感情災害。

そういう名前だけが残り、真実はもうどこにも出ない。

壊れた街も。

泣き声も。

黒霧も。

全部、見えない場所へ押し込められて終わる。

部屋の入口で、小さく足音が止まった。

ナギが視線を向ける。

鷺沢だった。

黒いコート姿のまま、静かに立っている。

以前より少し疲れて見えた。

長い沈黙。

やがて、鷺沢が口を開く。

「あなたは間違っています」

責める声ではなかった。

ただ、確認するみたいに静かだった。

ナギは何も答えない。

鷺沢は二人を見る。

黒変痕の残るフィア。

侵食痕を抱えたナギ。

完全には戻れなかった人間たち。

そして。

ほんの少しだけ目を伏せた。

「……ですが」

短い沈黙。

「羨ましい」

その言葉だけ残して、鷺沢は静かに部屋を出ていく。

ドアが閉まる音が、小さく響いた。

また静寂が戻る。

フィアは窓の外を見ていた。

朝の光が白い髪へ落ちている。

長い時間。

何も言わない。

ただ、街を見ている。

信号。

人の流れ。

コンビニの明かり。

普通の朝。

やがて。

本当に小さな声で呟く。

「……燃えてない」

ナギは窓の外を見る。

その“普通”を、少し眩しいものを見るみたいに眺めた。

長い間を置いてから。

「……今日は、ですね」

そう返す。

フィアは少しだけ目を細める。

笑ったのかもしれない。

本当に小さな変化だった。

傷は消えない。

後悔も消えない。

世界だって、何も救われていない。

それでも。

ナギは、フィアの手を離さなかった。

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