英雄回収局 作:自給自足
施設の夜は、どこまでも白かった。
朝も夜も曖昧なまま、照明だけが一定の明るさを保ち続けている。窓のない収容区画では時間の感覚が薄れ、人間の身体だけが静かに狂っていく。
ナギはベッドへ腰掛けたまま、ぼんやり床を見ていた。
眠れない。
身体は限界だった。
熱がある。
骨の奥で何かが焼けているみたいに熱いのに、皮膚の表面だけが冷え切っている。耳鳴りは止まらず、視界は時折わずかに遅れた。
半拍遅れて、景色が追いつく。
「……っ」
額を押さえる。
吐き気が込み上げた。
侵食。
もう誤魔化せない段階まで来ている。
右手へ視線を落とす。
手首の内側。
皮膚の下に、細い黒い線が浮かんでいた。
血管みたいだった。
ゆっくり脈打っている。
ナギの喉が微かに鳴る。
黒変。
現場で何度も見てきた。
最初は細い線だ。
やがて広がり、感情を侵し、最後には人間だった輪郭そのものを壊していく。
「……最悪だな」
掠れた声が白い部屋へ落ちる。
その瞬間だった。
強烈な感情が、胸の奥へ流れ込んできた。
寒い。
暗い。
怖い。
置いていかれる。
ナギは息を呑む。
違う。
これは、自分の感情じゃない。
視界の端が揺れる。
ガラス越しの赤い瞳。
震える指。
フィア。
彼女の感情が、そのまま頭の中へ流れ込んできていた。
「……ぁ、っ」
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
孤独感が、自分のものみたいに痛かった。
境界が崩れ始めている。
ナギとフィアの感情が、侵食を通して混ざり始めていた。
その時、自動ドアが静かに開いた。
鷺沢だった。
白衣姿のまま、変わらず落ち着いた表情をしている。
だが、その目には微かな疲労が滲んでいた。
彼はナギを見る。
次に、右手首の黒線へ視線を落とした。
「進行が早いですね」
静かな声だった。
ナギは舌打ちする。
「……他人事みてぇに言うな」
「他人事ではありません」
鷺沢は即座に否定した。
「だから止めたいんです」
ナギは笑おうとして失敗する。
喉の奥が熱い。
「フィアを閉じ込めてか」
「管理しています」
迷いのない返答だった。
その言葉に、妙な重さがある。
鷺沢は少しだけ視線を伏せた。
「黒霧は残響感情の漏出です」
ナギの眉が寄る。
「感情が暴走すると、周囲へ伝播する。長時間曝露した人間は、自分と他人の感情境界を維持できなくなる」
淡々とした説明。
だが、その声には現場を知る人間特有の疲労があった。
「最終的には、自分自身が何者か分からなくなる」
ナギは目を逸らす。
それはもう、少し始まっていた。
フィアの恐怖が流れ込む。
孤独感が混ざる。
時々、自分が何に苦しんでいるのか分からなくなる。
鷺沢は続けた。
「このまま接触を続ければ、あなたも感情災害の一部になります」
静かな言葉だった。
脅しじゃない。
事実だけを並べている。
だから重い。
その瞬間、また感情が流れ込んできた。
怖い。
寒い。
一人は嫌だ。
フィアだ。
分かってしまう。
彼女が今、自分を探していることが。
「……っ」
胸が軋む。
ナギは壁へ手をついた。
呼吸が浅い。
鷺沢が静かに言った。
「あなたは優しいから壊れる」
ナギの指が止まる。
違う。
優しいわけじゃない。
ただ。
また置いていくのが怖いだけだ。
その時だった。
施設全体が、微かに震えた。
低い警報音が鳴る。
赤色灯が、白い廊下をゆっくり染めていく。
鷺沢の表情が初めて変わった。
僅かに険しくなる。
直後、館内放送が響いた。
【F-021 情動波形急上昇】
【黒変反応拡大】
【感情汚染濃度、危険域へ到達】
ナギの呼吸が止まる。
フィア。
続けて、別の警報。
【一般区画に感情侵食を確認】
【隔離シャッター作動】
遠くでガラスが割れる音が響いた。
誰かの叫び声。
泣き声。
施設の静けさが、音を立てて壊れ始めていた。
その瞬間。
胸へ、強烈な恐怖が流れ込む。
置いていかれる。
嫌だ。
怖い。
寒い。
ナギは反射的に立ち上がった。
「フィア……!」
鷺沢が腕を掴む。
「行ってはいけない!」
初めて感情の乗った声だった。
「これ以上接触すれば、共鳴が——」
だが、その瞬間。
廊下の奥から、黒い霧がゆっくり滲み始める。
空気が冷える。
赤色灯の光さえ、どこか歪んで見えた。
そして。
ナギは聞いてしまう。
遠くの一般区画から響く、誰かの泣き声を。
「ごめんなさい……!」
壊れたみたいに繰り返される謝罪。
黒霧が、人の後悔を暴き始めていた。
警報音が、施設全体へ不気味に反響していた。
赤色灯が回転するたび、白かった廊下が断続的に血の色へ染まる。静かだった研究施設は、もう原形を保てていなかった。
ナギは鷺沢の腕を振り払う。
「離せ!」
喉が焼けるように痛い。
呼吸が乱れる。
耳鳴りはもう金属音じゃなかった。
誰かの泣き声が混ざっている。
『ごめんなさい』
『いやだ』
『置いていかないで』
無数の感情が、頭の中へ直接流れ込んでくる。
境界が壊れていた。
ナギは壁へ肩をぶつけながら走る。
視界が歪む。
半拍遅れて景色が追いつく。
足元の感覚が曖昧だった。
自分が走っているのか、倒れているのかさえ時々分からなくなる。
「……っ、ぁ」
吐き気が込み上げる。
右手首の黒線が、じわじわと肘の方へ広がっていた。
熱い。
皮膚の下で何かが蠢いているみたいだった。
その時、廊下の角を曲がった先で、一人の職員が崩れ落ちる。
若い男だった。
床へ膝をつき、震える両手で頭を抱えている。
「違う……俺は、見捨ててない……!」
涙を流しながら、壊れたみたいに叫んでいた。
その横では別の女性職員が壁へ爪を立て、呼吸を乱している。
「やめて……見たくない……!」
目の焦点が合っていない。
黒霧が、感情を暴いていた。
押し込めていた後悔。
忘れたふりをしていた記憶。
心の奥へ沈めていた痛み。
それが無理やり引きずり出され、人間を内側から壊している。
感情災害。
研究部が恐れていたものを、ナギは初めて理解した。
「……っ」
息が詰まる。
怖い。
本当に危険だ。
もしこれが施設の外へ広がれば、街全体が壊れる。
その瞬間。
頭の奥へ、強烈な感情が流れ込んできた。
寒い。
苦しい。
ナギ。
ナギ。
ナギ——。
フィアだ。
呼吸が止まりかける。
孤独感が胸を締めつける。
置いていかれる恐怖が、自分のものみたいに痛かった。
「フィア……!」
ナギは再び走る。
赤色灯。
黒霧。
泣き声。
施設そのものが悪夢へ変わり始めていた。
隔離区画へ近づくほど、空気が冷たくなる。
呼吸が白い。
廊下の壁には霜みたいな白い結晶が浮かび始めていた。
感情が物理現象へ侵食している。
あり得ない。
だが現実だった。
やがて、隔離区画が見える。
分厚い強化ガラスは蜘蛛の巣みたいにひび割れ、シャッターは半分歪んで停止していた。
その中心に、フィアがいた。
黒霧が、彼女の周囲で脈打っている。
右腕の黒変は首を越え、頬の近くまで侵食を広げていた。白かった肌との境界が曖昧になり、まるで身体そのものが黒へ呑まれ始めているみたいだった。
それでも。
フィアは暴れていなかった。
むしろ逆だった。
小さく身体を縮め、怯えた子供みたいに震えていた。
だが、その感情が周囲を壊している。
回収班の一人が近づこうとして、突然その場へ崩れ落ちた。
「母さん……っ」
掠れた声。
男は虚空へ手を伸ばす。
「ごめん……俺、逃げた……!」
その目から涙が溢れていた。
別の職員は耳を塞ぎながら、壁へ頭を打ちつけ続けている。
黒霧が、“後悔”を暴いていた。
誰も冷静ではいられない。
施設が軋む。
遠くで何かが爆ぜる音が響いた。
【一般区画に汚染拡大】
【第三隔離シャッター、機能停止】
【都市外周への漏出を確認】
館内放送が冷たく流れる。
ナギの背筋が凍る。
外へ出始めている。
本当に、街が壊れる。
その時。
フィアがゆっくり顔を上げた。
赤い瞳が、ナギを見る。
呼吸が止まりかける。
「……ナ、ギ」
掠れた声だった。
その瞬間。
黒霧がさらに膨れ上がる。
回収班が一斉に構えた。
「対象暴走拡大!」
「接触禁止!」
「共鳴率が——」
怒号が飛ぶ。
だがナギは止まれなかった。
頭では理解している。
危険だ。
離れるべきだ。
研究部は正しい。
フィアは災害になり始めている。
全部、分かってしまう。
だから苦しい。
フィアを見る。
泣いていた。
黒変した腕を抱え込みながら、壊れた呼吸で震えている。
怪物みたいな力を撒き散らしながら、本人が一番怯えていた。
「……こわい」
小さな声だった。
ナギの呼吸が止まる。
「……わたし、こわい」
涙が落ちる。
黒霧が揺れる。
「みんな……こわれる」
フィアは自分の腕を見る。
侵食された右腕。
黒く脈打つそれを。
「ナギも……ああなる」
その言葉が、胸を深く抉った。
フィアは理解していた。
自分が感染源になっていることを。
だから、震えていた。
「……わたし、ひろがる」
掠れた声。
「……だめ」
違う。
そう言おうとして、ナギは言葉を失った。
実際に被害は広がっている。
職員は壊れ、施設は崩壊し、黒霧は外へ漏れ始めている。
止めるべきだ。
離れるべきだ。
頭では、分かっている。
その瞬間。
ナギの視界が大きく歪んだ。
雨。
閉まる扉。
泣いている少年。
違う。
フィア。
いや、誰だ。
境界が崩れていく。
頭の中へ、無数の感情が流れ込む。
自分が誰なのか、一瞬分からなくなる。
膝が揺れた。
回収班の一人が叫ぶ。
「接触するな!」
「それ以上近づけば、お前も——!」
ナギは止まらなかった。
一歩。
また一歩。
黒霧の中へ入っていく。
寒い。
痛い。
吐き気がする。
手首の黒線がさらに広がる。
それでも。
フィアが泣いている。
その事実だけが、まだ自分を繋ぎ止めていた。
ナギはフィアの前へ膝をつく。
フィアが怯えたように目を見開く。
「……だめ」
震える声。
「ナギ、こわれる」
ナギは苦く笑った。
もう壊れ始めている。
今さらだった。
「……一人で、怪物になるな」
掠れた声で言う。
そして。
震えるフィアを、強く抱きしめた。
その瞬間。
黒霧が、施設全体を呑み込むみたいに爆発した。
轟音ではなかった。
むしろ逆だ。
音が消える。
警報音も、怒号も、割れたガラスの破片が落ちる音さえ、黒い霧の中へ吸い込まれていく。
世界そのものが、静かに壊れていくようだった。
ナギはフィアを抱きしめたまま、その場へ膝をついていた。
寒い。
異常なほど寒い。
吐く息が白い。
なのに身体の内側だけが焼けるみたいに熱かった。
耳鳴りが激しい。
いや、もう耳鳴りじゃない。
泣き声だ。
無数の感情が、頭の中で悲鳴みたいに渦巻いている。
『助けて』
『ごめんなさい』
『置いていかないで』
『怖い』
誰の感情か分からない。
職員のもの。
フィアのもの。
過去の残響。
そして、自分自身。
全部が混ざり始めていた。
「……っ、ぁ……!」
ナギは歯を食いしばる。
頭がおかしくなりそうだった。
視界が歪む。
雨。
閉まる扉。
泣いている少年。
違う。
フィアだ。
いや、誰だ。
境界が崩れていく。
自分が誰なのか、一瞬分からなくなる。
その時、腕の中のフィアが小さく震えた。
「……ナギ」
掠れた声だった。
ナギは反射的に腕へ力を込める。
フィアは細い指で、ナギの服を強く掴んでいた。
震えている。
呼吸も壊れたみたいに浅い。
黒変した右腕は首筋を越え、頬の近くまで侵食を広げていた。白かった肌との境界が曖昧になり、まるで人間の輪郭そのものが崩れ始めているみたいだった。
それでも。
フィアは泣いていた。
怪物みたいな力を撒き散らしながら、本人が一番怯えていた。
「……ごめ、なさい」
黒霧が揺れる。
遠くで誰かが悲鳴を上げた。
隔離区画の照明が一斉に明滅する。
施設全体が限界だった。
館内放送が、ノイズ混じりに響く。
【第三隔離層、崩壊】
【感情汚染、都市外周へ漏出】
【警戒レベル——】
途中で途切れる。
直後、施設全体が激しく揺れた。
どこかで隔壁が破壊されたらしい。
白い天井から粉塵が落ちてくる。
遠くで職員たちの怒号が響いていた。
「一般区画を閉鎖しろ!」
「住民避難を急げ!」
「汚染拡大速度が——」
そこで誰かの声が絶叫へ変わる。
「やめろ……! 見るな……!」
黒霧が広がっていた。
施設の外へ。
街へ。
感情災害が、現実のものになり始めていた。
ナギの呼吸が止まりかける。
ここまで来ると、もう理解できる。
研究部は正しかった。
フィアは危険だ。
守り続ければ、もっと人が壊れる。
もっと後悔が広がる。
頭では、分かっている。
その瞬間。
フィアが震える声で言った。
「……わたし、ひろがる」
ナギの胸が軋む。
フィアは自分の黒変した腕を見る。
その赤い瞳には、はっきり恐怖があった。
「……みんな、こわくなる」
涙が落ちる。
「ナギも……ああなる」
ナギは息を呑む。
フィアは理解していた。
自分が感染源になっていることを。
だから。
だから、離れようとしている。
「……だから」
フィアの指から、少しずつ力が抜ける。
「……はなれたほう、いい」
その言葉が、胸を深く抉った。
今までずっと。
置いていかれることを怖がっていた少女が。
初めて、自分から離れようとしている。
その姿が、痛かった。
たまらなく。
ナギは目を閉じる。
頭の中では、まだ無数の感情が暴れている。
孤独。
恐怖。
後悔。
フィアの涙。
少年の声。
誰かの絶叫。
もう、自分が何を感じているのか分からない。
右手首の黒線は、肘の近くまで広がっていた。
感覚もおかしい。
指先の温度が分からない。
視界の端では、時々黒いノイズみたいなものが揺れている。
戻れない。
もう普通には。
それでも。
ナギはゆっくり目を開ける。
フィアを見る。
彼女は泣いていた。
自分が怪物になってしまったことを理解しながら、それでもナギを傷つけたくなくて、必死に離れようとしている。
その姿を見た瞬間、ナギの中で何かが静かに決まった。
優しさじゃない。
正しさでもない。
これはもう、選択だった。
ナギは震える指で、フィアの頬へ触れる。
冷たい。
壊れそうなくらい。
「……今さらだろ」
掠れた声が落ちる。
フィアの瞳が揺れる。
ナギは苦く笑った。
「ここまで来て、一人で怪物になるな」
その瞬間。
フィアの呼吸が止まったみたいに震えた。
赤い瞳から、また涙が零れる。
黒霧が、少しだけ静まる。
ほんの少し。
施設を覆っていた感情の濁流が、微かに弱まっていく。
遠くで、鷺沢が立ち止まっていた。
白衣姿のまま、崩れた廊下の向こうからこちらを見ている。
その表情には、疲労があった。
諦めにも似た静かな感情が、僅かに滲んでいた。
館内放送が最後に響く。
【対象F-021、災害認定】
【都市封鎖プロトコルを開始します】
冷たい機械音声。
その言葉が、妙に現実的だった。
普通の生活は、終わった。
もう戻れない。
ナギはフィアの手を掴む。
今度は、離さないように。
「……行くぞ」
掠れた声だった。
身体は限界に近い。
侵食も止まらない。
それでも。
フィアは泣きそうな顔でナギを見つめ、それから小さく頷いた。
震える指が、今度は自分からナギの手を握り返す。
その温度だけが。
壊れ始めた世界の中で、まだ確かだった。