英雄回収局   作:自給自足

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6話

レーザーサイトの赤い光が、雨上がりの壁をゆっくり滑っていた。

一つ。

二つ。

三つ。

ナギはフィアの腕を掴み、そのまま細い裏路地へ身体を滑り込ませる。

「走れるか」

掠れた声だった。

フィアは小さく頷く。

呼吸は浅い。

黒変した右腕を押さえながら、それでもナギの服だけは離さなかった。

ナギは唇を噛み、湿った路地を走る。雨水がひび割れたアスファルトへ溜まり、踏み込むたびに冷たい水が跳ねた。遠くでサイレンが鳴っている。

逃げ場は、少しずつ狭くなっていた。

耳鳴りが酷い。

キィン、と細い音が頭の奥を削り続けている。

視界も揺れる。

建物の輪郭が一瞬だけ遅れ、信号機の赤が滲んで見えた。

侵食。

思ったより速い。

「……っ」

足がもつれる。

壁へ肩をぶつけた瞬間、焼けるみたいな痛みが走った。

フィアが反射的にナギを支える。

小さな手だった。

冷たい。

震えている。

怖いはずなのに。

それでも離れない。

「……ナギ」

掠れた声。

「……いたい?」

また、その言葉だった。

ナギは苦く笑おうとして、失敗する。

「平気だ」

「……うそ」

即答だった。

ナギは一瞬、言葉を失う。

フィアは俯いたまま、服を掴む力を少し強くした。

「……こわれそう」

胸の奥が鈍く痛む。

路地を抜けた先、小さな公民館が見えた。

窓は割れている。

古い避難所跡だった。

ナギは周囲を確認し、フィアを連れて中へ入る。

カビ臭い。

湿った畳と埃の匂いが、冷えた空気に混ざっていた。壁には古い避難誘導ポスターが貼られたままになっている。

誰もいない。

静かだった。

ナギはようやく息を吐き、壁へ背を預けた。

その瞬間、視界がぐらりと揺れる。

熱い。

身体の奥だけが異様に熱かった。

それなのに指先は冷たい。

呼吸が浅い。

頭の奥では耳鳴りが止まらない。

侵食。

誤魔化せない段階まで来ていた。

ナギは乱暴に息を吐き、目を閉じる。

現場で何度も見てきた。

汚染された人間は、最初に感情が鈍る。

次に判断が崩れる。

最後には。

「……まだ、大丈夫だ」

自分へ言い聞かせる。

だが、声に力はなかった。

その時だった。

毛布の擦れる音がする。

フィアが、部屋の隅をふらつきながら歩いていた。

何をしているのかと思った次の瞬間。

古いロッカーを開け、中からペットボトルを引っ張り出してくる。

半分潰れたペットボトル、水が入っている。

フィアは転びそうになりながら戻ってくる。

キャップも少し緩んでいて、水は途中でかなり零れていた。

それでも。

真剣な顔で差し出してくる。

「……みず」

ナギは数秒、言葉を失った。

「……お前、それ探してたのか」

フィアはこくりと頷く。

雑だった。

不器用だった。

でも。

確かに“自分の意思”で動いた結果だった。

ナギはボトルを受け取り、一口だけ飲む。

冷たい水が、焼けるみたいな喉を少しだけ落ち着かせた。

「……ありがと」

掠れた声で礼を言う。

自分でも少し驚いた。

フィアは目を丸くする。

それから。

ほんの少しだけ。

本当に壊れそうなくらい小さく、口元を緩めた。

笑った。

その笑顔を見た瞬間、ナギの胸が強く締めつけられる。

怪物じゃない。

残響でもない。

ただ、不器用に誰かを気遣おうとしている少女だった。

その事実が、痛いほど苦しかった。

守るべきか。

渡すべきか。

その境界線が、胸の中で静かに揺れ始めていた。

外では、遠くのサイレンがまだ鳴り続けている。

包囲は終わっていない。

なのに、この薄暗い部屋だけが、一瞬だけ世界から切り離されたみたいに静かだった。

スマホが震える。

圏外表示。

それでも、画面だけが淡く光る。

【発熱は侵食の正常な進行です】

ナギの指が止まる。

続けて、文字が増えた。

【焦らなくて大丈夫です】

その一文だけが、妙に優しかった。

 

公民館はひどく静かだった。

雨は止んでいる。

それでも窓の外は灰色で、曇った光が割れたガラス越しに薄く床へ落ちていた。湿った畳の臭いと古い木材の匂いが混ざり、空気は重い。

ナギは壁へ背を預けたまま、浅く息を吐く。

熱が引かない。

むしろ、少しずつ身体の奥へ広がっている気がした。

肩の傷は脈打ち、骨の芯では何かが煮えているみたいに熱い。なのに、皮膚だけが妙に冷えていた。

耳鳴りも続いている。

キィン、と細い音。

時々、その奥へ別の音が混ざる。

雨音。

誰かの悲鳴。

閉まる扉。

現実と記憶の境目が、少しずつ曖昧になっていた。

「……まだ、判断はできる」

自分へ言い聞かせる。

だが、その声は驚くほど弱かった。

フィアはすぐ隣に座っていた。

膝を抱え込むように小さく丸まり、時々、不安そうにナギを見上げている。黒変した右腕は肩を越え、鎖骨の近くまで黒い筋を伸ばしていた。

それでも。

赤い瞳だけは、不思議なほど静かだった。

「……ナギ」

小さな声。

「……いたい?」

また、その問いだった。

ナギは目を閉じる。

「平気だと言ったら、信じるか?」

フィアは少し考えて、小さく首を振った。

「……うそ」

即答だった。

ナギは苦笑しようとして、できなかった。

いつから、こんなに人の顔を見るようになったのか。

昨日まで、ただ震えていた存在だった。

なのに今は、自分の痛みを理解しようとしている。

それが嬉しかった。

そして、怖かった。

その時だった。

部屋の隅に置かれた古いスピーカーが、突然ノイズを立てる。

ジジッ、と嫌な音。

ナギの身体が強張る。

次の瞬間。

低く穏やかな声が流れた。

【……聞こえていますか、ナギさん】

呼吸が止まりかけた。

鷺沢だった。

ナギは反射的に立ち上がろうとして、膝が揺れる。

「……っ」

フィアが慌てて支える。

小さな手が服を掴んだ。

スピーカーの向こうで、鷺沢は静かに続けた。

【現在、体温は三十八度を超えています】

【耳鳴り、感覚遅延、軽度幻聴も確認済みです】

声は落ち着いていた。

責めるでもなく、脅すでもない。

本当に、患者を心配しているみたいな声音だった。

それが逆に気持ち悪い。

【侵食は着実に進行しています】

【もう、時間は多くありません】

ナギは短剣を握りしめる。

「……どこまで見えてる」

【かなり正確に】

鷺沢は淡々と答えた。

【あなたは優しいわけではない】

胸の奥が、鈍く軋む。

フィアが不安そうにナギを見上げた。

【彼女を守りたい】

【置いていきたくない】

【それは、本当に彼女のためですか?】

ナギの呼吸が浅くなる。

雨の夜が蘇る。

閉まる扉。

届かなかった手。

『待って——』

耳鳴りが強くなった。

【本当は】

鷺沢の声だけが静かに響く。

【また失敗したくないだけでしょう?】

ナギの指が白くなる。

否定できなかった。

【彼女は危険です】

【次に暴走すれば、死ぬのは通行人かもしれない】

穏やかな声だった。

静かで、理性的で。

だからこそ逃げ場がない。

【子供かもしれない】

【母親かもしれない】

【あなたは、その責任を取れますか?】

息が詰まる。

現場で、何度も見てきた。

遅れた判断。

暴走。

崩れた日常。

だから分かる。

研究部の言葉は、正しい。

正しいから苦しい。

【正しい選択をしてください】

鷺沢の声はどこまでも穏やかだった。

【彼女を、渡してください】

スピーカーが、プツリと切れる。

静寂。

耳鳴りだけが残る。

ナギは壁へ額を押しつけ、荒く息を吐いた。

熱い。

苦しい。

頭では分かっている。

研究部へ渡せば終わる。

フィアは管理される。

暴走は止まる。

街も壊れない。

自分も治療を受けられる。

正しい。

明らかに。

なのに。

どうして、こんなにも胸が痛むのか。

ナギはゆっくり目を開ける。

フィアが、すぐ目の前にいた。

赤い瞳が、じっとこちらを見ている。

震えている。

怖がっている。

それでも逃げない。

「……ナギ」

掠れた声。

「……いた?」

その一言が、胸の奥へ深く刺さる。

守るべきか。

渡すべきか。

正しいことと、自分が離したくないもの。

その境界線で、ナギは初めて本気で揺らぎ始めていた。

フィアがゆっくり手を伸ばす。

冷たい指先が、ナギの頬へ触れた。

「……いたい、よね」

その声は小さかった。

でも。

どうしようもなく優しかった。

フィアの指先は冷たかった。

熱を持った頬へ触れられた瞬間、ナギは息を止める。

小さな手だった。

震えている。

黒変した右腕は細かく痙攣し、呼吸のたびに首筋へ伸びた黒い筋が微かに脈打っていた。

それでも。

彼女は離れない。

ナギは壁へ背を預けたまま、浅く息を吐いた。

熱い。

頭の奥が焼けるみたいに熱い。

なのに身体の表面は冷え切っていて、指先の感覚まで曖昧だった。

耳鳴りも止まらない。

キィン、と細い音。

その奥で、誰かの声が混ざる。

閉まる扉。

遠ざかる足音。

『待って——』

ナギは奥歯を噛んだ。

考えるな。

今はまだ、動ける。

そう思った瞬間、視界が揺れる。

身体が傾きかけた。

フィアが慌てて支える。

小さな肩で、必死にナギを支えようとしていた。

「……っ、おい」

「……だめ」

掠れた声。

「……たおれる」

真剣だった。

怖がっているくせに、逃げない。

その事実が、胸の奥を焼くみたいに痛かった。

フィアは数秒迷ったあと、ふらつく足取りで部屋の隅へ向かう。

古い洗面台。

錆びた蛇口を無理やり捻り、細く出た水へタオルを押し当てる。絞り方は雑で、水はぽたぽた床へ零れた。

それでも。

彼女は急ぐみたいに戻ってくる。

「……これ」

冷たいタオルが額へ乗せられる。

ナギは言葉を失った。

ぎこちない。

不器用だ。

でも。

必死だった。

怪物でも。

残響でもない。

ただ、自分を気遣おうとしている少女が、そこにいた。

その事実が苦しい。

胸の奥が、熱く軋む。

「……お前」

掠れた声が漏れる。

「そんな顔、するなよ」

フィアは少しだけ目を丸くした。

それから。

ゆっくり口元を緩める。

笑った。

本当に小さい笑顔だった。

壊れそうなくらい儚い。

でも。

その笑顔は、これまでで一番、ナギの胸を深く抉った。

守られる側だった存在が、自分の意思で笑っている。

自分を安心させようとしている。

その事実が、全部を狂わせる。

ナギは目を閉じた。

正しい選択は分かっている。

研究部へ渡せばいい。

フィアは管理される。

暴走も止まる。

街も壊れない。

自分も治療を受けられる。

現場の人間として、それが正しいと理解している。

なのに。

この手を離せる気がしなかった。

また置いていくのか。

また届かなくなるのか。

また、腐らない後悔を抱えるのか。

呼吸が、一度だけ止まる。

理屈が、静かに折れた。

ナギはゆっくり目を開ける。

フィアが不安そうに見上げていた。

「……ナギ」

小さな声。

「……いなくなる?」

胸の奥が激しく軋んだ。

痛い。

熱い。

苦しい。

それでも。

ナギはようやく、掠れた声を落とす。

「……俺は、優しくなんかない」

フィアが瞬きをする。

ナギは自嘲するみたいに笑った。

「ただ……もう、置いていきたくないだけだ」

その言葉を口にした瞬間だった。

胸の奥で、何かが静かに決壊する。

正しくない。

理解している。

それでも。

もう、この手を離せなかった。

フィアは数秒、呆けたみたいにナギを見つめていた。

それから。

ほんの少しだけ。

安心したみたいに笑う。

壊れそうなくらい、小さく。

その笑顔を見た瞬間、ナギは理解した。

――もう、戻れない。

ここが境界線だった。

外で、低い地響きが響く。

窓ガラスが微かに震えた。

遠くの街の空気が、ゆっくり黒く滲み始めている。

フィアの黒変が、脈打つ。

暴走の気配。

時間は残っていない。

ナギは短剣を握り、フィアの手を掴んだ。

今度は、自分から。

冷たい手だった。

震えていた。

それでも、離さない。

「……行くぞ」

フィアが小さく頷く。

その指は、もう離れなかった。

スマホが最後に震える。

圏外表示。

それでも文字だけが浮かぶ。

【あなたは、正しくありません】

少し遅れて。

もう一文。

【それでも、選ぶのですね】

ナギは画面を伏せる。

そして静かに息を吐いた。

この選択が、どれだけの後悔を生むのかは分からない。

それでも。

今だけは。

この手を離さなかった。

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