英雄回収局   作:自給自足

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4話

雨は、夕方になっても止まなかった。

第三区を抜けてから、どれくらい歩いただろう。

靴の中は冷たい水で満ち、歩くたびに足裏へ重く貼りつく。アスファルトに溜まった雨水は油を薄く浮かべて濁り、壊れた信号機の赤が、その表面でぼんやりと滲んでいた。

街は、静かだった。

正確には、静かすぎた。

崩れたビルの隙間を風が抜ける音。遠くで軋む鉄骨。排水路へ落ちる雨音。

それ以外が、ない。

人の気配が薄すぎる街は、逆に神経を削る。

ナギは濡れた前髪を払い、肩口を押さえた。

服の下で傷が熱を持っている。応急処置はしたが、動いたせいでまた開いたらしい。じっとりと湿った感触が肌に張りつき、血なのか雨なのか、もう区別がつかなかった。

脈を打つたび、耳の奥で鈍い音が鳴る。

——キィン。

遠くで誰かが叫んでいるような耳鳴りだった。

ナギは小さく舌打ちする。

侵食。

まだ軽い。そう思いたかった。

だが、身体の奥で何かがじわじわと広がっていく感覚は、嫌になるほど覚えがある。

振り返る。

フィアは数歩遅れて歩いていた。

白い髪は雨で濡れ、頬へ張りついている。右腕を覆う黒変は肩近くまで広がり、首筋にも細い黒い線が浮き始めていた。赤い瞳は半分眠っているようにぼやけていて、足取りも少し危うい。

けれど、転ばない。

ナギを見失わない程度の距離を、黙ってついてくる。

「……大丈夫か」

声をかける。

少し遅れて、フィアが顔を上げた。

「……わからない」

掠れた声だった。

以前より言葉は増えた。

だが、その変化を喜んでいいのか、ナギにはまだ判断がつかなかった。

研究部へ渡せば終わる。

その考えは、何度も頭をよぎる。

少なくとも、自分の手の届く場所で壊れていくよりは。

——いや。

ナギは息を吐いた。

考えるな。

もう選んだ。

鷺沢の顔が浮かぶ。

穏やかな口調。柔らかい笑み。

そして、人を“対象”として見る目。

あの男は怒鳴らない。

必要なら、静かなまま人を壊す。

それが何より嫌だった。

交差点を渡る。

ふと、コンビニのガラスに映った自分の姿が目に入った。

疲れた顔。

濡れた服。

その背後。

防犯モニターの画面が、一瞬だけ砂嵐に変わった。

ザッ——という白いノイズ。

そして、ほんの一瞬。

『回収』

そんな文字が映った気がした。

ナギの足が止まる。

次の瞬間には、普通のニュース映像に戻っていた。

見間違いか。

それとも。

背筋に、冷たいものが落ちる。

スマホを確認する。

圏外。

位置情報は切った。決済も使っていない。交通履歴も残していない。

できる限り痕跡は消した。

なのに。

追われている感覚だけが、皮膚の下へ薄く貼りついて離れなかった。

フィアが、不意に立ち止まる。

「……いる」

ナギの神経が跳ねた。

反射的に周囲を見る。

誰もいない。

濡れた道路。壊れたシャッター。積み上がった瓦礫。

ただ、雨だけが降っている。

「何がいる」

フィアはゆっくり顔を上げた。

細い指が、前方を指す。

「……あそこ」

古びた七階建てのホテルだった。

灰色の外壁はところどころ剥がれ、看板の文字も半分落ちている。窓の多くは割れ、暗い穴のように街を見下ろしていた。

だが。

入口前の水溜まりに、新しい靴跡が残っている。

いくつも。

完全な廃墟ではない。

誰かが、ここで生活している。

ナギはしばらく入口を見つめた。

危険かもしれない。

だが、このまま歩けばフィアの状態が先に崩れる。

自分も限界に近い。

肩の熱が増していた。

「……少しだけ休む」

フィアは無言で頷いた。

ホテルの自動ドアは壊れていて、半分だけ開いていた。

中へ足を踏み入れた瞬間、湿った空気がまとわりつく。

カビ臭い。

濡れた絨毯。

腐った木材。

その奥に、微かに混ざる生活臭。

湯気。

煙草。

古いスープの匂い。

人がいる。

受付の奥で、小型テレビが砂嵐を映していた。

ジジッ、と不規則なノイズが鳴る。

電源は入っている。

誰かが使っている。

ナギは短剣を抜いた。

反対の手でフィアを背へ寄せる。

「離れるな」

「……うん」

返事は小さい。

だが、服の裾を掴む指に力が入っていた。

その時だった。

上階から。

重く、遅い足音が降ってきた。

一歩。

止まる。

また一歩。

ゆっくり。

確かめるように。

ナギの呼吸が浅くなる。

短剣を握る手に力を込めた。

踊り場に、人影が現れる。

痩せた老人だった。

白髪混じりの頭。深く刻まれた皺。くたびれたカーディガン。

だが、その目だけが妙に鋭かった。

老人は二人を見る。

フィアを見る。

ナギの傷を見る。

そして、短剣を見た。

しばらく沈黙が落ちた。

やがて、老人が低い声で言う。

「……勝手に入るなよ」

敵意はない。

だが、警戒はある。

ナギは短剣を少し下げた。

「少し休みたいだけだ。すぐ出る」

老人は答えない。

ただ、二人をじっと見たあと、深く息を吐いた。

「傷、化膿するぞ」

低く、疲れた声だった。

「……上来い。雨の中で死なれても困る」

立花の声は疲れていたが、拒絶ではなかった。ナギは短剣を鞘に収め、フィアの背を軽く押した。二人は老人について階段を上がった。木の軋む音が、足音に重なる。非常灯の緑色が、濡れた足跡をぼんやり照らしていた。

 

四階の端の部屋は、想像していたよりずっと人の気配が残っていた。

壁紙は剥がれ、天井の一部には雨染みが広がっている。それでも、部屋の中央には小さなガスコンロが置かれ、古びたソファには毛布が丁寧に畳まれていた。窓際には、枯れた観葉植物。

誰かが、ここで生活を続けている。

それが妙に現実的で、逆に落ち着かなかった。

立花は何も言わず、棚から救急箱を引っ張り出した。

「座れ」

短い言葉だった。

ナギは少し迷い、ソファの端へ腰を下ろす。肩の傷を見られることに抵抗はあったが、今は動けなくなる方がまずい。

服を少しずらす。

消毒液が傷に落ちた瞬間、熱い痛みが肩から背中へ走った。

息が止まる。

「っ……」

歯を食いしばる。

その奥で、別の感覚があった。

痛みではない。

もっと深い場所。

骨の裏側を、何かがゆっくり這っていくような、不快な感覚。

耳鳴りがまた強くなる。

——キィン。

遠くで誰かが泣いている。

そんな錯覚。

ナギは目を閉じ、呼吸を整えた。

「熱あるな」

立花が淡々と言う。

「無理して歩いたろ」

「……別に」

「そういう顔してる」

老人の声には、責める響きがなかった。

ただ、疲れていた。

長く誰かを見送ってきた人間の声だった。

部屋の隅では、フィアが椅子に小さく座っていた。

濡れた髪を肩に張りつかせたまま、手渡された毛布に半分埋もれている。

目だけが、部屋の中を静かに見ていた。

立花が鍋に火をかける。

青い炎が、暗い部屋をわずかに揺らした。

湯が沸く音。

乾いた金属音。

部屋に、少しだけ生活の気配が戻る。

しばらくして、薄いスープが差し出された。

具はほとんどない。

けれど、湯気が立っていた。

フィアはスプーンを握ったまま、しばらく動かなかった。

警戒しているのか。

それとも、忘れているのか。

食べ方を。

「……熱い。気をつけろ」

ナギが言うと、フィアは少し考えてから、小さく頷いた。

恐る恐る口へ運ぶ。

数秒止まる。

そして。

「……あったかい」

小さな声だった。

けれど、それは妙に胸へ残った。

ただ温かい。

そんな当たり前の感覚に、驚いているようだった。

ナギは視線を逸らす。

胸の奥が、少しだけ痛んだ。

部屋の隅に、小さなマグカップが置かれているのに気づく。

赤い動物の絵柄。

隣には、色褪せた子供用の靴。

小さい。

もう長く使われていないのがわかる。

それでも埃は少なかった。

丁寧に置かれている。

片付けられないのではない。

置いてある。

ずっと。

立花は、そのことを説明しなかった。

ただ、窓の外を見ていた。

雨がガラスを細く叩く。

「……昔、ここ避難所だった」

ぽつりと、老人が言う。

「みんな言ってたよ。すぐ迎えが来るって。帰れるって」

そこで言葉が止まる。

長い沈黙。

鍋の中で、小さく湯が鳴る。

「寒いって、よく泣いてた」

視線は窓のまま。

「……俺だけ残った」

それ以上、語らない。

説明しない。

言葉にしない方が、痛いこともある。

フィアが、小さくマグカップを見つめていた。

赤い靴も。

しばらくして、呟く。

「……まだ、待ってる」

立花は答えなかった。

ただ、一度だけ目を閉じた。

 

夜が深くなる。

不自然なくらい、静かだった。

風もない。

街も鳴らない。

ただ雨だけが続いている。

ナギは違和感を覚えた。

静かすぎる。

追われている時の静けさは、休息じゃない。

次の音までの間だ。

その時。

机の上に置いたスマホが、ふっと光った。

圏外のままのはずだった。

画面には短い文字。

【肩の処置は済みましたか?】

ナギの指が止まる。

すぐ次の通知。

【第三層は夜冷えます】

消える。

履歴に残らない。

立花がこちらを見る。

「知り合いか」

「……違う」

違う。

でも。

見られている。

ずっと。

フィアが、いつの間にか隣へ来ていた。

肩が少し触れる距離。

毛布を抱えたまま、小さくこちらを見る。

「……ナギ」

名前を呼ばれる。

まだ少し、慣れない。

呼ばれるたび、胸の奥が不自然に揺れる。

「……いなくならない?」

雨の音が、一瞬だけ遠くなった。

閉まる扉。

届かなかった手。

名前を呼ぶ声。

置いていった。

置いていかれた。

腐らず残った後悔だけが、今も雨の夜に張りついている。

ナギは目を閉じた。

少しだけ呼吸が止まる。

そして。

「……いなくならない」

掠れた声だった。

言った瞬間。

ドアの下から、白い封筒が音もなく滑り込んだ。

誰かが今、置いた。

なのに。

足音がしない。

ナギは反射的に立ち上がる。

扉を開けた。

誰もいない。

長い廊下。

暗闇。

ただ、非常灯だけが静かに点いていた。

封筒へ視線を落とす。

中には、丁寧すぎる文字。

『ホテル滞在、お疲れ様です』

『第四層の暖房は故障中です』

『風邪を引かないよう、お気をつけください』

最後の一文だけ、少し小さい。

『置いていかないんですね。安心しました』

スマホがまた震えた。

【回収優先度:上昇】

【次は、もう少し早く着きます】

ナギの指先に力が入る。

封筒が歪んだ。

ゆっくりと振り返る。

フィアは毛布の中で小さく丸まっていた。すでに深く眠りに落ちている。

その細い右手の指は、さっきまで掴んでいたはずのナギの服の端を、虚空で弱く曲げたままだった。離さないように、確かめるように。

ナギはしばらく、その指を見ていた。

耳鳴りがまた遠くで鳴る。

雨は止まない。

もう、戻れない気がしていた。

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