英雄回収局 作:自給自足
半年が過ぎた。
街は、表面上は元に戻っていた。
封鎖区域を囲っていた壁は撤去され、黒霧の痕跡も、アスファルトに残った細かなひび割れや、路地裏にひっそり置かれた小さな慰霊碑くらいしか残っていない。
ニュースも、もうほとんど触れない。
半年前の感情災害。
そんな曖昧な名前だけを残して、事件は少しずつ人々の記憶から押し流されていた。
忘れなければ、生きていけないからだ。
午後の陽射しが、古いアパートの窓から静かに差し込んでいた。
二階の角部屋。
狭いリビングには、安いソファと小さなテーブル、それから使い古された電気ケトルが置かれている。壁紙はところどころ剥がれ、窓際には洗いきれなかった雨染みが薄く残っていた。
ナギはソファへ深く腰を沈め、ぼんやりテレビを眺めていた。
昼のバラエティ番組だった。
芸人が大袈裟に転び、スタジオの笑い声が部屋へ響く。
少しだけ眉を寄せ、ナギはリモコンを取った。音量を下げる。
静かになる。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
右腕の黒線は、まだ消えていない。
首筋にも細い痕が一本残っていた。雨の日や疲れた夜には、そこが微かに疼く。耳鳴りも、ときどき思い出したみたいに戻ってくる。
全部は終わっていない。
たぶん、これからも。
それでも。
普通に生きていた。
台所の方から、小さな音が聞こえる。
湯の沸く音。
食器が触れ合う軽い音。
ナギが視線を向けると、フィアがゆっくりカップへ湯を注いでいた。
白い髪が肩へ落ちる。
首筋には、薄く黒変の痕が残っていた。右腕の動きもまだ少しぎこちない。でも、半年前よりはずっと自然だった。
フィアは紅茶の入ったカップを二つ持って、ゆっくりソファへ歩いてくる。
そして。
少しだけ間を置いてから。
「……ナギ」
名前を呼ぶ。
以前みたいな長い空白は、もうない。
それでも時々、ほんの少しだけ遅れる。
フィアはカップをテーブルへ置き、ナギの隣へ座った。
距離は近い。
でも、前みたいに必死に服を掴んだりはしない。
ただ、隣にいる。
それが今の二人だった。
テレビの中では、まだ誰かが笑っている。
フィアはぼんやりそれを眺めていたが、不意に表情が空白になる。
ほんの数秒。
感情が抜け落ちたみたいに、視線だけが止まる。
そして、小さく息を吸うと、そっとナギの袖を摘んだ。
確認するみたいに。
ナギはその感触に気づきながら、何も言わない。
ただ、テーブルのカップを手に取る。
紅茶は少し冷め始めていた。
窓の外では、自転車のベルが鳴っている。
信号機の電子音。
遠くの電車。
誰かの笑い声。
世界は、もう事件を忘れようとしていた。
この街も。
この空気も。
全部、何もなかったみたいに前へ進んでいく。
でも。
この部屋の中だけは、まだ少しだけ止まっていた。
黒変の痕。
侵食の後遺症。
時折訪れる名前の空白。
失ったものは、どこにも戻ってこない。
ナギは静かにカップを置く。
それから、フィアの小さな手をそっと握った。
冷たい手だった。
でも、確かにここにある。
フィアは少しだけ目を細める。
笑ったのかもしれない。
本当に、小さく。
窓の外を、自転車が通り過ぎていく。
ナギは外を眺めながら、小さく呟いた。
「……今日は、平気そうだな」
フィアはゆっくり頷く。
それから窓の向こうを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……燃えてない」
ナギは少しだけ目を伏せる。
苦くもない。
優しくもない。
ただ、静かな声で返した。
「……ああ」
二人は、そのまましばらく動かなかった。
テレビの笑い声だけが、遠くで流れている。
傷は消えない。
後悔も消えない。
失ったものも、戻らない。
それでも。
この瞬間だけは。
二人は、確かに隣にいた。