英雄回収局 作:自給自足
朝がきた。
けれど、まともな朝じゃなかった。
雨は夜のうちに止んでいたが、空はまだ低く濁り、灰色の光が壊れたホテルの窓から薄く差し込んでいる。湿ったカーペットの臭いと、古い煙草、カビ、水を吸った木材の匂いが混ざり合い、肺の奥へじっとり沈んでいた。
ナギは浅い眠りから目を覚ます。
最初に来たのは耳鳴りだった。
――キィン。
細い金属音。
頭の奥を爪で引っ掻かれるような、不快な響き。
ナギは眉を寄せ、ゆっくり身体を起こした。肩の傷が熱を持っている。脈打つたび、焼けた鉄を押し込まれているみたいに痛んだ。
熱い。
なのに、指先だけが妙に冷たい。
視界の端が、一瞬だけ遅れて揺れる。
侵食。
知識としては知っている。
残響との長時間接触による瘴気汚染。初期症状は発熱、耳鳴り、寒気、感覚遅延。進行すれば感情が鈍り、判断力が崩れ、最後には人格そのものが侵される。
現場じゃ珍しくない。
だからこそ、分かってしまう。
――始まっている。
ナギは奥歯を噛んだ。
「……まだ、動ける」
掠れた声で、自分に言い聞かせる。
その時だった。
服の裾が、小さく引かれる。
視線を落とすと、フィアが毛布の中で丸くなっていた。白い髪が頬へ張りつき、黒変した右腕を抱え込むように眠っている。細い指だけが、ナギの服を弱く掴んでいた。
離れないように。
確かめるみたいに。
ナギはしばらく、その手を見つめた。
昨夜のことを思い出す。
――いなくならない?
胸の奥が鈍く軋む。
「……面倒なやつ」
小さく呟きながら、毛布を少し引き上げた。
そのまま静かに立ち上がり、部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、違和感に気づいた。
昨日まで散らばっていた空き缶が片付けられている。
倒れていた椅子も壁際へ寄せられ、破れたカーテンは簡単に結び直されていた。
誰かがいる。
いや。
誰かが、“整えた”。
なのに、人の気配だけがない。
ナギは無意識に短剣へ手を添え、ゆっくり階段を下りた。
二階ラウンジ。
そこにも違和感は続いていた。
ポット。
紙コップ。
缶詰が二つ。
簡素だが、まるで朝食みたいに綺麗に並べられている。
湯気まで立っていた。
ナギの喉が小さく鳴る。
誰もいない。
それでも。
見られている感覚だけが、皮膚へ薄く貼りついて離れなかった。
スマホが震える。
圏外表示のまま、画面だけが淡く点灯した。
【おはようございます】
ナギの呼吸が止まりかける。
続けて文字が増えた。
【発熱を確認しています】
【寒気と耳鳴りは侵食初期症状です】
【安静を推奨します】
指先が冷える。
位置だけじゃない。
身体の内側まで見られている。
その感覚が、生理的に気持ち悪かった。
「……趣味悪ぃな」
掠れた声が漏れる。
後ろで、小さな足音がした。
フィアだった。
眠そうな赤い目を擦りながら、ふらつく足取りで近づいてくる。白い髪はぼさぼさで、黒変した右腕を抱えるようにしながら、自然にナギの服の端を掴んだ。
「……いた」
「勝手にいなくなるかよ」
返してから、自分でも少し驚く。
以前なら、もっと突き放した言い方をしていた。
フィアは小さく瞬きをしたあと、低く呟いた。
「……おなか、へった」
その言い方が少しだけ自然になっていて、ナギは言葉を失う。
人間らしくなっている。
少しずつ。
それが良いことなのか、悪いことなのか、まだ分からなかった。
外で車のドアが閉まる音がした。
ナギの表情が変わる。
割れた窓の隙間から通りを見る。
白い車。
エンジンは掛かったまま。
コンビニ前には、煙草を吸う男。
自販機の横には、スマホを見続ける女。
全員、こちらを見ていない。
なのに。
配置が良すぎた。
包囲。
静かに逃げ道を塞がれている。
その時、一階から男の声が響いた。
「立花さん。おはようございます」
穏やかな声だった。
研究部。
「最近、見慣れない方はいませんでしたか?」
怒鳴らない。
脅さない。
社会の側の声だった。
ナギは息を殺す。
立花の返事は聞こえない。
だが、空気だけがゆっくり冷えていく。
「……行くぞ」
短く言う。
フィアが頷く。
その瞬間、耳鳴りがまた強くなった。
視界が揺れる。
壁へ手をついたナギを、フィアが反射的に支えた。
小さな手だった。
冷たい。
震えている。
怖いはずなのに。
それでも離れない。
胸の奥が、また鈍く痛んだ。
ホテル裏の非常階段へ向かう途中、ナギは足を止めた。
下の踊り場。
そこに、誰かが座っていた。
焦げ臭い。
焼けた布と、古い血の臭いが混ざっている。
濡れた防護服。
片腕のない男。
焼け爛れたヘルメットの隙間から、浅い呼吸音だけが漏れていた。
残響だ。
カチ、カチ、と壊れた無線機が鳴る。
男はそれを両手で抱えるように持ち、誰もいない先へ向かって呟いていた。
『……戻る』
ノイズ。
『今、戻るから』
途切れ途切れの声。
まるで、自分へ言い聞かせているみたいだった。
フィアがナギの服を掴む。
「……ないてる」
男の肩が、小さく震えていた。
ナギは動けない。
耳鳴りが強くなる。
男が、ゆっくり顔を上げた。
焼け爛れた皮膚の奥で、濁った目だけがナギを見る。
その瞬間、ナギは理解してしまった。
これは怪物じゃない。
終われなかった後悔だ。
男は掠れた声で笑う。
『……隊長なら』
ノイズ。
『置いていくなよ』
呼吸が、一度だけ止まった。
壊れた無線機のノイズが、湿った非常階段へ細く響いている。
カチ、カチ、と乾いた音。
男はもうこちらを見ていなかった。
焼け焦げた防護服のまま、崩れた無線を胸へ抱え込み、誰にも届かない言葉を繰り返している。
『……戻る』
ノイズ。
『今、戻るから』
その声には、もう意味なんて残っていなかった。
ただ後悔だけが、壊れた機械みたいに同じ場所を回り続けている。
フィアが服を引く。
「……ナギ」
小さな声だった。
ナギは返事ができない。
視界の奥で、別の雨の夜が重なる。
閉まる扉。
伸ばした手。
届かなかった。
耳鳴りが強くなる。
キィン、と細い金属音が頭の奥を削り続けていた。
侵食。
熱。
寒気。
感覚遅延。
現実の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
ナギはようやく息を吐いた。
「……行くぞ」
掠れた声だった。
フィアが小さく頷く。
ホテル裏口を抜けた瞬間、冷たい風が吹き込んできた。
雨上がりの街は静かだった。
静かすぎた。
遠くで車が走る音はする。
コンビニの電子音も聞こえる。
マンションのベランダには洗濯物まで揺れていた。
なのに。
世界全体が、自分たちを見ている気がした。
道路向こう。
白い車が増えている。
一台。
二台。
交差点の角にはスーツ姿の男。自販機の前には缶コーヒーを持った女。信号待ちをしている若い会社員までいる。
全員、普通だった。
だから怖い。
誰も銃なんて持っていない。
誰も追いかけてこない。
それでも。
逃げ道だけが、静かに塞がれていく。
「……囲まれてるな」
ナギが低く呟く。
フィアは小さく身体を寄せ、服を掴む力を少し強めた。
スマホが震える。
圏外表示のまま、画面だけが光る。
【現在位置を確認しています】
続けて。
【侵食進行率:微増】
喉の奥が冷えた。
身体の内側まで把握されている。
その事実が、生理的な嫌悪感になって背筋を這った。
【長時間接触は推奨されません】
【神経負荷が上昇しています】
ナギはスマホを握りしめる。
その瞬間だった。
視界が、大きく揺れた。
「っ……!」
膝が崩れかける。
壁へ手をつく。
耳鳴りが酷い。
遠くでサイレンが鳴っている。なのに、降っていないはずの雨音まで聞こえた。
黒い影が視界の端を横切る。
幻覚。
侵食による感覚異常。
ナギは奥歯を噛んだ。
まだ動ける。
まだ。
そう思った瞬間だった。
フィアが動く。
小さな身体が、反射みたいにナギの前へ滑り込んだ。
震えている。
呼吸も浅い。
黒変した右腕は細かく痙攣し、肩へ走る黒い筋が呼吸に合わせて脈打っていた。
それでも。
ナギを庇うみたいに前へ立つ。
「……だめ」
掠れた声。
赤い瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
「……ナギ、こわれる」
呼吸が止まる。
違う。
守るのは、自分の役目だった。
こんな役目を背負わせるつもりじゃなかった。
怖がって、震えて、助けを待っていればよかった。
なのに。
フィアはまだ前に立っている。
小さく首を振った。
「……いなくなる」
声が震える。
「……やだ」
その瞬間、胸の奥が激しく軋んだ。
熱い。
苦しい。
非常階段の男の声が蘇る。
――置いていくなよ。
ナギは目を閉じた。
研究部へ渡せば終わる。
フィアは管理される。
暴走も止まる。
街も壊れない。
それが正しい。
現場の人間として、理解している。
理解しているのに。
目の前で震えているこの少女を、置いていける気がしなかった。
フィアがまた一歩前へ出る。
足は震えている。
それでも、離れない。
ナギを庇うみたいに両腕を広げようとして、黒変した右腕が痛みに小さく痙攣した。
それでも下がらなかった。
「……まもる」
声は弱かった。
掠れていた。
けれど。
その言葉だけは、痛いほど真っ直ぐだった。
胸の奥が焼ける。
違う。
こんなことをさせたかったわけじゃない。
守られる側は、自分じゃなかったはずだ。
その時。
壁を赤い光が横切る。
レーザーサイト。
一つ。
二つ。
三つ。
スマホが震えた。
【回収班が到着しました】
【本日は保護のため、お迎えに上がりました】
文字がゆっくり増える。
【逃走は非推奨です】
少し遅れて、最後の一文が表示された。
【彼女は、あなたを守れません】
ナギはスマホを握りしめた。
けれど、視線はフィアの背中から離せなかった。
震えている。
壊れそうなのに。
それでも、まだ前に立っていた。
――守らせるつもりなんて、なかった。
胸の奥が、熱く痛む。
違う。
こんな役目を背負わせたかったわけじゃない。
なのに。
もう、自分だけの問題じゃなくなっていた。