英雄回収局   作:自給自足

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3話

非常階段は冷えていた。

鉄の手すりが濡れている。昨夜から続く雨のせいだ。靴裏が滑るたび、古い金属が鈍く鳴った。

ナギは振り返る。

アパート三階。

自分の部屋の窓。

カーテンは閉まっている。

だが、その向こうにまだ誰かの視線が残っている気がした。

嫌な感覚だった。

見られている。

追われている。

逃げ切れない。

そんな感覚が、背骨の内側にじわじわ張り付いて離れない。

スマホを見る。

【08:58】

あと二時間。

正確には。

一時間五十二分。

十一時。

回収。

その言葉が頭の中で重かった。

ナギは舌打ちを飲み込む。

時間を見るたび、呼吸が浅くなる。

焦るな。

急げ。

でも焦るな。

矛盾した声が頭の中でうるさい。

フィアが後ろを歩いている。

足音は小さい。

というより、軽すぎた。

存在感が薄い。

ふと見失いそうになるくらい。

なのに。

空気だけが重い。

ナギは一度足を止めた。

「大丈夫ですか」

フィアは顔を上げる。

赤い目。

昨夜より少し焦点がある。

でも。

右腕の黒変は広がっていた。

手首から肘近くまで。

黒い筋が皮膚の下を這っている。

血管みたいで気持ち悪い。

「寒い?」

少し考えて。

「……痛くない」

質問と違う。

つまり。

痛いのだ。

ナギは目を逸らした。

最悪だ。

時間制限。

監視。

暴走リスク。

そして、壊れ始めている少女。

なのに、自分は何も知らない。

避難所跡までは徒歩二十分。

第三区。

今はほとんど人が寄り付かない。

瘴獣発生率が高く、閉鎖区との境界も近い。昔は避難所だった体育館も、今は半分崩れていると聞く。

朝の街は静かだった。

会社員が足早に歩く。

コンビニの前で学生がパンを齧る。

普通の朝。

その横を。

人型残響と逃亡中の管理官が歩いている。

妙な気分だった。

世界は普通に進む。

誰かが壊れていても。

誰かが消えても。

その時。

フィアが止まった。

急だった。

ナギも足を止める。

「どうした」

フィアは道路の向こうを見ている。

視線の先。

赤い子供用の靴。

片方だけ。

雨に濡れた歩道脇へ転がっていた。

安物だ。

泥で汚れている。

ただ。

フィアの顔色が変わった。

「……帰れない」

声が掠れる。

初めてだった。

明確な感情が混じっている。

恐怖。

あるいは。

悲しみ。

「誰が?」

フィアは答えない。

ただ、靴を見ている。

赤い目が揺れていた。

嫌な予感がした。

ナギはスマホを見る。

【09:17】

時間が減る。

汗が滲む。

立ち止まっている余裕はない。

なのに。

フィアが動かない。

「行きますよ」

その瞬間だった。

風が吹く。

冷たい。

季節外れの寒さ。

歩道脇の水溜まりが小さく揺れた。

そして。

赤い靴が。

ひとりでに、少し動いた。

ナギの背筋が凍る。

次の瞬間。

耳鳴り。

街の音が急に遠くなる。

車の音。

人の声。

全部。

薄い膜を挟んだみたいに遠い。

瘴気だ。

濃い。

近い。

しかも。

嫌な種類。

古い残響。

粘つくみたいな空気。

喉がざらつく。

ナギは反射的にフィアを引き寄せた。

「下がれ」

言い終わる前だった。

歩道脇の影が、ゆっくり膨らむ。

黒い。

人影。

大きい。

異常に大きい。

雨粒を弾きながら、それは道路脇から立ち上がった。

人だった。

いや。

人だったもの。

軍服。

砕けた肩章。

片腕がない。

胸には深い裂傷。

なのに、立っている。

頭だけが不自然に傾いていた。

口元が動く。

「……まに、あわなかった」

低い声。

錆びた鉄みたいな声だった。

「……また」

赤い靴を見る。

「……おいてしまった」

ナギの呼吸が止まる。

嫌な予感が、はっきり形になった。

強い残響。

しかも。

英雄級だ。

スマホが震える。

【緊急通知】

【対象:第三区避難所跡】

【英雄残響反応確認】

【危険度:A級へ上方修正】

ナギは空を見た。

雨は止まない。

時間も止まらない。

【09:24】

あと。

一時間三十六分だった。

 

英雄級。

最悪の分類だった。

残響の中でも、特に厄介な存在。

生前の力が強いほど、未練が深いほど、壊れた時の被害は広がる。

そして。

たいてい、救えない。

ナギは短剣へ手を伸ばした。

濡れた柄が冷たい。

目の前の男は動かない。

巨体。

崩れた軍服。

裂けた胸。

なのに、立っている。

近くで見ると異様だった。肩口には乾いた泥がこびりつき、軍服の裾は半分焼け焦げている。皮膚はところどころ灰色にひび割れ、その隙間から黒い瘴気が細く漏れていた。

死んでいる。

それだけは分かる。

でも。

終わっていない。

「……おいてしまった」

男が呟く。

視線は赤い靴へ固定されたままだ。

「……まもれなかった」

声が掠れている。

喉が潰れたみたいな声だった。

雨音に混ざって、妙に耳へ残る。

歩行者は気づいていない。

誰も見ていない。

残響汚染の薄い人間には認識しづらい。

だからこそ危ない。

暴れ始めれば、気づいた時には遅い。

フィアがナギの後ろで小さく息を呑む。

「……泣いてる」

ナギは眉を寄せた。

「何が?」

「……この人」

風が吹く。

冷たい。

男の足元から黒い霧が広がる。雨水へ混じり、排水溝へ流れ込んでいくそれは、油を垂らしたみたいに鈍く光っていた。

嫌な兆候だった。

瘴気濃度が上がっている。

長くは持たない。

ナギは簡易測定器を取り出した。

数値が跳ねる。

警告音。

【危険域】

胃が沈んだ。

「フィア、少し離れて」

返事はない。

赤い目が男へ向いたまま。

動かない。

その時。

男がゆっくり顔を上げた。

片目が潰れていた。

もう片方だけが、ぼんやり赤く光っている。

「……こども」

低い声。

視線がフィアへ向く。

ナギの身体が強張った。

「……にげろ」

次の瞬間。

轟音。

道路脇のアスファルトが弾け飛んだ。

黒い塊。

瘴獣。

下水口から這い出る。

一体。

二体。

三体。

犬みたいな形だった。

ただし、皮膚がない。

赤黒い肉が剥き出しで、肋骨が外へ飛び出している。目玉は左右で数が違い、口の端から黒い液体が糸を引いていた。

臭い。

腐った肉。

鉄。

濡れた下水。

全部混ざった匂いが鼻へ刺さる。

歩行者の悲鳴。

遅れて混乱が始まる。

「下がれ!」

ナギはフィアを押す。

同時に短剣を抜いた。

一体が跳ぶ。

速い。

口が裂ける。

牙。

黒い唾液。

ナギは身体を捻った。

寸前。

肩を掠める。

熱い。

ジャケットが裂ける。

舌打ち。

低く構える。

喉。

関節。

弱点は大体同じだ。

飛び込んでくる二体目。

短剣を横へ払う。

肉が裂ける。

骨に引っかかる感触。

鈍い。

嫌な手応えだった。

瘴獣が悲鳴を上げる。

なのに倒れない。

「くそ……!」

三体目。

横から。

間に合わない。

そう思った瞬間。

轟音。

空気が裂けた。

黒い線が走る。

遅れて。

瘴獣の上半身が滑り落ちた。

断面がずれる。

血ではない。

黒い泥みたいな液体が道路へ広がる。

フィアだった。

右腕。

黒変が進んでいる。

指先から肘まで。

空気が歪む。

赤い目。

焦点が消えていた。

「……ころす」

声が低い。

まずい。

本当に。

ナギは息を飲む。

フィアの周囲だけ温度が狂っていた。冷たいのに、肌が焼けるみたいな圧迫感がある。道路脇の街路樹の葉が、触れてもいないのにぱらぱら落ち始める。

男――英雄残響が動いた。

ゆっくり。

片腕でフィアの前へ出る。

「……だめだ」

掠れた声。

「……こども、ころすな」

瘴獣が唸る。

増えている。

道路の向こう。

建物の隙間。

五体。

六体。

多い。

しかも。

英雄級の瘴気へ引き寄せられている。

ナギはスマホを見る。

【09:39】

あと一時間二十一分。

研究部。

回収。

全部迫ってくる。

なのに。

今は目の前の地獄を止めるしかなかった。

「……避難所跡まで誘導する」

ナギは短く息を吐く。

最悪の選択だ。

でも。

住宅街で戦えば被害が出る。

英雄残響。

不安定なフィア。

群れる瘴獣。

ここで暴れれば終わる。

ナギはフィアを見る。

「走れますか」

返事はない。

赤い目が揺れる。

壊れかけている。

それでも。

男が、赤い靴を拾った。

震える指で。

胸に抱える。

「……かえる」

その言葉だけが。

妙に、悲しかった。

 

雨脚は弱まらなかった。

空は低く、灰色に沈み、潰れかけた雲の底から冷たい水を延々と零している。濡れた道路を走るたび、靴裏が滑り、泥水が跳ねた。

ナギは何度目か分からない舌打ちを喉の奥へ押し込む。

後ろから聞こえる音が、もう人間の追跡音ではなかった。

湿った肉が地面を叩く音。

硬い骨が擦れ、どこかで歯が鳴る音。

獣の呼吸に混じって、子供が笑うような高い声まで聞こえる。

瘴獣だった。

しかも群れ。

住宅街の隙間から、排水路の暗がりから、崩れた塀の向こうから、黒いものが次々と這い出してくる。犬のような形をしたもの、脚が異様に長いもの、腹を裂いたまま臓物を引きずるもの。濡れたアスファルトの上を滑るように迫ってくる姿は、生き物というより悪夢に近かった。

数が増えている。

十体。

いや、もう十五はいる。

しかも。

フィアの様子が悪い。

呼吸が浅い。

右腕の黒変は肩まで侵食し、首筋にも黒い筋が浮かんでいた。肌の下で何かが脈打つたび、空気そのものがきしみ、視界の端が歪む。

危険信号だった。

明らかに。

限界が近い。

走りながら、道路脇のガードレールが突然、何の前触れもなく斜めに断ち切られた。

音が遅れて来る。

鉄が悲鳴を上げ、切断面がずれて崩れ落ちた。

見えない刃。

制御不能。

最悪だ。

「あと少しです……!」

ナギは息を切らしながら叫んだ。

返事はない。

ただ、フィアはついてきていた。

足元がおぼつかなくなりながらも、転びそうになりながらも、彼女は必死に歩幅を合わせてくる。

そして、その隣を歩く巨体。

ダグラス。

英雄残響。

片腕のまま、赤い子供靴を胸へ抱えている。

その姿はもう、戦士というより壊れた像に近かった。肩は半分崩れ、胸の裂傷からは黒い霧が絶えず漏れ出し、軍服は血とも泥ともつかない汚れで固まっている。

それでも。

倒れない。

「……もうすこし」

掠れた声が雨音に混じる。

「……むかえに、いかないと」

避難所跡が見えた。

古い体育館。

窓ガラスはほとんど割れ落ち、屋根の一部が崩れている。鉄骨は錆び、入口には避難所時代の張り紙が風化したまま張り付いていた。

だが、近づくほど空気がおかしくなる。

冷たい。

いや、重い。

肺へ吸うたび、泥水を飲まされるみたいだった。

古い血の臭いがする。

焼けた木材。

カビ。

人の汗。

そして、ずっと閉じ込められていた絶望。

その全部が、湿った空気に沈殿していた。

ダグラスが止まる。

体育館を見上げた。

その片目が、ほんのわずかに揺れる。

「……ああ」

喉が潰れたような声。

「……ここだ」

次の瞬間だった。

地面が揺れた。

最初は小さい振動だった。だが、直後に体育館全体が内側から殴られたように大きく震え、割れ残っていた窓が一斉に砕け散る。

轟音。

耳が痛い。

錆びた鉄骨が軋み、屋根の一部が崩れ、コンクリート片が雨の中へ降り注ぐ。

同時に。

黒い瘴気が爆発みたいに噴き出した。

濃い。

異常なほど。

視界が黒く霞み、呼吸が詰まる。肺が拒絶反応を起こしたみたいに咳が止まらず、胃がひっくり返る。

そして。

出てきた。

瘴獣。

群れだった。

体育館の暗闇から、泥流みたいに溢れてくる。子供ほどのサイズのもの。熊のような巨体。顔の途中から顎が裂け、歯茎がむき出しになったもの。背中から骨が突き出し、肉が裂けたまま歩くもの。

臭いが酷い。

腐敗。

胃液。

濡れた獣毛。

血。

全部混ざった臭気が鼻腔へ刺さり、ナギは本気で吐きそうになった。

だが。

逃げ場はない。

ダグラスが前へ出る。

片腕を広げる。

まるで。

まだ守れると思っているみたいに。

「……こども」

声が割れる。

「……さわるな」

踏み込み。

轟音。

アスファルトが砕けた。

巨体が信じられない速度で前へ出る。

一体目の瘴獣を殴り潰した。

骨が砕け、肉が飛び散る。

二体目を壁へ叩きつけ、三体目を踏み潰す。

強い。

圧倒的に。

だが。

壊れている。

動くたび、身体が崩れていった。肩口が裂け、肋骨が落ち、黒い霧が激しく漏れ出す。

それでも止まらない。

「……にげろ」

人間の声だった。

その瞬間。

空気が裂けた。

フィアだった。

瘴気が彼女を中心に渦を巻き始めている。

体育館全体が軋んだ。

壁に亀裂が走る。

床が持ち上がる。

天井の鉄骨が悲鳴みたいな音を立て、雨漏りしていた水が振動で霧状に弾け飛ぶ。

まずい。

本当にまずい。

フィアの赤い瞳から光が消えていた。

焦点がない。

呼吸も乱れている。

そして、右腕から伸びた黒い亀裂が、まるで空間そのものへ侵食するみたいに広がっていた。

見えない刃が走る。

体育館の柱が途中から切断される。

数秒遅れて、屋根が大きく沈んだ。

轟音。

床が跳ねる。

肺が揺れる。

立っていられない。

死ぬ。

本能が叫ぶ。

逃げろと。

今すぐ。

でも。

ナギの足は動いた。

怖かった。

喉が乾く。

呼吸が乱れる。

心臓がうるさい。

それでも、目の前の少女を置いていく方がもっと怖かった。

雨の夜が蘇る。

閉まる扉。

届かなかった手。

助けを呼ぶ声。

置いていった。

見捨てた。

その後悔だけが、何年も腐らず残っている。

「もう、置いていかない!」

ナギは叫んで、フィアの前へ飛び込んだ。

次の瞬間。

何かが身体を通り抜けた。

熱ではない。

もっと冷たい。

骨の内側へ氷を流し込まれたような感覚だった。

遅れて。

激痛。

肩から脇腹まで裂ける。

視界が跳ねた。

呼吸が止まる。

口の中に血が溢れた。

鉄の味。

胃液。

息が吸えない。

膝が笑う。

このまま倒れたら終わる。

死ぬ。

本当に。

頭のどこかが妙に冷静だった。

ああ、死ぬ時って、こんなふうに急なんだ。

でも。

嫌だった。

こんな場所で終わるのは。

また誰かを置いていくのは。

もっと嫌だった。

ナギは血を吐きながら、フィアを抱き締める。

「ここは戦場じゃない……!」

声が震える。

「もう終わったんだ……終わってるんだ!」

冷たい身体。

小さい肩。

震えている。

「誰も燃えてない!」

長い沈黙。

耳鳴り。

崩れる音。

遠くでダグラスが戦う音。

やがて。

フィアの指が、震えながらナギの服を掴んだ。

「……うそ」

か細い声。

「……まだ、いる」

視線の先。

ダグラスだった。

もう限界だった。

身体の半分が崩れている。

なのに。

まだ戦っている。

赤い靴を抱えたまま。

「……ごめんなぁ」

掠れた声。

「……おれ、英雄だったんだ」

一体を殴る。

腕が砕ける。

「……だから、怖いなんて言えなかった」

膝をつく。

雨が肩を打つ。

「……子供が泣いてた。助けろって……でも、おれ」

言葉が途切れる。

片目が揺れる。

「……逃げた」

静かだった。

その告白だけが。

妙に重かった。

「……強いふりした。守れるふりした」

笑う。

壊れた顔で。

「……でも、寒かった。怖かった。死にたくなかった」

そして。

赤い靴を抱き締める。

「……迎えに行くって言ったのになぁ」

沈黙。

「……遅かったなぁ」

フィアが小さく前へ出る。

手を伸ばす。

だが。

救済ではない。

「……帰れなかった」

フィアが呟く。

ダグラスの片目が揺れた。

一瞬だけ。

痛そうに笑う。

そして。

崩れた。

灰になって消える。

赤い靴だけが残った。

雨に打たれながら。

帰る場所もなく。

遠くで。

サイレンが鳴る。

一つじゃない。

複数。

近い。

スマホが震えた。

【研究管理部:対象位置特定】

【回収部隊、到着予定:6分】

ナギは血を吐いた。

肩が焼けるみたいに痛い。

呼吸も苦しい。

それでも。

フィアの手を掴む。

震えていた。

自分の手も。

でも。

離さなかった。

「行きます」

息を整える。

痛い。

怖い。

それでも。

「今度は、絶対に置いていかない」

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