英雄回収局 作:自給自足
レーザーサイトの赤い光が、雨上がりの壁をゆっくり滑っていた。
一つ。
二つ。
三つ。
ナギはフィアの腕を掴み、そのまま細い裏路地へ身体を滑り込ませる。
「走れるか」
掠れた声だった。
フィアは小さく頷く。
呼吸は浅い。
黒変した右腕を押さえながら、それでもナギの服だけは離さなかった。
ナギは唇を噛み、湿った路地を走る。雨水がひび割れたアスファルトへ溜まり、踏み込むたびに冷たい水が跳ねた。遠くでサイレンが鳴っている。
逃げ場は、少しずつ狭くなっていた。
耳鳴りが酷い。
キィン、と細い音が頭の奥を削り続けている。
視界も揺れる。
建物の輪郭が一瞬だけ遅れ、信号機の赤が滲んで見えた。
侵食。
思ったより速い。
「……っ」
足がもつれる。
壁へ肩をぶつけた瞬間、焼けるみたいな痛みが走った。
フィアが反射的にナギを支える。
小さな手だった。
冷たい。
震えている。
怖いはずなのに。
それでも離れない。
「……ナギ」
掠れた声。
「……いたい?」
また、その言葉だった。
ナギは苦く笑おうとして、失敗する。
「平気だ」
「……うそ」
即答だった。
ナギは一瞬、言葉を失う。
フィアは俯いたまま、服を掴む力を少し強くした。
「……こわれそう」
胸の奥が鈍く痛む。
路地を抜けた先、小さな公民館が見えた。
窓は割れている。
古い避難所跡だった。
ナギは周囲を確認し、フィアを連れて中へ入る。
カビ臭い。
湿った畳と埃の匂いが、冷えた空気に混ざっていた。壁には古い避難誘導ポスターが貼られたままになっている。
誰もいない。
静かだった。
ナギはようやく息を吐き、壁へ背を預けた。
その瞬間、視界がぐらりと揺れる。
熱い。
身体の奥だけが異様に熱かった。
それなのに指先は冷たい。
呼吸が浅い。
頭の奥では耳鳴りが止まらない。
侵食。
誤魔化せない段階まで来ていた。
ナギは乱暴に息を吐き、目を閉じる。
現場で何度も見てきた。
汚染された人間は、最初に感情が鈍る。
次に判断が崩れる。
最後には。
「……まだ、大丈夫だ」
自分へ言い聞かせる。
だが、声に力はなかった。
その時だった。
毛布の擦れる音がする。
フィアが、部屋の隅をふらつきながら歩いていた。
何をしているのかと思った次の瞬間。
古いロッカーを開け、中からペットボトルを引っ張り出してくる。
半分潰れたペットボトル、水が入っている。
フィアは転びそうになりながら戻ってくる。
キャップも少し緩んでいて、水は途中でかなり零れていた。
それでも。
真剣な顔で差し出してくる。
「……みず」
ナギは数秒、言葉を失った。
「……お前、それ探してたのか」
フィアはこくりと頷く。
雑だった。
不器用だった。
でも。
確かに“自分の意思”で動いた結果だった。
ナギはボトルを受け取り、一口だけ飲む。
冷たい水が、焼けるみたいな喉を少しだけ落ち着かせた。
「……ありがと」
掠れた声で礼を言う。
自分でも少し驚いた。
フィアは目を丸くする。
それから。
ほんの少しだけ。
本当に壊れそうなくらい小さく、口元を緩めた。
笑った。
その笑顔を見た瞬間、ナギの胸が強く締めつけられる。
怪物じゃない。
残響でもない。
ただ、不器用に誰かを気遣おうとしている少女だった。
その事実が、痛いほど苦しかった。
守るべきか。
渡すべきか。
その境界線が、胸の中で静かに揺れ始めていた。
外では、遠くのサイレンがまだ鳴り続けている。
包囲は終わっていない。
なのに、この薄暗い部屋だけが、一瞬だけ世界から切り離されたみたいに静かだった。
スマホが震える。
圏外表示。
それでも、画面だけが淡く光る。
【発熱は侵食の正常な進行です】
ナギの指が止まる。
続けて、文字が増えた。
【焦らなくて大丈夫です】
その一文だけが、妙に優しかった。
公民館はひどく静かだった。
雨は止んでいる。
それでも窓の外は灰色で、曇った光が割れたガラス越しに薄く床へ落ちていた。湿った畳の臭いと古い木材の匂いが混ざり、空気は重い。
ナギは壁へ背を預けたまま、浅く息を吐く。
熱が引かない。
むしろ、少しずつ身体の奥へ広がっている気がした。
肩の傷は脈打ち、骨の芯では何かが煮えているみたいに熱い。なのに、皮膚だけが妙に冷えていた。
耳鳴りも続いている。
キィン、と細い音。
時々、その奥へ別の音が混ざる。
雨音。
誰かの悲鳴。
閉まる扉。
現実と記憶の境目が、少しずつ曖昧になっていた。
「……まだ、判断はできる」
自分へ言い聞かせる。
だが、その声は驚くほど弱かった。
フィアはすぐ隣に座っていた。
膝を抱え込むように小さく丸まり、時々、不安そうにナギを見上げている。黒変した右腕は肩を越え、鎖骨の近くまで黒い筋を伸ばしていた。
それでも。
赤い瞳だけは、不思議なほど静かだった。
「……ナギ」
小さな声。
「……いたい?」
また、その問いだった。
ナギは目を閉じる。
「平気だと言ったら、信じるか?」
フィアは少し考えて、小さく首を振った。
「……うそ」
即答だった。
ナギは苦笑しようとして、できなかった。
いつから、こんなに人の顔を見るようになったのか。
昨日まで、ただ震えていた存在だった。
なのに今は、自分の痛みを理解しようとしている。
それが嬉しかった。
そして、怖かった。
その時だった。
部屋の隅に置かれた古いスピーカーが、突然ノイズを立てる。
ジジッ、と嫌な音。
ナギの身体が強張る。
次の瞬間。
低く穏やかな声が流れた。
【……聞こえていますか、ナギさん】
呼吸が止まりかけた。
鷺沢だった。
ナギは反射的に立ち上がろうとして、膝が揺れる。
「……っ」
フィアが慌てて支える。
小さな手が服を掴んだ。
スピーカーの向こうで、鷺沢は静かに続けた。
【現在、体温は三十八度を超えています】
【耳鳴り、感覚遅延、軽度幻聴も確認済みです】
声は落ち着いていた。
責めるでもなく、脅すでもない。
本当に、患者を心配しているみたいな声音だった。
それが逆に気持ち悪い。
【侵食は着実に進行しています】
【もう、時間は多くありません】
ナギは短剣を握りしめる。
「……どこまで見えてる」
【かなり正確に】
鷺沢は淡々と答えた。
【あなたは優しいわけではない】
胸の奥が、鈍く軋む。
フィアが不安そうにナギを見上げた。
【彼女を守りたい】
【置いていきたくない】
【それは、本当に彼女のためですか?】
ナギの呼吸が浅くなる。
雨の夜が蘇る。
閉まる扉。
届かなかった手。
『待って——』
耳鳴りが強くなった。
【本当は】
鷺沢の声だけが静かに響く。
【また失敗したくないだけでしょう?】
ナギの指が白くなる。
否定できなかった。
【彼女は危険です】
【次に暴走すれば、死ぬのは通行人かもしれない】
穏やかな声だった。
静かで、理性的で。
だからこそ逃げ場がない。
【子供かもしれない】
【母親かもしれない】
【あなたは、その責任を取れますか?】
息が詰まる。
現場で、何度も見てきた。
遅れた判断。
暴走。
崩れた日常。
だから分かる。
研究部の言葉は、正しい。
正しいから苦しい。
【正しい選択をしてください】
鷺沢の声はどこまでも穏やかだった。
【彼女を、渡してください】
スピーカーが、プツリと切れる。
静寂。
耳鳴りだけが残る。
ナギは壁へ額を押しつけ、荒く息を吐いた。
熱い。
苦しい。
頭では分かっている。
研究部へ渡せば終わる。
フィアは管理される。
暴走は止まる。
街も壊れない。
自分も治療を受けられる。
正しい。
明らかに。
なのに。
どうして、こんなにも胸が痛むのか。
ナギはゆっくり目を開ける。
フィアが、すぐ目の前にいた。
赤い瞳が、じっとこちらを見ている。
震えている。
怖がっている。
それでも逃げない。
「……ナギ」
掠れた声。
「……いた?」
その一言が、胸の奥へ深く刺さる。
守るべきか。
渡すべきか。
正しいことと、自分が離したくないもの。
その境界線で、ナギは初めて本気で揺らぎ始めていた。
フィアがゆっくり手を伸ばす。
冷たい指先が、ナギの頬へ触れた。
「……いたい、よね」
その声は小さかった。
でも。
どうしようもなく優しかった。
フィアの指先は冷たかった。
熱を持った頬へ触れられた瞬間、ナギは息を止める。
小さな手だった。
震えている。
黒変した右腕は細かく痙攣し、呼吸のたびに首筋へ伸びた黒い筋が微かに脈打っていた。
それでも。
彼女は離れない。
ナギは壁へ背を預けたまま、浅く息を吐いた。
熱い。
頭の奥が焼けるみたいに熱い。
なのに身体の表面は冷え切っていて、指先の感覚まで曖昧だった。
耳鳴りも止まらない。
キィン、と細い音。
その奥で、誰かの声が混ざる。
閉まる扉。
遠ざかる足音。
『待って——』
ナギは奥歯を噛んだ。
考えるな。
今はまだ、動ける。
そう思った瞬間、視界が揺れる。
身体が傾きかけた。
フィアが慌てて支える。
小さな肩で、必死にナギを支えようとしていた。
「……っ、おい」
「……だめ」
掠れた声。
「……たおれる」
真剣だった。
怖がっているくせに、逃げない。
その事実が、胸の奥を焼くみたいに痛かった。
フィアは数秒迷ったあと、ふらつく足取りで部屋の隅へ向かう。
古い洗面台。
錆びた蛇口を無理やり捻り、細く出た水へタオルを押し当てる。絞り方は雑で、水はぽたぽた床へ零れた。
それでも。
彼女は急ぐみたいに戻ってくる。
「……これ」
冷たいタオルが額へ乗せられる。
ナギは言葉を失った。
ぎこちない。
不器用だ。
でも。
必死だった。
怪物でも。
残響でもない。
ただ、自分を気遣おうとしている少女が、そこにいた。
その事実が苦しい。
胸の奥が、熱く軋む。
「……お前」
掠れた声が漏れる。
「そんな顔、するなよ」
フィアは少しだけ目を丸くした。
それから。
ゆっくり口元を緩める。
笑った。
本当に小さい笑顔だった。
壊れそうなくらい儚い。
でも。
その笑顔は、これまでで一番、ナギの胸を深く抉った。
守られる側だった存在が、自分の意思で笑っている。
自分を安心させようとしている。
その事実が、全部を狂わせる。
ナギは目を閉じた。
正しい選択は分かっている。
研究部へ渡せばいい。
フィアは管理される。
暴走も止まる。
街も壊れない。
自分も治療を受けられる。
現場の人間として、それが正しいと理解している。
なのに。
この手を離せる気がしなかった。
また置いていくのか。
また届かなくなるのか。
また、腐らない後悔を抱えるのか。
呼吸が、一度だけ止まる。
理屈が、静かに折れた。
ナギはゆっくり目を開ける。
フィアが不安そうに見上げていた。
「……ナギ」
小さな声。
「……いなくなる?」
胸の奥が激しく軋んだ。
痛い。
熱い。
苦しい。
それでも。
ナギはようやく、掠れた声を落とす。
「……俺は、優しくなんかない」
フィアが瞬きをする。
ナギは自嘲するみたいに笑った。
「ただ……もう、置いていきたくないだけだ」
その言葉を口にした瞬間だった。
胸の奥で、何かが静かに決壊する。
正しくない。
理解している。
それでも。
もう、この手を離せなかった。
フィアは数秒、呆けたみたいにナギを見つめていた。
それから。
ほんの少しだけ。
安心したみたいに笑う。
壊れそうなくらい、小さく。
その笑顔を見た瞬間、ナギは理解した。
――もう、戻れない。
ここが境界線だった。
外で、低い地響きが響く。
窓ガラスが微かに震えた。
遠くの街の空気が、ゆっくり黒く滲み始めている。
フィアの黒変が、脈打つ。
暴走の気配。
時間は残っていない。
ナギは短剣を握り、フィアの手を掴んだ。
今度は、自分から。
冷たい手だった。
震えていた。
それでも、離さない。
「……行くぞ」
フィアが小さく頷く。
その指は、もう離れなかった。
スマホが最後に震える。
圏外表示。
それでも文字だけが浮かぶ。
【あなたは、正しくありません】
少し遅れて。
もう一文。
【それでも、選ぶのですね】
ナギは画面を伏せる。
そして静かに息を吐いた。
この選択が、どれだけの後悔を生むのかは分からない。
それでも。
今だけは。
この手を離さなかった。