英雄回収局 作:自給自足
雨は、夕方になっても止まなかった。
第三区を抜けてから、どれくらい歩いただろう。
靴の中は冷たい水で満ち、歩くたびに足裏へ重く貼りつく。アスファルトに溜まった雨水は油を薄く浮かべて濁り、壊れた信号機の赤が、その表面でぼんやりと滲んでいた。
街は、静かだった。
正確には、静かすぎた。
崩れたビルの隙間を風が抜ける音。遠くで軋む鉄骨。排水路へ落ちる雨音。
それ以外が、ない。
人の気配が薄すぎる街は、逆に神経を削る。
ナギは濡れた前髪を払い、肩口を押さえた。
服の下で傷が熱を持っている。応急処置はしたが、動いたせいでまた開いたらしい。じっとりと湿った感触が肌に張りつき、血なのか雨なのか、もう区別がつかなかった。
脈を打つたび、耳の奥で鈍い音が鳴る。
——キィン。
遠くで誰かが叫んでいるような耳鳴りだった。
ナギは小さく舌打ちする。
侵食。
まだ軽い。そう思いたかった。
だが、身体の奥で何かがじわじわと広がっていく感覚は、嫌になるほど覚えがある。
振り返る。
フィアは数歩遅れて歩いていた。
白い髪は雨で濡れ、頬へ張りついている。右腕を覆う黒変は肩近くまで広がり、首筋にも細い黒い線が浮き始めていた。赤い瞳は半分眠っているようにぼやけていて、足取りも少し危うい。
けれど、転ばない。
ナギを見失わない程度の距離を、黙ってついてくる。
「……大丈夫か」
声をかける。
少し遅れて、フィアが顔を上げた。
「……わからない」
掠れた声だった。
以前より言葉は増えた。
だが、その変化を喜んでいいのか、ナギにはまだ判断がつかなかった。
研究部へ渡せば終わる。
その考えは、何度も頭をよぎる。
少なくとも、自分の手の届く場所で壊れていくよりは。
——いや。
ナギは息を吐いた。
考えるな。
もう選んだ。
鷺沢の顔が浮かぶ。
穏やかな口調。柔らかい笑み。
そして、人を“対象”として見る目。
あの男は怒鳴らない。
必要なら、静かなまま人を壊す。
それが何より嫌だった。
交差点を渡る。
ふと、コンビニのガラスに映った自分の姿が目に入った。
疲れた顔。
濡れた服。
その背後。
防犯モニターの画面が、一瞬だけ砂嵐に変わった。
ザッ——という白いノイズ。
そして、ほんの一瞬。
『回収』
そんな文字が映った気がした。
ナギの足が止まる。
次の瞬間には、普通のニュース映像に戻っていた。
見間違いか。
それとも。
背筋に、冷たいものが落ちる。
スマホを確認する。
圏外。
位置情報は切った。決済も使っていない。交通履歴も残していない。
できる限り痕跡は消した。
なのに。
追われている感覚だけが、皮膚の下へ薄く貼りついて離れなかった。
フィアが、不意に立ち止まる。
「……いる」
ナギの神経が跳ねた。
反射的に周囲を見る。
誰もいない。
濡れた道路。壊れたシャッター。積み上がった瓦礫。
ただ、雨だけが降っている。
「何がいる」
フィアはゆっくり顔を上げた。
細い指が、前方を指す。
「……あそこ」
古びた七階建てのホテルだった。
灰色の外壁はところどころ剥がれ、看板の文字も半分落ちている。窓の多くは割れ、暗い穴のように街を見下ろしていた。
だが。
入口前の水溜まりに、新しい靴跡が残っている。
いくつも。
完全な廃墟ではない。
誰かが、ここで生活している。
ナギはしばらく入口を見つめた。
危険かもしれない。
だが、このまま歩けばフィアの状態が先に崩れる。
自分も限界に近い。
肩の熱が増していた。
「……少しだけ休む」
フィアは無言で頷いた。
ホテルの自動ドアは壊れていて、半分だけ開いていた。
中へ足を踏み入れた瞬間、湿った空気がまとわりつく。
カビ臭い。
濡れた絨毯。
腐った木材。
その奥に、微かに混ざる生活臭。
湯気。
煙草。
古いスープの匂い。
人がいる。
受付の奥で、小型テレビが砂嵐を映していた。
ジジッ、と不規則なノイズが鳴る。
電源は入っている。
誰かが使っている。
ナギは短剣を抜いた。
反対の手でフィアを背へ寄せる。
「離れるな」
「……うん」
返事は小さい。
だが、服の裾を掴む指に力が入っていた。
その時だった。
上階から。
重く、遅い足音が降ってきた。
一歩。
止まる。
また一歩。
ゆっくり。
確かめるように。
ナギの呼吸が浅くなる。
短剣を握る手に力を込めた。
踊り場に、人影が現れる。
痩せた老人だった。
白髪混じりの頭。深く刻まれた皺。くたびれたカーディガン。
だが、その目だけが妙に鋭かった。
老人は二人を見る。
フィアを見る。
ナギの傷を見る。
そして、短剣を見た。
しばらく沈黙が落ちた。
やがて、老人が低い声で言う。
「……勝手に入るなよ」
敵意はない。
だが、警戒はある。
ナギは短剣を少し下げた。
「少し休みたいだけだ。すぐ出る」
老人は答えない。
ただ、二人をじっと見たあと、深く息を吐いた。
「傷、化膿するぞ」
低く、疲れた声だった。
「……上来い。雨の中で死なれても困る」
立花の声は疲れていたが、拒絶ではなかった。ナギは短剣を鞘に収め、フィアの背を軽く押した。二人は老人について階段を上がった。木の軋む音が、足音に重なる。非常灯の緑色が、濡れた足跡をぼんやり照らしていた。
四階の端の部屋は、想像していたよりずっと人の気配が残っていた。
壁紙は剥がれ、天井の一部には雨染みが広がっている。それでも、部屋の中央には小さなガスコンロが置かれ、古びたソファには毛布が丁寧に畳まれていた。窓際には、枯れた観葉植物。
誰かが、ここで生活を続けている。
それが妙に現実的で、逆に落ち着かなかった。
立花は何も言わず、棚から救急箱を引っ張り出した。
「座れ」
短い言葉だった。
ナギは少し迷い、ソファの端へ腰を下ろす。肩の傷を見られることに抵抗はあったが、今は動けなくなる方がまずい。
服を少しずらす。
消毒液が傷に落ちた瞬間、熱い痛みが肩から背中へ走った。
息が止まる。
「っ……」
歯を食いしばる。
その奥で、別の感覚があった。
痛みではない。
もっと深い場所。
骨の裏側を、何かがゆっくり這っていくような、不快な感覚。
耳鳴りがまた強くなる。
——キィン。
遠くで誰かが泣いている。
そんな錯覚。
ナギは目を閉じ、呼吸を整えた。
「熱あるな」
立花が淡々と言う。
「無理して歩いたろ」
「……別に」
「そういう顔してる」
老人の声には、責める響きがなかった。
ただ、疲れていた。
長く誰かを見送ってきた人間の声だった。
部屋の隅では、フィアが椅子に小さく座っていた。
濡れた髪を肩に張りつかせたまま、手渡された毛布に半分埋もれている。
目だけが、部屋の中を静かに見ていた。
立花が鍋に火をかける。
青い炎が、暗い部屋をわずかに揺らした。
湯が沸く音。
乾いた金属音。
部屋に、少しだけ生活の気配が戻る。
しばらくして、薄いスープが差し出された。
具はほとんどない。
けれど、湯気が立っていた。
フィアはスプーンを握ったまま、しばらく動かなかった。
警戒しているのか。
それとも、忘れているのか。
食べ方を。
「……熱い。気をつけろ」
ナギが言うと、フィアは少し考えてから、小さく頷いた。
恐る恐る口へ運ぶ。
数秒止まる。
そして。
「……あったかい」
小さな声だった。
けれど、それは妙に胸へ残った。
ただ温かい。
そんな当たり前の感覚に、驚いているようだった。
ナギは視線を逸らす。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
部屋の隅に、小さなマグカップが置かれているのに気づく。
赤い動物の絵柄。
隣には、色褪せた子供用の靴。
小さい。
もう長く使われていないのがわかる。
それでも埃は少なかった。
丁寧に置かれている。
片付けられないのではない。
置いてある。
ずっと。
立花は、そのことを説明しなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
雨がガラスを細く叩く。
「……昔、ここ避難所だった」
ぽつりと、老人が言う。
「みんな言ってたよ。すぐ迎えが来るって。帰れるって」
そこで言葉が止まる。
長い沈黙。
鍋の中で、小さく湯が鳴る。
「寒いって、よく泣いてた」
視線は窓のまま。
「……俺だけ残った」
それ以上、語らない。
説明しない。
言葉にしない方が、痛いこともある。
フィアが、小さくマグカップを見つめていた。
赤い靴も。
しばらくして、呟く。
「……まだ、待ってる」
立花は答えなかった。
ただ、一度だけ目を閉じた。
夜が深くなる。
不自然なくらい、静かだった。
風もない。
街も鳴らない。
ただ雨だけが続いている。
ナギは違和感を覚えた。
静かすぎる。
追われている時の静けさは、休息じゃない。
次の音までの間だ。
その時。
机の上に置いたスマホが、ふっと光った。
圏外のままのはずだった。
画面には短い文字。
【肩の処置は済みましたか?】
ナギの指が止まる。
すぐ次の通知。
【第三層は夜冷えます】
消える。
履歴に残らない。
立花がこちらを見る。
「知り合いか」
「……違う」
違う。
でも。
見られている。
ずっと。
フィアが、いつの間にか隣へ来ていた。
肩が少し触れる距離。
毛布を抱えたまま、小さくこちらを見る。
「……ナギ」
名前を呼ばれる。
まだ少し、慣れない。
呼ばれるたび、胸の奥が不自然に揺れる。
「……いなくならない?」
雨の音が、一瞬だけ遠くなった。
閉まる扉。
届かなかった手。
名前を呼ぶ声。
置いていった。
置いていかれた。
腐らず残った後悔だけが、今も雨の夜に張りついている。
ナギは目を閉じた。
少しだけ呼吸が止まる。
そして。
「……いなくならない」
掠れた声だった。
言った瞬間。
ドアの下から、白い封筒が音もなく滑り込んだ。
誰かが今、置いた。
なのに。
足音がしない。
ナギは反射的に立ち上がる。
扉を開けた。
誰もいない。
長い廊下。
暗闇。
ただ、非常灯だけが静かに点いていた。
封筒へ視線を落とす。
中には、丁寧すぎる文字。
『ホテル滞在、お疲れ様です』
『第四層の暖房は故障中です』
『風邪を引かないよう、お気をつけください』
最後の一文だけ、少し小さい。
『置いていかないんですね。安心しました』
スマホがまた震えた。
【回収優先度:上昇】
【次は、もう少し早く着きます】
ナギの指先に力が入る。
封筒が歪んだ。
ゆっくりと振り返る。
フィアは毛布の中で小さく丸まっていた。すでに深く眠りに落ちている。
その細い右手の指は、さっきまで掴んでいたはずのナギの服の端を、虚空で弱く曲げたままだった。離さないように、確かめるように。
ナギはしばらく、その指を見ていた。
耳鳴りがまた遠くで鳴る。
雨は止まない。
もう、戻れない気がしていた。