英雄回収局   作:自給自足

5 / 13
5話

朝がきた。

けれど、まともな朝じゃなかった。

雨は夜のうちに止んでいたが、空はまだ低く濁り、灰色の光が壊れたホテルの窓から薄く差し込んでいる。湿ったカーペットの臭いと、古い煙草、カビ、水を吸った木材の匂いが混ざり合い、肺の奥へじっとり沈んでいた。

ナギは浅い眠りから目を覚ます。

最初に来たのは耳鳴りだった。

――キィン。

細い金属音。

頭の奥を爪で引っ掻かれるような、不快な響き。

ナギは眉を寄せ、ゆっくり身体を起こした。肩の傷が熱を持っている。脈打つたび、焼けた鉄を押し込まれているみたいに痛んだ。

熱い。

なのに、指先だけが妙に冷たい。

視界の端が、一瞬だけ遅れて揺れる。

侵食。

知識としては知っている。

残響との長時間接触による瘴気汚染。初期症状は発熱、耳鳴り、寒気、感覚遅延。進行すれば感情が鈍り、判断力が崩れ、最後には人格そのものが侵される。

現場じゃ珍しくない。

だからこそ、分かってしまう。

――始まっている。

ナギは奥歯を噛んだ。

「……まだ、動ける」

掠れた声で、自分に言い聞かせる。

その時だった。

服の裾が、小さく引かれる。

視線を落とすと、フィアが毛布の中で丸くなっていた。白い髪が頬へ張りつき、黒変した右腕を抱え込むように眠っている。細い指だけが、ナギの服を弱く掴んでいた。

離れないように。

確かめるみたいに。

ナギはしばらく、その手を見つめた。

昨夜のことを思い出す。

――いなくならない?

胸の奥が鈍く軋む。

「……面倒なやつ」

小さく呟きながら、毛布を少し引き上げた。

そのまま静かに立ち上がり、部屋を出る。

廊下へ出た瞬間、違和感に気づいた。

昨日まで散らばっていた空き缶が片付けられている。

倒れていた椅子も壁際へ寄せられ、破れたカーテンは簡単に結び直されていた。

誰かがいる。

いや。

誰かが、“整えた”。

なのに、人の気配だけがない。

ナギは無意識に短剣へ手を添え、ゆっくり階段を下りた。

二階ラウンジ。

そこにも違和感は続いていた。

ポット。

紙コップ。

缶詰が二つ。

簡素だが、まるで朝食みたいに綺麗に並べられている。

湯気まで立っていた。

ナギの喉が小さく鳴る。

誰もいない。

それでも。

見られている感覚だけが、皮膚へ薄く貼りついて離れなかった。

スマホが震える。

圏外表示のまま、画面だけが淡く点灯した。

【おはようございます】

ナギの呼吸が止まりかける。

続けて文字が増えた。

【発熱を確認しています】

【寒気と耳鳴りは侵食初期症状です】

【安静を推奨します】

指先が冷える。

位置だけじゃない。

身体の内側まで見られている。

その感覚が、生理的に気持ち悪かった。

「……趣味悪ぃな」

掠れた声が漏れる。

後ろで、小さな足音がした。

フィアだった。

眠そうな赤い目を擦りながら、ふらつく足取りで近づいてくる。白い髪はぼさぼさで、黒変した右腕を抱えるようにしながら、自然にナギの服の端を掴んだ。

「……いた」

「勝手にいなくなるかよ」

返してから、自分でも少し驚く。

以前なら、もっと突き放した言い方をしていた。

フィアは小さく瞬きをしたあと、低く呟いた。

「……おなか、へった」

その言い方が少しだけ自然になっていて、ナギは言葉を失う。

人間らしくなっている。

少しずつ。

それが良いことなのか、悪いことなのか、まだ分からなかった。

外で車のドアが閉まる音がした。

ナギの表情が変わる。

割れた窓の隙間から通りを見る。

白い車。

エンジンは掛かったまま。

コンビニ前には、煙草を吸う男。

自販機の横には、スマホを見続ける女。

全員、こちらを見ていない。

なのに。

配置が良すぎた。

包囲。

静かに逃げ道を塞がれている。

その時、一階から男の声が響いた。

「立花さん。おはようございます」

穏やかな声だった。

研究部。

「最近、見慣れない方はいませんでしたか?」

怒鳴らない。

脅さない。

社会の側の声だった。

ナギは息を殺す。

立花の返事は聞こえない。

だが、空気だけがゆっくり冷えていく。

「……行くぞ」

短く言う。

フィアが頷く。

その瞬間、耳鳴りがまた強くなった。

視界が揺れる。

壁へ手をついたナギを、フィアが反射的に支えた。

小さな手だった。

冷たい。

震えている。

怖いはずなのに。

それでも離れない。

胸の奥が、また鈍く痛んだ。

ホテル裏の非常階段へ向かう途中、ナギは足を止めた。

下の踊り場。

そこに、誰かが座っていた。

焦げ臭い。

焼けた布と、古い血の臭いが混ざっている。

濡れた防護服。

片腕のない男。

焼け爛れたヘルメットの隙間から、浅い呼吸音だけが漏れていた。

残響だ。

カチ、カチ、と壊れた無線機が鳴る。

男はそれを両手で抱えるように持ち、誰もいない先へ向かって呟いていた。

『……戻る』

ノイズ。

『今、戻るから』

途切れ途切れの声。

まるで、自分へ言い聞かせているみたいだった。

フィアがナギの服を掴む。

「……ないてる」

男の肩が、小さく震えていた。

ナギは動けない。

耳鳴りが強くなる。

男が、ゆっくり顔を上げた。

焼け爛れた皮膚の奥で、濁った目だけがナギを見る。

その瞬間、ナギは理解してしまった。

これは怪物じゃない。

終われなかった後悔だ。

男は掠れた声で笑う。

『……隊長なら』

ノイズ。

『置いていくなよ』

呼吸が、一度だけ止まった。

壊れた無線機のノイズが、湿った非常階段へ細く響いている。

カチ、カチ、と乾いた音。

男はもうこちらを見ていなかった。

焼け焦げた防護服のまま、崩れた無線を胸へ抱え込み、誰にも届かない言葉を繰り返している。

『……戻る』

ノイズ。

『今、戻るから』

その声には、もう意味なんて残っていなかった。

ただ後悔だけが、壊れた機械みたいに同じ場所を回り続けている。

フィアが服を引く。

「……ナギ」

小さな声だった。

ナギは返事ができない。

視界の奥で、別の雨の夜が重なる。

閉まる扉。

伸ばした手。

届かなかった。

耳鳴りが強くなる。

キィン、と細い金属音が頭の奥を削り続けていた。

侵食。

熱。

寒気。

感覚遅延。

現実の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。

ナギはようやく息を吐いた。

「……行くぞ」

掠れた声だった。

フィアが小さく頷く。

ホテル裏口を抜けた瞬間、冷たい風が吹き込んできた。

雨上がりの街は静かだった。

静かすぎた。

遠くで車が走る音はする。

コンビニの電子音も聞こえる。

マンションのベランダには洗濯物まで揺れていた。

なのに。

世界全体が、自分たちを見ている気がした。

道路向こう。

白い車が増えている。

一台。

二台。

交差点の角にはスーツ姿の男。自販機の前には缶コーヒーを持った女。信号待ちをしている若い会社員までいる。

全員、普通だった。

だから怖い。

誰も銃なんて持っていない。

誰も追いかけてこない。

それでも。

逃げ道だけが、静かに塞がれていく。

「……囲まれてるな」

ナギが低く呟く。

フィアは小さく身体を寄せ、服を掴む力を少し強めた。

スマホが震える。

圏外表示のまま、画面だけが光る。

【現在位置を確認しています】

続けて。

【侵食進行率:微増】

喉の奥が冷えた。

身体の内側まで把握されている。

その事実が、生理的な嫌悪感になって背筋を這った。

【長時間接触は推奨されません】

【神経負荷が上昇しています】

ナギはスマホを握りしめる。

その瞬間だった。

視界が、大きく揺れた。

「っ……!」

膝が崩れかける。

壁へ手をつく。

耳鳴りが酷い。

遠くでサイレンが鳴っている。なのに、降っていないはずの雨音まで聞こえた。

黒い影が視界の端を横切る。

幻覚。

侵食による感覚異常。

ナギは奥歯を噛んだ。

まだ動ける。

まだ。

そう思った瞬間だった。

フィアが動く。

小さな身体が、反射みたいにナギの前へ滑り込んだ。

震えている。

呼吸も浅い。

黒変した右腕は細かく痙攣し、肩へ走る黒い筋が呼吸に合わせて脈打っていた。

それでも。

ナギを庇うみたいに前へ立つ。

「……だめ」

掠れた声。

赤い瞳が、真っ直ぐこちらを見る。

「……ナギ、こわれる」

呼吸が止まる。

違う。

守るのは、自分の役目だった。

こんな役目を背負わせるつもりじゃなかった。

怖がって、震えて、助けを待っていればよかった。

なのに。

フィアはまだ前に立っている。

小さく首を振った。

「……いなくなる」

声が震える。

「……やだ」

その瞬間、胸の奥が激しく軋んだ。

熱い。

苦しい。

非常階段の男の声が蘇る。

――置いていくなよ。

ナギは目を閉じた。

研究部へ渡せば終わる。

フィアは管理される。

暴走も止まる。

街も壊れない。

それが正しい。

現場の人間として、理解している。

理解しているのに。

目の前で震えているこの少女を、置いていける気がしなかった。

フィアがまた一歩前へ出る。

足は震えている。

それでも、離れない。

ナギを庇うみたいに両腕を広げようとして、黒変した右腕が痛みに小さく痙攣した。

それでも下がらなかった。

「……まもる」

声は弱かった。

掠れていた。

けれど。

その言葉だけは、痛いほど真っ直ぐだった。

胸の奥が焼ける。

違う。

こんなことをさせたかったわけじゃない。

守られる側は、自分じゃなかったはずだ。

その時。

壁を赤い光が横切る。

レーザーサイト。

一つ。

二つ。

三つ。

スマホが震えた。

【回収班が到着しました】

【本日は保護のため、お迎えに上がりました】

文字がゆっくり増える。

【逃走は非推奨です】

少し遅れて、最後の一文が表示された。

【彼女は、あなたを守れません】

ナギはスマホを握りしめた。

けれど、視線はフィアの背中から離せなかった。

震えている。

壊れそうなのに。

それでも、まだ前に立っていた。

――守らせるつもりなんて、なかった。

胸の奥が、熱く痛む。

違う。

こんな役目を背負わせたかったわけじゃない。

なのに。

もう、自分だけの問題じゃなくなっていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。