英雄回収局   作:自給自足

13 / 13
エピローグ

半年が過ぎた。

街は、表面上は元に戻っていた。

封鎖区域を囲っていた壁は撤去され、黒霧の痕跡も、アスファルトに残った細かなひび割れや、路地裏にひっそり置かれた小さな慰霊碑くらいしか残っていない。

ニュースも、もうほとんど触れない。

半年前の感情災害。

そんな曖昧な名前だけを残して、事件は少しずつ人々の記憶から押し流されていた。

忘れなければ、生きていけないからだ。

午後の陽射しが、古いアパートの窓から静かに差し込んでいた。

二階の角部屋。

狭いリビングには、安いソファと小さなテーブル、それから使い古された電気ケトルが置かれている。壁紙はところどころ剥がれ、窓際には洗いきれなかった雨染みが薄く残っていた。

ナギはソファへ深く腰を沈め、ぼんやりテレビを眺めていた。

昼のバラエティ番組だった。

芸人が大袈裟に転び、スタジオの笑い声が部屋へ響く。

少しだけ眉を寄せ、ナギはリモコンを取った。音量を下げる。

静かになる。

それだけで、少し呼吸が楽になった。

右腕の黒線は、まだ消えていない。

首筋にも細い痕が一本残っていた。雨の日や疲れた夜には、そこが微かに疼く。耳鳴りも、ときどき思い出したみたいに戻ってくる。

全部は終わっていない。

たぶん、これからも。

それでも。

普通に生きていた。

台所の方から、小さな音が聞こえる。

湯の沸く音。

食器が触れ合う軽い音。

ナギが視線を向けると、フィアがゆっくりカップへ湯を注いでいた。

白い髪が肩へ落ちる。

首筋には、薄く黒変の痕が残っていた。右腕の動きもまだ少しぎこちない。でも、半年前よりはずっと自然だった。

フィアは紅茶の入ったカップを二つ持って、ゆっくりソファへ歩いてくる。

そして。

少しだけ間を置いてから。

「……ナギ」

名前を呼ぶ。

以前みたいな長い空白は、もうない。

それでも時々、ほんの少しだけ遅れる。

フィアはカップをテーブルへ置き、ナギの隣へ座った。

距離は近い。

でも、前みたいに必死に服を掴んだりはしない。

ただ、隣にいる。

それが今の二人だった。

テレビの中では、まだ誰かが笑っている。

フィアはぼんやりそれを眺めていたが、不意に表情が空白になる。

ほんの数秒。

感情が抜け落ちたみたいに、視線だけが止まる。

そして、小さく息を吸うと、そっとナギの袖を摘んだ。

確認するみたいに。

ナギはその感触に気づきながら、何も言わない。

ただ、テーブルのカップを手に取る。

紅茶は少し冷め始めていた。

窓の外では、自転車のベルが鳴っている。

信号機の電子音。

遠くの電車。

誰かの笑い声。

世界は、もう事件を忘れようとしていた。

この街も。

この空気も。

全部、何もなかったみたいに前へ進んでいく。

でも。

この部屋の中だけは、まだ少しだけ止まっていた。

黒変の痕。

侵食の後遺症。

時折訪れる名前の空白。

失ったものは、どこにも戻ってこない。

ナギは静かにカップを置く。

それから、フィアの小さな手をそっと握った。

冷たい手だった。

でも、確かにここにある。

フィアは少しだけ目を細める。

笑ったのかもしれない。

本当に、小さく。

窓の外を、自転車が通り過ぎていく。

ナギは外を眺めながら、小さく呟いた。

「……今日は、平気そうだな」

フィアはゆっくり頷く。

それから窓の向こうを見つめたまま、ぽつりと言った。

「……燃えてない」

ナギは少しだけ目を伏せる。

苦くもない。

優しくもない。

ただ、静かな声で返した。

「……ああ」

二人は、そのまましばらく動かなかった。

テレビの笑い声だけが、遠くで流れている。

傷は消えない。

後悔も消えない。

失ったものも、戻らない。

それでも。

この瞬間だけは。

二人は、確かに隣にいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。