英雄回収局 作:自給自足
目が覚めた時、最初に聞こえたのは雨音だった。
窓を叩く音が、昨夜より少し弱い。灰色の朝だった。カーテンの隙間から差し込む光も鈍く、部屋の空気は湿っている。
ナギはゆっくり身を起こした。
首が重い。
肩も痛い。
閉鎖区を歩き回った疲れが、遅れて身体に乗ってきていた。
ぼやけた視界のまま時計を見る。
七時十二分。
胃の奥が沈んだ。
あと四十八分。
研究管理部が来る。
昨夜の通知が、頭の中で嫌な音を立てた。
明朝8:00に再訪問予定
予定、という言い方が気持ち悪い。
断れる空気が最初からない。
ナギは顔をしかめながら立ち上がった。
ワンルームの床は冷たい。足裏に嫌な感触が残る。散らかった書類を避けながらキッチンへ向かい、水を飲もうとして止まった。
部屋が静かすぎる。
昨夜の少女。
視線を向ける。
ソファの端。
フィアは座ったままだった。
眠っていない。
膝を抱えている。
赤い目が、ぼんやり窓を見ていた。
まるで、一晩中そこにいたみたいだった。
「……寝てないんですか」
反応は少し遅れた。
ゆっくり視線が動く。
「……寝る?」
「普通は寝ます」
言ってから、ナギは少し後悔した。
普通。
この部屋には、もうその言葉が似合わない。
フィアは小さく首を傾げる。
「……普通?」
説明しかけて、やめた。
時間がない。
しかも、何から教えればいいのか分からない。
人間の生活。
食事。
睡眠。
安心。
そういう当たり前を、この少女はどこまで失っているのか。
考えるほど気分が悪くなる。
ナギは冷蔵庫を開けた。
中身は乏しい。
卵。
食パン。
ペットボトルの水。
安売りのハム。
数日分の生活を無理やり詰め込んだみたいな中身だった。
昨夜は火を怖がった。
コンロは危険だ。
ナギは小さく舌打ちする。
電子レンジで済ませられるものを探し、棚からレトルト粥を取り出した。
「食べられます?」
フィアの視線が袋へ落ちる。
しばらく見ていた。
警戒。
それから、静かに頷く。
レンジが低い音を鳴らし始める。
その瞬間だった。
フィアの肩が強張る。
空気がぴり、と張った。
部屋の照明が一瞬だけ明滅する。
「……うるさい」
声が低かった。
昨夜より、感情が乗っている。
「大丈夫」
ナギはすぐにレンジを止めた。
沈黙。
フィアの呼吸が乱れている。
窓ガラスが小さく震えた。
嫌な汗が滲む。
まだ危ない。
全然、安全じゃない。
昨夜よりむしろ不安定だ。
ナギはスマホを見る。
七時二十六分。
あと三十四分。
時間が、嫌な速さで減っていく。
選択肢を整理する。
隠すか。
逃がすか。
渡すか。
どれも最悪だった。
隠せば研究部が動く。
逃がせば、暴走する危険がある。
渡せば終わりだ。
昨夜の顔が浮かぶ。
帰る場所?
あの言葉が妙に残っていた。
ナギは深く息を吐く。
面倒だ。
本当に。
でも。
もう見捨てた後の顔は知っている。
雨の夜。
防護扉。
閉まる音。
向こう側で、泣きながら叩いていた小さな手。
そして数日後。
遺体確認不能。
通知書には、それだけ書いてあった。
軽い紙だった。
人が死んだ重さとは思えないほど。
チャイムが鳴った。
身体が止まる。
短く。
二回。
心臓が跳ねた。
早い。
時計を見る。
七時三十八分。
予定より二十二分早い。
嫌な予感しかしない。
スマホが震える。
【研究管理部:鷺沢】
『在宅確認済みです』
血の気が引いた。
続く通知。
『窓際に立たない方が良いですよ』
ナギの呼吸が止まった。
ゆっくりカーテンを見る。
向かいの道路。
昨日の黒いセダン。
停まっている。
エンジンは静かだ。
だが。
こちらを見ている。
部屋を。
自分を。
最初から。
「……気持ち悪すぎるだろ」
喉が乾く。
嫌な汗が背中を流れた。
フィアが反応する。
「……敵?」
赤い目。
昨夜より焦点が合っている。
ただ。
空気が重くなった。
床の細かな埃が浮き始める。
まずい。
ナギは即座にしゃがんだ。
「違う」
目線を合わせる。
「まだ何もしない。分かりますか」
フィアは黙っている。
だが、指先が少し震えていた。
怒っている。
あるいは、怯えている。
どちらも危険だった。
チャイムが、もう一度鳴る。
今度は長い。
玄関の向こう。
誰かがいる。
そして。
扉の隙間に、一枚の白い封筒が差し込まれた。
無音だった。
それが、余計に怖い。
ナギはゆっくり近づく。
封筒には印字されていた。
【研究管理部鷺沢】
『開けなくても構いません』
扉越しの声。
落ち着いている。
丁寧だ。
だから怖い。
『ただ、十一時までに対象の自主返還がない場合、こちらも対応を変えます』
短い沈黙。
『貴方は優しい人だ。だから、余計な選択はしない方が良い』
言葉の最後に、微かな笑いが混じっていた。
足音。
遠ざかる。
ナギは動けなかった。
十一時。
あと、三時間弱。
胃が軋む。
部屋の空気が急に狭くなった気がした。
そして後ろから。
「……帰る?」
フィアの声。
振り向く。
赤い目が、ナギだけを見ていた。
部屋が静まり返っていた。
雨音だけが続いている。
窓を叩く水音。古い換気扇の低い唸り。遠くで走る車の音。それなのに、空気は妙に張り詰めていた。
ナギは封筒を見下ろしたまま動けない。
喉が渇く。
嫌な汗が背中を流れていく。
十一時。
頭の中で数字が重かった。
時間制限というより、処刑宣告に近い。
返さなければ、向こうが来る。
ただの訪問じゃ済まない。
研究部は、必要だと思えば法律も空気も踏み越える。
実際に見たことがある。
閉鎖区近くの団地。
窓ガラスを割り、鎮静剤を打ち込み、住人ごと連れていった。
理由は簡単だった。
「残響汚染の疑い」
それで終わり。
戻ってきた人間を、ナギは知らない。
スマホが震える。
【07:51】
【研究管理部:鷺沢】
『封筒の中をご確認ください』
ナギは眉をしかめながら封を切った。
中には紙が数枚。
書類だった。
対象仮認定資料。
危険度。
未記載。
処理優先順位。
最上位。
ページをめくる。
最後の一文で、指が止まった。
共鳴災害指定の可能性あり
胃が沈む。
嫌な予感が形になった。
昨夜の壁の裂け目。
空気の歪み。
あれで本気じゃないなら、笑えない。
「……最悪だな」
呟く。
その時だった。
フィアがふらりと立ち上がる。
足元が少し覚束ない。
昨夜より顔色が悪い。
というより。
白い。
肌が、冷えた蝋みたいに白い。
「おい」
ナギは反射的に支える。
軽い。
細い肩。
だが、触れた瞬間に違和感が走った。
冷たい。
異常なほど。
人間の体温じゃない。
「具合悪いんですか」
フィアは答えない。
視線だけが窓の外へ向く。
「……いる」
「何が」
「外」
声が低い。
昨夜とは違う。
警戒している。
ナギはカーテンを少しだけずらした。
向かいの道路。
黒いセダン。
まだいる。
今度は二台だった。
喉が詰まる。
「本気かよ……」
フィアの指先が震える。
違う。
震えているのは空気だ。
テーブルの上のペンが転がる。
コップの水面に波紋が広がる。
嫌な音。
部屋の壁が軋んだ。
「大丈夫」
ナギはすぐに視線を合わせた。
「まだ何もされてない」
フィアの赤い目が揺れる。
「……嘘」
短かった。
でも。
妙に刺さる。
ナギは何も言えなかった。
たしかにそうだ。
見られている。
囲まれている。
時間まで区切られている。
何もされていない、なんて嘘だった。
スマホがまた震える。
【研究管理部:鷺沢】
『対象の状態が不安定に見えます』
『早めの保護を推奨します』
血の気が引いた。
見えている。
部屋の中まで。
どこから。
カメラ?
望遠?
盗聴?
嫌な想像が止まらない。
「……くそ」
ナギはカーテンを閉めた。
途端に部屋が暗くなる。
灰色の朝が切り離される。
息苦しい。
狭い部屋が、さらに狭く感じた。
フィアが壁際へ下がる。
膝を抱える。
呼吸が浅い。
そして。
右腕。
袖口の下。
黒い痣が少し広がっていた。
昨夜より、明らかに。
「それ、いつからです」
フィアが視線を落とす。
「……黒い」
「見えてるの?」
頷く。
「痛い?」
少し考える。
「……寒い」
嫌な答えだった。
壊れ始める時の反応に近い。
ナギは頭を掻いた。
知識はある。
閉鎖区で生きていれば、嫌でも見る。
瘴気侵食。
放置すれば、身体が崩れる。
ある地点を越えると、人間には戻れない。
そして。
人型残響は、壊れるほど暴走する。
最悪だ。
本当に。
時間がない。
知識も足りない。
研究部は敵。
外は監視。
しかも、部屋の中には災害予備軍。
なのに。
放り出せない。
ナギは深く息を吐いた。
疲労で頭が鈍い。
それでも考える。
今できること。
まず、状態を調べる。
次に、安全な場所。
そして。
十一時までに動く。
その時。
玄関のドアノブが、静かに動いた。
カチャ。
空気が止まる。
鍵は閉まっている。
なのに。
もう一度。
カチャ。
ゆっくり。
確かめるように。
ナギの背中に冷たい汗が流れた。
扉の向こう。
気配がある。
そして。
静かな声。
『十一時まで待つつもりでしたが』
鷺沢だった。
『思ったより事態が悪そうですね』
ナギは動かなかった。
玄関を見る。
フィアを見る。
もう一度、玄関を見る。
心臓の音だけが妙に大きい。
部屋の空気が重かった。古い換気扇の低い唸りすら、今は遠く感じる。雨音が窓を叩いているのに、なぜか部屋の中だけ静かすぎた。
静かすぎる時は、だいたい良くない。
『開けなくても結構ですよ』
扉の向こう。
鷺沢の声は落ち着いていた。
柔らかい。
だが、冷たい。
冬の金属みたいな声だった。
『ただ、対象の状態が悪化しているようですので』
言葉が止まる。
わざとだ。
間を作っている。
ナギは舌打ちを飲み込んだ。
『このままだと、近隣被害が出る可能性があります』
フィアの肩が揺れる。
空気が震えた。
テーブルの上の空き缶が、かた、と音を立てる。
まずい。
ナギはすぐにフィアの前へ移動した。
「大丈夫です」
できるだけ平坦な声を作る。
「帰ってください」
数秒、沈黙。
その静けさが嫌だった。
怒る方がまだ分かりやすい。
『優しいんですね』
鷺沢が小さく笑う。
『でも、貴方は残響管理官でしょう?』
知っている。
過去も。
所属も。
逃げ道も。
ナギの胃がきしんだ。
『去年の第七閉鎖区案件。未成年残響の独断保護』
呼吸が止まる。
『結果、三名死亡』
空気が冷える。
一瞬だった。
だが。
ナギの身体は硬直した。
雨。
夜。
閉まる防護扉。
泣き声。
そして。
血。
子供の靴。
喉が詰まる。
『今回は失敗しないでください』
その一言で、腹の奥が熱くなった。
怒りだった。
「……あんたらに渡したら成功なんですか」
初めて、声が低くなる。
『少なくとも、被害は減ります』
「実験体にして?」
短い沈黙。
鷺沢は否定しなかった。
『管理です』
ナギは笑った。
乾いた笑いだった。
最悪だ。
本当に。
フィアの方を見る。
膝を抱えている。
だが。
赤い目は、ずっと玄関を見ていた。
怯えている。
違う。
殺そうとしている。
空気が張り詰める。
壁紙が小さく裂けた。
ぴし、と細い音。
部屋の隅の電球が弾ける。
暗くなる。
『もう限界ですね』
鷺沢の声。
『開けてください』
その瞬間。
ドアノブがゆっくり回った。
鍵が鳴る。
がちゃ。
当然、開かない。
でも。
脅しとしては十分だった。
フィアの呼吸が変わる。
浅い。
早い。
赤い目が滲む。
「……燃える」
嫌な予感が走る。
「フィア」
返事はない。
部屋の気温が急に落ちる。
寒い。
なのに、汗が滲む。
壁が震える。
窓ガラスが軋む。
瘴気の濃度が上がっている。
この狭さで暴走されたら終わる。
アパートごと消える。
ナギは瞬時に理解した。
もう無理だ。
ここには置けない。
守るなら。
逃げるしかない。
その時、スマホが震える。
【研究管理部:緊急案件共有】
【第三区避難所跡】
【残響暴走兆候】
【現地管理官不足につき応援要請】
ナギは目を止める。
第三区。
古い避難所。
閉鎖区寄り。
今の研究部が動きにくい場所。
そして。
残響案件。
フィアを隠しながら動く理由ができる。
嫌な賭けだった。
でも。
家にいるよりマシだ。
『十一時まで、あと二時間五分です』
扉の向こう。
鷺沢が言った。
『次は、もう少し強く説得します』
足音。
離れていく。
だが。
窓の外の車は動かない。
監視は続く。
ナギは立ち上がった。
装備ケースを開く。
拳銃。
短剣。
簡易瘴気計。
包帯。
全部を無言で詰め込む。
フィアを見る。
「歩けますか」
フィアはゆっくり顔を上げた。
赤い目。
少しだけ焦点がある。
「……帰る?」
ナギは短く息を吐いた。
「違う」
ジャケットを羽織る。
玄関の鍵を見る。
外の気配を聞く。
まだいる。
絶対に。
だから。
正面からは出ない。
「逃げます」
短かった。
でも。
その言葉だけは、迷わなかった。