英雄回収局 作:自給自足
路地へ出た瞬間、夜の空気が肺に刺さった。
雨は止んでいる。
けれど湿気はまだ街に残っていて、濡れたアスファルトと排水溝の臭いが重く漂っていた。遠くでは赤色灯が滲み、サイレンの音が何重にも反響している。
ナギはフィアの手を掴んだまま、細い裏路地を歩いていた。
いや。
歩いているというより、無理やり前へ進んでいた。
熱が酷い。
骨の奥で何かが焼けているみたいだった。反対に、皮膚の表面は氷みたいに冷えている。耳鳴りは止まらず、視界の端が時折わずかに遅れる。
半歩。
遅れて景色が追いつく。
「……っ」
壁へ手をつく。
吐き気が込み上げ、胃の奥が痙攣した。
フィアがすぐ隣で足を止める。
「……ナギ」
掠れた、小さな声だった。
彼女の右腕は、もう肩を越えて黒い筋を広げていた。首筋の近くまで侵食が這い上がり、細い身体が呼吸のたび微かに震えている。
それでも、赤い瞳だけはこちらを真っ直ぐ見ていた。
ナギは息を整えようとする。
うまく吸えない。
肺の中へ、冷たい空気だけが刺さる。
「……平気だ」
言った瞬間、自分で分かった。
嘘だ。
フィアも分かっていた。
彼女は何も言わない。ただ、不安そうに距離を詰め、ナギの服を弱く掴む。
離れないように。
置いていかれないように。
その感触が妙に熱かった。
遠くで、低い駆動音が響く。
ナギは顔を上げる。
交差点の向こう。
白い車両が一台、ゆっくりと横切っていく。
窓は黒い。
車体にマークはない。
だが現場を知っている人間なら分かる。
回収班だった。
「……来たか」
掠れた声が漏れる。
その瞬間。
キィン――。
耳鳴りが激しく弾けた。
視界が歪む。
雨音。
違う。
今は降っていない。
なのに、聞こえる。
『待って——』
ナギの呼吸が止まった。
閉まる扉。
濡れたアスファルト。
小さな手。
少年の顔が、一瞬だけ脳裏を過ぎる。
「……ぁ、っ」
膝から力が抜けた。
倒れかけた身体を、フィアが慌てて支える。
小さい身体だった。
細い腕だった。
それでも必死だった。
「……だめ」
震える声。
「……ナギ、こわれる」
ナギは目を見開いた。
フィアは怯えていた。
呼吸も浅い。
黒変した右腕が細かく痙攣し、周囲の空気が微かに黒く滲み始めている。それでも彼女はナギを庇うように前へ出た。
違う。
守らせるつもりじゃなかった。
こんな役目を背負わせるために、一緒にいるんじゃない。
胸の奥が焼けるみたいに痛む。
その時だった。
路地の入口へ、白い光が差し込む。
強烈なサーチライト。
複数。
逃げ場を潰すように、静かに光が広がっていく。
ナギは反射的に短剣へ手を伸ばした。
だが。
遅い。
灰色の装備に身を包んだ回収班が、音もなく路地へ入ってくる。
誰も怒鳴らない。
誰も殺気を撒き散らさない。
ただ静かに、逃走経路だけを塞いでいく。
その中央に、一人の男が立っていた。
鷺沢。
黒いコート姿のまま、雨上がりの路地に静かに立っている。
彼はまずフィアを見た。
次にナギを見る。
その視線には怒りも侮蔑もなかった。
ただ、疲労と——安堵が混じっていた。
「……間に合って良かった」
静かな声だった。
ナギは短剣を握る。
指先が震える。
熱い。
寒い。
感覚がおかしい。
鷺沢は一歩も近づかない。
代わりに、穏やかな声で続けた。
「侵食が進みすぎています」
耳鳴りが酷い。
視界が揺れる。
呼吸が浅い。
全部見抜かれている。
フィアが前へ出た。
ナギを隠すみたいに。
黒変した右腕を押さえ、それでも鷺沢を睨んでいる。
「……だめ」
小さな声。
「……ナギ、つれていくな」
その瞬間。
フィアの周囲で空気が黒く滲んだ。
温度が落ちる。
壁際の水滴が震える。
暴走兆候。
回収班が一斉に構えた。
緊張が走る。
ナギの背筋が冷えた。
このままフィアが暴走すれば、周囲を巻き込む。
一般人がいる。
道路の向こうには、まだ明かりのついたマンションが見えていた。
黒霧が広がれば、被害は止まらない。
ナギは息を呑む。
鷺沢だけは動かなかった。
彼は静かにフィアを見る。
「フィア」
初めて、名前で呼んだ。
「大丈夫です」
穏やかな声だった。
「これ以上続ければ、ナギさんが壊れる」
フィアの瞳が大きく揺れる。
黒霧が、一瞬だけ弱まった。
鷺沢は静かにナギを見る。
「あなたは、十分頑張りました」
その言葉が、胸の奥へ深く沈んだ。
まるで。
もう終わっていい、と言われたみたいだった。
ナギの指から、少しだけ力が抜ける。
その瞬間。
視界が大きく傾いた。
世界が歪む。
膝が崩れる。
フィアが慌てて支えようとする。
「……ナギ!」
必死な声だった。
ナギは薄れる意識の中で、フィアを見る。
震えている。
壊れそうなのに。
それでも、まだ自分を守ろうとしていた。
その姿が、胸を酷く締めつけた。
――また、守らせるのか。
その直後。
首筋へ冷たい感触が走る。
注射。
視界が白く霞む。
最後に見えたのは。
自分へ手を伸ばそうとするフィアと、静かに近づいてくる白い光だった。
目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。
耳鳴りが消えたわけじゃない。
キィン、と細い金属音はまだ頭の奥に残っている。けれど、それ以外の音があまりにも少なかった。
人の気配がない。
生活音もない。
空調の低い駆動音だけが、白い部屋の隅で一定のリズムを刻んでいた。
ナギはゆっくり目を開ける。
白い天井。
継ぎ目の見えない照明。
薬品の匂い。
温度は少し低い。
寒いわけじゃない。むしろ身体にはちょうどいいはずなのに、どこか生き物を落ち着かせるためだけに調整された冷たさだった。
「……っ」
身体を起こそうとして、鈍い痛みが走る。
右腕には点滴。
手首には柔らかい拘束帯が巻かれていた。
本気で押さえ込むためのものじゃない。暴れれば簡単に外せる程度の固定。
それが逆に気味悪かった。
信用されているんじゃない。
「管理できる」と判断されているだけだ。
ナギは浅く息を吐く。
壁際のモニターへ視線を向けた。
脈拍。
体温。
侵食率。
感情波形。
数字が淡々と並んでいる。
その中の一つへ、視線が止まった。
【同期侵食率:43%】
同期。
その単語が妙に胸に引っかかった。
まるで自分とフィアが、一つの異常反応として処理されているみたいだった。
「……フィア」
掠れた声が漏れる。
その瞬間、自動ドアが静かに開いた。
入ってきたのは白衣姿の女性職員だった。
若い。
穏やかな顔立ち。
声も柔らかい。
だが、表情には妙な平坦さがあった。
「お目覚めですか」
静かな声。
「発熱は少し下がっています。侵食進行も一時安定しました」
ナギは答えない。
女性職員も気にした様子はなかった。
慣れているのだろう。
怒鳴られることにも、睨まれることにも。
「フィアはどこだ」
数秒の沈黙。
それから女性職員は、部屋の奥にあるガラスへ視線を向けた。
遮光されていたガラスが、ゆっくり透明へ変わる。
向こう側には、もう一つ白い部屋があった。
ベッド。
椅子。
モニター。
それだけ。
余計なものは何もない。
フィアはベッドの端へ小さく座っていた。
白い患者衣みたいな服へ着替えさせられている。黒変した右腕は肩を越え、首筋近くまで黒い筋を広げていた。
彼女は俯いたまま動かない。
けれど。
ガラスが透明になった瞬間、肩がぴくりと揺れた。
赤い瞳がゆっくり持ち上がる。
ナギを見つけた。
その瞬間だった。
フィアが立ち上がる。
ふらつきながらガラスへ近づき、小さな手をそっと押し当てた。
「……ナギ」
声は聞こえない。
完全防音だった。
それでも分かった。
彼女は不安そうにこちらを見ていた。
置いていかれないか、確かめるみたいに。
胸の奥が鈍く痛む。
女性職員が静かに説明する。
「保護対象F-021は、現在比較的安定しています」
保護対象。
番号。
名前じゃない。
ナギは眉を寄せる。
「……フィアだ」
女性職員が少しだけ視線を止めた。
「失礼しました」
口調は丁寧だった。
だが、その謝罪には感情が薄い。
「フィアは、あなたとの接触後に情動波形が安定する傾向があります」
情動波形。
まるで機械の説明だった。
ガラス越しのフィアを見る。
彼女はまだこちらを見ている。
震えながら。
それでも目を逸らさない。
その時。
再び自動ドアが開いた。
鷺沢だった。
白衣姿。
整えられた髪。
疲労を隠した穏やかな顔。
彼はまずフィアを見る。
次にナギへ視線を向けた。
「少しは落ち着きましたか?」
静かな声だった。
ナギは睨み返す。
「……ここは何だ」
「保護施設です」
即答だった。
「高危険度残響および侵食対象の収容・安定化を目的としています」
全部正しい。
だから苦しい。
鷺沢はモニターへ視線を向ける。
「侵食進行は予測より早い。あと数日、フィアと接触を続けていれば、あなたも黒変を起こしていた可能性があります」
ナギの喉が小さく鳴る。
鷺沢は続けた。
「フィアも限界です」
ガラス越しの少女を見る。
小さな背中。
細い肩。
黒変は確実に進行している。
「このままでは、いずれ都市規模の感情災害になります」
淡々とした説明。
だが、その内容は重かった。
「あなたは現場を知っている。理解できるはずです」
理解は、できる。
だから否定できない。
鷺沢は静かにナギを見る。
「……あなたは、また同じことを繰り返しています」
その瞬間、呼吸が止まりかけた。
雨音。
閉まる扉。
濡れた手。
『もう痛くない?』
耳鳴りが強くなる。
ナギの指が震えた。
鷺沢の声だけが、静かに響く。
「あの時、あなたは正しかった」
ナギは顔を上げる。
「……っ」
「あの少年を引き渡した判断は、間違っていません」
優しい声だった。
だからこそ残酷だった。
「今回も同じです」
ナギは何も言えなかった。
研究部は正しい。
フィアは危険だ。
自分も壊れ始めている。
全部、分かっている。
なのに。
ガラス越しのフィアが、小さく口を動かした。
「……ナギ」
声は聞こえない。
けれど分かる。
その赤い瞳には、怯えが浮かんでいた。
置いていかれることへの恐怖が。
胸の奥が、痛いほど軋んだ。
眠れなかった。
この施設には、時間の流れがない。
照明は一定の白さを保ったまま変わらず、空調は静かな駆動音を鳴らし続け、壁の向こうからは時折電子音が微かに響いてくる。朝も夜も曖昧だった。
ナギはベッドへ腰掛けたまま、ぼんやり白い床を見ていた。
耳鳴りはまだ消えない。
キィン、と。
細い金属音みたいな響きが頭の奥へ貼りついている。
侵食は止まっていない。
薬で鈍らされているだけだ。
指先が微かに震える。
熱は下がったはずなのに、身体の芯だけが焼けるみたいに熱かった。
ナギはゆっくり立ち上がる。
部屋を出ると、白い廊下が真っ直ぐ奥まで伸びていた。
静かだった。
足音すら吸い込まれる。
壁には一定間隔で小さな表示パネルが埋め込まれている。
【保護対象 No.32 安定率 71%】
【保護対象 No.08 情動低下傾向】
文字だけ。
名前はない。
そこにいたはずの人間が、全部“対象”へ変わっている。
ナギは眉を寄せた。
「……気持ち悪ぃな」
掠れた声が漏れる。
「慣れれば効率的ですよ」
背後から静かな声がした。
振り向く。
鷺沢だった。
白衣姿のまま、相変わらず穏やかな顔をしている。
ナギは鼻で笑った。
「慣れたくねえよ」
鷺沢は否定しなかった。
代わりに、「こちらへ」とだけ言って歩き出す。
ナギは数秒迷い、その後を追った。
白い廊下。
低い空調音。
消毒液の匂い。
どこまで行っても生活感がない。
まるで、“感情”そのものを削ぎ落として作られた建物だった。
やがて、鷺沢は一枚のセキュリティドア前で足を止める。
認証。
電子音。
重いロックが外れる。
扉の向こうは、さらに冷たかった。
空気が違う。
温度が低い。
ナギは思わず肩を竦める。
そこには無数のモニターが並んでいた。
壁一面。
整然と。
白い光を放ちながら。
「……ここは」
「記録保管区です」
鷺沢が答える。
「歴代保護対象の侵食推移、情動変化、黒変進行、安定化処理を保存しています」
ナギはゆっくりモニターを見る。
番号。
波形。
数値。
脳波グラフ。
黒変画像。
淡々と並ぶ情報。
そこには“人間”がなかった。
人間だった痕跡だけが、数字へ変換されていた。
その中の一つへ、視線が止まる。
【保護対象 No.14】
呼吸が止まった。
鷺沢は何も言わない。
ナギの指が小さく震える。
画面へ近づく。
【情動安定失敗】
【侵食進行率 92%】
【保護継続不可能】
その下。
静かに表示されている一文。
【記録移行済】
喉の奥が軋んだ。
「……っ」
モニター横には、小さな再生マークがある。
ナギの指が、勝手に動いた。
映像が開く。
ノイズ。
荒い画質。
白い部屋。
小さな少年。
濡れた服。
怯えた目。
ナギの呼吸が止まる。
少年が、カメラの向こうを見る。
『……ナギ』
声。
間違いなく、自分を呼んでいた。
『もう、いたくない?』
その瞬間。
映像が切れた。
終わりだった。
続きはない。
部屋へ静寂が戻る。
耳鳴りだけが、異様に大きく響いていた。
ナギの呼吸が乱れる。
胸の奥で何かが軋む。
違う。
これは後悔じゃない。
もっと熱くて、黒い。
「……ふざけんな」
掠れた声が漏れる。
鷺沢は静かに立っていた。
ナギはモニターを睨む。
震える指。
浅い呼吸。
胃の奥が捻れる。
「なんだよ、これ……」
怒りだった。
初めてだった。
迷いでも、苦しみでもない。
「人間だろ……!」
声が記録室へ叩きつけられる。
「なんで、こんな番号みたいに扱ってんだよ……!」
拳がモニターへ叩きつけられた。
鈍い音。
画面が割れる。
白いノイズが散る。
呼吸が崩れる。
耳鳴りが激しくなる。
視界が歪む。
それでも止まらなかった。
「助けるって言っただろ……!」
もう誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
拳から血が滲む。
赤い雫が白い床へ落ちた。
鷺沢は怒鳴らない。
止めもしない。
ただ、疲れた目で見ている。
それが余計に苦しかった。
ナギは荒い息を吐きながら壁へ手をついた。
吐き気が込み上げる。
視界が滲む。
その時だった。
記録室奥のガラスへ、小さな影が映る。
フィアだった。
白い患者衣のまま。
不安そうに、こちらを見ている。
ガラス越し。
隔離されたまま。
“管理対象”として。
その姿が、少年と重なった。
胸の奥で、何かが静かに決壊する。
また。
また同じ場所へ置いていくのか。
また、“正しい側”へ渡して終わるのか。
フィアが、小さくガラスへ手を当てた。
震えていた。
それでも。
こちらを見ていた。
置いていかれないか、確かめるみたいに。
ナギはゆっくり近づく。
ガラス越しに、自分の手を重ねた。
冷たい。
分厚い隔壁の感触だけが返ってくる。
触れられない。
それでも。
フィアの赤い瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
安心したみたいに。
その瞬間、ナギは理解した。
もう後戻りはできない。
正しいかどうかじゃない。
このままここへ置いていけば、自分はまた同じ後悔を抱え続ける。
一生。
ナギはガラス越しにフィアを見る。
呼吸はまだ乱れていた。
耳鳴りも消えない。
それでも、今だけははっきりしていた。
「……連れて帰る」
静かな声だった。
けれど。
初めて迷いがなかった。
鷺沢が、僅かに目を伏せる。
ナギはフィアから視線を逸らさない。
フィアもまた、小さな手を離さなかった。