英雄回収局 作:自給自足
非常階段は冷えていた。
鉄の手すりが濡れている。昨夜から続く雨のせいだ。靴裏が滑るたび、古い金属が鈍く鳴った。
ナギは振り返る。
アパート三階。
自分の部屋の窓。
カーテンは閉まっている。
だが、その向こうにまだ誰かの視線が残っている気がした。
嫌な感覚だった。
見られている。
追われている。
逃げ切れない。
そんな感覚が、背骨の内側にじわじわ張り付いて離れない。
スマホを見る。
【08:58】
あと二時間。
正確には。
一時間五十二分。
十一時。
回収。
その言葉が頭の中で重かった。
ナギは舌打ちを飲み込む。
時間を見るたび、呼吸が浅くなる。
焦るな。
急げ。
でも焦るな。
矛盾した声が頭の中でうるさい。
フィアが後ろを歩いている。
足音は小さい。
というより、軽すぎた。
存在感が薄い。
ふと見失いそうになるくらい。
なのに。
空気だけが重い。
ナギは一度足を止めた。
「大丈夫ですか」
フィアは顔を上げる。
赤い目。
昨夜より少し焦点がある。
でも。
右腕の黒変は広がっていた。
手首から肘近くまで。
黒い筋が皮膚の下を這っている。
血管みたいで気持ち悪い。
「寒い?」
少し考えて。
「……痛くない」
質問と違う。
つまり。
痛いのだ。
ナギは目を逸らした。
最悪だ。
時間制限。
監視。
暴走リスク。
そして、壊れ始めている少女。
なのに、自分は何も知らない。
避難所跡までは徒歩二十分。
第三区。
今はほとんど人が寄り付かない。
瘴獣発生率が高く、閉鎖区との境界も近い。昔は避難所だった体育館も、今は半分崩れていると聞く。
朝の街は静かだった。
会社員が足早に歩く。
コンビニの前で学生がパンを齧る。
普通の朝。
その横を。
人型残響と逃亡中の管理官が歩いている。
妙な気分だった。
世界は普通に進む。
誰かが壊れていても。
誰かが消えても。
その時。
フィアが止まった。
急だった。
ナギも足を止める。
「どうした」
フィアは道路の向こうを見ている。
視線の先。
赤い子供用の靴。
片方だけ。
雨に濡れた歩道脇へ転がっていた。
安物だ。
泥で汚れている。
ただ。
フィアの顔色が変わった。
「……帰れない」
声が掠れる。
初めてだった。
明確な感情が混じっている。
恐怖。
あるいは。
悲しみ。
「誰が?」
フィアは答えない。
ただ、靴を見ている。
赤い目が揺れていた。
嫌な予感がした。
ナギはスマホを見る。
【09:17】
時間が減る。
汗が滲む。
立ち止まっている余裕はない。
なのに。
フィアが動かない。
「行きますよ」
その瞬間だった。
風が吹く。
冷たい。
季節外れの寒さ。
歩道脇の水溜まりが小さく揺れた。
そして。
赤い靴が。
ひとりでに、少し動いた。
ナギの背筋が凍る。
次の瞬間。
耳鳴り。
街の音が急に遠くなる。
車の音。
人の声。
全部。
薄い膜を挟んだみたいに遠い。
瘴気だ。
濃い。
近い。
しかも。
嫌な種類。
古い残響。
粘つくみたいな空気。
喉がざらつく。
ナギは反射的にフィアを引き寄せた。
「下がれ」
言い終わる前だった。
歩道脇の影が、ゆっくり膨らむ。
黒い。
人影。
大きい。
異常に大きい。
雨粒を弾きながら、それは道路脇から立ち上がった。
人だった。
いや。
人だったもの。
軍服。
砕けた肩章。
片腕がない。
胸には深い裂傷。
なのに、立っている。
頭だけが不自然に傾いていた。
口元が動く。
「……まに、あわなかった」
低い声。
錆びた鉄みたいな声だった。
「……また」
赤い靴を見る。
「……おいてしまった」
ナギの呼吸が止まる。
嫌な予感が、はっきり形になった。
強い残響。
しかも。
英雄級だ。
スマホが震える。
【緊急通知】
【対象:第三区避難所跡】
【英雄残響反応確認】
【危険度:A級へ上方修正】
ナギは空を見た。
雨は止まない。
時間も止まらない。
【09:24】
あと。
一時間三十六分だった。
英雄級。
最悪の分類だった。
残響の中でも、特に厄介な存在。
生前の力が強いほど、未練が深いほど、壊れた時の被害は広がる。
そして。
たいてい、救えない。
ナギは短剣へ手を伸ばした。
濡れた柄が冷たい。
目の前の男は動かない。
巨体。
崩れた軍服。
裂けた胸。
なのに、立っている。
近くで見ると異様だった。肩口には乾いた泥がこびりつき、軍服の裾は半分焼け焦げている。皮膚はところどころ灰色にひび割れ、その隙間から黒い瘴気が細く漏れていた。
死んでいる。
それだけは分かる。
でも。
終わっていない。
「……おいてしまった」
男が呟く。
視線は赤い靴へ固定されたままだ。
「……まもれなかった」
声が掠れている。
喉が潰れたみたいな声だった。
雨音に混ざって、妙に耳へ残る。
歩行者は気づいていない。
誰も見ていない。
残響汚染の薄い人間には認識しづらい。
だからこそ危ない。
暴れ始めれば、気づいた時には遅い。
フィアがナギの後ろで小さく息を呑む。
「……泣いてる」
ナギは眉を寄せた。
「何が?」
「……この人」
風が吹く。
冷たい。
男の足元から黒い霧が広がる。雨水へ混じり、排水溝へ流れ込んでいくそれは、油を垂らしたみたいに鈍く光っていた。
嫌な兆候だった。
瘴気濃度が上がっている。
長くは持たない。
ナギは簡易測定器を取り出した。
数値が跳ねる。
警告音。
【危険域】
胃が沈んだ。
「フィア、少し離れて」
返事はない。
赤い目が男へ向いたまま。
動かない。
その時。
男がゆっくり顔を上げた。
片目が潰れていた。
もう片方だけが、ぼんやり赤く光っている。
「……こども」
低い声。
視線がフィアへ向く。
ナギの身体が強張った。
「……にげろ」
次の瞬間。
轟音。
道路脇のアスファルトが弾け飛んだ。
黒い塊。
瘴獣。
下水口から這い出る。
一体。
二体。
三体。
犬みたいな形だった。
ただし、皮膚がない。
赤黒い肉が剥き出しで、肋骨が外へ飛び出している。目玉は左右で数が違い、口の端から黒い液体が糸を引いていた。
臭い。
腐った肉。
鉄。
濡れた下水。
全部混ざった匂いが鼻へ刺さる。
歩行者の悲鳴。
遅れて混乱が始まる。
「下がれ!」
ナギはフィアを押す。
同時に短剣を抜いた。
一体が跳ぶ。
速い。
口が裂ける。
牙。
黒い唾液。
ナギは身体を捻った。
寸前。
肩を掠める。
熱い。
ジャケットが裂ける。
舌打ち。
低く構える。
喉。
関節。
弱点は大体同じだ。
飛び込んでくる二体目。
短剣を横へ払う。
肉が裂ける。
骨に引っかかる感触。
鈍い。
嫌な手応えだった。
瘴獣が悲鳴を上げる。
なのに倒れない。
「くそ……!」
三体目。
横から。
間に合わない。
そう思った瞬間。
轟音。
空気が裂けた。
黒い線が走る。
遅れて。
瘴獣の上半身が滑り落ちた。
断面がずれる。
血ではない。
黒い泥みたいな液体が道路へ広がる。
フィアだった。
右腕。
黒変が進んでいる。
指先から肘まで。
空気が歪む。
赤い目。
焦点が消えていた。
「……ころす」
声が低い。
まずい。
本当に。
ナギは息を飲む。
フィアの周囲だけ温度が狂っていた。冷たいのに、肌が焼けるみたいな圧迫感がある。道路脇の街路樹の葉が、触れてもいないのにぱらぱら落ち始める。
男――英雄残響が動いた。
ゆっくり。
片腕でフィアの前へ出る。
「……だめだ」
掠れた声。
「……こども、ころすな」
瘴獣が唸る。
増えている。
道路の向こう。
建物の隙間。
五体。
六体。
多い。
しかも。
英雄級の瘴気へ引き寄せられている。
ナギはスマホを見る。
【09:39】
あと一時間二十一分。
研究部。
回収。
全部迫ってくる。
なのに。
今は目の前の地獄を止めるしかなかった。
「……避難所跡まで誘導する」
ナギは短く息を吐く。
最悪の選択だ。
でも。
住宅街で戦えば被害が出る。
英雄残響。
不安定なフィア。
群れる瘴獣。
ここで暴れれば終わる。
ナギはフィアを見る。
「走れますか」
返事はない。
赤い目が揺れる。
壊れかけている。
それでも。
男が、赤い靴を拾った。
震える指で。
胸に抱える。
「……かえる」
その言葉だけが。
妙に、悲しかった。
雨脚は弱まらなかった。
空は低く、灰色に沈み、潰れかけた雲の底から冷たい水を延々と零している。濡れた道路を走るたび、靴裏が滑り、泥水が跳ねた。
ナギは何度目か分からない舌打ちを喉の奥へ押し込む。
後ろから聞こえる音が、もう人間の追跡音ではなかった。
湿った肉が地面を叩く音。
硬い骨が擦れ、どこかで歯が鳴る音。
獣の呼吸に混じって、子供が笑うような高い声まで聞こえる。
瘴獣だった。
しかも群れ。
住宅街の隙間から、排水路の暗がりから、崩れた塀の向こうから、黒いものが次々と這い出してくる。犬のような形をしたもの、脚が異様に長いもの、腹を裂いたまま臓物を引きずるもの。濡れたアスファルトの上を滑るように迫ってくる姿は、生き物というより悪夢に近かった。
数が増えている。
十体。
いや、もう十五はいる。
しかも。
フィアの様子が悪い。
呼吸が浅い。
右腕の黒変は肩まで侵食し、首筋にも黒い筋が浮かんでいた。肌の下で何かが脈打つたび、空気そのものがきしみ、視界の端が歪む。
危険信号だった。
明らかに。
限界が近い。
走りながら、道路脇のガードレールが突然、何の前触れもなく斜めに断ち切られた。
音が遅れて来る。
鉄が悲鳴を上げ、切断面がずれて崩れ落ちた。
見えない刃。
制御不能。
最悪だ。
「あと少しです……!」
ナギは息を切らしながら叫んだ。
返事はない。
ただ、フィアはついてきていた。
足元がおぼつかなくなりながらも、転びそうになりながらも、彼女は必死に歩幅を合わせてくる。
そして、その隣を歩く巨体。
ダグラス。
英雄残響。
片腕のまま、赤い子供靴を胸へ抱えている。
その姿はもう、戦士というより壊れた像に近かった。肩は半分崩れ、胸の裂傷からは黒い霧が絶えず漏れ出し、軍服は血とも泥ともつかない汚れで固まっている。
それでも。
倒れない。
「……もうすこし」
掠れた声が雨音に混じる。
「……むかえに、いかないと」
避難所跡が見えた。
古い体育館。
窓ガラスはほとんど割れ落ち、屋根の一部が崩れている。鉄骨は錆び、入口には避難所時代の張り紙が風化したまま張り付いていた。
だが、近づくほど空気がおかしくなる。
冷たい。
いや、重い。
肺へ吸うたび、泥水を飲まされるみたいだった。
古い血の臭いがする。
焼けた木材。
カビ。
人の汗。
そして、ずっと閉じ込められていた絶望。
その全部が、湿った空気に沈殿していた。
ダグラスが止まる。
体育館を見上げた。
その片目が、ほんのわずかに揺れる。
「……ああ」
喉が潰れたような声。
「……ここだ」
次の瞬間だった。
地面が揺れた。
最初は小さい振動だった。だが、直後に体育館全体が内側から殴られたように大きく震え、割れ残っていた窓が一斉に砕け散る。
轟音。
耳が痛い。
錆びた鉄骨が軋み、屋根の一部が崩れ、コンクリート片が雨の中へ降り注ぐ。
同時に。
黒い瘴気が爆発みたいに噴き出した。
濃い。
異常なほど。
視界が黒く霞み、呼吸が詰まる。肺が拒絶反応を起こしたみたいに咳が止まらず、胃がひっくり返る。
そして。
出てきた。
瘴獣。
群れだった。
体育館の暗闇から、泥流みたいに溢れてくる。子供ほどのサイズのもの。熊のような巨体。顔の途中から顎が裂け、歯茎がむき出しになったもの。背中から骨が突き出し、肉が裂けたまま歩くもの。
臭いが酷い。
腐敗。
胃液。
濡れた獣毛。
血。
全部混ざった臭気が鼻腔へ刺さり、ナギは本気で吐きそうになった。
だが。
逃げ場はない。
ダグラスが前へ出る。
片腕を広げる。
まるで。
まだ守れると思っているみたいに。
「……こども」
声が割れる。
「……さわるな」
踏み込み。
轟音。
アスファルトが砕けた。
巨体が信じられない速度で前へ出る。
一体目の瘴獣を殴り潰した。
骨が砕け、肉が飛び散る。
二体目を壁へ叩きつけ、三体目を踏み潰す。
強い。
圧倒的に。
だが。
壊れている。
動くたび、身体が崩れていった。肩口が裂け、肋骨が落ち、黒い霧が激しく漏れ出す。
それでも止まらない。
「……にげろ」
人間の声だった。
その瞬間。
空気が裂けた。
フィアだった。
瘴気が彼女を中心に渦を巻き始めている。
体育館全体が軋んだ。
壁に亀裂が走る。
床が持ち上がる。
天井の鉄骨が悲鳴みたいな音を立て、雨漏りしていた水が振動で霧状に弾け飛ぶ。
まずい。
本当にまずい。
フィアの赤い瞳から光が消えていた。
焦点がない。
呼吸も乱れている。
そして、右腕から伸びた黒い亀裂が、まるで空間そのものへ侵食するみたいに広がっていた。
見えない刃が走る。
体育館の柱が途中から切断される。
数秒遅れて、屋根が大きく沈んだ。
轟音。
床が跳ねる。
肺が揺れる。
立っていられない。
死ぬ。
本能が叫ぶ。
逃げろと。
今すぐ。
でも。
ナギの足は動いた。
怖かった。
喉が乾く。
呼吸が乱れる。
心臓がうるさい。
それでも、目の前の少女を置いていく方がもっと怖かった。
雨の夜が蘇る。
閉まる扉。
届かなかった手。
助けを呼ぶ声。
置いていった。
見捨てた。
その後悔だけが、何年も腐らず残っている。
「もう、置いていかない!」
ナギは叫んで、フィアの前へ飛び込んだ。
次の瞬間。
何かが身体を通り抜けた。
熱ではない。
もっと冷たい。
骨の内側へ氷を流し込まれたような感覚だった。
遅れて。
激痛。
肩から脇腹まで裂ける。
視界が跳ねた。
呼吸が止まる。
口の中に血が溢れた。
鉄の味。
胃液。
息が吸えない。
膝が笑う。
このまま倒れたら終わる。
死ぬ。
本当に。
頭のどこかが妙に冷静だった。
ああ、死ぬ時って、こんなふうに急なんだ。
でも。
嫌だった。
こんな場所で終わるのは。
また誰かを置いていくのは。
もっと嫌だった。
ナギは血を吐きながら、フィアを抱き締める。
「ここは戦場じゃない……!」
声が震える。
「もう終わったんだ……終わってるんだ!」
冷たい身体。
小さい肩。
震えている。
「誰も燃えてない!」
長い沈黙。
耳鳴り。
崩れる音。
遠くでダグラスが戦う音。
やがて。
フィアの指が、震えながらナギの服を掴んだ。
「……うそ」
か細い声。
「……まだ、いる」
視線の先。
ダグラスだった。
もう限界だった。
身体の半分が崩れている。
なのに。
まだ戦っている。
赤い靴を抱えたまま。
「……ごめんなぁ」
掠れた声。
「……おれ、英雄だったんだ」
一体を殴る。
腕が砕ける。
「……だから、怖いなんて言えなかった」
膝をつく。
雨が肩を打つ。
「……子供が泣いてた。助けろって……でも、おれ」
言葉が途切れる。
片目が揺れる。
「……逃げた」
静かだった。
その告白だけが。
妙に重かった。
「……強いふりした。守れるふりした」
笑う。
壊れた顔で。
「……でも、寒かった。怖かった。死にたくなかった」
そして。
赤い靴を抱き締める。
「……迎えに行くって言ったのになぁ」
沈黙。
「……遅かったなぁ」
フィアが小さく前へ出る。
手を伸ばす。
だが。
救済ではない。
「……帰れなかった」
フィアが呟く。
ダグラスの片目が揺れた。
一瞬だけ。
痛そうに笑う。
そして。
崩れた。
灰になって消える。
赤い靴だけが残った。
雨に打たれながら。
帰る場所もなく。
遠くで。
サイレンが鳴る。
一つじゃない。
複数。
近い。
スマホが震えた。
【研究管理部:対象位置特定】
【回収部隊、到着予定:6分】
ナギは血を吐いた。
肩が焼けるみたいに痛い。
呼吸も苦しい。
それでも。
フィアの手を掴む。
震えていた。
自分の手も。
でも。
離さなかった。
「行きます」
息を整える。
痛い。
怖い。
それでも。
「今度は、絶対に置いていかない」